「イルカ、一緒にどう?」
風呂から上がり、居間へと足を進ませれば、先に風呂をすませたカカシ先生がグラスを掲げて誘ってくれた。
酒好きの俺としては、喜んでご相伴に預かるところなのだが、
「す、すいません! 今日は疲れておりまして、早く寝ようかと思っておりまして…!」
俺の口からは、気持ちと裏腹な言葉が、勝手に突いて出ていた。
「そう…。疲れてるなら、仕方ないね」
カカシ先生の顔がさびしげなものに変わる。
途端に襲ってきたのは、後悔と自己嫌悪。そして、ほんの少しの安堵感。
「すいません」と深く頭を下げて、俺に宛がわれた部屋へと足早に進む。
背後から「ちゃんと髪、拭きなさいよ」と苦笑交じりの声が聞こえて、より一層自己嫌悪が増した。
カカシ先生は、本当に良い人だ。
カカシ先生と初めて会ったのは、教え子たちの下忍試験合否発表の日だった。
結果を待つ身が辛く、職員室で待つのも落ち着かず、校門前でうろうろとしていると、
「イルカせんせー!!」
待ちに待った声に顔を上げれば、そこには泥だらけになった子供たちが満面の笑みでこちらに走ってくる姿があった。
合否の結果を聞くまでもない。子供たちの様子に笑いながら両手を広げて出迎えた。
いつものように飛び込んでくる子供を受け止めようとした直後、何故か俺の腕の中には見知らぬ男がいた。
びっくりしてもがく俺を男はきつく抱きしめ、こう言った。
「オレの名前は、はたけカカシです。あなたの名前は?」
それがカカシ先生との初対面。
挙動不審になりながらも、こちらの名前を言い、挨拶を交わした。
初めこそ突飛な行動に面食らったが、そこからのカカシ先生の行動はひどく常識的な範囲の物だった。
会えば挨拶し、他愛ない言葉を交わす。
衝撃の初対面も今となっては、夢でも見ていたのかと思っていたのに。
「おはよう、イルカ」
不思議な夢を見た後に目を覚ましてみれば、カカシ先生は夢と寸分違わぬ顔を曝け出し、鍵がついた鎖を俺の首にかけてきた。
「これから、よろしくーね。オレの奥さん。ちゃんとここに帰ってきてね」
そして、ちゅっと音を立てて口付けをした。
何をしでかしたんだ、俺。
呆ける俺の顔にキスの雨を降らせ、「分かった?」と何度も確認を取るカカシ先生に、混乱の極みの真っただ中にいた俺は、がくがくと頷いてしまっていた。
「よかった」と笑ったあの嬉しそうな笑顔は今思い出しても赤面してしまう。
「あ゛ぁ―――――」
寝台に向かって倒れこめば、弾力のある頼もしくも柔らかい生地が俺を包み込む。
あれから、あれよあれよという間に、カカシ先生宅へと引っ越してきた俺は、何不自由ない、贅沢と言っていいほどの生活を送っている。
「……飯も作ってくれるんだもんなぁ…」
今日の夕飯は、なすの味噌汁に、あじの塩焼き、野菜の付け出しが数点という、身に余るごちそうぶりだった。しかも手作り。カカシ先生自ら包丁を握って出してくれた夕飯は、ほっぺが落ちそうという表現がふさわしいほどのうまさだ。
「……うまかったなぁ」
ごろごろと寝台の上で体を揺らしながら、はぁと思い切りため息を吐く。
うまい手作り料理でお腹はいっぱいで、湯量が豊富な風呂で一日の疲れを癒し、酒のご相伴にも誘ってくれて、ふかふかの布団で眠る日々。
今の身が幸せであればあるほど、俺はとんでもない恐怖に駆られる。
どうして、俺はここにいられるのだろうか。
ここに住み始めてから何度も悩んだことだが、結局、俺はこれだと思えるような明確な理由には行き着けなかった。
カカシ先生の家に住むことになったあの日を思い返すだに、不思議なことがいっぱいでどう解釈していいのやら。
小さい時から目が覚めたら、どこか違う場所で寝ていたということはあったが、大抵木の上や屋根の上、石の上だったりしたのに、あの日に限って人の家で寝ていたことが仰天事例だ。
迷惑をかけたことは間違いないのに、どうしてカカシ先生は俺を自分の家に招きいれて、寝かしつけてくれたのだろう。しかも、「ここに帰って来い」と鍵まで渡してくれたのだろうか。
不意に思い出した朝の情景に、わっと顔に熱が集まる。
朝日が差し込む中、カカシ先生のきらきらとした銀髪が光を受けて、とても綺麗で、そしてやさしい笑みを浮かべて俺を見つめていた眼差しを思い出し、どくりと鼓動が跳ねた。
「うあぁぁぁぁぁぁあぁ!!!!!」
堪らず枕に頭を突っ込み、足をばたつかせる。カカシ先生の笑顔を思い出すといつもこうだ。
体は火照り、発汗し、どうしようもない恥ずかしさと、ふわふわとした気持ちにさせられる。
そういう症状が出るものを一つ知っているのだが、今一緒に暮らしているとはいえ、見知って間もないカカシ先生にそういう思いを寄せる己が不思議かつ、自分の新たな面を受け止めることも容易にできず……。
そして、一番問題となっているのは……
「今更、一人ってのも寂しいんだよな…」
家に帰れば、優しい人の気配と温もりがあり、自分を出迎えてくれる幸せ。
それが、目下気になっているカカシ先生ならば、なおのことであり。
「あーぁ」
一つ息を吐く。
自分のこの思いを受け止めることが恐い。仮に受け止めたとしても、カカシ先生の真意を確かめることが恐い。
「あぁ、もー、何だかなぁ…」
結局、俺は今日もため息をつきながら有耶無耶に誤魔化すのだった。
******
そろりそろりと灯りがついた方向へと足を進ませる。
さっきはいたから、今もいるといいのになーと、微かに開いた入口に顔を突っ込めば、あの人は待ち構えていたかのように振り返った。
「イルカ、待ってたよ。おいで」
ソファの上で、銀色が俺を呼ぶ。
来い来いと手でも呼ばれて、俺は飛ぶように銀色の元へと駆け寄った。
銀色ー、まだいてくれたんだ! 俺のこと待ってくれてたの?
ごろごろ喉を鳴らしながら、銀色の足に体をこすりつけていれば、銀色は俺の両脇を持って膝に乗せてくれた。
恐いあいつらがいないことも、俺の上機嫌を上乗せる。
銀色、大好きー!
銀色の一番側にいられることが嬉しくて、胸に手をかけて頬を舐めた。
「ふ、ふふ。イルカ、痛いって」
痛い痛いと言いながら、銀色の手が頭を撫でてくれる。
ひとしきり、恒例のお互いの毛づくろいをしていれば、銀色はそうだと言って、俺を撫でていた手を下におろした。
「今日は、イルカにお土産があったんだーよ。これなら、今のイルカでも飲めるんじゃないかな?」
色んなものが並べられた机に、銀色が大きな瓶を乗せる。
一体何だろうと銀色の膝でおとなしく見ていれば、銀色は袋を解き、俺に瓶を見せてくれた。
「またたび酒。イルカはきっと気に入ると思うーよ」
人のイルカとも飲みたかったんだけどねーと、銀色はちょっと残念そうに言った後、瓶の封をおもむろに切った。
途端に鼻をくすぐる芳しい香りに、くらりと目の前が揺れた気がした。
何だかとってもいい匂い。病みつきになりそうな、魅力的な匂いにざわざわと毛が騒ぐ。
ふんふんと鼻を鳴らせて、もっと匂いを嗅ごうと身を乗り出せば、銀色は笑いながら小さなお皿に、いい匂いがするものを入れた。
「にゃ?」
これ、俺の?とふり仰げば、銀色はこくりと頷いた。
「どうぞ、これはイルカの」
銀色の言葉を聞くより早く、顔を突っ込んで、匂いの元を舌で掬い飲んだ。
その途端、何ともいえぬ香りと味が脳天を突き破り、ざわわわと毛が逆立った。
何というか、これは……。
うみゃーい!!
もう後は無我夢中に飲んだ。
いい匂いをもっとくれと銀色の腕に頭突きを繰り出し、銀色が入れては俺が飲む。銀色が入れては、端から俺が飲んだ。
もっともっとと思うがままに飲んで、気付けば、俺は銀色の膝の上に腹を出して寝転んでいた。
あれ、俺、いつの間に寝たんだっけと、ぼんやりする頭で考えながら、そっと下りてくる大きな手を見つめていた。
「イルカ、ここにお酒ついてるよ。美味しかった?」
鼻先をくすぐるように触れられて、思わずくしゅんと鼻が鳴った。
「うわっ」
直後に銀色の驚く声がした。周囲は何故かもくもくと白い煙が出ていて、どこかで魚を焼いているのだろうかと、思う。
それにしても美味しい匂いがしないのが、不思議だった。
謎の煙が晴れた後、銀色がびっくりした顔で俺を見降ろす。
「銀色、変にゃ顔にゃ」
けらけら笑って銀色をからかえば、銀色は「うそ」と小さく呻いて、口を押さえている。
何だか、銀色の顔が赤くなった気がする。お日さまに当たったような温かさがお腹から沸いてあがってくるけど、今、お日さまは出ていないのだから、温かくなるのはおかしいんだけどなぁ。
「どーしたにゃ? 銀色ー、にゃにか言ってくんにゃいとわかんにゃいにゃ」
何も言わない銀色がつまらなくて、自慢のひげを手で擦る。手を舐めて、ごしごしと強めに擦ったのだけれど、何だかいまいちだ。
おっかしいなーと思いながらも、気分転換を兼ねて、毛づくろいをしていれば、銀色は真っ赤な顔のまま俺を呼んだ。
「イルカ?」
「はーい」
「…えっと、イルカ先生?」
「? 銀色、にゃに言ってるにゃ。俺はイルカだけど、イルカ先生とやらは知らにゃいにゃ」
変なこと聞くなーと、毛づくろいを止めて見上げる。
そういえば、何だかお尻がスースーする。銀色の膝の上はどこもかしこも温かいのに、おかしいこともあるものだ。
「……触ってもいい?」
わざわざ尋ねてきた銀色がおかしくって、いつでも撫でてもらいたいと膝に頬を押し当てて甘えてみれば、銀色の顔が一段と真っ赤になった。
「か、可愛い…」
ぷるぷると膝が揺れて、ちょっと居心地が悪い。撫でてくれないのかと、目で訴えれば、銀色はごくりと喉を鳴らした後、ゆっくりと頭を撫でてくれた。
ごろごろと勝手に喉が鳴る。
喉も撫でててと思いっきり喉を晒せば、銀色の顔が近づいて俺の上に覆いかぶさってきた。その後に、ふにっと柔らかいものが口にくっつく。
新しい遊びかなとドキドキして待っていたのに、銀色はふにふにとくっつけてくるだけだった。
喉も撫でてくれないし、銀色はふにふに柔らかいものをくっつけてくるだけで、つまらない。
俺の心情を表したかのように、喉の音が止む。つまんない、つまんない、つまんなーい!
「イルカ」
銀色が俺の名を呼ぶ。ふにふにを離した瞬間、ていっと銀色の頭を胸に抱え込んで、がぶりと首筋に噛みついた。
「イルカ?!」
うろたえる声を間近に聞きながら、俺は渾身のキックを繰り出した。
リズミカルにだだだだと足を交互に打ち出せば、銀色の情けない声があがる。
「いててててて、イルカ、痛いって!!」
俺の体から遠ざかろうとする銀色の動きに興奮してきた。逃すまいかと、噛む力を強めて、蹴りを強くすれば、
「イルカ!!」
銀色が唸るように大きな声を出した。
びっくりして力が抜ける。それと同時に体を起こした銀色の顔は見たこともないほど怖くて、固まってしまう。
眉根を潜ませて、銀色は首筋とお腹を押さえて、大きくため息を吐いた。
そのため息もすごく不機嫌で大きくて、銀色がイライラしていることが分かった。
そこで、あ、と気づく。
俺は、今、銀色に怒られた。
大好きな銀色に、俺、怒られたんだ。
気付いて、すごく悲しくなった。銀色が急に俺を怒った原因が分からなくて、胸がきゅーっと縮こまる。
胸の痛みに気を取られていたら、目が霞んで、鼻と目から雨が下りてきた。
「ごめんにゃさい、ごめんにゃさい。銀色、嫌いににゃらにゃいで」
勝手に降る雨を手で擦って、体を起こす。銀色は立ったまま、俺を見下ろしていた。
何も言わない銀色が恐くて、尻尾の毛が逆立った。
あの時見た恐い顔のままだったら、どうしよう。
顔を見るのも恐くて、銀色の肩に抱きつく。ふと視線を上げれば、俺が噛んだ場所は真っ赤になっていた。
「ごめんにゃさい。銀色、ごめんにゃさい。俺、銀色と遊びたかったにゃ。怪我させるつもりも、怒らせるつもりもにゃかったんにゃ」
ごめんなさいと何度も謝って、噛み痕がついたところを舐めた。
銀色が許してくれますようにとお祈りしながら一生懸命舐めていれば、強張っていた銀色の体が途端に萎む。
それと一緒に、銀色の口から「あー」と気の抜けた声が出て、俺の体を引き寄せるように胸に抱いて、ソファに座った。
膝の上に乗る形で、銀色と向かい合う。でも、銀色は俺の肩に顔を伏せていて表情は見えなかった。
銀色が怒っている気配はしない。でも、俺の勘違いだったら恐いから、じっと銀色の行動を見守った。
待っている間、俺の尻尾はせわしなくパタパタと左右に動いてしまう。銀色の機嫌をまた悪くしちゃいけないと思って、俺は自分の尻尾を捕まえようと手を伸ばしたけど、俺の尻尾はするりと俺の手を避けた。
むっとしたのは一瞬で、パタパタと動く尻尾の動きに興奮してきた。
右に左にと、動く速さを変える尻尾に狙いをつける。うずうずと今にも動き出しそうになる体を抑えて、絶好の機会を待っていれば、
「ごめん、イルカ。オレが悪かったーよ。あんまりイルカが可愛いんで我慢できなかった」
これで上忍とは情けないねぇと、落ち込んだように言ってきた銀色に、俺はハッと我に返る。
尻尾を追う視線を無理やり離し、銀色へと向けた。
そこには、俺の大好きな、とっても優しくて甘くてきらきらしている銀色がいた。
途端に鳴るのは俺の喉で、銀色がいつもの銀色になったことが嬉しくて、腕を伸ばして飛びついた。
「銀色〜、銀色〜」
大好きな銀色のきらきらを舐めて毛づくろいをする。銀色はあんまり匂いがしないから、俺の匂いを代わりにつけちゃえ。
俺の匂いがする銀色。
考えるだけで胸がとってもときめいた。
「俺にょ〜、銀色〜。マーキングだにゃ〜」
節をつけて主張すれば、銀色は嬉しそうに笑ってくれた。そればかりか、銀色もこう言ってくれた。
「なら、オレにも匂いつけさせてよ。イルカにもオレの匂いつけたい」
銀色の発言に、俺のお腹がかっかと熱くなった。銀色から俺の匂いがして、俺から銀色の匂いがするなんて、なんてとっても!
「特別にゃ〜」
ふにゃりと笑えば、銀色も笑って、俺の首筋を優しく舐めてくれた。
******
「うおおおおお!!!」
思わず声を上げて、飛び起きた。
まずい。これはいくらなんでもまずい。
半泣きになりながら顔を覆って、今朝見た夢を思い返す。
今日の夢はまた一段と奇天烈な内容だった。
酒を飲んでいるカカシ先生の元へ猫の俺が行って、一緒に酒を飲んだ。途中から、よく分からないが視線が高くなり、俺はカカシ先生と色々と話すことができた。んで、その後は……。
お互いに耳の裏から首筋を舐め合い、じゃれ合うように口元さえも舐め、手先から腕、果ては胸まで舐め合った情景が頭に浮かび、勝手に叫び声が口から飛び出た。
しかも、俺はカカシ先生に乳首を舐められて、思わず感じ入った声をあげていた。何だか気持ちいいとつぶやき、もっと舐めてとカカシ先生に強請っていた……!!
「うああああ!! 嘘だ、やめろ、消えろッッ」
脳裏を占領した、カカシ先生のどこか艶のある眼差しと、卑猥に動く舌先を、手を振り回すことで掻き消す。
何だ。一体なんなんだ、この恐ろしい夢は!!
夢は願望を表すというが、俺はカカシ先生を舐めたい欲でもあるのか!? カカシ先生に舐められたい変態欲求があるのか!?
「うあああああああ」
頭を覆って、寝台に向かってため息を吐いた。
どうしよう。こんな破廉恥な夢を見た後で、どうやってカカシ先生と顔を合わせればいいんだ。
申し訳なくて、非情に気まずくて、身の置き所がない。
ふと時計に目を向ければ、そろそろ起きなければまずい時間だ。
きっと今日も、朝食を作ってくれて、一緒に食べようと席で待っているカカシ先生を思い浮かべ、思わず男泣きしそうになった時。
コンコンと控えめなノック音が聞こえた直後、止める暇もなくドアが開いた。
「イルカー? そろそろ準備しないと遅刻するよ」
現れたのは、俺が今、一番会いたくなかった人物で、思わず目にした瞬間、俺の体温は急上昇することを止められなかった。
「ん? おはよう、イルカ。真っ赤になっちゃって、どうしたの?」
カカシ先生は少し首を傾げ、いつ見ても美形な素顔を晒したまま、俺に優しく問いかける。
何を言っていいか分からず、ぱくぱくと口を閉会しながら固まる俺に、カカシ先生は少し悪戯っぽい視線を向けた。
「あー、やっぱり跡になっちゃってるーね。ま、オレもつけられたし、いいよーね」
にこっと笑って、カカシ先生は通常よりも長い支給服の首元を引っ張ると、首筋をさらけ出した。
朝の光の中見えたのは、歯型としか思えない半円を描いた跡で、カカシ先生が指差す先を見れば、パジャマの襟の下、目にも鮮やかな赤い印が何か所もつけられていた。
「!!!!!!!!???!!!?!」
声にならない悲鳴をあげる俺。
それを楽しそうに見つめるカカシ先生。
いっそのことこれも夢なんじゃないかと思いながら、俺は深まる謎に、ただただ意味のない声を上げ続けた。
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今回のイルカ先生は、猫耳尻尾なイルカ先生です! いぇい! 「にゃ」をつけようと四苦八苦しました。
ちなみに、ここのカカシ先生は、鋼鉄の理性の持ち主だと思います。紳士入っているけど手は出しちゃう。……生殺し?
猫の日 2