「何考えてやがんだ、お前は!!」
固い感触が頬を貫き、遅れて全身に鈍い痛みが響いた。
だが、それも遠い。
痛みは痛みとして自覚することができず、ただ曖昧に体へ訴えかける。
「もう止めなってアスマ! それ以上はやりすぎよ!!」
黒い影が覆い、振り上げる動作を察知したが、避ける気力さえ沸かなかった。ただ一つ、思うのは。

「イルカ」

呟いて、視界が歪んだ。
目に映るのは、固く閉じられた扉。
あの中でイルカは一人苦痛に耐えている。
付き添いたかった。苦しむイルカの手を握って、励ましたかった。
でも、オレにできたのは、死にそうな顔で助けてと懇願するイルカを病院に運ぶことだけで。
駆けつけたオリに、イルカを託すことだけで。
担架に乗せられて、分娩室へと運び込まれたイルカを見送ることしかできなかった。


「イルカ」
名を呼ぶ。
無事でいて欲しいと、ただそれだけを願う。
「イルカ」
自分の身がこれほど無力だと痛感したことはない。
「イルカ」
ただ祈ることしかできないオレを許してと、ここにはいないイルカへ向けて何度も繰り返した。



******



「盛大に振られちまったなー」
病院の屋上。
紫煙の臭いがするかと思ったら、背後から男の声が聞こえた。
眼下には、病院から退院するイルカとカイの姿が見える。
見送りに出た看護士に、歩きながら止まり、何度も頭を下げるイルカに危なっかしいと冷や冷やした思いを抱きながら、オレは愛しい二人の姿に口を緩めた。
「まぁね。でも、諦めてなーいよ。というか、これからが本番でショ」
隣に並び立ったアスマへ向けて言えば、アスマは少し驚いた気配を漏らす。
自宅に帰るイルカの後ろ背を見つつ、先で待機させている忍犬たちと出会って、イルカはどういう反応を示すだろうかと想像して笑いがこみ上げる。
始めこそオレという関わりのある忍犬たちを拒むだろうが、忍犬たちの献身的な訴えを聞いて最後は同行を許してしまうに違いない。
だって、アンタはお人好しだからーね。
くすくすと一人笑っていれば、アスマは何か奇妙なものでも見るような視線を向けてきた。
イルカの姿が見えなくなったのを機に、何よとアスマの方に目を向ければ、アスマは眉間に皺を寄せている。
「……おめぇ、何企んでいやがる」
不信感丸出しの言葉に思わず吹き出す。
まぁ、それは無理もない。オレという男はそれほどまでにダメダメな輩だったのだから。


「べっつにー。イルカの気持ちはオレにあるってことが分かったからね。後はオレがイルカに気持ちを伝える番。ただそれだけだーよ」
オレというはたけカカシ個人として、ようやくイルカと向き合えるのだ。
姿を欺き、己を欺き、イルカを欺いたオレから解放される。
それは何て希望に満ちたあり方か。
これから起こる未来を思い描き目を細めれば、アスマはけっと小さく毒づく。
「おめぇの思うとおりになる思うなよ」
言葉にも確かに毒が含まれているのだけれど、アスマの表情はどこか安堵している風にも見えた。
面倒くせぇが口癖の癖に、なんとまぁひねくれた性格をしていることだ。だけど、ま。
「……ありがとな、義兄ちゃん」
視線を外して、小さく呟いた。
一瞬アスマの気配が揺らいだが、すぐさまいつものふてぶてしい声音で注意された。
「気がはぇーぞ、バカカシ」
「そう? 案外、早いと思うーよ」
「言ってろ」
二人で小さく笑い合って、よっしとその場で気合いを入れる。
屋上の柵の上に立てば、アスマはどこへ行くと問いかけてくる。
そんなもん、決まってるでしょーが。

「愛しい嫁と、ついでに我が子の元へ」

振り返りもせずに飛び立てば、「迷惑かけんなよ」と背中越しに言われた。分かってると手で答えて、電柱の頭を足場にして急ぎ足を進める。
途中、八百屋に寄って根菜類を見繕おう。それで、今日の夕飯は鍋でも作ろうか。
それで、食後には母乳育児をするだろうイルカのためにごぼう茶をいれよう。
たぶん、オレが部屋を訪ねたら追い返そうとするのだろうけど、そこはそれ。
カイの父親という確かな繋がりを盾にして押し行ってやる。このときばかりはきっと忍犬もオレの味方をしてくれる。というより、そういう手はずになっている。
頭を下げてお願いしたオレへ、イルカが早期出産をする羽目になった所業についてパックンを先頭にお叱りの言葉を受けたが、最後はオレに協力すると言ってくれた。
忍犬に甘いところが多々あるイルカだ。百人力を手に入れたようなものだ。

『本当にありがとうございました。大好きですよ、カカシ先生』

イルカに告げられた言葉が蘇る。
さようならの意味が込められた言葉。
イルカが色々と考えて結論を出した答えだろうけど、でもね。

「勝手にさよならを決められてもーね。オレは認めてやらないよ」
イルカの部屋に続く、通い慣れた道を行く。
下の通りから、急ぎの時は民家の屋根や電柱を経由して、一年近く通った道。
もう目を瞑っても間違いなくたどり着くだろうそこは、すでにもうオレの一部となっている。


「おばちゃん、人参、しいたけ、白菜、あと根菜類を適当に見繕ってくれる? 鍋にしたいの」
人通りが掃けた頃を見計らい、電柱から降りて、八百屋のおばちゃんに声を掛ける。
空から人が降ってきたことを一瞬驚いている風だったが、忍びと付き合いのある里の住人はすぐさま愛想のいい声で答えてくれた。
「はいよ。今日、イルカちゃん帰って来るのかい?」
イルカ先生を見守る会の会員でもある里の住人たちは、始めこそオレに対して不信感丸出しの対応をしていたが、終盤の頃には笑顔を見せてくれるようになるどころか、出産経験者として色々とアドバイスをくれた。
「うん、まーね。これからがオレとしては本番」
どういう情報網か知らないが、オレとイルカ先生についての事柄は色々と筒抜けている。
案の定、おばちゃんは分かっている様子で大きく頷き、ふくよかな体を震わせて笑った。
「そうかい。一度撥ね付けられて諦めるなんて軟弱なこと言ってるようなら、尻叩きしてやるところだったよ」
女性の手にしては大きく、肉厚なそれに叩かれたら、きっと痛いだろうなぁ。
うちの子にも効果覿面なんだよといい笑顔を見せるおばちゃんに、乾いた笑みを漏らし、手早く見繕ってくれた野菜を抱え代金を支払う。
「根性見せなよ、私は応援してるからね!」
にっと屈託なく笑うおばちゃんにありがとうと頭を下げて、次はお肉屋さんへ行く。
そこで脂肪分の少ない鶏むね肉を購入し、そこでも激励を受けた。
マキとしてこの商店街に通う内に、いつの間にかオレの味方になってくれた皆。
間違ったことばかりしてきたけれど、それでも無駄になったことはない。
だから。


「え、パックン。私、買い物しないと今晩のご飯作れないんだけど」
いまだ帰らぬ部屋の主を扉の前で待っていれば、姦しい声に混じって柔らかい声音が耳に響いた。
どきりと焦燥に似たざわめきを覚えたが、それも一瞬。
アパートの廊下の先に見た姿を見て、泣きたくなるほどの嬉しさがこみ上げる。


緩くうなじで結んだ一本髪。化粧気のない顔。鼻のど真ん中を横切る大きな傷。黒い瞳は真っすぐで意志の強さを表すように輝いている。
くのいちとは思えないほど地味な服を着ていて、その体は内勤とはいえ鍛えている。
それでも、女性特有の柔らかい肢体には傷が無数に刻まれていて、普段は笑みを絶やさずお気楽な顔をしている癖に結構な修羅場を潜り抜けた人。
容姿はそんなに美人でも妖精のように可愛いというほどでもない。
融通が利かないし、頑固だし、超がつくほどお人好しで、実は寂しがり屋なのに一人で生きようと歯を食いしばって我慢してしまう。たまには頼ってよねと文句を言いたくなるほど可愛くない性格でもある。
到底オレの好みとはいえない女。
けれど、それがオレが共に在りたいと願った、幸せにしたい唯一の女。

「イルカ」

万感の思いで名を呼べば、オレの姿を認めたイルカは目を大きく見開き立ち止まった。
どうしてここにとか、何故今更カカシ先生がとか、色んなことを考えている百面相を見せられて、オレは笑ってしまう。


「おかえり。食材は買ってきたし、晩御飯はオレが作るーよ。ほら、開けて、開けて」
オレの言葉と忍犬の促しに負けて、イルカはぎこちない仕草で部屋の鍵を開ける。
戸を開けてイルカはおどおどとした仕草でちらりとオレを見上げた。
どうしてここに? と、言外に問いかけてくるイルカへ、オレはここぞとばかりに必殺の手札を切る。


「イルカには結婚断られたけど、カイはオレの子なんだから、当然会う権利はあるよーね」
断定的に告げれば、イルカはほんの少しの嬉しさとそれを上回る悲壮感を漂わせた。まったくもってイルカはちっともオレの気持ちを信じてなーいね。
「……カカシ先生、お忙しいんじゃ」
ごにょごにょと不安そうに呟くイルカを思い切り抱きしめてあげたかったけど、それだと逆効果になりそうで、オレはぐっと我慢して何てことないと笑う。
「忙しくても時間を作るよ。言っておくけど、オレ、相当諦め悪いから覚悟して」
「か、覚悟ですか?」
意味が分からないと眉根を寄せたイルカへ、うんと大きく頷いた。
「本当の父親になりたいからね」
口布を下に下ろし、ほんの少しの嘘を混ぜて言葉に出す。
これくらいは許してとぼんやりとオレを見上げるイルカの唇へ口づけを送ろうとすれば、突然衝撃が下からやってきた。
顎を強かに殴りつけられ、そこまで嫌だったのかと落ち込みそうになったが、目の前にいるイルカはぽかんと口を開けている。
嫌がった素振りはおろか、オレが何をしようとしていたのかさえ理解していないそれに訝しめば、犯人は元気に吠えた。


「あー、あー、あー!!」
小さな足が視界の下にちらつく。
おくるみに包まれていたはずのカイの手足は、今や布をはだけ元気に動かしている。
「え、カイ。え?」
生後数週間の癖にやけに的確に手足を動かす我が子にほんの少し忌々しさを覚える。……いや、忌々しい。
「げ、元気だーね。さすがオレの子」
あやすイルカを意識しながら、形だけでも我が子を誉めれば、不意にイルカの体の動きが止まる。まさか、不快だったか!?
一瞬ひやりとしたが、よくよくイルカを観察すれば、イルカの耳がほんのりと赤らんでいた。
決して嫌がっていないその様子と、ふわりと立ち上った色香に生唾を飲み込む。
これはいける。
もう抱きしめちまえよと、心の声がそそのかせるままにイルカの肩を抱こうと手を伸ばす。
あとほんの少しというところで、下から絶叫が聞こえた。
言わずもがなのカイである。


ぎゃぁぁぁぁぁと渾身の力で泣き叫び始めたカイに、さきほどまで確かにあったいい雰囲気は粉砕された。
「どうしたの、カイ。おむつじゃないし、お腹もまだ減るころじゃないよね?」
いい子いい子と再びあやし始めたイルカの意識には、すでにオレはいない。
本当に邪魔だな、このガキ。
オレの恨みがましい視線に気づいたのか、それとも偶然か、カイは泣きわめきながらもちらりとオレに視線を向け、一瞬口元を引き上げた気がした。
「……っ」
こみ上げてきたのは、紛れもなく嫉妬という感情。
大人げないと分かっていても、男とは一人の女を巡って争う生き物である。それが己の子供が相手だとしても例外ではないのだと、はっきり自覚した。


「二人、いや三人して何をしとる。さっさと部屋に入らぬか。イルカに風邪をひかせる気か」
オレとカイがガンを飛ばし合っていると、気が利く忍犬、パックンが口をはさんできた。
それはいかんとばかりにカイで手一杯のイルカを助けるべく、部屋の戸を開けて、入れるように促す。
「ありがとうございます」と頭を下げ、部屋に入るイルカの後を追ってオレも侵入することに成功した。無論、今日のお目付け役であるパックンも一緒だ。
「イルカー、勝手に作るけどいい? 今日、鍋だからね」
買い物したものをひとまず置き、パックンの足を拭いて声を掛ける。
「あ、はーい」とカイに母乳でもやっているのか、静かになった奥の部屋でイルカから声が返る。
料理を作る了承をスムーズに取れたことに安堵する。
手を洗って、うがいもして、ついでにイルカにも手洗いとうがいをしなよと注意をして、エプロンを装着した。
「……カカシ。おぬし、料理出来たのか?」
台所に立ったオレを、パックンが見上げる。今更感のある問いに、オレははははと笑いながら答えてやった。
「そんなの出来るわけないじゃない。オレ、自炊したことないし、正真正銘、これが初料理」
絶句するパックンをさておき、オレは鍋を出して水を溜める。えー、確か、昆布と煮干しで出汁を取るんだったよな。
八百屋のおばちゃんが前に言っていた美味しい鍋の作り方を思い出しながら、昆布と書かれた袋から一掴み、煮干しと書かれた袋を全部ぶち込んだ。
「イ、イルカ、大変じゃぞ! カカシの奴がっっ」
慌てた様子でイルカの元へ駆けるパックン。
その先でイルカは「え!」と素っ頓狂な声をあげて、何やら慌てふためいている。
そこにあったのは、オレがマキとしてイルカと共に過ごした空気そのもので、何も変わることないそれに笑みが零れた。
「……ここから、だーね」


野菜を洗い適当に切り、色々な具材を鍋にぶち込んで火にかける。
次は米を炊く番と、適当に生米を手で掴んで量り、水を入れてわしゃわしゃとかき混ぜ、濁りが取れるまで水を捨てては入れてを繰り返す。
水加減は確か人差し指の第一関節だったはずと指で量って、炊飯器にセットして、オン。なんだ、結構簡単ではないか。
興に乗って、他にももう一品作るかと冷蔵庫を漁る。
豆腐があったからそれで冷ややっこ、いや、豆腐を温めて出すかと唸っていれば、イルカが台所へ素っ飛んで来た。
そして、オレの作った鍋の中身を見て、信じられないと声を上げる。
「カカシ先生! 作ろうっていう気概は買いますけど無茶苦茶です!! 出汁を先に取ってから、鍋の材料入れるんですよ!! しかも煮干し入れすぎです!!」
「? 出汁は煮て出すんでショ? だったら鍋の具材も一緒に煮た方が手間がなくていいじゃない」
イルカはオレの言葉に一瞬口を開きかけたが、首を傾げるオレを見て口を閉じると、ぷーっと吹き出し笑い始めた。
けたけたと笑い、にじみ出た涙を拭いながらイルカは言う。
「カカシ先生、効率優先し過ぎです! もう、料理まで戦闘スタイルに合わせなくてもいいのにっ」
おかしいとお腹を抱えて笑うイルカが不思議だったけど、オレがしたことで嬉しそうに笑ってくれるイルカが愛おしかった。
だからかもしれない。
どうやって距離を縮めようかと悩んでいた言葉があっさりと出た。


「だったら、イルカ、教えてくれる? オレ、イルカに自分の手料理を食べさせたい」
イルカの笑いが止む。そして、そのままイルカは黙り込んだ。
唐突に現れた沈黙に、まだ距離を詰めるのは早かったかと後悔し始めた時、俯いたイルカがぽつりと言った。
「……カイのお父さんですし、たまには父親の手料理も必要、ですよね」
自問するように出た言葉は了承するもので、若干気に食わないところもあるけれどもまずはそれでいいと、オレは大きく頷いて、イルカの手を取った。
「うん、イルカ、教えて。オレに色々。アンタが何が好きで、何が嫌いなのかも。もっといっぱい」
「……私じゃなくて、カイのこと考えて下さい」
警戒続行中のイルカだったけれど、確かにオレは今、イルカと向き合っている。


オレの気持ちを信じてもらえるようになるのは、何年かかるか、分からない。
でも、手ごたえを感じる。
イルカはオレを拒絶していない。
イルカはオレを見てくれている。

「イルカ」
大好きだよ。

名前に気持ちを詰めて伝えた。

ふわっと俯いた頬が赤く染まるのを見て、心が弾む。
まだ声に出しては言えない。でも、必ず伝えるから。


だから、オレと一緒にいてね。


イルカと、もう一度名を呼ぼうとして、ぎゃぁぁぁぁぁとけたたましい声が起きた。
あわわわとパックンの慌てふためく声もして、イルカは我に返ったようにオレの手から自分の手を抜き、カイの元へと駆け寄る。
見事にオレを置き去りにするイルカに唖然としたけれど、それも致し方あるまいとため息を吐く。
台所を出て、そっとカイが寝ている寝間を覗けば、イルカの服を掴んで泣き叫ぶカイの姿があった。
やっぱりむかつくな。オレの子。
じとーとカイとイルカが戯れている様を見ていれば、ようやく落ち着きを取り戻し泣き止んだカイに代わり、台所の方で何か吹き上がるような音がした。おまけにやけに湯気が出ている。
「あ、あ! カカシ先生、お鍋! お鍋吹きこぼれてませんか!?」
「え? ……あ、鍋か!!」
イルカの声に慌てて台所は駆けよれば、ぐだぐだと大きな泡と共に具材が鍋から飛び出んばかりに吹きこぼれていた。
「えっと、ど、どうし、あっちぃぃぃ!!」
慌てて鍋を移動させようとして取っ手を掴んで火傷した。
ぎゃーっと叫べば、あちらでもカイが泣き叫び、イルカはカイにオレにと右往左往していた。
「な、何をやっておるんじゃ、カカ、あっちぃぃ!!」
「きゃー、パックン!!」
あまりの熱さに鍋をひっくり返すオレ。
そのひっくり返した鍋をかぶるパックン。
それを見て悲鳴をあげるイルカ。
その悲鳴を聞いて、泣き叫ぶカイ。

現場は騒然としていた。

その後、パックンはすぐさま犬塚の元へ預けられ、火傷の治療をすることになり、オレはオレで火傷をイルカに手当てしてもらい、今晩の夕飯の残骸を一緒に掃除した。
辛うじて飯はうまく炊けており、今晩はお茶漬けにしようと二人でぼそぼそと侘しい食事をとることになったが、何だかんだで失敗続いたのが良かったのか、二人で笑って食事をすることができた。


パックンには悪かったけど、幸先良い感じだーね。





と、思っていた頃が懐かしいと思える昨今。



「たーだいま、はい、これお土産ー」
玄関口で告げたオレに、イルカが「おかえりなさい」と笑顔で出迎えてくれた。
その後ろでは夕飯を食べていたカイが顔だけ出して、「おかえりなさい」と無表情な顔で出迎える。


季節はあれから五周巡り、カイは五歳となった。
生まれた時から銀髪で、目を開けてからはオレの灰銀色を引き継いでいることが分かり、顔立ちもどっからどう見てもオレのミニチュア版だと遠慮のない友人たちから馬鹿笑いされるカイは、忍びとしての能力もはたけ方のを引き継いだのか、三歳でアカデミーを卒業、四歳で下忍として働き始め、そろそろ中忍試験を受けさせようかと話が出るほどに優秀だった。
だが、イルカの愛情を一身に受け止め育ったカイは、オレのようにひねくれてはおらず、外見はオレのミニチュアなのに性格は180度違うと、周囲の者を震えあがらせている。


そして、誠に不本意ながら、オレとイルカはまだ結婚できていない。
「ただいま」「おかえり」と言う仲なのに、共に暮らせてもいない。もっぱらオレがイルカの部屋に通う、いわゆる通い婚を続けている。籍は入れさせてもらってないけど。


「あ、みかん。初物ですね」
大ぶりな橙色の果実を一つ取り出し、嬉しそうに顔を綻ばせるイルカに、自然とこちらも笑みが浮かぶ。
今年上忍師を務めている同僚からのお裾分けなのだと説明すれば、イルカは懐かしそうにみかんを見つめた。
きっとオレが上忍師だった頃を思い出しているのだろう。いや、断じてナルトたちではない、オレが上忍師だった頃を思い出しているのだ、そうだ、間違いない。
うがい手洗いをした後、オレの定位置である席に座り、共に夕餉をとる。
カイを話の中心に据えて、色々なことを話す。時々カイは忍術についてオレに聞いてくるからそれに答えたり、これはできるようになったかとかこちらから質問するから話題は尽きそうで尽きることがない。
オレとカイが話している姿をイルカはにこにこと笑って見守っていて、これはどこからどう見ても家族団らんの光景だろう。
なのに。


「ごちそうさま。それじゃ行くね」
共に食器を洗い、一服した後、オレは言いたくもない言葉を吐いて立ち上がる。
それをイルカは気にも止めていない様子で、「もうそんな時間ですか」と見送るために立ち上がる。
っっ、くそ。どうしたら、オレはこの部屋に住めるようになるのだ。カイがこの部屋に住むようになってから、お泊りもできなくなったオレは、一体どうすればいいのか。
確かに距離は縮めて、イルカだってオレに対する拒絶感は成りを潜めたというのに!!
泣く泣く玄関口でまた明日と挨拶を告げるオレ。
イルカも「はい」と言葉少なに頷いて、手を振って見送る。
その見送る視線はどこか温かくて、イルカはまだオレの事を思っていることが分かる。分かるのに!!
あー、どうすれば、どうすればいいのだ!!


心を入れ替えて、女遊びも酒も止めて、一途にイルカの元へ通い続けるオレに、次第に周囲は同情と憐憫の目でオレを見ることが多くなった。
なぜなら、ちっとも進展しないから。
オレも通うだけではいかんと、年に一度だけイルカに向けて結婚しよう的なことは言っている。
でも、イルカは決して頷かない。
その話をすると、ひどく思い詰めた表情をして落ち込んでしまう。
そして、「ごめんなさい」と頭を深く下げてくるのだ。
そう言われれば後はもう引くしかない。
心にざっくりと傷を負いながら、それでもオレは年に一度求婚していた。
イルカとオレ、それとおまけにカイが住むための土地は確保して、家だって号令一つで建てることができるようにしているのにね! もう事実婚の有様なのに、決して頷いてくれないイルカにやきもきしてしまう。


恥を忍んで、気の置けない友人や義兄のアスマにも相談した。
すると皆して顔をどこか青くさせて言うのだ。
「……甘く見えてた」と。
どうやら、心変わりしたオレに感銘を受けて、それとなく「もう結婚してもいいんじゃないか」とイルカに声を掛けてくれていたらしい。
ありがとう、でも成果が出ていないのはどうしてかな!?
興奮するオレに対して皆は言う。
「イルカってああ見えて強情だったのね」
「浮気男の末路ってこわいわぁ」
「カカシさん、一体何したんすか?」
「これも因果応報か……」
などと、最終的には過去のオレが悪すぎたっという結論になって話になりゃしない。
最後の希望、義兄ちゃんに縋れば、義兄ことアスマはしかめっ面してため息を吐いた。
「……イルカの奴、言っても聞かないことがあんだよ。普段は何でもほいほい聞く癖に、これと一度決めたら翻しやしねぇ。だから、まぁなんだ」
「がんばれ」とぽんぽん肩を叩くアスマに、オレは崩れ落ちた。
要はイルカが心変わりしない限り、オレとイルカが結婚することはできないということだ。
その結果に、大喜びしているのは三代目だ。
育児休暇を終えたイルカは、以前通り受付業務と、アカデミーの担任からは下りてサポート役として働いている。
執務室へ行くと、嬉しそうにイルカとお茶をしている三代目がいて、非常に腹正しい。
職権乱用もいいところだ。イルカの仕事の邪魔すんじゃねぇよ、この老いぼれが!!


「……いいもーん。周囲はもう事実婚だって認めてるし、オレだってイルカの家族の一員だもん」
独りイルカの部屋から出て、通りを歩く。
ちょっと寂しいだけだものと道端に落ちている小石を蹴ってやり過ごしていれば、背後から小さな足音が聞こえてきた。
その足音は見知ったもので、驚くと同時に振り返る。
「カカシ上忍」
ちょっと堅苦しいところがあるカイは、父親のオレに向かってそう呼びかける。
「ん? どうした、何か聞きたいことでもあるのか?」
腰ほどしかない身長のカイに合わせるために、その場でしゃがんで目線を合わせれば、カイはほんの少し躊躇したけれど、やがてオレの目を真っすぐに見つめて言った。
「……アンタ、俺の親父だよね。いつまで母さんを一人にさせとくの?」
まさかの言葉に思わず目を見開いてしまう。
カイはほんの少し頬を赤らめて、照れた様子で話を続ける。
「いい加減、カカシ上忍なんて言うのも飽きたんだよ。母さんは、親父のこと、俺の父親とは絶対言わないけどさ。それ無理があるだろ。……こんなに似てるのにさ」
不満、苦笑、恥ずかしさ。
ころころと表情を変えて喋るカイは、姿形能力はオレに似ていても、全く別の存在で、それどころか話せば話すほど誰かを彷彿とさせる。
五年も一緒にいて、それすら気付いていなかったオレは一体何を見ていたのだろうと不甲斐ない気持ちが沸き上がってくる。
少し目線を反らして、オレが帰った後、イルカが毎回落ち込む姿が見ていて気分良くないとか、アカデミー時代に父兄参観があったのに親父がいない態だったからイルカが代わりに出て、何となく不満だったとか、たまには一緒に風呂が入ってみたいんだとか、カイは今まで言わなかったことを吐き出すようにしゃべり続けた。
その言い分にその都度相槌を打って、オレは奇妙な感動を覚えていた。
カイは、イルカだけでなく、オレのことも求めていくれたのだ。


「だからさ。いい加減、一緒になってくれよ。過去に色々あったってことは、何となくわかるからさ。言いにくいなら、俺が仲立ちしてやるよ」
任せろと二っと歯を見せて屈託なく笑ったカイを思わず抱きしめた。
「な、なんだよ! いきなり、何だよ、気持ち悪いなっっ」
猫の子のように途端に暴れ出したカイを無理やり腕の中に収めて、オレは震えそうな声をどうにか押しとどめなら、心から言う。
「うん、ありがとう、カイ。オレ、お前たちの中に入りたい。正真正銘の家族になりたいんだ。力、貸してくれる?」
震えるオレに気付いたのか、カイは暴れるのを止め、そっとオレの背中に小さな手のひらを回してきた。
「だから、任せろって言っただろ」
ぽんぽんと背を叩くリズムは、間違いなくイルカのそれと同じだ。
ぐわっと沸き上がる愛おしい気持ちに、オレはカイを抱き上げて、イルカがいる部屋へと踵を返す。
抱き上げることに文句を言われるかと思ったが、カイは振り落とされないように、小さな手でオレのベストを掴んでいた。
そのことにも感動して、オレは小さく笑う。


イルカが住むアパートが見えるところまで来て、その下に人影があることに気付いた。
カイが待たせていたのか、それともイルカが心配して出てきたのか。
どっちが正解か分からないけれど、そんな些細なことは気にしない。


「カイ、カカシさん」
オレに抱き上げられているカイに驚くイルカ。
その目は驚くと同時に、どこか感極まっているように見えた。


ああ、やっぱり、だからか。だからなんだ。
今までごめんね、イルカ。
オレ、大事なことを忘れていた。


イルカの元へゆっくりと歩く。
オレに抱き上げられているカイは、目線が高いことが珍しいのか、嬉しそうに周辺を見ていた。


一歩一歩イルカへと近付きながら、オレは確信を持つ。
今度こそ、言うよ。
イルカがどうしても譲れなかった願いを叶えるために。
それは同時に、オレの願いとも重なるものだから。


「イルカとカイとオレで、家族になってくれませんか?」

口布を取って、イルカに告げる。
イルカはくしゃりと顔を歪ませて小さく頷き、こう言った。

「おかえりなさい、カカシさん、カイ」

返す言葉は、勿論。
二人で一緒に顔を合わせて、笑顔で言う。







『ただいま』
















おわり


戻る/






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長いこと、本当にお待たせしました。
これにて公然の秘密は終わりですが、おまけ程度なこともいずれ書くかもしれません。
お読みいただき、ありがとうざいました!!








公然の秘密 21(完)