『おかえり』14





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 受付任務中。
 戦に参加していた忍びの話に、周囲からわっと声があがった。



 鋼と森の国の、国境境での戦。
 昔から互いに領土拡大を狙って戦が絶えなかった両国だったが、今から三十年前に和平条約が締結された。それから、小さないざこざはありながらも、両国の間で大きな戦はなかった。
 両国の関係は好転することはなかったが、小康状態を保ち、お互いの国に関与しない形でうまく付き合っていた。
だが、最近、鋼の国で王が亡くなり、息子が王位を継承した。その息子は鋼の国では強硬派に与する考えの持ち主で、常々森の国への侵攻を仄めかす言動をしていた。
当然、森の国も次期継承者である息子の存在に注意を払っていたが、先王の死があまりに突然なことと、宣戦布告もせずに侵攻してきた鋼の国に対処できず、領土の五分の一まで奪われたところで、木の葉に依頼がきた。
戦の収束と、領土奪還。
豊富な資源を有する森の国からは、破格の値段で依頼が来たが、その困難性に依頼を受けるまで上の方では散々揉めたようだ。
それに加え、それより半年前、火の国からの依頼で、大規模な麻薬捜査、及び検挙の依頼を受けていたこともあり、名のある忍びが数多く出払っていた。
だが、遠方で任務を行っていたはたけカカシが、指揮を執ったことにより、事態は変わっていく。



カカシが着任した当初、木の葉の頑張りも虚しく、領土の五分の二まで侵攻を許してしまっていた。一度勢いが付いた進軍を止めることは至難の業だった。
鋼の国は、圧倒的な兵の数と、最新式武器の保持をしており、その力の前では、森の国の兵は嵐に翻弄される木の葉同然だった。
しかし、その力の差にも関わらず、侵攻具合は想像よりも遅かった。
森の国は、国にその名を冠するように、領土のほぼ半分が広大な森で埋め尽くされている。
自然の恩恵によって生かされている森の国の民たちは、自然を壊すことなく共存することにより、国を発展させてきた。それ故に、人の手が及んでいない森の道は悪路ばかりであり、森の国とは反対に自然を壊すことにより国を発展させてきた鋼の民たちには慣れない道のりだった。
地の利がないことを確信したカカシは、鋼の兵、本陣に多くの密偵を潜ませ、情報収集を徹底的に行った。
情報収集は忍びのお家芸だ。
難なく得た情報から導き出される進路と、野営場所。また本陣の部隊構成や、武器などを調べ上げた後、カカシは行動を開始した。
小規模な部隊を結成し、地の利を生かし待ち伏せ、各地に部隊を据え置き、一斉号令で奇襲戦を展開した。
深追いはせずに、打撃を加えた後はあっさりと引き、身を潜め、奇襲の場所は一定の地で行わず、各所で繰り返し行った。
倒れていく兵の数が増えるにつれ、鋼の国の兵はいつ現れるか分からない敵の影に怯え、又、情報が漏れているとしか思えない敵の動きに、次第に戦意を失っていった。
その矢先の、敵本陣への切り込みを見事成功させ、敵本軍撤退との知らせに、受付所は盛り上がったのだった。



「すっげーな、はたけ上忍。また、成功させたみたいだぞ。こりゃ特別報労賞もらえるな」
 いやいや、もしかして木の葉忍び栄誉賞か、とありもしない賞の名をあげる同僚に、イルカは苦い気持ちを抑え、小さく笑った。
 確かに、この戦による働きは、すごいとしか言いようがない。けれど。
 カカシと周りが名を口に出す度、胸が痛んだ。任務成功の話はよく聞いたが、カカシ自身の身がどうであるかは一言も出なかった。
 ただ一言も。
華々しい戦の話ばかりで、全く出ない。
 すごいすごいと無邪気に喜ぶ同僚のアサリに、イラついていた感情が刺激された。
「何が、すごい? これは戦だッ。誰かが必ず傷付いているのが分からないのか!?」
 身体はもとより、その精神も。
 カカシが指揮を取り始めて、戦況は好転しているが、木の葉の犠牲者は少なくはなかった。
 放った声に、歓声に沸いていた受付所は一瞬にして静まり返る。
 一転して満たした静けさに、我に帰った。
 隣を見れば、顔を曇らせているアサリがいた。
「ごめん、イルカ。……おれ、無神経だった」
 すっかりしょげかえったアサリに、罪悪感を覚えた。
アサリが悪い訳じゃない。イルカだって、いつもならば言葉尻に乗って、無邪気に囃し立てていただろう。
「ご、ごめん、アサリ。俺…」
 八つ当たりしたことを謝ろうとすれば、受付所の出口から声が掛かる。



「おーい、イルカ。呼ばれてんぞ。一緒に来い」
 受付所を覗き込み、軽く声をかけてきたのはマサキだった。来い来いと手招きするマサキに視線を向け、今任務中だと声は出さずに唇で話す。
 すると、突然マサキは胸の上部に手を置き、そこから手の平を下へと大きく動かしながら、豊満な手つきをして見せた。
 注目されていることを感じ、唇で話したのが馬鹿みたいだ。マサキのあからさまな手ぶりは、受付中に誰がイルカを呼んでいるか知らしめている。
「え? イルカ、火影さまから呼ばれてんのか? 行け行け、ここはおれ一人でも凌げるからなッ」
 頑張って来いと拳を握りしめる、天然なアサリに乾いた笑みが零れ出た。
「……行ってくる」
 きっとアサリにこの空気の微妙さを伝えても、理解してくれないだろう。
 何かを母親のお腹の中に落としてきた、万年中忍のアサリに寂しげな笑みを浮かべた。アサリと同様に、きっとイルカもそれなりの何かを落としてきたのだろうなと分かる一瞬だ。
 含みのある視線を向ける者たちに頭を下げ、イルカは受付所を出た。
 受付所の戸を閉めた途端に、声が戻るのを聞きつつ、待たせていたマサキに笑みを向けた。



「悪い、行こうか」
 歩き出しながらも、マサキはため息を吐いて、受付所に視線を向ける。
「お前、書類捌いてた方が楽じゃねぇ? オレならこういう陰険な職場はごめんだね」
 戸を閉める直前、吐かれた言葉を指しているのだろうか。
『いい子ぶるんじゃねぇよ、狐憑きが』
『権力者に乞いへつらうしか脳のない、内勤め』
『戦の何をお前が知ってんだ』
 複雑な視線に混じって、あからさまな敵意のあるものも感じた。
 ここしばらく大人しくしといた方がいいなと考えつつ、あれは俺が悪いとイルカは苦笑する。
「水を差すようなこと言っちまったからな。みんなだって、心の奥じゃ分かっているのに、わざわざ俺が言うことでもなかったんだ…」
 馬鹿だったとため息を吐く。ふーんとマサキは後頭部で手を組み、そんなもんかねぇと呟いた。
「あ、凹んでいるお前に特別に教えてやるよ」
 別に凹んでねぇよと睨めば、マサキはまぁまぁと笑う。
「とっておきだぞ。予定じゃ、今日、はたけ上忍が帰る。さっき受付所で話していた情報はもう古いんだ。現、鋼の王は森の国にて戦死、敵本陣はすでに鋼の国に撤退。鋼の国の穏健派である次男坊が、和平交渉を森の国に求めている最中だと」
 飛び出た言葉に、目が見開いた。イルカの驚く顔を満足げに見ながら、マサキは人差し指と親指でLの字を作り、顎に置く。
「ふっふっふ、内勤舐めんじゃねーぞ? 木の葉の情報は、内勤のオレたちが握っていると言って過言ではない」
 根に持っていたのはマサキの方のようだ。
 さいですかと、軽く流すイルカに、マサキは不満げな声をあげた。



「おいおいおーい、そこで『だよなッ』って盛り上がるところだろう? ち、仕方ねーな。もう一つ、はたけ上忍に関する面白い情報が入ってるから教えてやるよ」
 こっち方面だと、小指を突き立てるマサキの仕草に、ツキンと胸が痛んだ。
痛みに歪めそうになる顔を何とか立て直し、聞きたくねぇよと冗談交じりで返す。だが、マサキはいいから聞けよと、笑いながら話した。
「あの長期で、ハードで、困難性満載の任務で、はたけ上忍は一切伽を頼まなかったんだとよ」
 思ってもみない話に、思わずマサキを見た。マサキは興味を持ったイルカを満足げに見つつ、続ける。
「どうしても、理由が知りたいって粘ったくのいちが聞いた話じゃ、はたけ上忍にはもう恋人がいるんだと。それでな、ここからが面白い話で、その恋人は、はたけ上忍が恋人だってことを忘れているんだって言ってんだぜ」
 眉根を潜めたイルカに、だろと、マサキは頷く。
「そりゃ、なんだって話だろ? でも、はたけ上忍は、その恋人がいるから駄目だって、断ったんだ。里に帰ったらその恋人を探すんだと。今回の任務も十年そこらはかかるって言われたところを、約半年で済ませたのも、その恋人を思ってのことらしいぜ。そんなに長く待たせられないってな」
 愛の力ってやつだなーとあがった浮かれ声を、ただ聞いた。
 致命的な何かを知ったようで、視界がぐらつく。
「でさ。オレなりに考えるんだが、ちょっと前に火の国から麻薬捜査の依頼があっただろ。あれで、結構な数が諜報に出たじゃねぇか」
 マサキの言葉に、頷いた。知っている。イルカも、諜報の任に指名されたからだ。
「けど、そのときに、どこぞの何某の秘密まで知っちまって、一斉に記憶消去の処置を受けることになったじゃねーか。オレは、その中に恋人がいるんじゃねぇかと睨んでんだ」
 はたけ上忍がその戦以前にいた任務の場所と近いんだと、声を潜めて話してきた。何だそれと笑えば、マサキは乗りが悪いと肩を落とす。
「何だよ。案外、いいとこ突いていると思わねぇか? 諜報と言えば、廓でするのが定石だ。癒されにきたはたけ上忍と、任務で廓にいた女。触れ合い、生まれる愛。かーッ、どこの小説だッ。その後に忘れちまうなんて、とんだ悲恋だよなぁ」
 あ、悲恋とは決まった訳じゃねぇかと、マサキは笑った。
 拳を握りしめた。突いて出てきそうになる声を、唇を噛みしめてやり過ごす。
 分かっていたことだ。そう、分かっていたことじゃないか。
「なぁ、イルカ。お前もあそこに行ったって……。あー、お前も記憶消去受けてんだよな。知る訳ないか」
 つまんねぇと舌打ちを打つマサキに声が出ない。



 鼻が痛い。目頭が熱い。平静を取り戻せと何度も叱責するが、馬鹿みたいに感情が溢れ出てくる。
 里を見ていたカカシを思い出す。
 優しい瞳で、少し寂しそうな瞳で、里の灯りを見ていたカカシ。
何かを求めている癖に決して言わず、その代わりに里の平穏を見詰め、静かに微笑んでいた。
本当は、誰よりもそれを求めているのに、手を伸ばせばきっと手に入るのに、カカシは目を細めて微笑むだけ。
きっと過去にあった自分の灯りを重ねて見ているのだろう。それを思い出しながら、今の里の灯りを見詰めている。
そして、自分ではない灯を守るために、カカシは闘うのだ。自分も過去に持っていた灯りの温かさを知っているがために、己の身を削りながら、必死に、命を賭して戦う。
――今ある、里の灯りの中にいる人々の幸せを願って。
そんなカカシの生き方に、涙が出た。
何て馬鹿で、何て愛おしい人なんだろうと、涙が溢れて止まらなくなった。
この人を迎える灯りでありたいと、それは無理でも、少しでもそれに近い存在になれたらと、願ってしまった。
 泣くイルカに大丈夫ですかと、声をかけてくれた人。その言葉はイルカが送りたい。勝手に泣き出したイルカを見て、泣きそうな瞳で見詰めてくる愛しい人に、イルカは観念した。
 これは一生、口にできない思いだ。
カカシが自分の灯りを見つけるまで、側にいたい。この馬鹿で愛しい人が幸せになるまで、寂しくないよう気を紛らわせてあげたい。
黙って見守ることを、泣きながら誓ったあの日。
――それは三年前の話になる。



「お、噂をすれば、だな。随分、早いご帰還だ」
 気付けば、マサキは廊下の窓に寄り、その下を覗きこんでいた。
 開け放った窓から、微かに黄色い声が聞こえる。そっと近付き、見下ろせば、任務を終えたその足で直接やってきたカカシがいた。
 里の誉れ、功労者の凱旋に、忍びたちは駆け寄り、口々に賞賛の言葉を口に出している。その中で、期待を込めてカカシを見詰めているくのいちたちの姿を見てとり、小さく笑った。
「……案外、短かったな…」
 「何が」と、隣で息を飲む声が聞こえた。
 あの中にいる誰かがカカシの灯りだ。ようやくカカシは見つけたのだ。
 あのほんの少し寂しそうな顔を見ないですむことを喜べばいいのに、これからは人のためではなく、当たり前に自分の幸せを願えることを良かったなと笑ってやればいいのに、イルカの瞳からは喪失を悲しむ感情しか出てこなかった。
「……怪我、ないみたいだな」
 何か言いかけるマサキの声を遮り、呟く。
しばらく間があって、うんと頷きが返ってきた。
「…結構、元気そうだな」
 囲む人垣を、任務さながらに鋭い眼光を向け、抜け目なく見回すカカシを笑う。ああと、マサキも笑った。
 それを聞いて、息を継ぐ。
「良かったな。これで良かったんだ」
 今度は相槌を打ってくれなかった。何か言いたそうな視線を振り切り、踵を返す。
窓から背を向け、袖で拭った。
 真っすぐ前を向く。いつか来ることは分かっていた。ただそれが自分が思っていたよりも早かっただけ。



「――行こう」
 足を踏み出す。
歩み出したものを止めることはできない。仮にもイルカは教師だ。歩き出した背を見送る立場の者だ。
「イルカ。お前、ちゃんと言ったのか? 当たって砕けたのかよ」
 焦った声をあげるマサキを笑った。
 馬鹿にするのではなくて、気遣う男の優しさが温かかった。
「ありがとう。もう、分かってた事だからさ。悪いな、みっともないとこ見せちまった」
 行こうと声を掛ければ、マサキは一歩歩き出そうとしたが、後ろを振り返る。視線の先にいるだろうカカシを見詰め、マサキは言った。
「…なぁ、はたけ上忍が探していたの、お前だって可能性もあるんじゃないか? お前だって記憶がない一人だろ。廓の任務なんざ、男が変化して女に化けることもあるじゃねーか。はたけ上忍なら、男、女関係ねぇよ」
 気休めとはいえ、偏見めいたことを言う言葉に困る。苦笑いをすれば、マサキは固い声を出した。
「いや、その可能性は高いって! なぁ、イルカ、お前、今から――」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ」
 変なことを言われる前に、歩いた。マサキを置いて、執務室へと進む。
 名を何度も呼ばれたが無視して進んでいれば、追いかけてくる気配を感じた。
 口を開かれる前にこっちから言ってやる。
「あのな、今、待たせているのは、火影さまだぞ。いい加減、早く行かねぇとご自慢の怪力で殴られるぞ」
 うっと言葉に詰まらせたマサキに、過去殴られたことでもあるのかと少し驚いた。
「だが、よー」と、まだ未練たらしく後ろを振り返るマサキへ、仕方ないとイルカはため息を吐き、背中に回って肩を押した。
「お、おい、イルカ」
「ぐだぐだ言うな。まずは、火影さま、だろ?」
 うーんと迷う肩を押し、執務室へと急いだ。






「信じらんねぇ…」
 執務室の戸を閉めるなり呻いたイルカに、マサキはご愁傷さまと含み笑いを漏らす。
 呼び出された理由は、イルカを本格的に手元へ置くという五代目の宣言だった。
 今から半年前ぐらいから、五代目と受付任務を一緒に行うことが増え、その際、私用の書簡配達をよく頼まれていた。里を出ない、簡単な物だったため、一つ返事で引き受けていたのが悪かったのか、そのうち簡単な書類整理を頼まれるようになり、そのままずるずると乞われるがままに引き受けていれば、ふと気付けば、三代目がいた頃と同様の立ち位置にいた。
 それでも、まだ手伝いという立場が大きく、気が楽だったのだが、この度、とうとう五代目に声を掛けられてしまった。
「俺の癒しが潰されるぅっ」
 頭を抱え、イルカは嘆く。
 綱手は何故か、年三度ある期間限定一楽特製ラーメン販売時期に脱走する。
 去年はマサキたちが大慌てで探し回っていたのを横目で見つつ、頑張れよと胸の内で呟き、至福のラーメンタイムを味わうことが出来たが、今年は一体どうなることか。
「ふっ。去年、オレを見捨てた罰だな。火影さまは見ていてくださったんだよ」
 元はと言えば綱手が脱走しなければこの話はしなくていいはずだ。
 したり顔で頷くマサキを小突き、こうなればシズネに協力を要請し、何としてでも執務室から出さないようにしてやると、イルカは闘志を燃やした。



 マサキと別れ、イルカは受付所へと戻る。
 先ほどの騒動は、カカシが帰ったことで一掃されたようで、いつもの活気的な空気で満ち溢れていた。
 そのことにほっと胸を撫でおろしつつ、一人で受付任務を引き受けてくれたアサリに礼を言った。
「いいって、いいって。そんなに混まなかったしなー。あ、でもよく分からないこと言う上忍がいてさ。ちょっと、困ったかな」
 お気楽な声に惑わされ、ふーんと相槌を打ちつつ席に着き、一拍置いて驚いた。
「はぁ?! お、お前、大丈夫だったのかよッ」
 もしかしなくてもイルカのとばっちりだろう。
 素っ頓狂な声をあげるイルカを不思議そうに見ながら、アサリは事も無げに言った。
「は? 何が? まー、とにかくよく分からないこと言うから、笑って『お疲れ様です』って言い続けたら、帰ったぞ。一体、何が言いたかったんだろうな」
 はっはっはとケロリと笑うアサリに肩が下がる。
そうだった。アサリは、人の悪意というか、含みのある言葉を一切察することができない人種だ。
本人は全く気付いていないが、イルカが引き起こしたことでもあり、心の中で反省する。
「……アサリ。今度、何か奢るよ」
 お詫びも兼ねてと胸の内で呟けば、マジでとアサリは喜色に顔を輝かせた。
 ずいぶん可愛いな今日のイルカはと、尻尾を振って喜ぶアサリに、乾いた笑みを浮かべて目を逸らす。
喜ぶところは素直に喜び、嫌味は全く効かないアサリは、受付要員が天職だといえる。ただし、上忍には決してなれないが。



 受付任務が終わり、外へ出た。
早めに終わったこともあり、アサリに今から一杯どうだと声を掛けたが、用事があると断られてしまい、仕方なしに一人で帰途へと着く。
 ずっと椅子に座っていたため、体の節々が固まっている気がする。うーんと、大きく空に手を突き出せば、背中からいい音が聞こえた。
「うおっ、なまってんのかな」
 思いのほか大きく鳴った骨の音に、朝、アカデミーの生徒に言われた言葉を思い出す。
「…俺は若い。おっさんではない」
 四捨五入すればまだ二十歳だと、胸の内で呟く。前にもこんなことを思ったような気がして、進歩のない自分にちょっと凹む。
 気を取り直して空を仰げば、夕方とはいえ、まだ明るい青空を残していた。けれど、もうじきすれば、あっという間に日が暮れるだろう。
 頬に触れる風はまだ冷たく、冬の気配を残していた。その先にある暑い季節を恋しく思う。
 今まで暑苦しいとしか思っていなかった夏は、イルカの中で少し印象を変えた。
夏の時折吹く風の涼しさや、むっとした熱い土の匂い、眩しいほどの太陽の日差し、おいしい夏野菜、そして、縁側に一人で座る寂しさ。
心が躍る半面、物悲しい感情がついて回る。
夏は楽しくて、苦い。
いつから、そんな印象を持つようになったかは定かではないが、前に比べてほんの少し好きになったことは確かだ。



 直にやって来る熱い夏に、夏野菜で一杯やる楽しさを思い浮かべていたら、前方から黄色い声が聞こえてきた。
 何事かと思い、視線を下げて驚いた。
 カカシがいる。
 カカシはまだ自宅に帰っていないようで、廊下から見下ろした時と同様の、埃と砂を吸い込んだ、くたびれた服を身に着けていた。
唯一覗く右目は、焦りと疲労を感じさせる。そのことが気にかかりながらも、無理をしている理由が分かるだけに唇を噛みしめた。
「もう、カカシってば! 慰労会してあげるから、来なさいって」
「そうですよ〜。わたしたちと一緒に飲みましょう、ね?」
「いいところあるんです、行きましょう?」
 くのいちがしきりに誘いの言葉を掛けていることからして、あの中にはカカシが探している人物はいないようだ。
 そのことにほっとしながらも、いずれ見つける人物を思い、苦い物が込み上げる。
 側にいたいと願いながらも、結局、イルカは木の葉崩し以降、カカシと関わりを持てなかった。
それはイルカとカカシを結びつけていた子供たちがいなくなったこともあるが、一番大きな要因としては、生活のスタイルが全く違うからだ。
片や内勤のアカデミー教師と、片や売れっ子の忍びでは、起きる時間も寝る時間もまるで違う。それに、一度カカシが任務に出れば、会う可能性はゼロだった。
だからこそ、こうして姿を見かけるだけでも嬉しかったのだが。



「あー、だから、今忙しいって言ってるでショ? ちょっと俺のことは放っておいて、一人にして」
 散々付きまとわれたのか、カカシの声に若干の苛立ちが含まれている。それでも優しく声を掛けるカカシに、らしいなと笑ってしまった。
 不意にカカシの目がイルカを捕えた。笑いを引っ込めることができず、ばっちり見られてしまい、少々罰の悪い思いに駆られる。
 カカシの視線を感じ、引きつる頬に笑みを浮かべて頭を下げた。
「もう、カカシってば!」
 くのいちがカカシにくっつき、腕を引っ張る。二人から視線を逸らし、歩みを進めた。
 カカシは受付へと行こうとしているのだろう。帰ろうとするイルカとは逆方向だ。
すれ違う間際に、もう一度軽く頭を下げて、通り過ぎた。



 一、二歩進み、遅れて香った匂いに体が固まった。そして、足が動かなくなった。
 くのいちたちの白粉や香水に混じって香った、戦場の匂い。
 硝煙や泥、水の匂い。そして、微かに感じるカカシ自身の香り。
 はっと肩を上げ、意識して息を吸おうとする。胸が苦しくて、思うように呼吸ができない。
 まだカカシたちはイルカの後ろにいる。平静を取り戻して、歩き出さなければならない。変だと勘付かれたらお終いだ。
 だって、前が見えない。
 溢れ出てくる涙で、顔中しとどに濡れている。
 こんな顔、カカシには見せられない。あの優しいカカシはきっと心配するだろうから。
 イルカから動けそうにないから、カカシたちが去って行くのを待つ。気配を薄めて、嗚咽を堪えて、身動きせずにじっと待っていた。
「ちょっと、カカシ。なんで、さっきから止まってるのよ。行くなら、行きましょうよッ」
 不意に聞えたくのいちの声に、体が震えた。
まさかと思う。
 こんな偶然がある訳ないと、肩越しに微かに振り返れば、カカシの体が反転した。



「――見つけた」
 声が、聞こえる。
 随分と懐かしい気がした。
 視線はイルカに向いたまま外されない。
 何を言っているのだと騒ぐ輪から一歩カカシが抜ける。右目は泣きそうに細められていた。
「……アンタだ。イルカ、先生」
 カカシの手が、イルカへと伸ばされた。
 名を呼ばれて、ようやく硬直から抜け出せた。振り返れば、イルカの前にはカカシがいる。
「――アンタだ」
 囁くように小さな声を発すカカシに、イルカは声が出ない。伸ばした手をゆっくりと頬に近付け、触れる直前で止まった。
「く……、触っても、いい?」
 良く分からない。でも、言いかけたカカシに、何故か笑いが込み上げてきた。
 小さく頷けば、指先が頬に触れた。その指は微かに震えている。
 そのことが無性に嬉しくて、そして懐かしくて、震える指先を握って、息を吸う。



「触るだけで、いいんですか?」
 震える声で問えば、カカシは聞き返してくる。
「え?」
 戸惑うように視線をさ迷わせるカカシの胸倉を掴み、イルカは笑った。
「俺は、あんたとキスしたい」
 左手で口布を下ろし、噛みついた。
 自分の涙のせいで、ずいぶんしょっぱい口付けになった。でも、間近で見詰めた瞳には驚きと一緒に、幸せな笑みも見えたから、イルカは目を閉じた。







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次でラストです!