獣人 1
ところどころ焼け焦げた臭いが吐き出される廃墟の中、小さな温もりを抱え歩いた。
先生が己の命だけではなく、我が子さえも犠牲にして守り抜いた里。
最後に交わした言葉が蘇る。
「カカシ、あとは任せたよ」
オレの目を見詰め、そう言って優しく笑った先生。
オレが何か言おうとする間もなく、先生は己が背負った火影の名を背中にたなびかせ二度と振り返らなかった。
オレは、そうして生かされた。
――だったら、今度はオレの番だ。
ずっと寄り添ってきた腕の中のものを地面に下ろし、まだまだ小さい、あどけない顔をした頭を撫でる。
「クロ。オレ、決めたよ。暗部の隊長、引き受ける。今度は、オレが里を守る」
まだ若いからという理由で、先生はオレを暗部の中枢に置くことを良しとはしなかった。でも、もうオレは庇護される存在ではない。これからは、オレが里を守る礎となる。
大きな丸い目がオレを見詰めている。その目はオレから決して離れない。まるで自分も一緒に行くと主張しているようで、オレは少し胸が痛んだ。
思えば、不思議な犬だった。
任務帰りに偶然通りかかった広場で、子供たちに囲まれて虐められていたのがこの犬だった。
全身真っ黒で、まだ乳離れしていない子犬のように小さかった。その癖、動きは早くて、やんちゃ盛りの子供を複数相手に、必死に抗戦していた。
けれど、多勢に無勢。小さい体では体力もそれほどないのか、子供たちの執拗な攻撃に動きが鈍くなっていた。そこを狙われ、木の棒を振り下ろされた時、間に入って助けた。
突然の闖入者に子供たちは慌てふためいて逃げ出した。子供ながら、弱い物いじめをした自分たちのことを分かっていたのだろう。
後に残った子犬は、体力も限界にきていたようで、子供たちが去るのを見た途端にその場にうずくまってしまった。よくよく見れば満身創痍で、石でも投げつけられたのか、鼻を跨ぐようにして一本傷が入り、血が流れている。
本当は目を瞑りたいほど疲弊しているだろうに、それでもオレに対しても警戒を緩めず、ずっと唸り声をあげ威嚇し続けていた。
小さい癖に、必死に虚勢を張っている子犬を放っておけず、オレはクロという名をつけて飼いだした。
その頃、父が任務に失敗し、周囲の風当たりが強くなっている時期だった。家に引きこもりがちになった父の気が、少しでも紛れたらいいという思いもあった。
忍犬ではなく、愛玩動物として飼い始めたクロだったが、このクロは子犬の癖にちっとも素直じゃなくて、散々オレや父を困らせた。
忍犬遣いであり、数多くの犬を従えた父の言うことでさえも、嫌な時は絶対言うことを聞かず、頑として動かなかった。
オレが本気で怒ると、しぶしぶ言うことを聞くという有様で、父に余計な気苦労を負わせてるみたいで正直失敗したと思った。
でも、父はそんな困り者のクロのことを決して疎んじることはなかった。そればかりか、父の言うことを聞かないクロに対して怒るオレに、穏やかな顔でこう言うのだ。
「クロは、私が主人でないことを分かってるんだよ。カカシ、クロはね、たった一人の人に死ぬまで忠誠を誓う、誇り高き者なんだ」
置いてあるクッションや枕、靴やその他もろもろを手当たり次第に噛み、穴だらけにする駄犬に何を言っているのだろうとオレはよく思ったものだ。
子犬のクロは手足は大きいのに、ちっとも成長しなかった。一年経っても、ほんの少し成長するくらいで、体はまだまだ子犬の域を出なかった。
もしかして妖魔の類だろうかと不審に思うオレを諌めたのも父だ。
父が自ら命を絶つ寸前まで、父はクロに絶大な信頼を寄せていた。時折、父はクロと二人きりで会話をしているようだったが、オレはその内容を知らない。
ただ一度だけ、父がクロに対して頭を下げているのを見たことがある。
死ぬ前日の夜だった。
父は、クロに土下座に近い格好で床に額をつき、震える声でこう言った。
「カカシを、どうか頼みます」
父の言葉に、そして、普段はうるさいほど騒がしいのに、この時ばかりは静かに佇むクロの様子に、オレは踏み入ることができずに背を向けた。
今、思うのは、あのとき、オレが何かしらの行動を起こしていたら父は死ななかったかもしれないということだ。
今更な話だが、そう思わずにはいられない何かを感じたのは確かだった。
父が死に、里も人も信じられなくなったオレに、クロはずっと寄り添ってくれた。
無感情のまま任務に赴くオレの後をついてき、何をするにでもずっと側にいてくれた。
正直、その時のオレはクロも何も目に入っておらず、機械的に全てを処理していた。自身の怪我も、危険もすべて顧みず、任務を完遂するためだけのものになっていた。
そうこうするうちに限界は呆気なくやってきて、オレはある任務で力尽き、森の中で起き上がることができなくなってしまった。
そのときでさえ何も思えないでいたオレを正気付させてくれたのが、クロだった。
クロは地面に倒れたオレを見つけた途端、激しく吠え出し、オレの顔に向かって何度も頭突きを繰り返してきた。それにも無反応だと見てとると、クロは不意に姿を消し、次に戻ってきた頃には体には不釣り合いな大きな鳥を口に咥えていた。
そして、それをオレの目の前に持っていくなり、尻尾を振りながら誇らしげに一つ吠えた。
それを見て、ある記憶が蘇った。
床に臥すようになった父の滋養のために、クロと一緒に狩りに行ったことがある。
クロはやる気は十分だけどちっとも役に立たなくて、逆にオレの足を引っ張って鳥を逃がしていた。
夕方まで粘ってもどうしても取れなくて、クロも少しはすまなく思ったのか、森の中で見つけたキノコを一房、オレの手に置いた。
こんなもので父の病が良くなるわけないと、文句を言いながら家に帰り、そのキノコで雑炊を作って出した。その見栄えの悪さと少なさにがっかりして、本当は鳥を取るはずだったと父に愚痴めいたことを言ってしまった。
言い訳を嫌う父の機嫌を損ねたと内心悔やみ、それもクロのせいだと憤慨したオレの耳に聞こえたのは、父の嬉しそうな笑い声だった。
屈託なく笑う父の顔が、食が細くなってほとんど食べられなくなっていた父が「すごくおいしい」と言ってくれて食べてくれたことがやけに胸へ響いた。
クロはオレが感動していることに気付いてか、ふんぞり返ってオレに何かを主張してきた。
元はと言えばお前が駄犬だからだろと、いつもの喧嘩に発展したが、父はそんなオレたちを嬉しそうにずっと見ていた。
そして、それが、父の最期の食事となった。
甦ってきた記憶に視界が歪んだ。
クロの体はどこもかしこも土まみれで、狩りの途中に怪我をしたのか座っている後ろ足を変に投げ出していた。それでも、誇らしげに胸を張り、尻尾を振り回しているクロを見ていると、忘れていた感覚が戻るのを感じた。
お腹が空いた。
思えば、急に腹が鳴りだして、今まで兵糧丸しか口にしていなかったことに気付く。
感じなかった痛みを全身に感じながら、オレは生きるためにようやく動くことができた。
傷の手当てをし、クロと一緒に食べた鳥の味は生涯忘れないと思う。塩もなくて、ただ焼いただけだったけれど、うまかった。クロと争うように食べて、腹を満たし、つい眠気に負けて眠り込んで起きた時には、オレは病院の中にいた。
眠るベッドの傍らには、クロが眠り込んでいた。負傷していた足を丁寧に治療され、オレの枕元にいた。
どうやって戻ってきたか分からず、病院の者に尋ねたが、その人も分からないと言う答えだった。詳しく話を聞けば、オレは里の大門前で倒れていたらしい。そのときクロも一緒にオレの側にいて、片時も離れなかったため、特別に同室を許したということだった。
その話を聞きながら、ふと脳裏をかすめるものがあった。
寝ているオレを誰かが背に負い運んでくれた覚えがある。オレよりも一回り小さい体で、「一緒に帰ろう」と声を掛けてくれた。
夢か現実か分からないが、その時見たのは、クロと同じような真っ黒な色の髪の毛だった。草の匂いとお日様の匂いを体にまとわせて、時折足を引きずるようにしながらも確かな足取りで運んでくれた。
一瞬、クロが人になって運んでくれたのかと思ったが、あり得ない話にオレはすぐに打ち消した。
ただ一つ確かなのは、クロは、オレにとって一番大事なものになっていたということだ。
クロ。
オレの大事な愛犬。
例えお前が妖魔でも化け物でも、それでも構わない。むしろその方がいい。
短命すぎる犬ではないお前と、ずっと共にいれたらと、オレはそう願った。
願ったのに。
「クロ。お前がいてくれたから、オレはまた生きることができた。親父が死んで、自暴自棄になったこともあったけど、お前が気付かせてくれた。まだまだ生きてていいって。まだまだ捨てたもんじゃないんだって」
先生と出会い、かけがえのない仲間もできた。里の仲間の尊さに気付くのはほんの少し遅かったけれど、その後悔はオレを強くしてくれた。
生きるのは辛い。大事な何かを持つことは恐ろしい。でも、オレは生きることを諦めたりはしない。
けれど、ただ一つ。ただ一つ、オレが死を願ってしまうほど絶望に駆られることがあるとするなら。
クロの小さな頬を両手で包む。
クロは目を細めて、じゃれるようにオレの手を噛もうと甘噛みしてくる。
無邪気に遊ぼうとオレを誘うクロに向けて笑みを浮かべ、そっとクロの額と自分の額を合わせた。
「クロ、大好きだよ。オレにとってお前が一番大事な存在なんだと思う」
悶えるように両手の中で動いていたクロの動きが止まる。
人の言葉は当然、人の感情の機微すらも理解している節があるから、ますますクロは不思議な奴だと思う。
顔を離せば、クロの真っ黒い瞳がつるりと光った。惜しむように両頬の毛を掻き混ぜていたら、突然クロが顔を突出し、オレの唇を舐めた。
触られるのは好きなようだが、人を舐めることを絶対しなかったクロに少々驚く。
オレの驚きにかまいもせず、クロは顔中を舐めてきた。オレの言葉に対する返事みたいで少し泣けてくる。
暗がりが徐々に薄くなる。
周囲に燻る黒煙が見えるようになったことを目にし、朝の訪れを感じた。
里の者たちは残ったシェルターへ身を寄せているのか、オレとクロ以外の人影はなかった。
――時間だ。
クロから手を離し、オレは言う。
「クロ、だからお前は里で待っててくれ。お前がこの里で生きている限り、オレは絶対に死なないと思えるから。だから、オレの帰りを待っていてくれないか?」
オレの言葉に、クロの顔が険しくなる。抗うように口を一瞬開いたが、クロはじっとオレの顔を見詰めた後、耳を寝かせ口を閉じた。
あぁ、こいつはどこまでオレのことを分かってくれているのだろう。
染み出る涙を指で弾き、オレはクロと約束をする。
必ず里に戻ってくる。そのときは一緒に暮らそう。オレはお前と共にずっと在りたいから。
オレの一言一言に、クロは口を閉じたまま何度も頷いた。
人間じみた仕草に笑ってしまえば、クロは非難するように小さく唸るからそれにも笑ってしまう。
廃墟の奥、連なる山並みから太陽が出る。
白い光に目を細め、オレはこれから里に残すクロのための第二の家について話そうと口を開いた。
クロを任せる人物である三代目には、すでに了解を取っている。
結構寂しがりやなところがあるから、火影屋敷のように人が多いところの方がクロにとっていいと思った。できるだけ、寂しい思いはさせたくない。
傍らにいるクロに視線を落としたところで、オレはその姿がないことに気付いた。
「クロ?」
瓦礫にまみれた町の中、声を掛けるが返事はない。
諦めきれずに一帯をしらみつぶしに探したがとうとうクロの姿を見つけることはできなかった。
時間も差し迫り、暗部の隊長として長期の里外任務に赴くため大門を出る。
クロのことが心残りだったがどうしようもなかった。
任務に就く仲間たちと合流し、一気に駆けだした時だ。オレの耳に声が聞こえた。
「カカシ、待ってるから、オレ、ずっと待ってるから!!」
その声はオレが夢うつつで聞いた声と同じ響きだった。
思わず足を止め、大門を振り返ったが、それらしき姿はなかった。他の仲間たちに声のことを聞いたが、何も聞いていないという返事しかない。
でも――。
「行ってくるよ、クロ」
大門に向けて呟いた。
再びこの里で出会うことを胸に、オレは里を後にした。
******
「やったてばよぉぉっぉぉ!!!」
黄色いたんぽぽ頭の子供が両手を天に突出し、喜びの声をあげる。それに続いて、黒と桜色の子供たちも安堵と喜色の表情を顔に浮かべた。
ようやく自分の眼鏡に叶う子供たちと出会うことができた。子供たちほどではないが、オレもそれなりに嬉しさを噛みしめる。
自分の全てを教えられる弟子ができたことを、そして、ようやく里に根を下ろすことができる自分を。
暗部を率いて長期短期問わずに里外に出ること、十数年。
いつか里へ戻ることを胸に任務に明け暮れていたオレに、火影から上忍師として里に定住する打診を受けた。
願ってもいない誘いに頷きはしたものの、オレが育てたい子供たちと会うことなく数年過ぎ、この度ようやく巡り会えた。
オレが里へ定住することが決定づけられた瞬間だった。
里を思えば直結して思い浮かぶ存在がいる。
クロ。
少年時代を共に過ごした、オレの愛犬。
訳あって今は一緒にいないが、クロのことは一度たりとも忘れたことがない。
今では忍犬遣いとしても名を知られているオレだけれど、クロは使役している忍犬たちとは一線を画していた。
忍犬のことは家族だとも相棒だとも思っているオレだが、クロはもっとオレに近い存在だ。適する言葉が思い浮かばないのだが、クロはオレの側にずっといてくれる相手。苦労も悲しみも喜びもすべて分かち合う存在といっていい。
里に戻るたび、クロに一目会いたいと思ったが、一度会えば二度と離せなくなりそうで必死に我慢した。
だが、この度、オレが里に定住できるようになって、オレはようやくクロと共に暮らせる身になった。これで我慢せずにオレはクロに大手を振って会いにいける。
別れた時の約束を思い出す。
人と約束した時でさえ忘れられていないか不安になる年月を経たが、不思議とオレは不安を覚えていなかった。
犬とはいえ、どこかミステリアスな存在だったクロのことだ。きっとオレとの約束もずっと覚えていると根拠もなくそう思っている。
「カカシ先生、カカシ先生、紹介したい人がいるってば!!」
クロがいそうなところを思い浮かべていれば、黄色い子供がオレの手を引っ張ってくる。
「あー。オレは、ちょっと用があってな」
断ろうとするオレをさせじと、桜色の子供も手を捕まえてきた。
「いいじゃないですか! ほんの少しだけですから! すっごい心配してたから、安心させる意味でもカカシ先生会って下さいよー!」
先生呼びを躊躇いなくしてくる子供たちに絆されかかる。だが、オレは一刻も早くクロと感動の再会を現実のものとせねばならないのだ。
どうにかして子供たちを振りきれないかと、その場で考え込んでいれば、成り行きを静観していた黒い子供が小さな声で呟いた。
「あ、イルカ先生」
その一言に、黄色と桜色の子供の顔が上がる。
一瞬で喜色に紅潮した顔に、何事かとオレも視線を上げれば、そこには駆け足でこちらへ向かう青年がいた。
「イルカせんせー!!」
「イルカ先生、受かりましたー!!」
ぶんぶん手を振る子供たち。イルカと呼ばれた青年は、それにうんと頷き、走る速度を上げた。
その様子を呆然と見ていて、少し嫌な予感に苛まれる。
イルカ先生とやらはオレたちを見た直後、明らかにスピードをあげた。そして、それは人となりを十分視認できる距離においてもちっとも緩めることはなかった。
まさかこちらに突っ込むつもりか、いや、まさかなと惑うオレを尻目に、イルカ先生はトップスピードに乗ったまま叫ぶ。
「お前ら、おめでとー!! でもな、まずは最初に言わせてくれ!!」
走る。
てっぺんで結んだ黒い髪をたなびかせて、イルカ先生は走る。
そして、オレに向かって飛んだ。
「カカシー!! おかえりーー!!」
黒い影がオレの頭上に掛かった直後、手のひらを広げてダイブしてきた体を思わず受け止める。だが、勢いがありすぎて結局オレは地面に押し倒されてしまった。
走ってきた勢いで突撃され、背面にまんべんなく衝撃が走る。その痛みでしばし言葉を失っていれば、痛みの原因を作った権現は弾む息のままオレにしがみ付いた。
「カカシのバカ! 遅すぎるだろ! 約束忘れちまったかと思って、何度里の外に会いに行こうと思ったことか!!」
馬鹿野郎と悪態をつく傍ら、ぺろぺろと顔を舐め始めた男に眩暈がした。
「ちょ、アンタ、何すんの!」
初対面の相手に対する態度じゃないと、顔を手で押し返し、首根っこを掴もうとしたところで気付く。
男の頭から何かが生えていた。そして、視界の奥。男の尻辺りで何かがものすごい勢いで左右に振られていた。
「え?」
思わず呆けた声を出すオレに、子供たちが笑う。
「カカシ先生、知らねぇのか?」
「イルカ先生はね、獣人なの。それで、ずっとある人と待っていたんだって」
ぎゅうぎゅうと首にしがみついてきた男に抵抗することすら忘れて子供たちを見る。
獣人? 待っていた?
オレがまさかという思いを抱く前に、黒い子供は言った。
「はたけカカシ。あんただよ」
腕を組み、どことなく嬉しそうな顔で言った子供に、オレは失神しそうになる。
まさか。そんな。
「お前、クロなのかー!?」
素っ頓狂な声で叫ぶオレに、クロことイルカ先生は上機嫌に吠えた。
戻る/ へ
------------------------------------------
これで終えてもいいなと思いつつ、続く気がするので長編作品に載せます。はい。