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「よぉ、人生幸せそうだな」
上忍待機所で、イルカの受付任務が終わる時間を待っていると、任務から帰ってきたアスマが声を掛けてきた。
「幸せ? 馬鹿言わないでよ。忍びであるオレたちが、そんな甘っちょろい、一般人にしか見えないような、曖昧模糊な現象に浸る余地があると思ってんの?」
はっと鼻で笑って、視線を向ける。アスマは煙草をふかしながら、俺をおかしそうに見やり、先の言葉を促してきた。
さすが髭。長年、腐れ縁はやっていない。
ずいと髭に接近し、オレは言った。
「って、思っていた頃が嘘みたいに、幸せなーのよ」
「だろうな」
オメー、気持ち悪いほど顔が緩んでるぞと指摘され、頬を押さえる。やっぱり幸せって滲み出ちゃうもんなんだーね。
今日はイルカが料理を作る日だから、ずっとイルカを眺めていられる。イチャパラ定番の、台所で悪戯なんてこともできちゃうし、今から待ち遠しくて仕方ない。
一向に進まない時計の針に視線を向けていれば、髭が煙草の灰を落としつつ口を開いた。
「まぁ、収まるところに収まって、それはいいんだがよ。オメー、少しはイルカのこと自由にしてやれよ」
自称、イルカの兄を名乗る髭は、時々口うるさい。
二人の問題なんだから、放ってくれればいいのに。それに、自称、イルカの祖父も厄介なんだーよね。
目の前の男とどこか似ている、里長を思い出し、ため息がこぼれ出る。
オレとイルカが一緒に暮らし始めた頃から、今までこれといった介入をしてこなかったジジイが、しゃしゃり出てくるようになった。
曰く。
「仲がいいのは結構じゃが、少しくらいは一人の時間を持った方が良いのではないか?」
から始まり。
「イルカや、おぬしの好きな饅頭が手に入ったんじゃが食うか?」
「イルカや。最近、つまらなくはないか?」
「イルカや、屋敷に遊びに来ぬか?」
「イルカ、最近物忘れがひどくなってのぅ。あれはどこにあるんじゃろうか」
「イルカ。おぬしも知っておるお手伝いさんのマミさんじゃがな。お孫さんが子供を産んでのぅ。将来、アカデミーに通わせたいと言っておるんじゃ。顔を見に来ぬか?」
「イルカ、いい肉が入ったんじゃが、今日は一緒に飯を食わんか?」
などと、日を置かずしてイルカを屋敷に呼ぼうと声を掛けてくる。しかも、屋敷の人間もジジイの援護射撃をするようにイルカを誘うから、非常に厄介だ。
ただでさえ、任務で里を空けることがあるのに、これ以上イルカとの時間を減らされてたまるか。
だいたいあいつら、何を考えているのか全く想像がつかない。
イルカに悪戯されては、激怒してイルカを追い回していたのに、ここにきて率先してイルカに近づこうとするとは、被虐的嗜好でもあるのだろうか。
今のところ、オレの躾に夢中なため、イルカはジジイや屋敷の人間の誘いをきっぱりと断っているが、イルカが全てを知った時が問題だ。
「おい。聞いてんのか、カカシ」
声を掛けられ、アスマがオレに説教をしていたことに気付く。ハイハイと適当に返せば、「聞いてねぇな」と苦虫を噛んだ顔をした。
「あのなぁ。オメーがイルカを独占したい気持ちは分かるが、イルカにも付き合いってもんがな」
「ハイハイ。分かってる、分かってる。だから、オレが里にいない時は、飲みに行こうが、屋敷に行こうが、どこへでも遊びに行ってもいいって言ってるよ。何が問題なーのよ」
長くなりそうな説教を途中で遮り、こちらから言ってやる。すると、アスマは大仰にため息を吐いて、額を押さえた。
「食えない餌をチラつかせて、イルカの行動に制限かけさせてるだろ。あいつ、本気でオメーを抱けると思って努力してんだぞ」
おや、まぁ。さすがに自称兄は伊達ではない。イルカはアスマに相談を持ちかけていたようだ。
オレに内緒で、他の男と密会してるなんてーね。ちょっとお仕置きが必要かな。
本日の夕飯は、イルカのフルコースで決まりだと、内心呟いていれば、アスマが「止めろ止めろ」と首を振ってきた。
「イルカがオレに相談してきたのは、オメーの好みを聞くためだ。健気じゃねぇか。あまり無体なことしてやるな」
オレの考えていることを的確に言い当てるアスマは、時々読心術でも使えるのではないかと勘繰ってしまう。
今思っていることも伝わったのか、アスマは深いため息を吐いた。
「オメェの感情がダダ漏れなんだよ。イルカのことになりやがったら、見境もなく嫉妬しやがって。写輪眼のカカシが、情けない限りだぜ」
昔はもう少し理知的だったぞと、嘆くように言われて肩を竦める。
野蛮と言われようが、イルカはオレの物だ。誰であろうと、あれに近づく者は排除する。
常々そう思っていることは、間違いもなく真実なのに。
「アスマが思うほど、イルカはオレに縛られてはくれないーよ」
現実はアスマが思っているほど、うまくいっている訳ではないのだ。
忍犬を使役し、戦場で大勢の部下を従え、意のままに動かすオレだが、ことイルカに関しては、思い通りにはいかない。
意外だったのか、アスマは間の抜けた声をあげた。
「ちょっと待て。閨の関係を餌に、イルカの交友関係を断絶させているだろうが。オメーが任務から帰ったら、奉仕させまくってんだろ?」
そこまで話しているとは。オレが思っているより、イルカはアスマに心を許しているようだ。
内心面白くない感情が浮かぶ。ひとまずそれは置いておき、オレはぼやいた。
「そもそも、そこから間違ってんのよ。任務から帰ったら、出迎えて欲しいとは言ったけど、上げ膳据え膳は頼んでなーいよ」
ま、夜の上げ膳据え膳ならば望むところだが。
イルカから聞いた話と違うのか、アスマは困惑しているようだ。無理もない。イルカは興奮すると、状況説明がとことん下手になる。普段、アカデミーで教鞭を取っている癖に、よく分からない人だ。
「あれは、イルカが自主的にやってくれてるの。オレはいいって言ってるのに、やるって言って聞かなーいの」
大方、アスマはオレが強要しているのだと思っているのだろう。オレの考えを裏付けるように、アスマは目を見開いて息を吐いた。
「てっきり、オメーが関係を盾に、好き勝手していると思ったんだがな」
違うのかと呟くアスマに、今度はオレが苦虫を噛む番だった。
オレがイルカにしていることといえば、オレを抱きたいならオレを躾け直せと言ったことと、イルカに誘いをかけようとする奴らを、裏からこっそり脅していることぐらいだ。
ひとえにイルカと過ごす時間を少しでも長く得たいためで、決してイルカを玩具のように扱った覚えはない。……まぁ、夜の方はそれなりにさせてもらっているけども。
全てではないが、アスマに日常的なオレとイルカのやりとりについて話し聞かせた。
聞き終えた後、アスマは煙草を口にくわえたまま腕を組むと、難しい顔を見せた。
「……オメ―の方が不遇だな」
「でショ。毎日、オレが弄ばれてる感じだーよね」
普段のイルカは始終オレを可愛いと言っては抱き着き、頭を撫で、時々顔中に口づけを降らしてくる。その癖、オレから触れようとすれば、待てとお預けさせられる。
性欲からくる行動だったら大歓迎だったのだが、あくまでイルカは躾けの一環としてオレに接してくるのだ。
スキンシップは大事ですからねと、懐に『飼い犬のしつけ方』という本を抱いて、目を輝かせているイルカの姿は記憶に新しい。
おかげで、二人の部屋には犬の躾本が何冊もある。当然買い込んでくるのはイルカで、暇を見てはそれを読み、オレで実行している。
確かに、躾け直せと言ったが、犬のように扱えとは言っていない。オレはあくまでイルカの伴侶だということを忘れてもらっては困る。
「なんだァ? イルカから犬扱いされて、それでも幸せって言えるのか、オメーは」
呆れた顔を見せるアスマに、それはそれと口端に笑みを浮かべる。
「犬扱いは御免だけどね。ま、それなりにオレにとってもメリットがあるから、尚更困るのーよね」
例えばと水を向けたアスマに、オレはそうねぇと口を開く。
「オレ、忍犬使いだし、犬の扱いはオレの方が長けているって言ったら、イルカってば目を輝かせて教えてくださいって言ってねぇ。それで、オレの都合のいいこと言ったら、それを忠実にやってくれるの。『躾の本にも書いてないことを知ってるカカシさん素敵です』て、オレ尊敬されちゃうし、ますます惚れられちゃうし。オレ、忍犬使いで良かったなぁって思うし、今度イルカに裸エプロンで膝枕してもらおうかなぁなんて思ってるところで」
「前言撤回だ。オメェ、何やってんだ」
勘弁しろよと頭を抱えるアスマが不思議だ。
アスマはこれで謎が解けたと煙を吐き出し、オレを胡乱な目で睨んだ。
「三代目が、オメーとイルカの仲にちょっかいかけてるだろ。アレな、オメェのそれが原因だ」
それと言われて、眉根が寄る。ふと閃くものがあり、まさかとアスマに視線を向ければ、アスマは深い皺を眉根に刻み頷いた。
「オメーが教えた犬の扱い方をな。犬塚のところの犬で試してんだよ。犬塚から三代目に情報がいってな。あんな変態とイルカを一緒にさせられんと、屋敷の人間巻き込んでの大騒動になってんだぞ」
アスマの言葉に、声を失った。もう実行した後だったなんて。
脳内が掻き混ぜられるような衝撃に見舞われ、目眩に襲われた。馬鹿だ、馬鹿だとは思っていたが、そこまでの馬鹿だとは思ってもいなかった。
イルカのことだ。オレの言葉を本気にして、それは体当たりも同然で実行していたんだろう。と、なると、今までオレが享受してきたアレやコレを、犬塚のところの犬どもが一心に受けて……。
「イルカを説得しようにも、オメェの言葉を信じて言うことを聞かなくてな。さすがの三代目も頭を悩ませていたぜ。散々悪戯された癖に、屋敷の人間ともども、イルカが可愛いみたいだな」
全く幸せ者だと、話をまとめたアスマを背に、オレは待機所の出入り口へと歩みを進める。
「どうした?」と声が掛かったが、渦巻く思いに支配され言葉が出てこない。無視する形で待機所を出れば、慌てて後を追いかける髭の気配を感じた。
邪魔される予感を覚え、オレは走る。
「ちょ、カカシ! おい!!」
待機所を出た途端、アスマも走り出したようだ。距離は十分開けている。トップスピードのまま、受付所を目指し疾走した。
廊下でたむろしている者たちの一瞬の隙をついて、最短コースを狙って駆け抜ける。背後から遅れて悲鳴が聞こえたが、オレには関係ない。
「テメッ、人ごみでそんな走り方すんじゃねーッ」
背後の声は無視。オレの知らない間にイルカがしてきたあんなことやこんなことで、頭はいっぱいだった。
オレが主導権握っているようで、いつもオレが振り回されてばっかりだ。ひどい! 本当にひどすぎる、アンタって人はッ。
受付所が見えてきた。
走ってきた勢いをなるべく殺さず、受付所前の壁に飛び移り、そこから蹴って、受付所へ入ろうとする者の肩口から体をねじこんだ。
受付所の床に四肢をつけて着地し、目当ての人影を見つけ、オレは飛ぶ。
こちらに全く気付かず、時折笑いながら、受付処理をしているイルカの鈍さに歯噛みしつつ、オレは両手を開いてイルカに突っ込んだ。
「うわっ」「きゃ!」と、イルカの前に並んでいた報告者たちが、背後で短い悲鳴をあげる。座っていたイルカを椅子ごと押し倒し、オレは渦巻く思いをイルカにぶつけた。
「イルカのバカァァァ!! なんで犬塚の犬と浮気してんの!? ああいうことするのはオレだけでいいのに、なんでアンタはそんな無神経なことできるのよっ、馬鹿ぁぁぁあ」
声が震え、飛び出る液体のせいで息がし辛い。発作のように肺が波打ち、勝手に口から出る声を抑えられない。
ひどいひどいとそればかりが頭を駆け巡り、硬直したように身動きしない体を抱きしめていれば、頭の上で一つ吐息が落ちた。
「あぁ、カカシさんか。びっくりしたぁ。俺、どこぞの里の刺客が命狙いに来たのかと思っちゃいましたよ」
俺ごときが狙われる訳ないって分かってるのに、もう、照れるなぁと呑気に笑い出したイルカに、頭が急速に沸騰する。
馬鹿! そんなこと言ってんじゃないよっ。オレという者がいながら、なんで犬相手にそんなことすんのよっ。冗談じゃないよ! 人間なら殺せるけど、犬だったら後味悪いでショ!! もう、何なの、アンタ! 本当に信じらないっ。アンタ、オレの伴侶として自覚あるの!?
一息に喋ったつもりだが、肺が震えて自由に呼吸できないし、色々と出るものに邪魔されて、言葉になっていたかも定かではない。
胸に溢れる言葉を片っ端から音にしていれば、おっさん臭い掛け声をかけて、イルカがオレを抱いたまま体を起こした。
肩に手を掛けられ、引き離されると一瞬思い、体が固まる。意地でも離すものかとしがみついていれば、イルカは小さく笑って、肩に置いた手を背中に回してきた。
「カカシさんったら、そんなに泣いちゃって。後五分で終わるところだったのに、待ちきれなかったんですね」
もう可愛いなぁとぐりぐりと頬をくっつけられ、オレは違うと叫ぶ。
直接目を見ていってやると、体を少しだけ離し、真正面から対すれば、緩み切った笑顔にぶつかった。
「なっ」
信頼を通り越して、何をされても許しますと語るイルカの表情に、二の句が継げなくなる。
「カカシさん」
イルカはオレの名を大切そうに呼びながら、口布に手を掛ける。下に引き下ろして、顔から出た色々なものを手拭いで拭ってくれた。
全部拭き終えた後、イルカはもう一枚懐から手拭いを取り出すと、オレの鼻先から下を覆うようにして、頭の後ろで結ぶ。
「カカシさんってば、すぐ泣いて鼻水出しちゃうから、俺、手拭い三枚常備してるんですよ! 頭いいでしょ」
にかっと笑うイルカの言葉に、今まで渦巻いていた気持ちが薄まる。
やっぱりイルカってひどい。何気ない言葉でオレの気持ちを軽くして、不平も不満も全部言わせてくれないなんて。
イルカの不貞行為に心底傷ついていたのに、まぁいいかと思い始める自分を見つけて、何だかイルカに負けたみたいで悔しくなった。
言葉が出てこなくて俯いていれば、イルカはお気楽な顔をしてオレの前髪を後ろへ梳くように手を動かした。肉厚な手の平が気持ちいい。思わず目を細めてしまいそうになったとき。
「……イルカ。時間だから帰っていいぞ」
斜め上から声がかかった。途端に、イルカはオレから声をかけた奴に視線を向ける。そればかりか、オレの髪を梳いていた手を退けるなり、オレの体を有無を言わさず引き離した。
貴様、オレとイルカの語らいを邪魔するとは、命がいらないみたいだな。
「おう、すまんな」と帰り支度を始めたイルカの横で、殺る気満々で右手の先にチャクラを集中する。がたがたと震える受付員を見下ろし、死ねと笑みを浮かべていれば、「こら」と小さな叱責と一緒に、腕を引っ張られた。
「カカシさん。チャクラ量が少ないんですから、無駄に雷切使わないでくださいよ。俺、今日はとっておきの新作料理を披露しますからね! 今日こそ、カカシさんにうまいって言わせます」
自信たっぷりのイルカの笑顔に、集中していたチャクラが飛ぶ。万死に値する行為の制裁がまだだったが、イルカの手料理を食べる方が優先される。
「アンタ、そんなこと言って、前、生肉食わせたじゃない。犬だってあんなもの食わないよ」
誘うように先に歩き出したイルカを追いかけて、隣に並ぶ。ま、イルカが出したなら生肉でも食べるし、何でも食べるけどね。
「それは、カカシさんが余計なちょっかい出してきたからです! 躾とはいえ、料理中は火だって刃物だって扱うんだから、ダメですよ。今日は躾なしとします。いいですね!!」
念押しされて、眉根が寄る。今日はイルカのフルコースの予定だったが、今回は本気で料理に燃えているようだ。
イルカが燃えている時にちょっかいを出したら、その後、オレをいないものとして扱って、相手をしてくれなくなる。何を言っても反応してくれず、頑なに背を向けるイルカの姿は、オレにとってトラウマだ。
今回は諦めるかとため息を吐いて、でも、諦めきれなくてオレは口を開いた。
「けど、躾の時の恰好はしてーよ。主人たるもの、いつも躾時の毅然とした態度でいなきゃ。それを忘れない意味でも、着なくちゃーね」
オレの言葉に、イルカは少し困った顔をした。
「まぁ、恰好だけならいいですけど…。今日、油使うからな。全裸エプロンで、油使うって冒険ですよね。飛び散る油を避けつつ、目的の物を揚げる。俺の腕の見せ所ともいいますが」
ふふとニヒルな笑みを浮かべるイルカを愛でていると、後ろからざわめきが起きた。
当然、オレは気にも留めない。目の前にイルカがいれば、それでいい。
騒然とし始める受付所の出入り口を抜けると、戸の横で煙草をふかせているアスマと遭遇した。
「あ、アスマ兄ちゃん。もしかして、任務また入ったの?」
出来る男は違うねぇと、軽口を叩くイルカの腕を引っ張り、オレの背に隠す。
イルカは「どうしたんですか?」と呑気に尋ねていたが、オレは威嚇するようにアスマを睨みつけた。
アスマは気のない素振りで煙草をふかし続けていたが、やがて根負けしたように大きく息を吐いた。
「安心しろ。オレはイルカとオメェの仲をどうこうしてぇと思ってねェよ。それに、三代目からの介入も、直に無くなるんじゃねぇのか」
楽観的な言葉を訝しんでいれば、アスマは苦笑した。
「オメェの駄犬振りを見りゃ、無害だって分かるわな」
じゃあなと、踵を返して手を振るアスマの背を、訳が分からんと見送る。ところが、そうはいかなかったのはイルカのようで、遠ざかる背中へ猛然と突っ込んで行った。オレの手首を掴んで。
「アスマ兄ちゃん、ちょっと待った!」
制止したイルカの声に、アスマは振り返る。
「何だ?」
話はないだろうと言うアスマに、大アリですとイルカが返す。
どこか怒っている様子で、イルカはオレの肩を抱くや、声を荒げた。
「うちのカカシさんは駄犬なんかじゃありませんッ。どこに出しても恥ずかしくない、オレの相棒で伴侶で、可愛いわんこのカカシさんなんです! 撤回を求めます」
アスマへ毅然と言い放ったイルカの言に、オレは唖然としてしまった。
相棒で伴侶で、わんこ。イルカの認識は、オレの斜め上をいっていた。
「はぁ?」
アスマがオレを見て、困惑した表情を浮かべる。何なんだオメェらはと、呆れた顔をしたアスマを見て、次の瞬間、吹き出してしまった。
「は!? なんで、そこでカカシさんが笑うんですか! 俺、変なこと何一つ言ってませんよっ」
腹を抱えて笑うオレを、アスマはしょもねぇなと煙草をふかす。
顔を真っ赤に染め、笑うオレを問い詰めるイルカを見詰め、本当にこの人はと、諦めとは違う、温かくて納得させられるような何かを感じながら、腹の底から込み上げてくる笑いに身を任せた。
うみのイルカ。
単純明快な直情馬鹿。表情をころころと変える忍びにあるまじき男。ちょっとしたことでも一喜一憂して、真正面から全力でぶち当たっていく、頭が悪いとしか言いようがない人。でも、とっても温かくて大きくて、オレの悩みなんか一発でぶっ飛ばす何かを持っている人。
オレの相棒で伴侶で、そして、ご主人さま。
アンタの犬なら、悪くなーいね。
「何です!? 俺の言った事、間違ってないですよね! 俺は、カカシさんの相棒で伴侶で、ご主人さまですよねっ」
もしかして俺の独り相撲と衝撃を受けかけているイルカに、真正面から抱きつく。そして、そっと囁いた。
「オレの一生、責任持ってくれないと、許しませんからね」
噛み殺すよと、美味しそうに色づいた耳に噛みつけば、イルカは短い声をあげてオレの体を引き離した。
耳が弱いイルカは、突然の戯れに目を濡らし、全身を真っ赤に染めている。噛みつかれた耳を両手で覆い、オレを叱ってきた。
「こら! 外でこういうことしちゃいけませんっ。というか、俺がカカシさんを捨てるわけないでしょうが! あんた、今まで俺の何を見ていたんですかっ」
わぁお。オレのご主人さまは、本当に情熱的だ。
最高の口説き文句をもらって、オレの気分は上向く。尻尾があったなら、忙しなく右左へと振っていたことだろう。
「オメェらなぁ……。まぁいい。めんどくせぇ。駄犬にバカ飼い主に付き合う時間がもったいねぇ」
オレは行くと今度こそ去ろうとするアスマに、イルカは「駄犬言うな」と食ってかかる。
オレも、アスマなんかにイルカを占領されるのはゴメンだから、追いかけようとするイルカを後ろから抱きついて止めた。
「どうして止めるんですか!」
俺のカカシさんが悪く言われたんですよと、怒るイルカを笑う。イルカは本気で頭にきているようで、笑うオレにも文句を言ってきたけど、今はイルカの犬らしく、ご主人さまの頬に一つ口付け、吠えた。
「わん」
家にかえーろ。
オレの声に一瞬止まると、イルカは暴れていた手足を止め、大きく息を吐く。息を吐き切った後、イルカは顔を上げて、頷きながらはにかんだ。
「そうですね。帰りましょうか」
冗談で吠えてみただけなのに、まさか伝わるとは思っていなかった。
驚くオレを見て、イルカはにしゃりと笑い、オレの手を握る。
「伊達に、カッシーと過ごしていませんよ。言ったじゃないですか。俺にとって、相棒で伴侶で、可愛いわんこだって。全部、ぜーんぶ、俺の大事なカカシさんです」
言われて、少しうろたえた。
それが何を意味するのか、頭にようやく入ってきて、オレは声を失う。
目の前には、当たり前のことを当たり前に言っただけだと気負うことなく佇むイルカがいて、何かオレからも言わなければいけないと思ったのに、結局、言葉は出てこなかった。
代わりに出てきたのは、いつもの厄介なもので、慌てて顔を俯けた。情けないところを見せたくなくて、イルカの視線から逃れるように深く頭を垂れ、顔を隠す。
イルカは何も言わずオレの手を引き、受付所の廊下から外へ、帰宅路へと足を進ませる。引っ張られるまま歩きながら、ぐずつく鼻を啜り、思う。
オレって、格好悪い。
イルカと一緒にいる時に限って顔を出す、不安定な自分に歯噛みした。本当はもっと頼りのある自分を見せたい。イルカがかっこいいと思ってくれる男でありたい。
そのとき、ふといつもの帰宅路とは違う道を歩いていることに気が付いた。いつも二人で一緒に帰る道は、イルカはオレの物だと周囲に見せつけるためにも、人通りの多い道を使っていた。
だが、今日は周囲に気配がない。まだ止まらない厄介なもののせいで顔は上げられないが、どうしたことだろうと俯き加減に窺っていれば、イルカは前を向いたまま、歌うように話しかけてきた。
「俺はカカシさんの相棒ですからね。力になって当然なんです。で、伴侶だから、気を許さない方がおかしいんです。そんで、俺はご主人さまでもあるんですから」
イルカの声が止まる。顔を上げてと呼ばれた気がして、鼻を啜って前を見れば、イルカは振り返って笑っていた。
「甘えてくれなきゃ、張り合いがないんです」
重なる手が強く握られる。
もっともっと腹を出せと、オレへねだるイルカに、敵わないなと心底思う。
ジジイの言葉を思い出した。
甘い理想と一蹴したけど、現実は違うみたいだ。もしかして、アンタにも、オレにとってイルカのような人がいたのだろうか。だったら。
「忍びも悪くなーいね」
小さく呟いた言葉は、イルカには聞こえなかったらしい。だが、それでいい。イルカにはその位置で、オレを出迎えていてもらいたいから。
首を傾げるイルカに何でもないと返して、一歩大きく足を踏み出す。
恥としか思わなかった顔をイルカに曝け出して、「拭いて」とねだってみる。イルカは嬉しそうに破顔して、オレの顔を拭いてくれた。
今度は肩を隣り合わせて、帰り途を行く。
オレはイルカにとってそういう間柄でもあるからだ。
イルカも心得たもので、可愛いわんこのオレとは違う接し方で話しかけてくる。これが計算だったらとんだ腹黒なんだけど、イルカに限ってそれはあり得ないことだから、天然って恐いなと思う。
「今日の飯は、ずばり酢豚です! カカシさんって、パイナップル入れる派ですか?」
オレは色々とイルカのことを考えているのに、イルカは打って変わって今晩の飯について話し出すから少し寂しい。でも、そうやって飯作りに力を入れるのも、オレの躾の一環だと考えているのが分かるから、そこは我慢することにする。
「パイナップル? おかずが甘いなんて邪道だーね。そいや、アンタって厚焼き卵にも砂糖入れるよね。普段から甘いものに慣れ親しんでるから、忍びの癖にここの肉がヤバイんじゃないの」
言葉と一緒に腹の肉を見詰めれば、イルカはオレの視線から庇うように身を捩った。
「そ、そんなことありません! 俺は普通体重の中肉中背体型ですっ。中年親父みたいに腹なんて出てませんからね!」
「だったら、なんで隠すのよ」
頑なに隠そうとするイルカを突けば、「恥じらいです」ときっぱりした声が返ってきた。笑える。
笑うオレに、イルカは「じゃ、パイナップルはいれない方向にします」と話題を変えてきた。
心なしぶすくれて、唇を突き出すイルカが可愛かったから、オレはそうそうと言葉を付け足した。
「くれぐれも言っとくけど。オレ、腹の出たアンタに抱かれるつもりは毛頭ないからね」
自尊心が堪え切れないと真面目な顔で言えば、イルカはこの世の終わりのような表情を見せた。
真剣に考え込むイルカへ、胸の内で舌を出す。
例えイルカの腹がビール腹になろうが、腹筋で六つに割れようが、オレが下になることはあり得ない。
だって、オレには全くその気がないのだから。
晩酌はなしにして、走り込みを増やすかとプチダイエット計画を練るイルカを生温く見つめる。こうして、のらりくらりオレがかわしていく内に、きっとイルカは気付くことになるだろう。
オレを抱こうとしても抱けないことに。
絶賛開発中のイルカの体が、普通の性行為では物足りなくなっている事実に。
いやいや、腹が大事なんだから腹筋も取り入れなけりゃと頷くイルカに、オレは人のいい笑みを浮かべて助言した。
「大丈夫。二人ですればいい運動になる腹筋方法知ってるから、今晩早速しましょう。名前もあって、『つり橋』って言うんだーよ」
「『つり橋』!? 何か、聞くだけで腹にきそうな運動ですね!」
よっしゃ、むきむき手に入れるぞと、無邪気に喜ぶイルカを可愛いなと見つめる。オレの下心なんて何一つ分かっていない様が、非常に甚振りがいがある。
絶対、あっちの気の奴らの好みのタイプだよなと、今後もイルカの交友関係を徹底的に絞ろうと誓う。
「では、善は急げ。鉄は熱いうちに打てと言いますし、早く帰りましょうか!」
「そーね」
反対する理由もなくて、頷く。手を離し、オレの前に躍り出て、イルカはにやりと笑った。
「じゃ、家まで競争です。ドべは今晩の食器洗いと風呂洗いをすることー!!」
言い終わらぬ内に、イルカはオレの体を思い切り突き飛ばしてきた。不意を突かれて尻もちをつくオレの目の前で、イルカはケラケラと笑いながら、駆けていった。
尻もちをついたまま、あっという間にイルカの背中が小さくなる様を見つめた。どうやらイルカは本気で走っているらしい。
イルカの姿が見えなくなって、ようやくそこで我に帰り、しょうもないと笑った。
そこまでして勝ちたいのかね。それとも食器洗いと風呂洗いがしたくないとか?
イルカの考えはオレにはよく分からないが、こうやってじゃれ合うのも楽しいことは事実で。
立ち上がって、尻についた砂を払い落す。さぁて。
「中忍と上忍の格の違いを見せてやろうか」
口端が上向く。
息せき切って帰ってきたイルカを、涼しげな顔で出迎えたら、どんな顔が見られるだろう。
地団太を踏んで悔しがる。絶対勝ったと思ったのにと、泣き言を言う。それで、最後は「やっぱりカカシさん、すごいや」って笑ってくれるだろうか。
「行きますか」
誰に告げるでもなく、鼻歌交じりで地面を蹴った。馬鹿正直に地面を走るイルカを思い、苦笑が零れ出る。
屋根から屋根へ、電柱を足場に飛んでいれば、土煙を立てんばかりに全力疾走をしているイルカの姿が見えた。
上空で追い越して、オレは笑う。軽い、軽い。
二階建てのぼろっちい鉄筋コンクリートのアパート。
狭い廊下に降り立ち、ゴールである玄関ドアの前に佇む。赤さびが浮いた手すりに肘をつき、視線を落とす。あの走り具合からして、もうそろそろだろう。
このアパートからは死角となる曲がり角を見つめていれば、待望の人物が現れた。
「あ!」
オレが声を掛けるより早く、イルカはオレに気付いて、声をあげた。
「あぁぁぁ、ぜってぇ勝ったって確信したのにぃぃ!!」
叫びながらオレを見つめて駆けてくるイルカへ、オレは手を振る。
オレの相棒で、伴侶で、ご主人さま。
どこかの国の異人が愛する人を指して呼ぶ、ハニーという言葉。
こっ恥ずかしくて、とてもじゃないが口に出しては言えないから、オレは一計を案じる。
カンカンカンと忍びにあるまじき足音を立てて、階段を上ってきたイルカは全身汗まみれだ。
「あー、カカシさん。どこで、俺抜かしたんですか。さすがカカシさん…。悔しいけど、完敗です」
くそぉと呟きながらオレの前へと辿り着いたイルカを見つめ、瞳を細める。
思いを込めて、一つ。
おかえり、ハニー。
「わん」
吠えたオレの言葉に、最初イルカは面食らったように目を瞬かせていた。
さすがに通じなかったかなと苦笑していると、イルカはぷっと吹き出して、オレに抱きついてきた。イルカの汗の匂いが鼻孔をくすぐり、思わず生唾を飲み込んでしまう。
それがおかしかったのか、それともまた違う理由なのか、そのまま笑いながら背中を叩かれ、一体どういう反応だろうとまごついていると、イルカは体を離してきた。
走ったせいか、赤く染まる頬と、潤んだ目をオレに向け、イルカは目を細めた。
「ただいま、ダーリン」
脳が言葉を理解した瞬間、オレの顔は沸騰した。
それが恥ずかしくて俯けば、イルカは「可愛い」とオレの頭を抱きこんでくる。
オレが上で、イルカは下で。忍びの能力だってオレが上で、きっと全てにおいてイルカがオレに勝てることは何一つないはずだ。
でも、オレは、イルカには一生頭が上がらない。
だって、オレはイルカの犬でもあるんだから。
犬好きなオレだけど、自分が犬であることが嬉しいと思ったことは初めてだ。
里の犬よりも、イルカの犬でありたいと思うオレは、きっと幸せなんだろうと思う。
以上、読んでいただきありがとうございました!!