「……これは、何ですか」
自分の手にある、一枚の古ぼけた栞を掲げ、体を震わせた。
イルカが自分のアパートを解約して、思い出の家にオレと一緒に暮らし始めて一ヶ月経った時のことだった。
仕事好きなイルカは、家にまで仕事を持って帰って、部屋に書類を溢れ返させることが常だった。
オレに構ってくれなくなるので、家で仕事をしてもらいたくないのだが、イルカは、なるべくオレの側にいたいから、あえて職場で残業をせずに、仕事を家に持ち帰っていると恥ずかしそうに語った。
そんな可愛いことを言われて、文句を言える訳がない。これで文句が言える奴がいたら、オレがその首をへし折ってくれる。
それに、オレにもご褒美がある。大人しく仕事を終えるイルカを待っていると、イルカはオレを寂しがらせたと言って、構い倒してくれるのだ。
普段だったら、一緒にお風呂はNGだけれども、こういう時のイルカはいいですよと頷いて、一緒にお風呂に入ってくれる。おまけに、大抵のオレのお願い事も聞いてくれるから、最近では、仕事を家に持ち帰るのも悪くないと考える有様だ。
今日は何をしてもらおうと、これからのイチャイチャに思いを馳せながら、書き終えた書類の束を整理し、資料として使い終わった本を片付けていた時だった。
閉じた本を持ちあげると、ひらりと何かが落ちた。
手作りの趣を感じさせる栞に、イルカが作ったのかなとひっくり返してオレは固まった。
そこには、干からびた四つ葉のクローバーが、栞にしっかりと貼りつけられていたのだ。
もしやまさかと思いつつも、オレは一応イルカが仕事を終えるのを待ち、「終わった」と伸びをして終了を告げたイルカに、切り出したのだった。
イルカは目の前に差し出した栞を見るなり、目を大きく見開き、懐かしいとその栞を手に取ろうとした。
寸前、そうはさせまいとオレは、栞を上に引き上げる。
「カカシさん?」
空ぶったイルカはどうしたんだと訝しげにこちらを見てくるが、オレは心中穏やかではいられない。
オレの想像が正しければ、これはシロがイルカへ贈った婚約の証というやつだ。
旦那の背広から出てきた、飲み屋の姉ちゃんのキスマーク入りの名刺とは訳が違う。これはどう考えても、浮気よりも遥かに重い罪業の、昔の女、いや、昔の婚約者の贈り物なのだ。
現イルカの伴侶としてこれは見逃せないだろう。捨てろとは言わないが、せめて妻の目から隠すのが旦那の責務だと考えるのだが、それはどうなのか。
イルカのとんだ無神経ぶりに、ぷるぷると震えていれば、イルカは首を傾げ、ひどく不思議そうに言った。
「どうしたんですか、カカシさん。この栞がどうかしましたか?」
オレにそれを言わせるの!?
早くも目からは涙が溢れ出そうになる。オレが泣きそうな気配を察したのか、イルカは慌てふためいて、オレの頭を胸に抱きこんだ。
「どうしたんです!? 栞で悲しいことでもあったんですか?」
優しく頭を撫でる手が胸に痛い。
オレは栞を脇に置くと、思う存分イチャイチャした後に贈ろうと思った物をズボンのポケットから取り出した。
長方形の形をした箱をイルカに突き出し、無理矢理持たせる。
「え、何ですか、これ。開けていいんですか?」
何度も頷けば、オレから体を離し、イルカは箱を開けた。
中には、銀細工のネックレスが二つ入っていた。一つは何もないネックレスと、そしてもう一つは四つ葉のクローバーがついているネックレスだ。
意味が分からないと難しい顔をするイルカへ、オレは四つ葉のクローバーがついているネックレスを取るなり、イルカの首へとつけた。そして、イルカに銀のネックレスを持たせて、つけろと頭を下げた。
イルカは不思議な顔をして、オレにネックレスをつける。
上書きのつもりで、あえてシロと同じものをイルカに贈った。
少しは気が晴れると思ったけど、目の前のイルカは不思議そうな顔をするばかりで、あのとき見た、満面の笑みでシロに手作りの首輪をつけていたイルカと比較してしまい、オレは堪え切れず泣いてしまった。
「イルカのばかぁ」
しくしく泣けば、イルカはぎょっとしてオレの名を呼んだ。
「カカシさん! どうしたんです!?」
泣かないで下さいと、オレの肩を撫でるイルカの優しさは感じるものの、オレはひんひん泣いた。
悔しい。あのとき、オレがシロよりも先にイルカを好きになっていれば、こんな思いをしなくてすんだのに。オレは一生、
「シロに勝てないんだぁ」
畳みに突っ伏して泣いた。
昔の自分に会えるならぶん殴ってでも、イルカに優しくしろと言いたい。そうすれば、イルカはシロではなくオレに懐き、そして懐いたイルカはきっと可愛くて、オレは夢中になるに違いない。
ミナト先生が確か時空を超える術を作っていたはずだったが、それを書き記した巻物はどこかにあっただろうかと、泣きながらも冷静に頭を回転していれば、イルカは「あ」と大きく声をあげた。そして、オレの肩を揺さぶり、興奮した面持ちで尋ねてきた。
「もしかして、カカシちゃん?」
その一言に、びくりと体が跳ねた。まさか、思い出すとは思わなかった。
「……思い、出したの?」
驚いた拍子に涙が止まって、顔を上げれば、イルカは真っ赤な顔で満面の笑みを浮かべた。
「カカシちゃんだったんだっ! カカシさん、カカシちゃんだったんだ」
オレの手を両手で握り、ぶんぶんと振るイルカに、オレは呆気に取られるしかない。
イルカは興奮した面持ちを保ったまま、ははと笑った。そして、ぽろぽろと涙を落とした。
仰天したのはオレの方で。
全身が凍ったように固まって、泣くイルカを見つめてしまった。イルカは自分が泣いていることをどうとも思っていないようで、涙をそのままに、会いたかったと告げてきた。
「俺、シロが死んだときのこと覚えてます。悲しくて、悲しくて、潰れそうだった。シロと約束したけど、本当は笑えなくて、笑いたくなくて、でも笑わなくちゃいけないって無理に笑った。でも、そのとき、カカシちゃん言ってくれましたよね。『今だけイルカを隠してあげるから、泣いてもいいよ』って」
潰れそうだった気持ちが軽くなった、カカシさんの一言に俺は救われたと、イルカは泣いた。
イルカは語った。
隣の家には誰かがいて、自分は確かにその人たちに会っているのに、思い出せなかった。それがもどかしくて、悔しくて、何度も両親に尋ねた。両親も不思議には思っていたようだったけど、誰も思い出せなかった。
ただ、『カカシちゃん』という名前は覚えていたと、イルカは言った。
オレとは結び付けることができなかったが、イルカはずっとオレの名前を覚えてくれていた。
「カカシちゃん」と抱きつくイルカに、オレはどう反応していいか分からなかった。シロの記憶は消さないようにしたけど、勝手に記憶を弄ったことを怒られても仕方ないと思えたから。
ごめんと呟いたオレに、イルカは首を振った。
「俺、分かってますよ。カカシちゃんが俺たち家族のことを考えてくれたんだって。だって、カカシちゃんのお父さんが亡くなったことを知った時、なんでか皆で泣いたんです。悲しくて悲しくて。有名な方だったけど全く知らない人なのに、泣けて仕方なかった。葬儀にも家族で行ったんです。見知らぬ俺たちが参加するのはおかしいから、遠くからだったけど。里の誉れだったサクモ上忍の葬儀なのに誰もいなくて、そればかりか荒れていて、何となく、何となくだけど俺も両親も……」
すいませんと小さく謝るイルカに、今度はオレが首を振る番だった。
イルカたちが親父の葬儀に来ていたなんて知らなかった。きっと親父は喜んだだろう。
記憶を弄ってもなお、会いに来てくれたお隣さんたちを。
「カカシさん。この栞のクローバー、シロがくれたものじゃないんです」
思わぬ爆弾発言に、オレは素っ頓狂な声をあげてしまう。イルカは涙を拭きながら、笑った。
「昔、ナルトがくれたんです。『先生、不幸せそうだからやるよ』って、俺にくれたものなんです」
「……そーなの」
栞にしたはいいけど、どこに行ったか分からなくなっていた物でと、嬉しそうに栞を手にしたイルカの顔がまともに見られなかった。
嫉妬に狂うと判断力が鈍るのだなと、己の未熟さに凹んでいれば、イルカは「ありがとうございます」とネックレスのクローバーを掲げた。
「シロの思い出を形にしてくれて、ありがとうございます」
良い笑顔で、何とも残酷なことをイルカは言った。
それはシロの思い出をオレの思い出で塗りつぶすために贈った物ですとは、とても言えず、曖昧に相槌を打った。
イルカは首にかかったクローバーを見て、小さく笑う。
シロの思い出を強固なものにしてしまった。恋敵に塩を送ってしまい、オレは凹んだ。
心持ち前傾になる体を持て余していれば、イルカは小さく息を吐いた。
「俺、シロの記憶がほとんど残ってないんです。大好きだった感情は、覚えています。きりっとした耳の形も覚えてます。でも、声とか、はっきりした姿が思い出せなくて……。名前がシロだから、たぶん白い犬だったんだろうなとか、きっと優しかったんだろうなとか、想像ばかりで」
イルカの思わぬ言葉に目が見開く。
イルカはだからと言って、はにかんだ。
「カカシさんが、シロを覚えていてくれて嬉しいです。こうして、俺にシロの思い出を忘れないように持たせてくれて、本当に、嬉しいです」
イルカはぐっと涙を堪えて、オレに抱きついてきた。
「ありがとう、カカシさん。……あー、俺、カカシさんのことすっごく好きだ。これ以上、惚れさせないで下さいよ」
と、イルカは泣き笑いの声で甘く詰ってくる。
結果的に、いらぬ嫉妬が、オレを惚れ直す幸運を運んでくれたようだ。これからもどんどん嫉妬しようとオレは誓う。
抱きつくイルカの背中に手を回し、イルカにすり寄った。シロには悪いけど、どうやらオレは、シロよりもイルカの心を掴んでいるようだ。
ごめーんね。でも、お前の分まで、オレがずっとイルカを愛すからね。
心の中で呟く。
目を閉じれば、シロの姿が浮かんできて、シロは仕方ないと少し目を細め、それでも尻尾振ってくれていた。
都合のいい想像かなと苦笑してしまうが、そう考えていたかった。シロには、色んな立場で祝福してもらいたい。
業腹な自分を笑っていれば、イルカが耳元に唇を寄せて、小さく囁いてきた。
「俺も、カカシさんに何かを贈らせてくださいね」
うんと言おうとして、言い直す。
「二人で、いこう」
お揃いのものを買って、それをずっと持っていよう。
婚約じゃなくて、伴侶の証に、二人で。
オレの思いはイルカに届いたのか。
イルカは小さく笑って、頷いてくれた。
以上です! 読んでいただき、ありがとうございます!