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「オレの目を見て」
 僅かに緊張したイルカを励ますように笑みを浮かべ、イルカがゆっくりと印を組む姿を見詰めた。
 今日は、カカシが待ちに待った、はたけ家の婚姻の儀だ。
 イルカの指にはすでに証があるので、今日はイルカだけがカカシの指に婚姻の証を刻む。
 立会人は忍犬たちがなってくれた。
 感極まり鼻を啜るパックンを、他の忍犬たちが慰める声を聞きながら、一つ一つ間違えないよう慎重に印を組むイルカに目を細める。
 うみのイルカは、今日から正式にはたけカカシの嫁となる。


 イルカからのプロポーズの言葉をもらい、泣きながら承諾した後、今まで掛けていた幻術を解いた。そして、カカシは話した。
 イルカを引き止めるために茶番をしたこと。その茶番の真意は、はたけ家の婚姻の証をイルカに刻みたかったことに他ならないこと。そして、今度はカカシの指に婚姻の証を刻んでもらいたいこと。
 顔を真っ青にして、自分の左指を凝視していたイルカだったが、話を飲み込むと、カカシの脳天に思い切り拳骨をくれた。
「あ、あんたなーッ。そんな重大で大切なことを、ほいほいしちゃいけないでしょーッ。間違ってたら、アンタ、どうするつもりだったんですかッ?!」
 声をひっくり返し怒鳴るイルカに、カカシは頭を抱え、泣きながら笑った。
「だって、アンタを逃したらいけないと思ったんだもん。オレの運命の人はアンタだったんだもん。拳骨くれた時、運命感じたんだもんッッ」
 うわぁぁあと号泣したカカシを、イルカは慌てて慰めてくれた。
その後、涙が引かないカカシの手を取り、一緒に家路についた。
 玄関先で気もそぞろに待っていた忍犬たちに出迎えられ、カカシは、改めて忍犬たちにイルカにプロポーズを申し込まれたことを告げた。
 わっと歓声をあげる忍犬たちの中に、パックンの姿もあり、カカシは再び泣く羽目になってしまった。


 真剣な面持ちをしたイルカが最後の印を組む。途端に、イルカと繋いだ手の左薬指の付け根に、熱い痛みを感じた。
 それは一瞬で、顔を顰める間もなく、すぐに収束していく。
「……俺の時と違って、えらい早いですね」
 カカシが痛みを感じる時間が短いと、納得いかない顔を見せたイルカに、カカシは一瞬戸惑ったが、正直に言うことにした。
「術をかけられる方が受け入れる態勢でないと、時間かかっちゃうの。イルカ先生の時は、まだオレに対して何も思ってない頃でショ。オレが写輪眼回したのも、ちょっと先生の気持ちを逸らせるためだったの」
 忍犬たちに聞こえないように、耳打ちすれば、イルカはにかーと笑った。つられてにかーと笑ったカカシの脳天に、拳骨が落ちた。
「な、何をするんじゃ、小童!!」
 鼻水を出していたパックンが、イルカの突然の暴挙に非難の声をあげる。
「これは俺のけじめですから、いくらパックンさんでも口は出さないで下さい」
 ふんと鼻息を荒げたイルカに、パックンは逆上したが、それは忍犬たちが止めてくれた。
「ま、まぁ。その、この拳骨はオレが悪いんで、パックンもそう怒らないでーよ。せっかくの目出度い日なんだからさ」
 痛む脳天に顔が引きつりながらも、カカシは上機嫌だ。


 左手を掲げ、薬指に刻まれた文字を見詰める。
 うみのイルカ。
 この文字がこの指に刻まれることを、どれだけ待ち望んだことだろう。
 文字が刻まれた今、不思議とイルカを身近に感じられる。これで、イルカとカカシは例え離れていても、ずっと繋がっていられるのだ。
「ありがとう、イルカせ。……イルカさん。オレ、これで一人ぼっちじゃなくなった」
 腕を組むイルカに幸せだよと告げれば、イルカは急に姿勢を正し、視線をさ迷わせたかと思うと、おもむろにカカシを抱きしめてくれた。
 何も言葉はなかったが、すんと小さく鼻を啜る音が聞こえて、カカシもつられて泣きそうになった。
 パックンも不本意ながらも大人しくなり、忍犬たちのおめでとーという言葉に幸せを噛みしめていた時だった。
 もう一度見ようと、イルカの胸の中、左手を取り出せば、妙な違和感を覚えた。


「……ん?」
 カカシが身動きを止めたことを不思議に思ったのか、イルカが体を離して、どうしましたかと涙目の目を向けてくる。
 些細なことだが、どうも気になって、イルカの左手を掴み、カカシの左手と比べる。
 イルカに刻まれている、はたけカカシの文字は燃え盛る炎のような真っ赤な色をしていた。
 一方、カカシに刻まれている、うみのイルカの文字は凍える氷のように青白い。
 見るからに正反対の色合いに、首を傾げていると、パックンがおもむろに口を開いた。
「はたけ家に伝わる婚姻の証には、古くから言い伝えがある。その前に、まずは婚姻の儀を祝おう。二人とも、お互いを敬い助け、末永く生きるのじゃぞ」
「はい。パックンさん」
 パックンの言葉に、イルカが真面目な顔で頷いた。
「うん。それはもちろん。で、これは何?」
 話を早く聞きたくて促すカカシを、パックンは嫌そうな顔で見たが、仕方ないと咳を払い、話し始めた。
「はたけ家の祖先は、今は昔、初代火影さまの元に馳せ参じ、木の葉の礎を築くべくして尽力した――」
「あーあーあー。知ってる知ってーるよ。初代火影の側近で、木の葉の里を作るのにも尽力した、偉いご先祖様なんだよね。その血脈は忍びの才を有して、過去に何度も他里のビンゴブックに載るような優秀な忍びを輩出して、木の葉の里に尽くした由緒正しき古い忍び一門なんだーよね。うんうん、知ってる知ってる。で? この色の違いの訳は?」
 左手を掲げたカカシに、パックンはひどいと悲鳴をあげた。
「カ、カカシ! お主という奴は、拙者の楽しみを奪うつもりかッッ」
「ま、まぁまぁまぁ。あの、パックンさん。それでこの婚姻の証のご説明は?」
 睨み合うカカシとパックンの間に入り、イルカは水を向ける。しばらくカカシとパックンは睨み合っていたが、やがて双方引くと、パックンは鼻から息を放ち、口を開いた。


「はたけ家に伝わる婚姻の証は、夫婦の間を繋ぐともいわれておる。それは今、お主らが身を持って体験しているから分かるじゃろうから、説明は省く。それと、もう一つ。薬指に刻まれた文字は、術者の気持ちを反映すると言われておるのじゃ」
『術者の、気持ち?』
 お互い顔を見合わせ、同じ言葉を呟く。
 イルカの気持ちはカカシの左薬指に刻まれていて、カカシの気持ちはイルカの左薬指に刻まれている。ということは――。
 カカシは自分の薬指の色を見た。
 青い。凍えるようなほど寒い、青白い色。
 目にした瞬間、だーっと目から涙が零れ落ちる。あんまりだと、カカシはわんわん泣いた。
「え、ちょ、ちょっと、カカシさん!!」
 泣き喚くカカシをイルカは慰めるように抱いてくれたが、それでカカシに刻まれた文字の色が変わる訳ではない。
「ひ、ひどい! イルカさん、オレのこと、そんなに思ってくれてないんだッ。オレ、真っ赤なのに、イルカさんのこと情熱的に思ってるのに、何でイルカさんは青?!」
 ひどいひどいとカカシは嘆いているのに、当のイルカは、にやにやと笑うパックンを気にしていて、余計に泣けてきた。
「イルカさんのバカーッ」
 一際大きく叫んだカカシに、イルカは「え?」と困惑気味の言葉を返してきた。
 傷心しているカカシの気持ちを全く分かっていないイルカの態度に、ますます涙が零れる。激しくなった泣き声に、イルカは慌てた様子で背中を撫でてきた。
「カカシさん、泣かないでくださいよ。ね?」
 優しく声を掛けてくれるが、これが泣かずにいられようか。
 ようやくイルカが自分の嫁になったというのに、思いの深さがこれほどまで違うとは思いもしなかった。
 同じだけというのは欲張りすぎかもしれないが、それでももう少しは情熱的に思っても罰は当たらないと思う。
 イルカに言いたいことが山ほどあったが、カカシの口から出た言葉はたった一つだった。
「イルカさんの、ばかぁぁぁっ」



 一難去って、また一難。
 そんな言葉がカカシの脳裏を過ぎる。
 自分の指に刻まれた証を見ては、思い出したようにさめざめと泣いていたカカシだったが、浮上するのも早かった。
 伊達にイルカに振り回されてはいない。
 過去の自分の努力を思い出しつつ、いつか真っ赤に染まればいい、いや、カカシがイルカをもっと愛せば、直にカカシのようにイルカの気持ちも真っ赤に染まるに違いないと己を奮い立てた。


 そんな、ある日。
 イルカから、カカシとの仲を応援してくれた人に、感謝の気持ちを込めて席を設けたいのだがと、打診があった。
 イルカに宣言した、関白宣言は今のところ功を奏しているようだ。
 暗部の後輩の言を聞く訳ではないが、カカシから見てもイルカは危なかしいところが満載で、気が抜けない。
 歓楽街が苦手だというのに奥深くまで入り込み、ハッテン場という、イルカの貞操を奪わんとする危険地帯に入り込んだり、見知らぬ相手が出す飲み物を平気で飲んだり、酒に酔っ払えば無防備に誰かれ構わず笑いかけるし、放っておけば、週に五日も残業しようとする。
 ここはカカシがしっかりと管理せねばならないところだろう。
 素直なイルカに満足げに頷きを返し、詳しく話を聞けば、それはなんと、イルカよりもカカシにこそ大恩ある、影の支援者のための宴会だった。
 小汚い大衆居酒屋ですると、無邪気に笑うイルカにカカシは怒った。
 カカシの涙ぐましい苦労に足して、その二人の尽力が合ってこそ、イルカは今、カカシの嫁の立場にいる。
 どれだけ鈍かったのだと戦慄すると共に、カカシは超一流の料亭を貸し切ることに決めた。
 恋のキューピッドを敬うことに上限はないはずだ。
 イルカは何故か大層嫌がったが、キャンセル料を持ちだして煙に巻くことに成功した。
 本当ならば、遠い東の国の幻の食材である、魚の卵や鳥の巣、魚のエラなどの高級食材を取り寄せて、特別料理をお願いしたかったほどなのだが、イルカばかりに我慢をさせてはいけないと思い、カカシもそれは我慢することにした。麗しき夫婦愛である。
 イルカの同僚は、カカシを見て飛び上がるほどに驚き、かつ、何か激しく勘違いしてイルカを焚きつけていたことが判明した。
 余計なことを言えばただじゃおかねぇと、言外に告げたカカシに、果敢にも抵抗してきた同僚だったが、イルカが幸せそうなのを見て、口を噤んでくれた。
「……ねぇ。イルカさんに近付く虫がいたら、こっそり教えてくれる? オレ、本気でイルカさんを愛しているの。お願いしますよ?」
 なかなか骨のある同僚へお酌しに言った時、こっそりお願いすれば、同僚の方は快く頷いてくれた。
 緊張のせいか、顔が真っ白くなり、お酌していく側から酒が零れていたが、些細なことだ。
 イルカのアカデミー方面の虫除け対策はでき、受付所では、快くカカシとイルカの結婚を認めてくれた五代目火影がいるから、そうそうまずいことは起きないだろう。
 パックンが隠れて、五代目に接触していることをカカシは知っている。何の話をしているのか、カカシは知らないが、イルカはそれとなく知っているようで、微妙な顔色で視線を逸らせていた。
 イルカにとって少し困る問題のようだが、パックンがカカシに困る問題を突きつけることはないため、カカシにはとてもいい話なのだろうと想像がついた。
 目下、カカシにとって問題といえるものは、たった一つだ。



「……早く、赤くなんないかなー」
 上忍待機所で、カカシはぼやく。
 左手の手甲を外し、裏に返し表に返しても、カカシの左薬指に刻まれた文字は未だ青白い色を保ったままだ。
 日中は睦まじく、夜はこれまでにないくらい盛り上がり、快感のあまりイルカが失神する回数も増えたのに、カカシの左手の薬指はまだ赤くなる兆しを見せなかった。
 これはまだまだカカシの愛が足らないということだろうか。
 むーんと唸って観察を続けていれば、アスマと紅が声を掛けてきた。
「よう、カカシ。そんな真剣な顔して、オメェ、一体何見てんだ?」
 カカシの隣に座るや、煙草に火をつけて一服し出したアスマを睨む。
「ちょっと、止めてよね。オレ、煙草の臭い嫌いなの。それに何より、イルカさんが煙草大嫌いなんだから、臭いが移って嫌われたらどうしてくれんのよ」
 ぱたぱたと手で仰げば、アスマはにやりと笑い、故意に煙を吹きつけてきた。むかつくと、傍らにあった雑誌を掴み、風を送って対抗していれば、真向かいに座った紅がカカシの指をじーっと見つめ、ぼそりと呟いた。
「……うみの、イルカねぇ。前々から疑問に思っていたんだけど、イルカ先生の指にもはたけカカシって文字が刻まれているわよね。一体、どういう訳?」
 紅の嬉しい発見に、カカシは煽ぐ手を止め、笑顔を向ける。
 あの任務の一件以来、二人とは通常会話もするようになった。たまに飲みに行かないかと誘われることもあるが、愛する妻がいる身としては、丁重に断りを入れている。


「あ、気付いちゃった? オレとイルカさんねー。将来を約束した仲なの。来年には火影さまの前で結婚する約束も交わしちゃってーんだ」
 婚約指輪を見せてはしゃぐ女性のように、左手の薬指を見せつければ、アスマはへっと笑い、紅はそうなのと呟いた。
 何、羨ましいの? 髭に買ってもらいなよと軽口を叩こうとして、紅が何気ない一言を漏らした。
「ねぇ、何で色が違うの?」
 その一言に、重い空気が圧し掛かる。それだけは聞いて欲しくなかったと、無言で膝を抱えていれば、アスマが喜んでカカシに追い打ちを駆けてきた。
「何だ? その術がかかった胡散臭い指輪の色が違うことで落ち込むってことは、さては、その色で思いの深さが分かっちまう寸法か?」
 まさかの大当たりに、カカシの肩がびくつく。
 カカシの反応に、アスマはへーと実にいやらしい声をあげた。
「何よ、この髭熊ッッ。オレはちゃーんと愛する人と将来の約束して、堅実な第一歩を踏み出しているのに、そのオレを見習わないで、いつまでもぐじぐじ意気地のない態度取っているお前に、言われたくないってーのッ。悔しかったら、紅に今すぐ言えってのっ」
 足を踏みだして威嚇すれば、アスマの顔色が変わる。
「な、何言ってんだ、このバカカシがッ。根も葉もねぇ、オメェのくだらねぇ妄想垂れ流すな」
「何がくだらないって言うのよっ。だいたいね、それだけでっかい図体して、うじうじしてるの見ているだけで不愉快なの。熊は熊らしく突撃するべきでショ」
 余計なお世話だとアスマが叫んだ直後、、成り行きを見ていた紅が口を挟んできた。


「ねぇ、ちょっといいかしら」
「な、なんだ」
 びくりと身を震わせたアスマを、カカシは笑う。お互い相思相愛だというのに、未だに何の兆しも見せない二人が焦れったくて仕方ない。
 カカシなんて努力しても努力しても、全く気付かない激鈍感な人に恋をしたせいで、どれほど大変だったことか。
 せいぜい苦しむがいいと、顔に冷や汗をかいているアスマを見物していれば、紅は「違う」と言い、カカシに向き直った。
「私が言いたいのは、あんたによ。カカシ」
「へ? オレ?」
 自分に向かって指させば、そうと紅は深く頷いた。
 ほっと隣で息を吐くアスマに舌打ちをつきつつ、何だと聞く体勢を取れば、紅は思ってもみないこと言ってきた。
「それって、色温度を示しているんじゃない?」
 色温度と首を傾げるカカシとアスマに、紅はそうと頷いた。
「一番分かりやすいのは、炎の色かしら。赤い炎は温度が低くて、青ければ青いほど温度は高くなっていくの。その文字の色って、もしかしそれを表しているんじゃないかと、私は思ったの」
 「はぁ?」と口を開けるアスマの隣で、カカシは信じられない思いで自分に刻まれた文字の色を見た。
 青白い、見た目には寒そうな色のそれ。
「つまりなんだ。紅の言い分じゃ、カカシよりイルカの方が思っているってぇことか?」
「と、思うの。イルカ先生って結構情熱的なのね」
 二人の会話が耳を滑る。矢も盾もたまらず立ち上った。
「オレ、行ってくるっ」
 「どこへ」と「いってらっしゃい」の二つの声を背中で聞き、上忍待機所から飛び出た。


 鼓動は高鳴り、勝手に息があがる。
 刻まれた時から、ずっと色が変わらなかった証。
 変わり続けることなく、青白く染まっていたそれは、イルカがカカシをずっと思ってくれていた証であり、深さであり、愛情であり。
 泣き喚いて詰っていいのは、イルカの方だったのだとカカシは笑った。
 階段を飛び降り、廊下をひた走る。
 カカシの疾走に、通行人たちは目を見開いて驚き、道を開けた。
 イルカの名を胸の内で呼ぶ。
 脳裏で流れる、懐かしい誰かの言葉に頷きながら、絶対離さないと誓う。
 カカシの愛しいあの人の気配を感じられる距離になり、より一層カカシは腕を振った。


 受付所の扉の前。
 入ろうとする忍びを押しのけ、カカシは戸を開け放つと同時に叫んだ。
「イルカさん、大好き。愛してるっ」
 受付所の忍びたちの目がカカシに集まり、誰もが動きを止めた。
 居眠りをしていた五代目はびくつきながら顔を上げ、その隣にいるイルカはぽかんと口を開けてカカシを見ていた。
 唐突のことに反応することさえ忘れているイルカを笑い、カカシは自分の左手を翳す。
「言っとくけど、オレの方がずっとイルカさんのこと思ってるんだからねッ」
 薬指を見せつけるように前に突き出せば、イルカは意味を悟ったのか、自分の左手に視線を走らせた。そして――。


「――気付くのが遅すぎるんですよッ。馬鹿っ」
 顔を真っ赤に染めて、怒鳴られた。
 振り上げられた左拳の右から二番目。
 はたけカカシと刻まれた文字は、目が覚めるような青色に染まっていた。



おわり






戻る


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ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!!





色温度ぷらす 11(完)