レッスン7
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「……おめぇよー。その腑抜けた面はどうにかなんねぇのか?」
待機所で、開いた愛読書をそっちのけで左手の指先を見つめていれば、前方から声が掛かった。
いつも通りに煙草をふかしているだろう髭熊に視線をやることすら惜しくて、視線はそのままに返事をしてやる。
「んふふ、わかるー? でもしょーがないでショ。昨日、イルカ先生がオレの爪切ってくれたんだもん。しかも両手両足全部」
削りすぎたー! と顔を青くして狼狽え、オレに涙目の視線をくれるイルカ先生を思い出して、笑みが零れ落ちる。
本当にもう何だってあんなに可愛いんだか。
オレと同じ成人男性だというのに、ふとした時に見せる仕草は思わず胸を突かれるような可愛さがあって困る。一体オレをどうしたいんだろーねぇ?
そのときの様子を思い出してにたにたしていると、あからさまなため息が吐かれた。
髭熊の隣にいるいつもの顔ぶれだと気にもせずに、先ほどから何度も思い返している記憶へと再び巡ろうとすれば、前方に影がかかった。
暗がりに隠れて、イルカ先生が整えてくれた爪先が見えにくくなる。
邪魔しないでよと声を上げるより先に、どぎつい赤色に染めあがった爪先がオレの目の前に突きつけられた。
「カカシ。あんた、まーだ分かっていないようだから言うけど。アンタのそれって何?」
イライラした気配を隠しもせずに問う紅に、オレは眉根を寄せる。
「何って何? ……ちょっと髭ー。アンタの女でショ。しっかり面倒みてよ、迷惑」
もしかしてお前たち喧嘩してんのと視線を向け、とばっちりを食った己の災難を嘆く。
「んなわけあるか!」
「違うわよ!!」
同時に二人から否定の言葉を吐かれ、仲の良いことだと生ぬるい目を向ける。
「はいはい、それならそれでいーよ。ちょっと浸ってる最中なんだから放っておいて」
ソファの上を横に滑り、紅の影から抜け出る。だがそれはさせじと紅もくっついてきたから眉間の皺が深くなった。
本当に止めてとうんざりした表情で見上げれば、紅はオレよりも険しい顔をしていた。
「ちょっと、本当に何なの。もしかしてせ」
「下品!!」
女性特有の日で気が昂っているのかと言い出せば、途中で頭を叩かれた。
初でもないくせにうっすらと頬を染める紅の様子に、くノ一って怖いと冷静に見つめていれば、オレの心の声を察したのか、今度は拳で殴られそうになった。だが、いち早く彼氏が後ろから羽交い絞めにしてその行動を止めてくれた。
「落ち着け、紅。話が進まねーだろ」
「っっ! もう、分かった! 話すから手離して!! でも、一度くらいは殴らせて!!」
やんやん騒がしい二人を眺めた後、今度こそ昨日の出来事についてたっぷりと思いめぐらそうとして、いつの間にか隣に座っていたゲンマに気付く。
オレが気付いたことを察したゲンマは「うっす」と小さく頭を下げ、口に咥えている楊枝をピコピコと上下に揺らす。
こちらをじっと見つめている目は、明らかに聞きたいことがある様子で、オレを窺っていた。
先ほどから何なんだと少々げんなりしつつ、早めに済まそうとゲンマへと口を開く。
「……何?」
オレのお許しの言葉を受け取った途端、ゲンマの横にアオバと、ライドウの姿が現れた。
増えた人数に思わず顔を引きつらせれば、選手交代とばかりにアオバがずいっと身を乗り出してくる。話を持ってきたゲンマは口を開く気はないようで、様子見の状態だ。ライドウは……自分でも何故ここに座っているか分からないような顔をしていた。ライドウ、お前流されすぎだろ。
「カカシさんのお許しが出たところで聞くんですが、カカシさんってイルカのこと好きですか?」
眼鏡の片方を一度持ち上げ、リポーターばりに話を切り込むアオバの問いにオレはため息交じりに吐き出す。
「何よ、いきなり。そんなの当たり前でショ。好きじゃなかったらこうも楽しく毎日暮らしてないし」
イルカ先生との同居は任務があるからこそだが、こうも長い間私的な時間を共有してストレスを感じないのは、オレがイルカ先生に好意を持っていることと、二人の相性がばつぐんにいいからに違いない。
最近、この任務が終わらなければいいと、いやなし崩し的にこのままの生活が続かないかと願うほどに、今の生活は気に入っている。
待機任務が終わったらイルカ先生を誘って帰ろうとこの後の予定に思いを飛ばしていると、アオバとゲンマがライドウへ視線を向けた。それを受けたライドウは一瞬動揺していたが、ハッと我に返ったように二人の顔を見つめた後、やれやれと言わんばかりに口を開いた。
「あー、カカシさん、そういう曖昧な言葉じゃなくてはっきり言ってやってくださいよ。こいつら、カカシさんのあからさまな態度見ても、ちっとも理解してなくて、今度の合コンにカカシさん誘う誘うってうるさいんです」
はぁっと大きくため息を吐いたライドウの言葉に思わず視線が向く。
「は?」
聞き返しの意味が含まれたそれに、ライドウは気付かず、しょうもない野郎たちだと言わんばかりに続きを述べた。
「だいたいカカシさんが付き合ってた女って、まんまイルカの特徴持ってましたもんね。中にはわざとイルカに似ようと黒髪に染めたり、日に焼けたりとか、涙ぐましい努力してましたし。くノ一にあるまじき筋肉つけようと励んでいた姿見た時は、なんかもう憐みよりも尊敬の念を覚えるほどでした……。まぁ、カカシさん、ちょっと鈍いところあったようですけど、今はもう自覚してますもんね。オレも見ましたよ。二人で仲良く買い物してる姿、しかも今同棲してるんでしょう? こいつら、女呼びたいがために頑なにカカシさんは独り身だって言ってますけど、この際ガツンと言ってやってください。『オレにはもうイルカという可愛い恋人がいる!』って、お願いしますよ」
にこにことこちらに一切の悪意も他意も見受けられない、純粋な眼差しを向けられ、言葉に詰まる。
「え?」
思わず意味のない言葉が出る。
「……え?」
純粋な眼差しを向けるライドウから目を離し、ゲンマとアオバに視線を向ければ、どこか苦笑じみた笑みをオレに返してきた。
「え?」
オレの斜め前にいるアスマと紅に目を向ければ、呆れたような顔とひどく冷めきった眼差しが突き立った。
駄目押しに回りを見回すと、どこかひどく生ぬるい、どうしようもない問題児を見る眼差しが多数発見された。
それを自覚して、ライドウの言葉の意味を理解して、顔が紅潮する。
「えぇぇー!! オレって、イルカ先生のことがそういう意味で好きなのー!?」
叫んだ瞬間、手から愛読書が零れ落ちる。
ぱさりと音が立った直後、四方八方から声があがった。
「うわ、本当にアンタ最悪」
「やれやれ、ようやくか」
「やっぱり、そうだろうとは思いましたけど」
「カカシさん、本当に鈍いですよね」
「? 何です? 何?」
一斉に喋りたてた中で聞きとれたのは近場にいた四人の声だったが、周囲が十分すぎるほどオレの状態を察していたことに愕然とした。
いや、でもちょっと待って。
ざわざわと蜂の巣をつついたように騒々しくなった場に、オレは一縷の望みをかけて声を張る。
「待って、ちょっと待って!! だいたいイルカ先生は男で、オレも男だから!!!」
この気持ちが恋愛感情のそれとはまた違うんじゃないかと吠えれば、場のざわめきは大きくなった。
「今更性別って」
「なんで自覚してないんだかね」
「あの子たちも可哀相」
「手を出すべきじゃなかったのよ」
「てっきり遊んでるんだと思ったんだけど、自覚なしかー」
「うみのを見る目を見せてやりたいよな」
ああだこうだと好き勝手言われ続けていたが、それは時間が経つにつれ、一つの言葉に集約された。
「ひどい」
「ああ、ひどすぎる」
「本当にひどい」
「目も当てられないくらいひどい」
「ひどい」とそこかしこから声が上がり、オレは混乱と同時にひどい衝撃を受ける。
そんなひどいって、そんなの、そんなの。
お調子者の上忍が音頭をとって「ひどい」コールを取るのも時間の問題かと思われた時、そこに冷静な声が響いた。
「あんたの間抜け振りは今に始まったことじゃないけども、それで、あんたはどうするの?」
感情を押し殺し、オレへ冷めた視線を送る紅の言葉を受け、顔を上げる。
確か、オレの元彼女の中には紅の友人が何人かいたはずだ。
怒りと苦々しさを宿した、イルカ先生とはまた違う黒い瞳を見つめる。
逃げるな、ここまで来て誤魔化すな。
そう言外に告げる紅に、オレは自然と口を開いていた。
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「ただいま帰りました」
ガチャとドアノブが開く音を聞きつけ、思わず背筋が伸びる。
運悪く残業が入ったイルカ先生の代わりに、先に帰宅したオレが食事の準備をした。いつもの風呂の準備をしてもちょっと時間が余ったから、掃除と洗濯もして、ついでに不用品の仕訳もしてしまったが、イルカ先生は怒るだろうか。いや、それより未だ認められない感情を抱えたオレはどういう顔で向き合っていいか、非常に困っていた。
「カカシ先生?」
手洗いとうがいを済ませたイルカ先生が、オレのいる居間へとやってくる。
名を呼ばれ、覚悟を決めて振り返った先で、オレは思わず息を飲む。
「おかえりなさい、カカシ先生」
オレを見つめる目を撓ませ、何かとてもいいものを見たというような小さな笑みを浮かべるイルカ先生に、知らずぐっと胸が引き絞られた。
「……ただいま、イルカ先生。で、おかえり」
胸に詰まるような、それでも不快な感情ではないそれに翻弄されながら、言葉を返せば、イルカ先生は今度は花が弾けたような満面の笑みを見せてくれた。
「はい、ただいまです」
卓袱台に並ぶ夕飯に、イルカ先生は目を輝かせた後、少しばつの悪い思いを受けたのか、はにかみながら鼻傷を掻いた。
「本当だったら喜んじゃいけないんでしょうけど、今日は助かりました。俺、今日は昼も抜いてて、正直お腹ぺこぺこで。あー、うまそう」
思ったよりイルカ先生が帰るのは遅くて、湯気を立てていた夕飯はもうすっかり冷えきっている。それでも嬉しそうに笑うイルカ先生に鼓動を騒がしながら、「温めるよ」と席を立とうとすれば、イルカ先生も一緒についてきた。
「え、もしかして、カカシ先生も食べてないんですか?」
驚いた表情を見せるイルカ先生の顔が直視できなくて、ちょっと視線を外す。
「悪い? ……イルカ先生と一緒に食べたかったの」
冷めた夕飯を手分けしてレンジへ入れる。オレの不貞腐れた態度が面白かったのか、ほんの少し笑い声があがる。
「待ってくれて、ありがとうございます。二人で食べる方がおいしいですもんね」
でも、今度から先に食べてくださいよと、遠慮がちに吐かれた言葉には返答できなかった。
オレの内心を察した訳でもないだろうに、イルカ先生はそれ以上言わず、オレを急かして温かくなった夕飯を卓袱台へと運ぶ。
「いただきます!」と元気よく手を合わせ、「うまい、おいしい」と欠食児童ばりに口を運ぶイルカ先生を見つめ、ふんわりと温かくなる胸の内を否が応でも自覚した。
夕飯を食べた後、洗い物をすると駄々をこねるイルカ先生を宥めて風呂に入らせ、その間に食器を洗う。
後は寝るだけになるように、布団を敷いて、明日の朝の食事と昼の弁当の下準備も終えた。
万全に整えて、オレは一人、布団の上に座る。
ここに越してから、イルカ先生と共に眠ったことはない。オレは居間で、イルカ先生はその隣合った続き部屋のベッドで眠っている。
始めは何とも思っていなかったけれど、ここにきてそのことが非常に気になる。
扉を一枚隔てた先で、無防備にもイルカ先生は眠っているのだ。
その事実に胸のざわめきと共にどろりとした熱を覚えて、慌てて頭を振った。
あれから先、自分の感情を持て余し気味だ。
正直言って分からない。
自分の気持ちが見定まらない。
確かに、イルカ先生は好ましい。好きだとも思う。だが、これが恋愛感情なのか、オレ自身が判断つかない。
回りは恋愛感情だと殊更に強調する。
どうしてと理由を聞けば見ていれば分かると言われた。
けれど、オレ自身がその自覚ができないのだから、どうしろと言うのだ。
自分のことなのに、ぐるぐる回るだけで判断つかない気持ちは気持ち悪いと思う。それを見定めたいとも思う。
だからこそ。
だから。
今日、オレは自分の気持ちを見極める。
「はぁー、いいお湯でした。カカシ先生は先に入ったんですよね?」
濡れた髪をタオルで豪快に拭きながら、イルカ先生が現れた。
いつものパジャマに洗いざらしの髪を下げて居間へと戻ってくる姿は見慣れたものなのに、感情がざわめいた。
意識しすぎているのか、過敏に反応する感情を深呼吸で押さえ込み、平素を装う。
「うん、一番風呂いただいたよ。で、イルカ先生、いつも言ってるでショ。髪の毛そんな風に手荒に扱っちゃ、将来はげちゃうよ。そこ座って」
あまりに手荒く扱う手に不満が募って、オレはイルカ先生からタオルを抜き取り、座るよう指示を出す。
「えー、自分で拭けますよ」
今日は色々と疲れたのか。ぼんやりとしたイルカ先生がタオルを取り返そうとしたが、オレはそれを許さず、誘導するようにオレが敷いた布団の上に腰を下ろさせ、背後へと位置を取る。
「いいの。今日は特別。イルカ先生お疲れなんだから、たまにはオレに甘えてよ」
「それだと俺の計画に狂いが……」
「一日くらい大丈夫、大丈夫」
軽口を叩きながら、イルカ先生の濡れた黒髪から水分を拭う。
自分の指先に注視していれば、繊細なものを扱うように、まるで宝物にでも触れているような慎重さで触れていた。
どれだけしても満足できなかった虚が満たされるような心地に襲われて、ひどく切なくなった。でも、まだ足りない。まだ分からない。
あらかた拭き終え、ドライヤーを取り出し、櫛で整える。
本当に今日は疲れているのか、何も言い出さないイルカ先生にかこつけて、熱心に櫛を動かしていると、ぽつりと独り言のような小ささでイルカ先生が呟いた。
「……カカシ先生がここを出るのも直かなぁ」
温度のない音だった。
そこに含まれた感情は見えなくて、事実をそのまま言っているような、ともすれば無感動ともいえる言葉。
走ったのは痛みで、確かにオレは傷ついたことを知る。
遅れて芽生えたのは怒りで。ぐらぐらと煮えついた思いが脳裏を焼いた。
イルカ先生はオレがいなくなってもいいのか、あんなに楽しそうに笑っていたのに本当は苦痛だったのか、オレのこと好きって言ったくせにその思いはすぐに諦める程度の弱いものだったのか。
許せない。
オレしか見えないように、縛り付けてやろうか。
突然浮かんだ心の声に、理性を持つ頭がヒヤリとした。
無防備に背後をとられているのに、気持ちよさそうに、ともすれば眠ってしまいそうなほどに弛緩しているイルカ先生を見つめた。
何て警戒心のないと嘲る言葉がついて出る。
それは信頼されているからだと冷静な声が諭す。
だったら、お前はどうしたい、どうするのと、昼間に紅に言われたような言葉を吐かれて、少し怯んだ。
見極めるんだろ、自分の気持ちを見つめるんだろと、さも楽しそうに囁く言葉に気持ちがぐらつく。
オレの迷いを見つけて、それは嬉しそうに哂った。
お前には惚れ薬っていう免罪符があるじゃない。ねぇ、アンタこそよぉく分かってる癖に。
何度も踏み出そうとして、結局踏み出せなかった一歩を、無理やり背中を押されて踏み出した心地だった。
ポーチに入れていたあの丸薬が、今は違った意味を持つ。
打算的な考えと、自分への言い訳、そして何より己の欲望がそれを望んだ。
「ねぇ、イルカ先生」
半ば意識を手放しかけているイルカ先生へとそっと呼びかける。
「んー、何ですか?」
緩慢な動作で振り返り、オレを仰ぎ見た黒い瞳に笑いかけた。
「今日飲んだ惚れ薬が無駄になるから、ちょっとだけレッスンしよう」
飲んでもいないそれを自覚しながら、そう嘯いた。
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うむんうむん。