夢の話 〜事件簿外伝3、5〜
(英日パートのネタバレ含んでおります)
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「ルーさん、お待たせしました。ぽん太くん、銀さん、ありがとうございます」
菊が一人、家に帰ってきた。
うつらうつらと眠りと覚醒の合間を漂っていたぽん太は、親愛なる主の声に眠気を一気に吹き飛ばした。
腹の上ではルーが苦しそうな息を吐きながら眠っている。
本当ならば駆け寄って出迎えたいところだが、病気を患っているルーを優先させ、ぽん太はぐっと我慢した。
『どうして一人なの? キラキラ眉毛は?』
視線に思いを乗せて、静かに近づいてきた菊へ視線を向ければ、菊はほんの少し寂しそうな顔を見せた。
「イギ……。アーサーさんは帰られました。これも、ぽん太くんと銀さん。そして、ルーさん。あなたのおかげです」
くしゃりと菊の顔が歪む。主が泣くかと思いハラハラしていれば、ぽん太が枕にしていた狼の銀が顔を舐めてきた。
『俺のことはいいの! それより菊さんが!』
銀は肉食獣の狼としては話が分かる奴で、餌にしか見えないだろうぽん太を友達として扱ってくれる。
ただ残念なことに銀の狼言葉はぽん太にはさっぱりで、尻尾の動きで感情は読み取れるものの、何を言っているのか全く理解ができない。
同時にぽん太の言葉も銀は理解できないようで、ぽん太の主張に首を傾げている。かっこいい外見の癖して、仕草が微妙に可愛いのがあざといとぽん太は常日頃から思っている。
クンクンと何故かぽん太に向けて甘えた声を出してきた銀を不可解に思いながら、それよりもと菊へ視線を向けた。
菊は眠るルーの傍らに跪き、男性にしては細く繊細そうな指を伸ばした。菊は男にしておくのが勿体ないほどの良妻賢母で綺麗な人だとぽん太は思う。
「ルーさん。いいえ、西方を守護する白虎。あなたのおかげです。もう、解いていいんですよ。全て終わりました」
ルーの耳が小さく瞬く。
目を開き、菊へ視線を向けたルーが声なき声を発した直後、周囲の風景が変わった。見たことのある暗いだけの何もない空間。そして、傍らに大きな存在感のある気配が現れる。
「グルル」
短い威嚇音と共に、ぽん太の首根っこに痛みが走る。ここにきて食べるつもりかと、抗うように手足を振り回せば、大きな気配から少し離れたところで痛みが消えた。
何が起きたのだろうと背後にいる銀へ視線を向ければ、銀は鼻に皺を寄せ、今までいた場所を睨んでいた。
『あっ、菊さん!』
守るべき対象者を置いていってしまったと慌てて駆け戻ろうとすれば、背中に重みが加わった。
踏ん張る力を上回ったそれに屈し、地面に伸された。
『なんだよっ、何してんだこの馬鹿狼! 離せって』
振り返り重さの正体が銀の前足だということに気付き、罵倒を繰り返す。
銀はぽん太の動きを歯牙にもかけず、目の前を注視していた。離してくれそうにない気配に、ぽん太は早々に諦め、せめて菊の安全を確認しようと目を凝らした。
薄く白い煙が立ち込める側に菊がいる。そして、煙が晴れた後にそこにいたのは、白い大きな虎だった。
『菊さん!?』
これは大事だと死に物狂いで暴れれば、銀の前足の拘束が緩んだ。それを好機と捉え、ぽん太は菊の元へと駆け寄る。
白い虎は近づくほどに大きく見える。ぽん太からすれば巨大な山のようだ。銀の元の姿よりも二倍はあるかもしれない。ただ、その虎は身を横たえたまま、身動き一つしなかった。
『菊さん、無事ですか!』
用心は用心を重ねてと、菊と虎の間に割り込むように突進すれば、菊はそれを見越したのか、駆け込んできたぽん太を腕に抱えるなり、胸元に抱えた。
『あ、菊さんの匂い。好き〜』
胸元に抱えられたことでふんわりと落ち着く匂いを嗅いで、一瞬気が抜ける。だが、すぐさま正気を取り戻し、戦闘態勢を取ろうとすれば、宥めるように頭を撫でられた。
「ぽん太くん。この方は敵ではありませんよ。私にとって恩ある方です」
菊は自分の体と同じくらいの大きさはある顔を前に、ぽん太を撫でた手で鼻先を撫でた。
クフと小さな音がして、虎の口元から少量の血が零れ出た。
ぽん太はそこで虎の正体に気付く。口から血を出す症状、荒い息。ちっとも温まらない体。
この虎の正体は、猫のルーだ。
「はいはい。それ反対だーよ、イルカ。んで、いつまで抱かれてんのよ」
背後から声が掛かり、振り返るよりも先に体をさらわれた。
いい香りから無味無臭の味気ない匂いに変わったことに驚き、上を見上げれば、見たこともない白髪と口元を隠す成人男性が見下ろしていた。
「な、なんですか、あなた! ちょっと離し……あれ?」
声の調子がおかしいことに気付き、そして体の異変に気付いた。
自分の体に視線を落とせば、まるで人間のような姿だった。ぽん太の自慢の黒色の濃い毛並みが消え、紺色の人間の服を着込んでいる。
「うーん。ほら、イルカ。しっかりして」
抱えあげられた体を下におろされ、目の前で指を鳴らされた。音を出す指を見て、そしてその手に覆われた金属と指先だけが出ている手袋を見て、頭にかすめるものがある。
それが何かわからずに首を傾げるイルカへ、白髪の男はため息を吐きつつも、どこか嬉しそうな気配を漏らし口元を覆う布を下へずらした。
「しょーがないねぇ、イルカは。ほら、これで思い出しなって」
顎先を掴まれ、上向かされた。何だと食ってかかろうとすれば、いつの間にか近付いていた白髪の男の顔が目の前で広がった。
疑問の声をあげるために口を開いた途端、男の唇が引っ付いた。そして、開いた口元に熱くて柔らかい感触が入り込んでくる。
「ん、んんんー!!」
口を塞がれびびるぽん太に男は攻撃の手を緩めない。距離を開けようと手を突っ張らせようとしたぽん太の手を、男とぽん太の間に挟むように背中を抱かれ、後ろ首を抑えられた。
「んっ、ん!」
口を外そうと左右に動いても、首元を掴まれて逃れられなかった。そうこうしている内に、ぽん太の口内へ入った軟体物は擽るように動き出す。
上あごを舐められ、歯の付け根を擽られる。恐くなって縮こまっていたぽん太の舌に絡ませられるに至って、背筋が痺れるようなむず痒い感覚を覚えた。
呼吸がままならないこともあってか、意識が朦朧としてくる。とうとう自力で体を支えられなくなって、気付けば男の胸の中に倒れ込んでいた。
懸命に息を吸う中、男はぽん太を見下ろし、にやりと意地悪そうな顔で笑った。その笑みに記憶がざわめく。
「思い出しーた、イルカ?」
ちゅっと駄目押しに口づけをされ、ぽん太は思い出す。
この手慣れた感満載の濃厚な口づけと、駄目押しだとばかりの可愛い口づけ。
過去に何度も突然とかまされたそれに、イルカは憤った。
「カカシさん、あんたなぁぁ!」
どうして人目を気にせずに、そうほいほい出来るのだと苛立ちを込めて白髪に見えた、銀髪の髪を思い切り掴み引き上げれば悲鳴が響く。
「いた、痛いって、イルカ! ちゃんと思い出せたでショ。怒ることないじゃないの」
「普通に思い出させてください。あんたなら出来るだろ!?」
ひとしきり悲鳴をあげさせ、手を離す。カカシは口布を引き上げながら唇を突き出し、「ロマンが分かっていない」とぶつくさ文句を言っていたが完全に無視した。
「お話は終わりましたか?」
久しぶりに会ったというのに、悪い意味でちっとも変わらないとくさくさしていれば、横から声が掛けられた。
そこで気付く。自分が主だと仰いでいた存在が、この場にいたことに。
「き、菊さん! すいません。お見苦しいものを見せてしまって」
恐縮して頭を下げるイルカへ、菊は少し困ったように眉根を寄せた。
「いえ。元はと言えば、私が巻き込んだようなものですし、慣れない獣の姿になっての生活は面倒をかけたでしょう? けど、ぽん太くんがこんなに立派な青年とは思いもしていませんでした。気安い態度をとって申し訳ありません」
菊に逆に頭を下げられ、イルカは慌てて頭を上げるようお願いした。菊のどこか高貴な雰囲気と親しみを覚える空気はイルカが尊敬する火影を彷彿とさせる。
小さくイルカへはにかむ菊の笑顔に思わず見とれていれば、背後から体を引っ張られ抱きこまれた。
「ちょっと、アンタ。イルカを誑し込まないでよ。敵意と悪意がないから見逃してやってんだからね」
イルカの頭の上に顎を乗せ、体と腕で挟み込むように胸の前へ手を組んだカカシの態度に血の気が引く。
何てことをと泡を食うイルカへ、菊は気にした素振りもなく口を開いた。
「そう警戒しないで下さいな。あなたは銀さんですね? お二人に迷惑を掛けた分、当事者として出来うる限りのことをさせていただきます」
失礼な態度のカカシに不快感を抱くこともなく、そればかりか礼を尽くしてくれる態度に胸を震わせていれば、カカシはそれじゃぁと切り出した。
「その白虎、アンタんとこの四神じゃないでショ? それがどうしてここにいるのよ。オレたちはそれの回収を目的にやって来たんだけど」
人を食ったような態度をあくまで貫くつもりでいるカカシに内心ドギマギとしながら、イルカはひとまず静観することを選ぶ。
菊は苦しそうに呼吸を繰り返す白虎の額を撫でながら、話し始めた。
「この子と出会ったのは偶然でした。ひどく傷つき消えそうな気配を見つけて、静養も兼ねてこの場所に仮の居場所を創ったんです」
この場所と、淡い暗がりが満たす、何もない空間を菊は見つめる。イルカたちが住む場所の、幻獣たちが使用するという空間と同じようなものだろうか。ということは、菊はそれに類する存在ということなのだろうか。
男性にしては中世的で綺麗だが、見た目は普通の人と変わらない。
「少しずつ元気になっていって、もう大丈夫だというところまで回復したところで、この子は言ったんです。元の場所に戻るつもりはない。ここにいさせてくれ、と」
菊の言葉にカカシの気配が尖る。菊も敏感にそれを察し、小さく唇に笑みを刷いた。
「事実ですよ。この子は四神の白虎。西方を守り、街道に住むと言われる神獣。詳しい話はしてくれませんでしたが、この子は人々から忘れられるばかりか、穢れを受けていた。神獣とは聖なるもの。度が過ぎる穢れは神獣といえど命を落としかねない」
カカシを見つめた菊の眼光の鋭さに息を飲む。穏やかなところしか見たことがなかったせいか、そういう顔もできるのかと衝撃を受ける。
「……あのねぇ。オレが穢した訳じゃないでしょうが。肩入れするのはそっちの勝手だけど、妙な言いがかりをつけないでーよ」
呆れたように指摘するカカシに、菊はそうですねとあっさりと引いた。
「こちらの月日があなた方と同じ時を紡いでいるのか分かりませんが、五十年ほどこちらで過ごしていました。時折しか会いにいくことができませんでしたが、穏やかに暮らしおりましたよ」
白虎の瞳が小さく開く。菊の姿を視界へ入れようとする気配に、白虎が菊へ恩を感じている以上に、如何に好いているか想像できた。
「けれど、この子は……。絶望に駆られ、傷ついてここへ逃げ込んだ私を心配して、私の望みを叶えるべく世界を創造しました。それが、あの世界です」
魔法というものを行使する人が集められた学校。様々な色合いを持つ人々がいた世界。生憎狸となっていたイルカは、菊の言葉以外は理解できなかった。聞いた感じからして、誰もが微妙に違ったり、まるきり違う言葉を喋っているように聞こえた。あくまで狸の耳を通してなので、実際そうなのかは判断つかない。
ゆっくりと目を開閉する白虎へ、菊は抱きしめるように寄り添う。
「私の望みは、ある方ともう一度友人になることでした。けれど夢は夢。現実で叶うわけがない。それでも、この子は力を使って、眠っている間見る夢とここを繋げ、本人を呼び寄せました。そして、私がその方と友人関係になれるように見守ってくれました。けれど、友人になることはなかった」
静かに、感情のこもらない声音で語る。それでも菊の表情は悲しげに見えた。
「その度に、この子は巻き戻し、何度も私に機会を与えてくれた。でも、私は全ての機会を無駄にしました。この子も見ていられなかったのか、巻き戻す度に姿を変え、私を導こうとしてくれましたが、うまくいきませんでした」
悔やむように白虎が息を吐く。それを宥めるように額の毛を梳り、菊は続ける。
「何度繰り返したのか、正直分かりません。五百年間、その土地を守護する力を持つ、神獣の力を食い潰すほどの力の行使。この子には相当無理を掛けたことだけは確かです。けれど転機が訪れました。あなたたちの介入です」
どう足掻いても会えなかった人とようやく会えた。そして、友人になることができた。
「そればかりか、最後にはわだかまりを解くことができました。ぽん太君、銀さん、ありがとうございます。そして、白虎。何度も何度も無理をさせてすいませんでした。……私は結局あなたを幸せにすることができなかった。ごめんなさい」
震える声で白虎へ語り掛ける菊に、口を噤んだ。カカシも空気を読んだのか、菊と白虎の最期の語らいを邪魔する素振りは見せなかった。
静かに涙を流す菊を黙って見ていれば、白虎の首が揺らめくように動いた。それに合わせて最期の力を振り絞るように、体を起こすと、白虎は菊へ顔を擦り付ける。
『泣かないでください、お国さま。私は幸せでした』
「白虎……」
抱えきれないほど大きな顔に腕を回し、菊は顔を埋めた。小さく震えるように喉を鳴らす白虎から漂う死臭は、もはや隠しようもなく色濃い。
『裏切られ、忘れられ、行き場を無くした私を拾ってくれた。絶望から救い出してくれたあなたの望みを叶えたかった。どうしても笑顔を取り戻してほしかったんです。結局、私の力では叶わず、外部の力を借りる形になってしまいましたが』
そんなことはないと菊は首を振る。白虎は首を傾け、イルカたちへ顔を向けると、これから死ぬものとは思えない光を宿らせた眼差しを送ってきた。
『貶め、穢された者たちに助けられるとは、随分皮肉な話よ。私は二度とお前たちの世界とは関わり合いたくない。だが、受けた恩は返す』
白虎の言葉に、カカシは満足げな笑みを浮かべる。
お国さまと菊へ呼びかけた白虎は、菊へ寄り添い何かを渡した。
「確かに。お預かりいたします」
受け取ったものを見て、痛々しそうな表情を浮かべる菊の反応が気にかかった。
揺れる瞳で白虎を見上げる菊へ、白虎は小さく喉を鳴らした。
『お国さま。最後にお願いを聞いてくれますか』
もちろんと頷く菊へ、白虎は願いを口に出した。
『私の名を呼んでください。あなたの役に立てた私の誇らしい名を。そして、願ってくださいますか? またあなたと出会う未来を』
白虎の言葉に、菊は頷くと涙を拭った。
ひれ伏す白虎の額へ手のひらを掲げ、朗々たる声で言葉を紡ぐ。
「ルーさん。あなたが出会い別れ、幾度となく繰り返す縁の紡ぎ出す糸が、私へと繋がりますように。あなたと出会う、この先の未来を楽しみにしています」
『はい、菊さま。またお会いする日をお待ちしております』
二人が交わす約束事に、イルカは不思議な気持ちになる。今まで見た別離とはまるで違う、悲壮を感じさせない、未来へ託す祈り。
知れずカカシの手を握れば、カカシは困ったような空気を漂わせてきた。
忍びが見るには甘すぎるのだと言いたいのだろう。だが、イルカはこの光景を生涯忘れないと思う。
白虎の体が無数の白い球体へと変わっていく。色合いはそのままに輪郭を崩していく白虎が、不意にイルカへ視線を向けた。
自分が生きた時間に満足を覚えているような、満ち足りた表情だった。白虎は口元を引き上げ、言った。
『あなたのおかげで菊さまとの最期の時間を作ることができたわ。……ありがとう』
身に覚えのない言葉に困惑するイルカを小さく笑い、白虎は囁く。
『あなたが生きる世界に、安寧が訪れますように』
どこか気遣うような、ほんの少し未練が覗く瞳を投げかけ、白虎の姿は一気に球体へと変じ、そしてその球体は弾けるような光を発し、消えていった。
柔らかな光の消失に、イルカはどうしようもなく悲しくなってしまう。訳も分からず泣くイルカを、カカシはあやすように顔を寄せ、頭を撫でてくれた。
「……ルーさんは、私に掛かったイヴァンさんの呪いを半分受け持ってくれたぽん太くんに礼を言ったのです」
悲しみに暮れるイルカへ菊が話しかけた。情けない顔を見せたくなくて、腕で涙を拭い、イルカは口を一文字に引き延ばす。
あからさまな虚勢の態度に菊は困ったように笑い、そしてありがとうございますと頭を下げてきた。礼の意味は聞かなくても分かった。白虎から泣かないでと言われたことを受け、泣けない菊の代わりに泣いてくれたイルカへ礼を言ったのだろう。
首を振ることしかできないイルカへ、菊は微笑み、そしてカカシへと白虎から受け取ったものを差し出す。
白く、先が尖ったそれは、小さな歯だった。
「ぽん太くんは、元から陰に傾いていましたが、呪いを受けて更に傾いてしまいました。四神が作るものは陰を安定させる結界。四神は陽の気質を持ちますので、これは銀さんに託します」
不穏な言葉にイルカは遅れて顔を強張らせていれば、菊は大丈夫とイルカの肩へ触れた。
「あなたが銀さんと結ばれている限り、あなたの身は無事です。銀さんが陽の気質が多すぎることもありますし、ちょうどいい塩梅ですよ」
どこかの神様と縁を繋ぎましたかと尋ねる菊へ、カカシは嫌な顔を見せる。
四神のうちの一神、玄武のことだと思い当たったイルカは笑った。喧嘩口調でやり取りする二人は仲がいいのか悪いのか判断に苦しむが、縁を結ぶくらいだから相性はいいのだろう。
よくよく考えれば、カカシは四神のうち二神と関わり合うことになったのだ。何気にすごいことだと思う。
「さて、それでは元の世界へお送りすることにしましょう。そちらの世界にもお狐の神様はいますか?」
だしぬけに問われ、神様のことをよく知らないイルカは首を傾げる。するとカカシが頷いた。
「いるよー。ちょっとした事件で下火になっちゃったけど、稲荷信仰は商売人の拠り所だからーね」
「おや。やはり気が合いそうですね」
小さく笑った菊は、息を吸い、吐き出すと共に一度手を打った。
破裂音が遠く響き、消える頃、カサカサと何かを引きずりながら近づいてくる音が聞こえた。
「ご足労いただきありがとうございます。こちらのお二人を送っていただきたくお呼びしました」
音が聞こえた方向へ、菊は深々と頭を下げる。誰か来たのかと同じ方向を見たイルカだが、そこにあるのは藁で作られた巨大な草鞋が二足あるだけだ。二足のわらじの爪先には、藁をより合わせて作った縄が三つ付けられており、不思議なことにその縄は宙に浮かんでいた。
「はい、それは勿論。腕によりをかけて作らせていただきます」
菊の言葉にさわさわと縄が動く様を不審げに見ていれば、カカシが閉じた左目を開けようとした。途端に、菊の厳しい声が飛んだ。
「駄目です、銀さん! 姿が見えないということには理由があるのです。先ほどまで銀さんは狼、ぽん太くんは狸だった身の上ですよ。お狐様の心情を考えてあげてください」
菊の言葉に賛同するように再びさわさわ縄が動く様を見ながら、イルカは菊の言う事を全面的に信頼することにする。
だが、カカシは道中に左目を使うかもしれないと疑ってしまう。カカシは基本、自分で見たものしか信じない性質だ。
草鞋の上に乗って下さいねと告げる菊へ近づき、了承を得て耳打ちをする。
「ちょっとイルカ! アンタ、オレにはそんなことしたことない癖に、何、初めて会った奴にしてんの!?」
一体何を怒っているのだと呆れつつ、イルカのお願いを聞いて、菊はため息を吐いた。
「銀さんはなまじお強いから性質が悪いですね」
菊の意見に激しく頷く。菊は懐から札を一枚出すと、カカシへ近づく。
「何?」
大人げない態度で菊を見下ろし、威嚇するカカシへ注意をしようとして、菊はにこっと笑った。その後、札に息を吹きかけるなり、正面から堂々とカカシの左目に札を張り付けた。
「なっ!」
真正面から遅れを取ったことに衝撃を受けるカカシへ、菊は慰めるように声を掛ける。
「こればっかりは致し方ありません。私があなた方を本能的に守るように、あなた方は本能的に私に心を開いてしまうのですよ。油断の一つもします」
「……化け物が」
怒気も露わに戦闘態勢に入ったカカシへ、イルカは何の冗談だと素っ飛んでいき抑え込む。
「カカシさん、落ち着いてください!」
「最初から気に食わなかったんだーよ。お前のような存在は脅威にしかならない」
静かに殺意を練り上げるカカシに血の気が引く思いでいれば、標的にされた菊は気にした素振りもなく笑った。
「ぽん太くん、力づくで銀さんを乗せてやってくださいな」
場を読んだのか、二つの草鞋が一つに合体するように縫われる。
格上のカカシをイルカがどうこう出来るわけはないと思いつつも、言われるがままカカシを引きずろうとして、抵抗が全くないことに驚いた。
カカシはイルカの拘束を取ろうと抵抗はしているが、イルカからすれば少し身じろいだ程度の力だ。
「銀さんの力は封印させていただきました。でも安心してください。あちらに着くと同時に消えますから」
幼子のような非力なカカシを抱え、合体した草鞋へ腰を下ろす。
「よろしくお願いします」
カカシの分まで深々と頭を下げてお願いすれば、ざわざわとした気配の後、一声「コーン」という鳴き声が聞こえた。
思ったより友好的な対応に胸をなで下ろしつつ、まだ菊へ敵意を向けているカカシを抑えたまま、菊に挨拶をする。
「菊さん、お世話になりました! いい経験させていただきました。ありがとうございます」
心から言えば、菊は少し驚いた顔をした後、何とも言えない表情を浮かべた。すまなそうな感情と感謝の気持ちが入ったそれに、手を振る。
「またどこかで会えたら会いましょう」
会う確率は限りなく低いが、イルカはルーと菊との別れを見て思ったのだ。悲しむのは後でも出来る。だが、願いや感謝の気持ちは、別れの一瞬に伝えるべきものなのだと。
「はい。どこかで、また!」
イルカの思いを受け取り、菊も手を振ってくれる。
「ちょっとイルカ、オレは許さないからねっ」
「あーはいはい。ほら、カカシさんもバイバーイって」
力の弱いカカシの手首をここぞとばかりに握り、手を振らせる。
ゆっくりと地面を擦りながら進み、やがて重力から解き放たれたように宙へと浮き上がる。
空を飛んでいることが信じられなくて、胸がわくわくと跳ねた。後ろを振り返り、地上で手を振る菊へ手を振り返した。
菊はカカシが仏頂面で手を振らされている姿がツボに入ったのか、時折身動きを止め、ぎこちない手の振り方をしている。
菊の姿が見えなくなるまで振り続け、手を下ろす。
羽交い絞めのように後ろから抱き着いていた体を解放すれば、カカシはイルカの体を滑らせるように寝転がり、イルカの膝に頭を乗せてきた。
お馴染みになった感のあるカカシの行動に、からかった自覚があるイルカはそれを許す。
口布をしていても分かるほど頬を膨らませるカカシの、気付いてくれと言わんばかりの拗ね具合に、イルカはカカシの頭を撫でた。
「もう、すいませんって。ちょっと悪ノリしちまいましたけど、良い別れだったでしょう?」
お互い笑顔で別れられることなど、忍びであるカカシやイルカは縁遠いものだ。
カカシはそんなことないでショと仰向けから横向きに体勢を変え、呟く。
「アンタの場合、いっつも笑顔つきじゃないの」
言われて確かになぁと思い返す。特にカカシと知り合ってからは概ね友好的に一般の人たちと別れの挨拶を交わしている。
ふーんだと機嫌がなかなか治らないカカシへ、イルカはため息を吐いて、腰を屈めた。
右頬へ触れるだけの口づけを送り、さっと体勢を元に戻す。
「っ! イ、イルカ、今チューした? チューしてくれたの!?」
成人男性が連呼する言葉ではない。
今更ながら恥ずかしくなって、そうですよとぶっきらぼうに告げれば、カカシは見る間に顔を緩ませ、胡坐をかいているイルカの膝に抱き着いた。
「んふふふー。やっぱり両想いになると違うーね。イルカってば積極的っ」
きゃっと頬を染め、顔を埋めて足をばたつかせる。
ふと前から非難しているような眼差しを感じ、咄嗟にすいませんと謝る。
やけに乗り心地がいいから忘れそうになるが、イルカたちは今空を飛んでいるのだ。ここから落ちたらどうなるか考えたくない話だ。
「騒がないように大人しくしてましょうね」
真面目腐って言えば、カカシも分かっているのか、不承不承ながらもいい返事をしてきた。
周囲を見回しても、特に見るべきものはない。薄暗がりが続く空間に飽きて、カカシへ視線を落とせば、カカシの視線とぶつかった。
うつ伏せから横向きに変え、唯一見える右目をイルカへ注いでいる。もしかしてずっと見ていたのだろうかと照れて視線を外すイルカに、カカシは小さく笑った。
「イルカってば無意識にずっと頭撫でてるんだもん。なーんんか、幸せ感じちゃった」
柔らかい声音に指摘され、イルカは俯く。全く意識してなかった。だが、指摘されても手を退けようとは思わなかった。イルカとてカカシを恋しく思っていたのだから。
前回の事件で、イルカが成りかけという化け物へ足を突っ込んでしまったが、現状は突然飛ばされることはなくなり、安心していた。
これもカカシとの絆が深まったことに由来するのだろうと思いつつ、イルカは最後の一線はまだ早いと自分に言い聞かせていた。
「ねぇ、イルカ。今回はどうして飛んだの? 玄が言ってたじゃない。玄武の認知度が上がれば、イルカの陰への傾きは正されるって。任務終了後にさ。突然、玄にかどわかされた時は驚いたのよー。『成りかけが危ない』って素っ頓狂な声で言うんだもの」
カカシの話を聞けば、暗殺任務を終え、里に帰還しているカカシは不意に飛んだのだという。
目の前の景色が入れ替わったと思えば、気付けば展望山の頂上にいた。
馴染み深いと言えば深いそこに、ここへ連れてきた犯人の名を呼べば、玄は前よりも豪奢な着物を身に着け、カカシの前に姿を現した。
認知度向上運動ありがとうという礼もそこそこに、玄は切羽詰まったように切り出した。
「成りかけがどこにもいない。きっと何かに巻き込まれた」と。
驚くカカシへ、玄は今からイルカがいる場所に送ると告げた。そして、縁深いお前が見つけられなければ、見つからないと脅しのような言葉ももらった。おまけに、ついでに白虎も回収しといてとお使いのように軽く頼まれた。
立て続けに言われた言葉に問い質したい気持ちが沸き上がったが、玄はカカシの言葉を一切聞かずに問答無用で飛ばした。その場所が、あの森だった。
「着いたら狼になっちゃってるでショ。正直少し動転した。でも、ま。気味悪い森だったし、ここにイルカがいるなら大変だと思って、森の探索に精を出してたってわーけ。それで、ホンダさんとやらがイルカを連れ去ろうとしていたから、ね」
菊に助けてもらった時に現れたカカシはやばかった。菊は物事を軽く考える癖でもあるのか、混じりっ気なしの殺気をぶつける獣を手元に置こうとよく思えるものだ。
とにかく終わり良ければ全て良しということだと無理やり納得させ、カカシの促す視線にイルカも話し始める。
「俺もカカシさんとほぼ同じです。ただ、俺の場合は、野原に住む餓者髑髏という者に飛ばされました」
イルカが成りかけというものになってしまい、時と場所を問わずに知らない場所へと飛ぶようになってしまう前に出会った、春の野原に住んでいた着流しを着ていた男性。
例にもよって、前回と同様に、目を覚ませば、イルカは原っぱのど真ん中で布団を敷き眠っていた。
カカシとの繋がりが深くなったことで飛ばなくなったと喜んでいた矢先の事であり、イルカは大層凹んだ。
布団の中で頭を抱えていると、聞き覚えのある声がイルカを呼んだ。
「名探偵うみのイルカさま、起きた? 一緒に遊ぶ?」
にこにこと無邪気に笑うフジナという少女の登場に、イルカは観念して起き上がる。
「おはよう、フジナちゃん。ところで今日はどんな用事?」
もしかしてクリーニングに出したいものでもあるのかなと一番被害が少ない用事を思いついて言えば、フジナは首を横へ振った。
「あのね、ご主人さまが依頼したいことがあるんだって」
あ、案内しなきゃと今気付いた様子で、イルカの手を引っ張るフジナに、イルカは逃れないことを覚悟し、男性の元へ連れていかれた。
「やぁ、名探偵うみのイルカ。元気そうで何よりだよ」
駆け寄っていったフジナを抱き上げ、男性はイルカへ挨拶をした。
「ど、どうも、おはようございます。ご無沙汰しております」
ぺこりと頭を下げれば、男性は喉を鳴らすように笑った。
相変わらず表情が読めない男だ。そう考えて、それも無理ないかと思う。イルカはこの男の正体を知っている。
前回、ここに来た時に去る真際、イルカは振り返って見たのだ。巨大な骸骨の姿を。
未知数の強さを感じさせる強者を前に緊張していれば、男性は肩を竦めた。
「やけに緊張しているねぇ。まぁ、想像はつくよ。君は私の正体を知ったのだろう?」
言い当てられ、イルカは下手な隠し事はなしだと素直に告げた。
「巨大な骸骨。あなたは、餓者髑髏という存在なのでしょう?」
告げた途端、男性の目が見開いた。襲ってくるかと、前回の失敗を糧に、寝る時も忍び服とクナイホルダーを身に着けているため、手持ちの武器は万全だ。いつでも牽制できるように腰を落として、クナイの持ち手に触れる。
警戒するイルカへ、男性―餓者髑髏は心底おかしいと言わんばかりに笑い出した。
「あははは、これは何と言うか。君という人間はよほど私と縁を結びたいらしいね。実際、面白い存在だよ、君という人間は。時間があればお互いの相互理解のために語り合うというのも良かったが、残念ながら時間は取れない」
餓者髑髏は目を細め、切り出した。
「フジナから聞いているだろう? 私は君に依頼をしたい。火の都の西。白道(はくどう)が統べる、四神が一神、白虎を安置し直して欲しい」
妙な依頼に訝し気に見やれば、餓者髑髏は理由が知りたいかなと尋ねてきた。素直に頷けば、餓者髑髏は歌うように語りだす。
「君が名を付けた通り、私は餓者髑髏。野原を住処とし、野で命を落とした者や怨む気持ちを源に作られている。これが何を意味するか分かるかい?」
謎解きのようなその問いに、イルカは首を振る。
「君の素直さは美徳だね。私はつまり、人と密接な関係を持つ化け物なのだよ。人がいなければ始まらない化け物なのさ」
餓者髑髏の言い分は分かったような分からない話だった。曖昧に頷くイルカへ、餓者髑髏はだからと言葉を継ぐ。
「君には白虎を連れ戻して安置してもらいたい。君たち人間にとっても白虎は必要なはずだ。依頼料は、その白虎の元へ案内するということでいいだろう?」
話を勝手に進めていく餓者髑髏に不安を覚えたそのとき、餓者髑髏は手を上げた。それを目にしたが最後、イルカの体は奈落へ落ちる。
落下する風を下から受けながら、唯一の光が見える穴から、餓者髑髏が「がんばっておいで」と呑気に手を振る様を見た。だまし討ちにも等しいそれにイルカは叫んだのだった。
「『ふざけんなーっ』って思わず罵っちゃいましたよ。それで気付いたら、狸の姿で俺も森の中にいたという寸法です。おまけにうみのイルカとしての記憶をすっかり忘れてる有様で、本当に参りましたよ」
はははと笑えば、横になっていたカカシが体を起こした。膝枕はもういいのかなと思った時、カカシはイルカの左右の口端に両親指を突っ込み、開いてきた。
「ひは、ひはいへふ!」
体を後ろに倒して親指を外す。一体何ですかと理不尽な暴力に文句を言えば、カカシはそこに座りなさいと、イルカへ正座を指示してきた。
カカシのいつもとは違った剣幕に、大人しく座ると、カカシは深い溜息を吐いた後言ってきた。
「イルカ。オレが何で怒っているか、分かる?」
真面目に問われ、イルカは思ったことを告げた。
「餓者髑髏に連れ去られたから?」
イルカの答えにカカシは額を押さえて、先ほどより深い溜息を吐いた。
「ちがーうよ。オレでさえ抗えない現象をイルカがどうにかできる訳ないでショ。オレが言っているのは、名付けのこと。名付けの行為は特別な縁を作る。イルカは作らなくてもいい縁を作ったんだーよ」
カカシの言葉に惚けた。
「いえ。え? だって元から名前があるものを呼んだだけですよ。俺が名付けた訳じゃ……」
「イールーカ」
思い出せと目線で告げられ、玄のことを思い返す。そういえば、玄も玄武になるための存在として生まれたが、カカシが名付けることで玄武という存在になったのだ。
そこまで考えて血の気が引く。カカシの言うようにいらない縁を作ってしまった。しかも、名付けという強力な縁を。
「ど、どうしましょう! 俺、またあっちに傾くんですか!?」
また飛ぶなんて冗談じゃないと恐慌をきたすイルカへ、カカシは落ち着いてと宥めてくる。
うっかりして大変なことをしてしまったものだ。
顔色を無くすイルカへ、カカシは気休めにしかならないけどと前置きをした後、口を開いた。
「ホンダさんが大丈夫って言うから、ま、大丈夫なんじゃないの?」
菊へ不信感を露わにしていたカカシの言葉とは思えない。やっぱり菊のことを何だかんだ言って気に入っていたのだと知り、上機嫌になるイルカへカカシは呆れた視線を向けてくる。
「あのねぇ。呪術に関しての知識は間違ってなさそうだから言ってんのよ。もう一度会う機会があったら、そのときは確実に殺しにかかるかーらね」
ざわっと前方の気配が揺れたことに、イルカは泡を食って言い繕う。
「冗談、冗談ですよね〜、カカシさん」
今は嘘でもいいから頷けと眼光鋭くにらんだイルカへ、カカシは渋々頷く。
気配の注目がなくなったことにほっと息を吐き、不用意なことを言わないでくださいよと睨めば、カカシは肩を竦める。
「だいたいイルカはなんでも信用し過ぎなのよ。第一印象で抗えない好意を抱くなんて、魔性か化け物しかいないからね?」
カカシの言葉に驚く。カカシは菊を見た途端に好意を持ったから殺すと言うのか。
過激なことを言ってのけるカカシへ、暗部の闇の深さを見た気がしてイルカは口を閉じる。
しかし、それならばカカシに限って一目惚れはあり得ないのだなぁと、ちょっと切ない気持ちになる。
人生損してるなぁと同情の念を寄せていれば、カカシはでもと続けた。
「ま、イルカは別枠だったかもね〜。始めから好印象だったし、あのときのオレ、よく殺さなかったね」
笑いながら言ってのけたカカシへ、イルカは遅れて全身に鳥肌を立てる。なんて恐ろしいんだ、暗部。うっかり一目惚れされたら殺されるなんて。
里で噂される、暗部と関わり合うなという教えはもしかしたら偉大なのかもしれないとイルカは思うのだった。
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イルカの事件簿4へ続く
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こちらはカカイルパートです。
事件簿を買ってくださった方は分かるように書いたのですが、いかがでしょうか?
雰囲気だけでも分ってくださればと思います。
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カカイルが動物で出張っているのは、ピクシブの英日パート(徐々に公開します)にてあります。