「あんたと、会わなければ良かった」



うみのイルカが不機嫌にドアを開けた途端、声が耳に飛び込んできた。
目の前にいるのは、最近、親しくなった七班の上忍師である、はたけカカシだ。
一週間前、一杯やりませんかと飲みに誘われ、いいですねと行きつけの居酒屋に行き、子供たちの話や他愛ない世間話で大いに盛り上がったことは、記憶に新しい。
寝入り鼻を邪魔され、悪かった機嫌が違うベクトルに方向転換する。
眠気も吹っ飛び、何かとんでもない失態をしてしまったのかと顔を青くすれば、カカシは顔を覆っていた手の平を除け、顔を上げた。
無防備に現れた素顔に、一瞬息を飲む。



飲むときは、いつも口布を下げていたが、写輪眼があるという左目を覆っている額当ては常に身に着けていた。
高名な故に素顔を隠している、覆面忍者ともいわれるカカシが、深夜とはいえ、顔を隠さずイルカのアパートへ訪れたことに、驚きを通り越して動揺した。
よくよく見れば、カカシの銀色の髪は濡れそぼり、服に至ってはTシャツとスウェットパンツいう部屋着に、素足という有様だった。
「カカシ先生、足! どうしたんですか!?」
深夜にも関わらず大声が飛び出てしまう。緊急で何か大変なことが起きたのかと、鼓動が跳ね上がった。
まずは中に入って、足を洗ってもらおうと、声を掛ける寸前、カカシは肩で大きく息を吸い、絶望に満ちた眼差しをイルカに向けた。



「あんたと、会わなければ良かった」
二度目の言葉に、イルカは我に返る。
そういえば、カカシの不興を買っているらしかった。しかし、思い返しても、全く身に覚えがない。それに、カカシが慌ててイルカのアパートに訪れた理由が、絶交宣言のためということも理解ができない。
放心するイルカを尻目に、カカシはおぼつかない足取りで一歩踏み出すと、イルカの肩口のシャツを握りしめ、震える声で吐き出した。
「あんたと会ってから、オレは気付いたんです。自分がどれだけ気を張っていたか、どれだけ我慢していたか、どれだけの思いを殺していたか」
赤と灰青の瞳が、真っ直ぐイルカを射る。その瞳に掛かった膜が、頼りなく揺らめいた。
握りしめた指先に力を込め、カカシは叫ぶ。
「知りたくなかった。知らなくて良かった。オレはオレの生き方を誇りに思っている。親父や先生の意志を継ぎ、木の葉の里の忍びとして、写輪眼のカカシとして、この里に身を捧げられればそれで満足だった。それ以上、望むものは何もなかった。なのに…!!」
イルカの体を押し、カカシはアパートへ踏み込んだ。カカシの後ろでドアが閉まったと同時に、背中を壁に叩きつけられた。
思わぬ衝撃に、目を閉じる。頭と背に鈍痛が響いたが、大きな音が鳴ったにしては痛くない。
胸に何かが押し付けられ、鼻先に何かが触れた。
おそるおそる目を開ければ、目の前には銀色の奔放な髪がある。シャツが濡れ、素肌に張り付いた感触を覚えた。
イルカの目の前で、激情を抑えるかのように、カカシの背が大きく上下する。吐息は熱くて、深かった。



カカシは言う。
目を閉じると、あんたが思い浮かぶ。あんたと食べた物や、話したこと、あの場の空気を思い出す。思い出したら、あんたの声が蘇る。ビールを飲む時、喉をさらけ出して呷る仕草とか、酢物にミョウガが入っているとこっそり取り除いているとか、笑うと片方だけえくぼができるんだとか、そんな他愛ないことが一気に駆け巡る。あんなことがあった、ああいうこともあったって、思い返すように繰り返して、繰り返して、気付けば、
「無性に会いたくなる」
肩口の手が白く引きつる。それに応じて、イルカのシャツは引っ張られ、深い線を残した。
「あんたを思い出して、あんたの気配が恋しくて、馬鹿みたいに求めそうになる。眠れなくても良かったのに、安らぎなんかなくてもいいのに、あんたと会うと安心するオレがいる。楽に呼吸ができる。全てのしがらみを捨てても罪悪感を覚えないオレがいる」
カカシが息を吸う。顔を上げ、絶望に染まった瞳を濡らし、それでも白い肌を仄かに染め、熱い吐息を零した。



「――あんたと、会わなければ良かった」
カカシの手が伸び、イルカの頬に触れる。
暗闇の中、イルカは、色違いの瞳から溢れる雫を綺麗だと思っていた。徐々に近づく愁いを帯びた表情に見惚れ、ゆっくりと落ちていく瞼に、瞳が隠れることを惜しんだ直後、唇に柔らかい感触を覚えた。
一度、二度、熱を移すように押し当てられ、引いていったそれを何と思う間もなく、イルカが熱望していた瞳を押し開き、カカシはイルカを見つめた。



「オレは、あんたがこわい」
涙を一筋流し、カカシは眉根を寄せて微笑んだ。



我に返ったのは、ドアが閉まる音を耳に捕えたからだ。
気づけば、イルカは狭い廊下へと座り込んでおり、放心していた。
やけに重たく感じる腕を上げて、そこだけ驚くほど熱を持っている場所へと指先を押し当てる。
「……キス、された…?」
指で触れる感触と、さきほど触れた感触の明確な差異を確かめ、次の瞬間、イルカは頭を抱えて廊下へと倒れこんだ。
顔が熱くて、心臓が張り裂けんばかりに波打っている。全身、汗が噴き出て、どうしようもない恥ずかしさに襲われた。
本当は、大声を放って、ごろごろと転がり回りたい。けれど、今は深夜なのだと、イルカは迸りそうになる声を喉の奥で何とか押しとどめた。
うーっと低く唸りながら、丸くなって廊下と向き合う。
一番何が恥ずかしいかといえば、カカシにキスされて気持ちいいと思った自身だ。もう少し触れ合いたかったと、残念に思う己の気持ちだ。
カカシはイルカの中では、付き合いやすい上官という印象だった。話がうまく、性格も穏やかで、格下にも気を遣う、細やかな心の持ち主の上忍。
こんな人と友達になれたらいいのにと思うことはあっても、そういう対象で見たことは一度もなかったはずなのに。
「……あんなの、ずるいだろ」
無防備にもさらけ出した表情は今まで見たこともないもので、暗く陰る瞳とは裏腹に、頬を染め、イルカへの思いを歌っていた。
くそと悪態をつく。
色違いの美しくも陰った瞳が、あのカカシの微笑みが忘れられない。
ぐつぐつと煮えたぎり、雄叫びをあげるのは、あの刹那に走った欲望で、その隣には泣き出しそうになる何かがいた。



「あー、くそ!」
起き上がって、舌打ちを打つ。
一時の感情だと、見慣れないものを見た興奮からだと、イルカを戒める声が頭に響く。 けれど、それでも。



脱ぎ散らかした靴を爪先に引っかけ、ドアを開けるなり飛び出した。
カカシの家でも飲んだことがあるから、家は知っている。大きく手を振り、駆ける速度を上げ、イルカは歯を食いしばった。
ずるいだろうと、イルカは思う。
あんな顔をする癖に、肝心な言葉さえ言わず、唇を奪って逃げるなんて、なんて卑怯者だとイルカは奥歯を噛みしめる。
あんたのせいで、色々諦めるものができた。ずっと夢見て、いつかはと願っていたこと。それを全て諦めなくてはならなくなった。オレがこわいって? 上等だ、馬鹿野郎! それはオレもだ!!



駆けて駆けて、暗闇に没す道の先に、ひょろ長い影が見えた。
月のない夜でも、星の光をわずかに受けて反射するのは、銀色の髪。
気配を隠しもせずに近づいているというのに、里の稼ぎ頭は気付かず、肩を落として歩いている。
「責任、取ってもらうからなっ」
荒れる息の中、宣言した。
あと十五メートル。
カカシに触れられるほど近づいたら、有無を言わさず抱き締める。そして、今度はこっちから唇を奪ってやる。
きっと訳が分からないといった顔をするだろうから、イルカは言ってやるのだ。
カカシが口に出せなかった、言葉を。



『オレは、あんたが愛おしい』




おわり



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2013年2月17日 オンリーイベント「ラブハンター」のペーパーラリー作品です。



こわい人