けものびと 10
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「……ありがとう、ございます?」
狼人に連れられて、イルカが買われた店に直行するなり、すったもんだの騒ぎを経た後、イルカは店の関係者立ち入り禁止区画内にある一室に案内された。
大きめの室内にはソファや椅子、大き目の机が置かれ、壁際には飲み物やお菓子が備え付けられているばかりか、簡易キッチンもあった。
観葉植物や、テレビ、簡易ベッドが数台置かれていることからして、ここは従業員用の休憩室なのだろう。
その部屋に案内してくれたゴリラ人は、イルカをソファに座らせるなり、いそいそと簡易テーブルを組み立て、その上にコーヒーとお菓子が入った籠を置き、イルカの斜め前に椅子を持ってきて座っている。
その手にもイルカと同じコーヒーが入ったカップがあることからして、一緒にお茶をしようということなのだろうか。
だが、イルカの隣に座っている狼人の前にはコーヒーはなく、代わりに数冊の古ぼけたノートが置かれていた。
狼人はそのノートの一冊を手に、眉間に皺を寄せうんうんと唸りながら読み込んでいる。
一体何が書いてあるのだろうと興味に駆られて確認したところ、とある文字に対しての説明がされているような体裁だった。無論、意味は全く分からない。
「あ、うまい」
唸っている狼人にも見飽きてコーヒーを啜れば、すっきりとした香りと甘さが口を満たす。
イルカが喜んでいることを感じ取ったのか、ゴリラ人はイルカに菓子を勧めてきた。
甘いものが嫌いではないイルカはありがたく頂戴する。
口どけの良いクッキーもこれまたおいしかった。
上機嫌で食べていると、部屋の扉が開き、犬の獣人が入ってきた。
「””#$%&&$#」
「#$%&’”」
ゴリラ人が立ち上がり、犬人を出迎える。犬人は何かを話しながら椅子を持ってきて、ゴリラ人の隣へと腰を下ろした。
成り行きを大人しく見守っていると、狼人が犬人へ身を乗り出し興奮気味に何か言う。それに対しどこか怯えた様子で言葉を返しつつ、犬人はイルカへと顔を向けた。
茶色い毛の、目がくりっとした和犬だ。
瞳も茶色で、印象としてはとても優しい雰囲気を感じるが、如何せん、初対面時に突然電撃を食らって意識を失ったのが、この犬人の手によるものが濃厚であり、印象そのままに対応することはできなかった。
一番危険なゴリラ人が突如襲い掛かってくるような素振りはなく、この犬人も怪しげな動きをする様子はないので、ひとまずは様子見をするかと心の中で呟く。
ともあれ、表面上だけでも友好的な態度をしておく方がよいと、打算的な気持ちで笑みを浮かべて犬人と対面した次の瞬間、イルカのささやかな打算は吹っ飛んだ。
「+*、っ、あー。ハジメまして。ボク、名、ロルフ。キミ、名、オシエて?」
耳に入った言葉に、思わず体が動く。
「あ、あんた、喋れるのか!?」
耳に懐かしい言葉の音に、体を前に倒してロルフと名乗った犬人に顔を近づければ、横から大きな手がのめり出た体を制止してくる。
思わず邪魔するなと怒鳴りかけて、横に座っている狼人のどこか咎めるような視線を受けて、我に返る。
狼人の制止はごもっともだ。突然、我を忘れて飛びかかりそうなほど近づいたのは軽率だった。
「す、すいません。興奮してしまって……。あの、もう大声上げませんから……。すいません」
よっぽどイルカの反応が怖かったのか、ロルフは丸い目を限界まで見開き、ふるふると小さく震えている。若干、イルカから視線が逸れているのが気にかかるが、目を合わせるのが怖いのかもしれない。
「すいません、脅かすつもりじゃなかったんですけど、本当すいません」
ぷるぷると震え続けるロルフへ重ねて謝罪をすれば、ロルフは突然ピンと体を縦に硬直させるや、口早に話し出した。
「い、イエイエイエイエ!! アナタ、悪い、チガウ。コッチノ事情、あり。気にシナイデ。ソレヨリ、名、オシエて、クダサイ」
そういえば質問をされていたのだった。
「俺の名前はイルカです。うみのイルカ。成人男性です」
ついでにイルカの性別もしかと伝える。
獣人たちにとって人間の性別は見分けがつかないのか、何故か女性ものの服を宛がおうとしてくる。これを機に、まともな服を買ってもらいたいものである。
そこまで思って、狼人の世話になっていることを受け入れている自分を見つけて、苦笑がこぼれ出る。イルカにとって狼人との暮らしは快適と言わざるを得ない。
今日出会った子供が獣人に虐げられている現場を見ると、イルカはかなり恵まれているのだろう。だからといって、このまま現状に流されるつもりはない。
イルカは木の葉の里に戻る。イルカは忍びだ。里あっての己なのだ。
今一度己の立場を確かめた後、ロルフへと視線を向けると、ロルフから嬉しそうな気配が漏れ出た。そして、イルカから横にいる狼人へ視線を向け、何事か告げている。
薄っすらとイルカの名前と似た響きの単語が出るため、狼人へ名を教えているのかもしれない。
じっと成り行きを見守っていると、ひとしきり教え終わったのか、ロルフは満足そうに鼻息を出し、そして狼人は目をキラキラさせてイルカを見下ろしてきた。
「っぇるあ、……うぇるあ!!」
狼人は早くも尻尾を振り回してイルカへ期待の目を向ける。
もしかしなくても、イルカの名を言えたと思っているのだろう。
狼人にしては頑張ったのだろうが、もしこの音でイルカを呼ばれても振り向かない自信がある。
もう少しで言えそうな気配もあるので、イルカはお節介にも矯正に入ってみた。
ぱたぱたと尻尾を振る狼人へほんの少し笑みを向けて、自分の唇を指で示して、一音ずつ発音する。
「いー」
「#$? ぃ?」
「うん、そうそう!! もう一回、いー」
「‘。いーー」
イルカの口元を見ながら狼人は確かに正確な音を発した。それに大きく頷いて、二音目。
「るーー」
「……っるーー」
先ほども出来ていたおかげか、この度も完璧だ。それに満面の笑みを向け、大きく頷き三音目。
「かーー」
「‘*+、っ、あ、#$%$……。ぁかーーー」
少し難しかったのか、ごにょごにょと言っていたが、最後にはちゃんと発音できた。
ここまできたら、もう少し欲張りたいと、イルカは続けて言う。
「いーるーかー」
「ぃ、っ、いー、ぅ、っ、るー、ぁ、ぁ、かーー」
表情筋を動かしつつ、音を確かめながら狼人が懸命に続ける。でも、もう一歩。
「イルカ」
「いぅるかぁ」
「イルカ」
「いぃぃるぅあ」
「イルカ」
「いぃルか」
「イルカ」
「イルカ」
お互い向き合って、練習すること数度。
イルカに続けて狼人が発した言葉は、確かにイルカの名を呼んだ。
「そう、それー!! よくできました!! 頑張ったなぁ!!」
言えた瞬間、イルカは立ち上がり、狼人の頭へと飛びつく。
よく頑張ったと我がごとのように喜び、頭をわしわしと撫でれば、狼人の尻尾の動きが最高速で振りまわる。
「イルカ、イルカ、イルカ!!」
「そうそう、うまい、うまい!! すっごいな、お前っっ」
二人できゃっきゃっとはしゃいでいれば、ふと視界に強面のゴリラ顔をもっと険しくしたゴリラ人が入り、すっと冷静になる。
店の奥まった所とはいえ、人様の前ですることではなかった。
興奮気味に「イルカイルカ」と連呼する狼人から体を離し、落ち着け落ち着けと宥めていると、今度は狼人がしきりに自分を指さし、何か言ってきた。
「+*+*$%」
「ん?」
「+ー」
しきりに自分の口を指さし、イルカに示している。狼人がしていることを何となく察して、確かにこれまでお互いの名前を知ることはおろか、言う努力すら放棄していたなと思い出す。
自分の名を言うことを強要とした手前、この場を再び借りて努力するべきかと思ったが。
「+ー」
「っ、お、あぉうぇ、っご」
狼人の音を真似ようとして、えづきそうになる。
いや、この音何、どうやって出してんの。
「+”#」
「は? 何だって?」
「+”#っ」
先ほど聞いた音とは違う何かが混ざった。イルカの耳がおかしいのかと何度耳を澄ませても、その時その時によってほんの少しずつ音が変わっているように聞こえる。これでは、一音もまねできる気がしない。
「+*+*$%っ」
もう何度目になるだろう。
弾んだ声で狼人は自分の名前だろう音を言う。
イルカは一瞬遠い目をして、にこっと狼人へ笑いかけた後、ロルフへ向き直り真顔で告げた。
「すいません、ロルフさん。俺にはこの狼人の名前言えそうにないので、無理と伝えてください」
「…ぉう。*+$%&」
なにがしか呻き、ロルフはピンと立っていた耳を垂れ下がらせた。
そして待つこと数分、ロルフは狼人へ告げた。途端に悲痛な鳴き声をあげる狼人。
どうして!? なぜと涙で潤んだ目をイルカへ向けてくるが、イルカは悟りきった笑みを浮かべて拒否するしかない。
声帯の出来方も違えば、耳の機能も違う。
単なる人間でしかないイルカには荷が勝ちすぎる案件だったのだ。
きゅんきゅん泣き出した狼人の視線をあからさまに避けていると、二人の様子を窺っていたロルフがそうだと言わんばかりに、ワンと吠えた。
ロルフはゴリラ人へ何か訴え、ゴリラ人が何かしら考え始める。そして何か思い立ったのか、ロルフへと話し始めた。それに相槌をつきつつ、手元の紙に記載し、そうしてロルフはイルカへとどこか縋るような視線を向けた。
「ボクたち、名。意味ある。ロルフ、意味、かしこい。アッチの人も、ある。意味、考えて、名、当てる。アナタの所の。アナタ、知る。言う。ミンナ、幸せ」
要は、獣人たちの名前は一人ひとり意味があるので、それを元にイルカたちの世界に当てはまる何かに変えて、ひとまずそれを当座の名前にしよう、ということだろか。
この場でできる最適な解決策に、内心、拍手を送りつつ、イルカは了承した。
ロルフは言う。
「アッチの人。名、意味。守る者。アナタ、言う。『カカシ』」
飛び出た言葉に思わず吹き出すところだった。
守る者の意味で、なぜ、田畑を守る案山子がピンポイントで出てきたのだろう。もっと守護するものとしてかっこいいものもあったのではなかろうか。
会心の出来だと自負しているのか、ご満悦なロルフを見て、イルカは内心の笑いを押し込め、ふと思う。
なんて心強い名前だろうか、と。
木の葉には海がない。
内陸の地で、ひっそりと隠れるように隠れ住む里の者が口にするものは、主に田畑の恵みだ。だから、田畑には作物を狙う害鳥から守るために案山子がたくさん立てられている。
それは木の葉では見慣れた光景であり、イルカの故郷の風景でもある。
木の葉は案山子に守られていると言っても過言ではないのだ。
きゅんきゅん泣いて嘆いている狼人の腕を軽く叩く。
イルカへと注意を引き、こちらとの視線がかち合ったと同時にその名を口にした。
「カカシ。……カカシさん」
狼人は、カカシは、イルカの呼びかけに瞬きをする。
不思議そうな顔をするカカシへ、ロルフが補足説明をしたのだろう。
ロルフの言葉を聞くにつれ、カカシは悲しげだった瞳を徐々に明るくさせ、最後には嬉しくてたまらないように目を細め、尻尾を振り回し始めた。
銀色の大きな狼。
木の葉から遠く離れて奴隷同然となったイルカを買い取り、ペットに与えるには有り余るほどの自由を惜しげもなくくれる変な獣人。
日頃からこちらに見せる好意は隠しもせず、ともすれば暑苦しいくらいで、自分がいなくなった後、この狼人はどうなるのだろうかと時折不安に駆られるほどだ。
いつかは離れなくてはならない。
いつかは切り捨てなくてはならない。
何度も何度も自分に言い聞かせたのは、すでに情が移り始めているせいだ。
それなのにここに来て、木の葉の風景としてありふれた、イルカ自身馴染み深い存在が出てきてしまい、必死で閉じていたものが綻びそうになっている。
「……草の任務は、上から禁止されるはずだ」
興奮するカカシを、ゴリラ人とロルフが二人がかりで宥めている様子を見ながら、ぽつりと呟く。
自他共に他人の懐に入る腕の良さは認められながらも、こと任務に際して長期間の諜報任務を任されることは一度たりとしてなかった。
不適格。
任務の適正査定にて、イルカに下された結論だ。
同期が一度は必ず任されるその任務を外されたことに、内心では苦々しく思っていた。だが、ここにきて木の葉の上層部の判断は慧眼だったとしか言えない。
「……連れて行くことは、無理かな」
カカシにも生活があることは、ここ3か月共に暮らしてきて十二分に知った。
家族が近くにいる気配はない。だが、カカシの部屋に尋ねてくる友人がいた。気安そうにじゃれあいながら、共に楽しそうに語らい合っていた。
それに、木の葉に連れて行ったとして、カカシの処遇はどうなる。
一介の中忍でしかないイルカがカカシを守れるのか。
獣人という存在に対して里の上層部が興味を示さない訳がない。カカシは十中八九、拘束されるだろう。もしかしたら非道な人体実験の被験者になる可能性だってある。
己の身勝手な願望から出る未来の姿は、どれもがカカシにとって最悪な未来でしかない。
イルカがカカシと共にある未来を望むなら、イルカがこのままこの場に留まるしかない。だが、それは。
「無理だな」
諦念とも確固たる意志とも言える思いがついて出る。
イルカは忍びとして育ち、忍びとして生き、死ぬことを教えられた。それ以外の道は、今までの自分を否定することだけではなく、己の芯を抜き取られることでもある。
そして、心情的にもやはりイルカは木の葉が好きなのだ。
あの編み笠を被り、煙管を吹かせながら、「イルカ」と孫を見つめるような眼差しをくれる火影が治めるあの里が、愛しくてたまらない。
そこまで考えて、どうにもならない苦さを歯を食いしばって味わった。
いつかは別れる。
別れなければならない存在。
出来れば、その日がほんの少し遅れたらいいと、イルカを見て優し気に微笑むカカシを見て思った。
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悩む青年イルカくん。