「先生、これは一体何ですか」
久しぶりの休日に、先延ばしにしていた家の掃除をしていれば、同棲してくれなきゃ死ぬと言ってきた現在同居をしている恋人が手伝ってくれたのも束の間、はたきを掛けていたイルカの目の前に可愛らしい便せんを広げて見せてきた。
「……オレの可愛い生徒からの手紙ですが?」
それが何かと眉根を寄せるイルカに、外見だけは超絶美形な恋人ことはたけカカシは癇癪を起したかのように甲高い声をあげた。
「憎たらしいっ!! それが浮気の証拠を突き付けられた男の態度ですか!? もう勘弁なりません、今すぐ仕事止めなさいっ。あんな女狐とむくつけき獣どもが跋扈する伏魔殿に愛しいあなたを行かせること自体、オレは最初から反対だったんですっ。オレの稼ぎで十分あなたを養えることができますし、いえ、それよりあなたがオレの秘書になってくれれば毎日一緒にいら」
耳にたこが出来そうになるほど聞き飽きた言葉を言われる前に、無防備な額へでこぴんをお見舞いしてやった。
声にならない悲鳴をあげ、額を押さえしゃがみ込んだカカシが持っている便せんを取り上げて、イルカはその文面に目を通す。
一昨年卒業した生徒がイルカ宛に書いたものだ。その子はとにかく算数が苦手な子で、放課後を利用して分かるまで根気よく教えた。その甲斐もあってか、卒業する頃には算数が大好きになり、そのことのお礼と、将来はイルカ先生みたいな人と結婚したいということが書かれてある。
これがどうして浮気に繋がるのか、イルカには不思議で仕方ない。結婚に憧れている女の子が優しくしてくれた先生に一時的に焦がれ、他愛ない夢を綴った可愛らしいものではないか。
優しくされたなら誰でも恋してしまう、年頃の女の子の言葉に、こうも怒り狂うことができるカカシの頭の中を一度覗いてみたいものだとイルカは思う。それになにより。
「カカシさん。あんた、いい加減に子供を敵視する癖直してください。相手は子供ですよ! 下手すれば親子ほどの歳の差があるんですよ? それに、どうして小学校が伏魔殿になるんですか!? あんたが働く職場の方が誘惑に塗れて危ないですよ!」
通勤中、電車に吊るされていた週刊誌の広告の煽り文句を思い出す。
『法界の貴公子、話題のアイドルと密会、深夜デート!』『現代の光源氏、はたけカカシ。夜の裁判にかけられた女たち』『裁判中に密会デート? はたけカカシの法廷テク』などなど。
カカシはとある事務所で売れっ子の弁護士をしている。国を跨いで仕事をするほど有能であり、その筋では結構な有名人だ。加えて誰もが振り返る美貌を湛えているために、メディアもこぞってカカシを取り上げ、仕事上で依頼人が若手美人女優だったり、モデルだったり、華やかな女性の場合もあり、記事には事欠かなかった。
カカシに限って浮気は有り得ないというか、こぞって書く記事のほとんどがイルカと会っていた時のことなので根も葉もない嘘記事だと分かってはいるものの、妙齢の女性とさも真実味があるように書き立てられる記事は見ていて気分がいいものではなかった。
イルカ自身、時々どうしてこんなに有望で美形な男が自分の恋人なのだろうかと純粋に首を傾げることもあるために、不安に駆られる立場はイルカの方が普通だと思う。なのに、イルカが不安に駆られるより先に、カカシはイルカが浮気しているのではないかと一人で大騒ぎをして、イルカに詰め寄ってくる。
保護者、同僚は言うに及ばず、子供も範囲に入っているカカシの浮気相手の想定に、イルカは怒るより先に呆れ果ててしまっていた。
そもそもカカシとの出会いが普通ではなかった。
あれはそう。イルカが今も住むアパートが性質の悪い地上げ屋に狙われたことから始まる。
アパートの大家さんは、一人暮らしのお婆さんで、夫と子に先立たれ、夫が残したこのアパートを切り盛りしながら慎ましい生活を送っていた。
イルカを見ては息子を思い出すのだと、何かにつけては気にかけてくれる大家さんに、イルカも早くに両親を失くしたこともあってか、店子と大家の関係を越えて親しく付き合っていた。
最初のうちはアパートの住民と結託し、地上げ屋に対抗していたイルカたちだったが、度重なる嫌がらせに遭い、一人一人アパートから出ていき、とうとうイルカ一人になった時、ここぞとばかりに地上げ屋は自分たちの顧問弁護士を引き連れて、交渉にやってきた。
それがカカシとの初対面だった。
柄の悪い男たちに混じったその人は、まさに掃き溜めに鶴のような存在だった。
日本では見ることが稀な銀髪に、薄灰青の瞳。通った鼻筋に、薄い唇。左目には縦に深い傷が入っていたが、不思議と恐ろしさを感じることはなく、逆に男の美貌に不思議な威厳を醸し出していた。
まるで映画のスクリーンの中から出てきたような美形男に、一瞬度肝を抜かれたものの、イルカは大家さんを守るために立ち向かった。
どんな好条件だろうと、どんな嫌がらせに遭おうとも、大家さんが大事にしている、夫と子供の思い出がいっぱい詰まったアパートはオレが守ると気炎をあげたイルカと、高級そうなスーツで身を固めたカカシが対峙した瞬間、世にも奇妙なことが起きた。
柄の悪い男たちを引き連れ、確かな自信と圧倒的なまでの優位性を前面に押し出していたカカシが、突然顔を赤らめ、うろたえ始めたのだ。
訝しんだのはイルカたちだけではなく地上げ屋も同じだったようで、挙動不審な動きを見せるカカシへしきりに声を掛けていた。
これも敵の作戦かと構えていたイルカの前で、カカシは声にならない雄叫びをあげて大振りな動作で体を仰いでは倒し、オールバックに綺麗にまとめた髪をぐしゃぐしゃに掻きむしった後、何か決心したような瞳をイルカへ向け、片膝をつくなり心臓に右手を添え、こう言った。
「あなたにフォーリンラブ」
直後の混迷ぶりは凄まじいものだった。
地上げ屋はパニックに陥り、大家さんはこの好機を逃すなとカカシを煽りまくった。
事態が飲み込めず呆気に取られるイルカを置き去りにして、カカシと大家さんは意気投合し、あれよあれよという間にカカシは大家側の味方になり、アパートの地上げを阻止するばかりか、あっちの筋と関わりを持つ地上げ屋を壊滅に追いやった。
喜ぶ大家さんを横目で見つつ、更に大きな厄介事を引き寄せてしまったのではないかと顔を青くするイルカへ、カカシは自信たっぷりにこう言った。
「だいじょーぶですよ、蛇の道は蛇ですから。イルカさんは何も心配しなくていいんですよ」
その言葉通り、イルカが危惧していた問題は全く起きず、それから数週間後、あっちの筋の勢力分布図に異変があったと新聞の片隅に載っていた。
それ以来、大家のアパートに引っ越すばかりか、イルカの部屋に入り浸るようになったカカシへ、それとなく真相を聞いてみたもののカカシはへらへらと笑うばかりで答えてはくれなかった。
君子危うきに近付かず。そんな言葉が脳裏を走り、イルカはそれ以後、底知れぬ雰囲気を持つカカシへ問うことを諦めた。
これからは心を入れ替えて働きますと、一体どんな仕事をしていたんだと突っ込みたくなるようなことを言ったカカシへ、大家さんは知り合いの法律事務所を紹介し、カカシはそこで働くようになった。
腕はいいが雇っている弁護士が曲者ぞろいという、木の葉法律事務所の一員となり、うらびれた建物の一室から新しいビルを建てるほどの働きを見せ、名実ともに一流法律事務所として台頭し、自身も海外の案件まで取り扱うほどの有能さを見せつけたカカシ。
想像を超えた超人ぶりに、存在自体が違うと戦慄さえ走ったイルカだったが、そのカカシが求めたものは、しがない一介の教師の側にいたいという望みだった。
欲が無さ過ぎだろう、カカシには他に似合いの者がいるはずだと、長い間イルカはカカシの好意を断っていたものの、どれだけ言っても靡かないイルカに絶望し、アンタを殺してオレも死ぬと刃物を持ち出してきた時点でイルカは折れた。
一緒に暮らす間、イルカとて、有能なカカシの意外過ぎる可愛らしい面を見るにつけ、気になる存在として見るようになっていたのだ。要は満更でもなかったという訳だ。
男同士という問題もあるし、出来過ぎ以上の出来であるカカシが平凡なイルカに飽きるかもしれないという不安はあったものの、それでもそのときまでは一緒にいようと決意したイルカを襲ったのは、カカシの偏執なまでの嫉妬心だった。
今までに起きたカカシの勘ぐりすぎる故の騒動に思わずため息がこぼれ出る。
六法全書を持ち出し、脅迫ともいえないことを言って、カカシ自称、イルカの浮気相手に食ってかかる様は、非常に頭の痛い問題だった。
近所の五歳児がイルカに向かって大好きと言ったことに腹を立て、刑法第一七七条を持ちだし、イルカを脅迫するつもりかと真剣に怒ったカカシを目撃した時は、気が遠くなりそうだった。イルカが五歳児を襲うと思っているのかと問い質したい気持ちはあったが、それよりもカカシの残念過ぎる思考回路に涙が禁じえなかった。
数々の悋気の果ての暴走を思い出し、遠い目をしたイルカの前で、怒っていたカカシはいつの間にか静かになっている。そればかりか、もじもじと指を擦り合わせてはイルカへ視線を投げかけては顔を赤く染めていた。
「どうしたんですか?」
怒ったと思ったら照れるカカシの不思議行動に首を傾げれば、カカシは乙女よろしく恥じらいの仕草を見せた。
「だ、だって、それって嫉妬でしょ? 根も葉もない噂だけど、オレに群がる馬鹿に嫉妬しているんでショ! そうでショ!?」
肯定してくれと言わんばかりに身を乗り出すカカシへ、そりゃお前の方だろうがと突っ込みたくもなったが、期待に目を輝かせるカカシをがっかりさせることは忍びなく、イルカは頷いた。
「えぇ、嫉妬しています。カカシさんに堂々と群がり隙あらば触ろうとしている女性たちに、大いに嫉妬しています」
真面目腐った顔で言い切れば、カカシは目を潤ませ感に堪えないという表情を曝け出した後、手を広げてイルカに突っ込んできた。
「もう! イルカ先生のバカバカバカっ。オレにはあなたしかいないっていつも言ってるでしょー!? 本当にあなたって人は可愛いんだからっ」
可愛い可愛いと頬擦りしてくる様は、大型犬が尻尾を振って抱きついてくるみたいで非常に可愛いらしい。
イルカの大好きな、ふにゃぁとだらしのない笑みを浮かべるカカシの背に腕を回し受け止めていれば、カカシはイルカの顔にあちこち口づけを落としてきた。犬が顔を舐めてきたようなもので、よーしよしよしと背中を擦っていれば、カカシはでれでれと顔を弛ませ、身を摺り寄せてくる。
「イルカ先生、オレのことが心配なら秘」
「お断りです」
イルカの胸にのの字を書いていたカカシの指を握り、イルカはきっぱりと言い放つ。
最後まで言い終わらぬ内に拒否されたことがよっぽどショックだったのか、カカシの目には早くも涙が盛り上がった。悲壮感を漂わせ、どうしてと小さく呟くカカシは客観的に見れば庇護欲が大いにそそられ、何でも言うことを聞いてしまいたくなる存在だろう。しかし。
「その手は食いませんよ、カカシさん。何度も言いますが、教師はオレにとって天職です。カカシさんの秘書にはなれません」
拒否の言葉を殊更強調すれば、胸の中のカカシの口からちぃという悔しさの混じる舌打ちが聞こえた。
付き合った当初から散々拒否しているのに、ちっとも諦めた気配をみせないカカシの根性は称賛してもいいほどだ。しかし、だからといってイルカは自分の意志を曲げるつもりはなかった。
あえて難しい顔を作っていれば、カカシは潤ませた瞳からあっけなく水分を弾き飛ばすと、心持ち頬を膨らませた。
「ちぇー。イルカ先生ってば本当に強情なんだから。オレの言葉に靡かないのはあなたくらいですよ」
裁判なんかよりイルカ先生から勝訴をもぎ取りたいと不貞腐れ始めたカカシの体を離し、イルカははたきを掛け始める。
「千の言霊を操る男にそこまで言われるとは、光栄ですね〜」
茶化して言えば、カカシはもうと口を尖らせ、古紙に紐をくくり縛る作業を再開させる。
件の手紙はカカシに何か言われる前に懐の中に隠しているため心配はない。
カカシの目がつかないところに隠さないとなと、元生徒たちの手紙の保管場所の候補地を頭の中で浮かべていれば、カカシは小さな声で呟いた。
「……オレは仕事中だってイルカ先生と一緒にいたいのに」
気落ちしている声音に視線を向ければ、イルカに背を向けている肩は元気なく下がり、奔放な髪の毛もどことなく下へ垂れ下がっているように見えた。いつも思うが、カカシは本当に欲のない人だと思う。
イルカは小さく笑み、そうですねと声を出す。
「オレが定年で教師を辞めたら、そのとき、カカシさんの秘書になりたいですね」
使い物になるか分からないですけどと付けたし笑みを零せば、弾けるようにカカシの顔がこちらへ振り向いた。
「それ、本当!? 聞いたよ、オレ、確かにこの耳で聞いたかーらね!! イルカ先生、約束だよ。絶対に反故しちゃ駄目だからねっ」
目を輝かせ手を握りしめてきたカカシの勢いに気押される。なんともまぁ気の長い話をよく信じる気になったものだ。
絶対に絶対だよ、約束だからねと頬を染め言い募るカカシに、やっぱりこの人は可愛いとイルカは満面笑みで頷いた。
そんなある日の、掃除風景。
おわり
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2014.5.4のスパコミに配ったペーパーです。
色々な反省を踏まえ、プチオンリーのテーマ『リーマンパラレル』を意識してみましたっ。
……意識したんです、これでも…(T^T)
掃除