イルカ主編1



〜 初めまして、ご主人様 〜



「何なんだよ、あいつら……」
 路地裏の積み上げられたダンボールに体をくっつけ、荒い息を押し殺す。
 突然沸いて出た現実味のない存在を思い出し、遅れて体が震えてきた。


 日曜昼時の、客が殺到するファミレス。
 学費と生活費を稼ぐ、二つ目のアルバイト先であるそこで、俺はいつものようにバイトに精を出していた。
 ピンポンピンポンと注文を求める音が店内に響き渡り、客と厨房の間を行き来する。
 長い間待たせてしまったお客さまに罵声という励ましのお言葉をもらいつつ、片っ端からオーダーを処理してた時にそいつらは突如として現れた。
 黒い靄のようなものが広がった直後、それはそこにいた。
 人のようなフォルムを持つものの、その肌は人とは到底思えない色を持ち、手には包丁を長くしたものを握っていた。


 現れた瞬間、時が止まった気がした。
 目の前のものが理解できずに唖然としてしまったのは俺だけではないはずだ。
 何かの撮影かと無難な考えが浮かび、あり得ない現状を理解したくなくて無理やりそちらの方向へと動き出した考えを止めたのは、ソレのひび割れた声だった。


『コロセ』


 悲鳴があがったのが先か、それとも奴らが手の物を振るったのが先だったのか。
 怒号と共に入口に殺到する客と、それに向かって追いすがる奴ら。
 恐怖と混乱に陥りながら、逃げるために足を動かそうとした俺が気付いたのは、今思えば奇跡だったと思う。


 俺の目の前。距離にして三メートル。
 一人でうずくまっている泣いている子供がいた。
 親の姿は周囲にない。
 お母さんと舌足らずで泣く子供の側には、得物を振り上げた奴らの仲間の姿があった。


 見た瞬間、手が動いていた。
 高校時代、甲子園には行けなかったが、毎日いじめ抜いた右腕を渾身の力で振り抜いた。
 840円の熱々のかつ丼は盆ごと、奴の顔にクリーンヒット。そして嬉しいことに後ろへとひっくり返るおまけつき。
 俺の行動で気付いたのか、子供の母親がひったくるようにその子を抱き留め逃げていく。
 その後ろ姿に良かったと思うのも束の間、逃げる人の中でたった一人反旗を翻した俺に奴らの視線が集中した。


 そこからは死にもの狂いで走った。
 日ごろから防犯面においてこのトイレの窓の大きさはどうだろうと思っていた箇所から店を脱出し、後ろを確認する暇もなくただ駆けた。
 ギャッギャと普段じゃ絶対に聞かない鳴き声を後ろに引き連れたまま、目につく分岐点を右へ左に曲がり、自分でさえどこにいるかも分からないところを走り抜け、行きついたのは雑居ビルが立ち並ぶ、いかにも治安が悪そうな場所だった。
 目についた段ボールの影に潜むこと数分。
 変な鳴き声をあげる奴らが通り過ぎて戻る気配はない。
 まいたことを実感し、息を落ち着けている現状だ。
 全身、冷や汗と走った時にかいた汗でびしょ濡れだった。
 今は何とかなったが、ここにずっといる訳にもいかない。一番いいのは警察に保護してもらうことだが、バイト中の出来事で、携帯や財布が入ったカバンは店のロッカーの中だ。
 襲われた恐怖と不安で訳もなくわめきちらしたくなるが、それを押さえて行動を開始する。
 まずはこの場所から離れることだ。
 いつ何時奴らが戻ってくるかもしれないし。
 学生時代、野球をしていて体力には自信はあるが、武道の心得については全くない。襲われたとしても対処する術はないと言っても良かった。


 段ボールの物陰から顔を出して左右を見回す。
 右よし、左よし。前方も良し。
 奴らが来る気配もなし。ならば、今が好機!!
 腰を上げて一気に通りへと駆け込もうとした寸前。


「ねぇ、アンタ、何してんの?」
 後ろから肩を掴まれ、まさに魂消た。
「うわぁぁ、んんんん!!!」
 びくつきながら飛び出た悲鳴が広がる前に、後ろから大きな手が口を塞ぎ、声は手の中でくぐもる。
 ばくばくと心臓が暴れ唸っている。
 大声で奴らに見つからなくて良かったと思うものの、急に何てことをするんだと、非難を込めて後ろを振り仰いだ瞬間、違った意味で俺は再び声をあげた。
「んんんんんんん!!!」
 変質者ぁぁぁ!!!
 後ろから俺の口を押えている相手は、鼻まで覆う口布と、左目を隠す眼帯をして顔の大部分を覆い隠していた。そしてその恰好は自衛隊服に近いようで遠い、暗い緑色のベストを着こんでいる。
 何だこれは、現代日本において日中の昼間にこんな格好でたむろしている輩は俺の知識にはない。いや、もしかしてコスプレか! これがコスプレというやつなのか!!
 パニックに陥りながらも目の前の不審人物から逃げようともがけば、背後の男は唯一覗く右目で俺を見下ろした。


「落ち着きなさいよ。アンタが騒いでいると離そうにも離せないでショ。このままでいいってならオレは止めないけど?」
 淡々と語る口調がひどく冷静なのもあって、我に返ったようにもがいていた体を止める。
 すると男は喉で笑うような息を吐き、俺の頭を撫でて身を離した。
 成人している大の男の頭を何故撫でたのだろう。
 男の行動に疑問が沸いたが、それを飲み込み、改めて男を観察する。


 男は口布と左目を隠し、大部分の顔を隠している。
 髪は日本では珍しい銀髪で、格好もやはり珍しい。
 黒のタートルネックの上に、袖なしの深緑色のベストを身に着け、紺色のズボンを履いている。だが、何故か太もものところに包帯が巻かれ、そして足元も足首から脛まで包帯を巻き、サンダルに似た靴を履いていた。
 やはりどこからどう見ても怪しい。


「あら、ま。オレの顔に見惚れてた訳じゃないみたーいね。胡散臭そうな顔〜」
 皺寄ってるよと眉の間をつつかれ、ビビった。
 初対面の相手にとる態度ではない。というか、馴れ馴れしすぎる。
 にこっと男が覗く目に笑みを作り、投げかけてくる。人懐こいというよりも無条件で好意を寄せている雰囲気に戸惑った。
 まさかコッチ系かと、男に対する不信感が高まってはいたが、状況が状況なだけに俺はその感情に蓋をして、男へと声を掛けた。
「そんなことより、ともかく、ここから逃げませんか? あなたがいつからここにいたかは知りませんが、ここは危険です。俺、今変なものに追われているんです」
 男にとっては俺のほうが不審人物と思われても仕方ない発言。だが、これ以上どうやって説明していいのか俺には全くわからなかった。
 笑われるか、それとも変な目で見られるか。だが、それよりもここに止まると言われた場合はどうすればいいのだろうか。
 突然人を襲うアレがいるここは、本当に危険な場所だ。
 有無を言わせずここから連れ出したほうがいいだろかと判断するより前に、男は俺の手を握り、有無を言わせず歩き始めた。


「え、あの…」
 突然の行動が分からずに声を掛ければ、男は振り返らずに話し出す。
「うん、逃げるんでショ? オレもそのほうが都合いいのよー。まだ主のいない身だし、複数戦闘になったら負けるの分かるかーらね」
 主? 戦闘?
 着ている服に関係しているのか、男は不可解発言をかましてくる。
 いや、待てよ。コスプレをする人たちは、格好を真似るだけではなく、そのコスプレをするキャラの世界観を大事にしているという話を聞きかじったことがある。そのため、そのキャラになりきる人たちがいると聞いたような聞かないような。彼もそんなコスプレに魂を投じる一人なのだろうか。
 俺が男についていろいろと考えを巡らしている間にも、男は迷いのない足取りで先へ先へと進んでいく。
 時折、建物の陰に隠れ、周囲の様子を窺う様は服装も相まってか、非情に頼もしく見えた。
 奴らと鉢合わせることもなく、雑居ビルが立ち並ぶ界隈から大通りに通り抜けられそうな道に出る。
 一時はどうなるかと思ったが、助かったみたいだ。


 俺を先導してくれた男は大通りに入る手前の道で足を止め、手首を掴んでいた手を離した。
 大通りにはいかない様子の男にそれも無理ないかと俺は納得する。
 何せ男の格好はひどく目立つ。
 メイドさんや猫耳のカチューシャをつけた女の子や、真っ黒なお姫様の格好をした人を良く見かけるあそこなら別だが、ここは、日中はサラリーマンが行き交うビジネス街だ。男が怯むのも仕方ないことだろう。
 ひとまず俺は最寄りの警察に行って、店がどうなっているのかを聞こうと決める。
「あの、ここまで連れてきていただいてありがとうございます。俺、あそこで迷子みたいになっていたんで助かりました」
 人相も服装も怪しかったがいい人で良かった。
 頭を下げれば男は黙ってこちらを見ていたけれど、突然俺の顎をつかむなり顔を固定してきた。


「なにを」
 思わぬ行動に面食らい、手を跳ね除けようとしたところで、男の眼帯が外されていることに気付いた。
 眼帯で隠されていた下は、眉あたりから頬まで、左目をまたぐように縦に大きな古傷が入っている。その傷の大きさに驚き、そして、その瞳の色に目が釘付けとなった。
 赤い。
 古傷から血でも滲み出たかのような鮮明な赤。
 瞳の色に驚くよりも、まだ痛むのではないかという思いが突いて出る。
 男の表情がひどく辛そうで、悲しそうだったこともその思いを強くする要因だったかもしれない。
 思わず痛みますかと尋ねようとした俺に、男は小さく呟いた。
「……ごめんね」
 男の指が俺の顔をなぞる。
 顔の中央。鼻の真ん中あたり。
 そこには、横一直線につけられた古傷がある。
 男の悲しそうな目と謝罪が何故か胸に痛くて、何か言おうとした俺に男は首を振った。
 悲しそうな表情を潜め、不意に硬質的な顔に変わる。
 男の赤い目が俺を見つめる。
 途端に体が縛られた感覚に陥った。
 男の左目から目が離せない。頭ではおかしいと思うものの身動き一つままならない。
 男は低く何かを唱え始める。独特な言い回し、節のついた言葉。
 その声を聞いているうちに考えがまとまらなくなる。眩暈を感じる一歩手前の状態。頭の中がかき乱されるような、不安な心地。
 だが、それも長くはなかった。


 男の声が止むと同時にかき混ぜられていた思考が静まる。
 はっと小さく息を吐き、思わず前かがみになる俺を尻目に、男の視線が俺の背後に向けられた。
 何が起きたのか分からなくて、男を窺えば、険しい顔をしていた。
 男が見つめる先に何があるのかと、遅れて後ろを振り返って息を飲む。
「なんでっ」
 悪態とも悲鳴ともつかない叫びが口から出た。
 まいたと思った奴らがこちらに向かってくることが信じられなかった。いや、それよりもどうしてこちらへやってきているのか。
 店内の様子からして奴らは誰彼かまわず襲っていた様子だった。
 まさか、俺が刃向ったことに腹を立てて、報復しにきたのか? 見たところ、店内で見かけた奴らよりも多い数がこちらを目指していた。


 そのとき、プップーと背後の大通りを走る車の音が耳に入り、弾かれたように大通りへ視線を向けた。
 大通りの人たちは普段通りに何事もなく歩いている。中には家族連れか、小さな男の子を真ん中にして手を繋いでいる男女の姿も見えた。
 奴らがこちらに来れば、ここもあの店内のような騒ぎになるのは間違いなかった。
 店内で泣いていた女の子が脳裏に浮かぶ。
 おかあさんと泣く声がまだ耳について残っている。
 心臓を引き絞られるような痛みを覚え、シャツ越しに握った。


 なら、答えはもう決まっている。


 周囲を見回し、電柱脇に捨てられたビニル傘を見つけてそれを握る。
 一つ深呼吸をして、こちらに迫っている奴らに向かって駆けだそうとして、後ろから引き留められた。
「ちょっと、何するつもり!」
 男は強張った顔で俺を見ている。眼帯がないせいか、男の表情がさきほどより、よく見える。
 もしかしたらこの男、美形というやつかもしれない。
「引きつけてみます。あなたは、警察に連絡してください。それまで、俺、どうにか持ちこたえて見せますから」
 元球児の体力舐めないでくださいと茶化すように言った言葉は、男の罵声で最後まで言えなかった。
「アンタ、馬鹿じゃないの!! 状況見て物言いなさい! あいつらが持っているのは武器だよ。人を殺せる凶器なのっ。捨てられた傘一本でどうなる相手じゃないの、分かってるでショ!?」
 叫ぶように言う男の言葉はしごくもっともなのだが、いい合っている時間はない。
 奴らが大通りに乱入ということだけはどうしても避けたい。
 俺は渾身の力で、手を握っている男へ体当たりをしかける。
 男はまるっきり油断していたのか、あっけなく道路へ尻もちをついた。
「あんたはとにかく警察を呼んでください!! 俺の命はあんたにかかってますからね!!」
 言葉を投げつけ、駆けた。
 男が何か叫んでいたが聞き取る余裕はなかった。
 今、俺にできることはただ一つ。
 あいつらの気を引いて、逃げまくることだけだ。


 こちらに向かう奴らの顔が見える距離に来た時、手に持っていた傘を思い切りぶん投げた。
 コントロールはまだまだ衰えていないらしい。
 狙いたがわず先頭を走っていた奴の顔に当たり、一瞬だが団体行動している奴らの動きが止まる。
「ざまーみろ! 悔しかったらこっちに来てみろってんだっっ」
 脇道に入りながら声を張り上げる。
 ギャギャっと金属的な音をあげ、こちらに向かってきた一行を確認し、再び脇目も見ずに走り出す。
 自分の呼吸音を聞きながら、後ろから迫る足音に急かされて必死に走る。
 ここの土地勘は全くない。挟み撃ちされたら終わりだと頭の片隅では思うが、追われている身の上で冷静に対処できる案など到底思いつかなかった。
 今何分経ったのか。あの変な男は警察に通報してくれたのか。
 どれだけ走ったかは分からないが、足がもつれるような感覚に囚われ始める。息が荒い。肺が苦しい。
 右へ左へと曲がり、目に入った細い路地に入ったところで足が止まる。止まらざるを得なかった。


 行き止まり。


 建物の壁に囲まれ、活用しようにも狭すぎて放置された空き地。そんな印象を残す広場に出て、まずったと奥歯を噛みしめる。
 後ろを振り返れば、細い路地を占拠するようにこちらへ向かう奴らの姿。手には不気味な光を放つ刃物が握られている。
 銃刀法違反なんて言葉が思い浮かぶが、そんなもの、こいつらにとっては何の抑止力にもならないだろうことが窺えた。


 ただ奴らとの距離を空けるために、奴らを見据えたまま後ずさる。
 奴らも追いつめたことを確信したのか、ゆっくりと俺との距離を詰め、周りを取り囲むように移動する。
 何か武器になるものはないかと奴らから目を離さずに周囲を窺うが、何もない。そうこうしているうちに踵が固いものに当たり、その先がないことを知らしめる。
 ごくりと生唾を飲み込んだ。
 いつそのときが来るのかと恐怖で体に震えが走る。でも、無様に泣き叫ぶことはしたくなくて奥歯を噛みしめ、奴らを睨みつけた。
 長い間見続けた夢が、夢で終わってしまう。
 こんな終わりは予想していなかったけれど、でも、あの大通りで見かけた男の子が俺と同じ思いを抱かないで済んだのなら、少しは俺の夢の欠片が叶ったことにもなるんじゃないか。
 諦めとも清々しさともいえる笑みが唇に浮かぶ。
 多勢に無勢、しかも相手は武器持ち。だけど、せめて一矢ぐらいは報いたい。


 震える足に喝を入れ、玉砕を覚悟した俺の目の前で、奴らの一人が口を開いた。


「見ツケタ。厄介モノ。コロセ、息ノ根トメロ。見ツカル前ニ」


 それが嬲り殺しの合図か。
 周りを取り囲んだ奴らが駆け寄り、手に持った刃物を振り上げ一斉に下ろす。
 玉砕覚悟と思ったものの、残酷な光を放つ刃物へ突っ込む勇気はさすがになくて、思わず腕をあげてその場にしゃがみ込んだ。
 終わったと、きたりくる激痛に構えて目を瞑れば、カカンと鋭い音が周囲に散った。
 ちっと俺ではない舌打ちの音を聞きつけ顔を上げれば、大きな人影が見えた。
 俺を奴らから庇うように背を向け、身構えている男は、さきほど大通り手前で別れた男だ。


「え、どうして?」
 まさかの救援に、驚愕に近い思いが浮かぶ。
 俺の問いが気に食わなかったのか、男は振り返るなり、俺の胸倉を掴みあげてきた。
「ふざけんのも大概にしなさいよ、アンタ!! 一体、オレがどれだけ心配したか! どうしてアンタはそうやって人のために簡単に死のうとするの!? 弱い癖に、何もできないくせに!!」
 殴らんばかりの気迫で責められ、勢いに負けてつい謝る。
「ご、ごめんなさい…?」
「疑問形にすんじゃないの!! ……もう、ばっかみたい。これでオレもおしまいとはーね」
 眼帯をつけ、初めて会ったときと同様に顔を覆い隠した男が、ため息は吐くと同時に小さく笑う。
 男の言葉の意味を知り、申し訳なくなった。
 男は、俺を助けるために危険を承知で来てくれたのだ。
「ごめんなさい」
 小さく、でも心の底から謝った。俺の謝罪に、男はさきほどの憤りはちっとも見せず、そればかりかただ優しい目で俺を見詰めている。
「……いーヨ。イルカと死ねるならそれでもいい。欲を言えば、生きて、イルカの側にいたかったけーどね」
 男の言葉に目が見開く。
 どうして男は俺の名前を知っているのか。疑問は尽きなかったが、この状況下でその答えを知りたいとも思わなかった。だから、別のことを聞く。


「名前、教えてくれませんか? レンジャーさん」
 自衛隊服っぽいからレンジャーさん。
 俺のことを知っているらしい、俺と死んでくれる人の名前を最後に知りたかった。
 茶化すように笑えば、男は何それと苦笑じみた笑いを見せたが、直後真顔になった。
「…うそ。本当に? でも、いや、だって……」
 男は俺の胸倉から手を離し、今度は両手で頬を覆ってきた。左耳に何か硬質的なものが当たるのは、何かの武器なのか。
「オレの格好、どんな風に見える? オレは今、どんな服装してる?」
 縋るように乞うように問われ、俺は訳も分からぬまま口に出す。
 口布に眼帯。深緑色のベストに、タートルネックと、紺色のズボン。太ももと足首に包帯を巻いている、と。
 俺の言葉に、男は一度顔を俯かせると肩を震わせ、次の瞬間大きく笑い始めた。
「あははは、やった! 何、この運命的な展開っ。今、運命はオレに味方した!!」
 やったやったと何度もはしゃぐ男の反応についていけず、周囲に視線を散らせて固まる。


 男の肩越しに、ぶっそうな得物を持った緑色の奴らの姿が見える。
 忘れていたと身構える俺をよそに、奴らはその場から一歩も動こうとしなかった。そればかりか、困惑しているような空気が窺えた。
「スケ――」
 奴らの一人が戸惑うように口を開く。だがその言葉は男の声に重なり、意味のない音となる。
「カカシ」
「っ」
 至近距離で顔を寄せられ、思わず息を飲む。
 男はいつの間にか眼帯と口布を下げており、隠していた顔を晒していた。
 美形だと思った俺の直感は外れておらず、男の顔は男の俺が見惚れるほど整った顔立ちをしていた。
 突然美形な男から覗き込まれ、緊張してくる。
 口内に溜まった唾液を飲み込めば、やけにその音が大きく響いた気がして恥ずかしかった。
 視線をさまよわせる俺に、男は色違いの瞳を細めて心底うれしそうに笑った。
「オレの名前はカカシ。はたけカカシ。イルカ、オレのご主人様になって」
 男、はたけさんの言葉に周囲がざわめく。
 困惑していた奴らの不穏な気配を察してびくつく俺に、はたけさんは口端を引き上げる。
「ま、イルカが嫌って言っても、主従契約結ぶしか生き残る方法ないから、勝手に結んじゃうけどね」
 ギャギャと威嚇音らしきものを発する奴らを尻目に、はたけさんは俺の頬から手を離すと、今度は俺の右手を掴み上へと引き上げた。そして、俺の前に片膝をつく。


「イルカ、ここで死ぬのは嫌でショ?」
 うっそりと笑った顔は美しいはずなのにどこか凄みを感じさせる。
 黙って頷けば、はたけさんは俺の人差し指を口先に持っていき、もう一度言う。
「イルカ。オレと主従契約を結び、オレの主となって? この身のすべてをあなたに捧げ、あなたに敵対するすべてのものを屠ると誓う。我が身は刃であり盾となる。未来永劫、あなたのお側に」
 一息で言われた言葉が頭を回る。


 色違いの瞳に囚われた。
 薄い唇が音を出さずに俺に指示してくる。
「赦す」と言え、と。


「赦す」


 遅れて自分の耳で聞いたその声は、自分の声とは思えぬほど、確固たる重々しさを含んでいた。
 言ってしまったと、言ったとも言える感情を持て余している俺の前で、はたけさんは笑った。
 唇を引き上げ、瞳を細め、その奥にただならぬ色を浮かべた眼差しを込め、はたけさんは俺の指先を噛み切った。
 かすかな痛みに体がびくつく。
 はたけさんは俺の手を離さず、俺の顔を見上げたまま、薄い唇から毒々しいまでの赤い舌を出し、ゆっくりと指先を舐めた。
 途端に背筋に走ったのは快楽で、思わぬことに体を引けば、それ以上に目の前のはたけさんから艶かしい吐息が漏れた。
「はぁ」
 白磁の肌がうっすらと色づく。
 壮絶な色気を放出させるはたけさんの存在が恐ろしくも美しいと思ってしまった。
 色気に当てられ、喉が渇く。口内の唾液を飲み込もうとしたが、生憎口の中はからからだった。
 はたけさんは俺を見つめたまま瞬きを繰り返し、三度目になったところで、左目の縁を指で触れた。
 そこで変化に気づく。
 はたけさんの左目。赤い瞳の中、勾玉の形をしたものが三つ刻まれていた。


「……契約の印。確かに刻まれてーるね。イルカ、オレの主。ただ一人、唯一のご主人様」
 陶然とした眼差しを向け、はたけさんは歌うように口ずさんだ。


「さぁ、ご主人様。何なりとご命令を」


 ざわめく気配と殺気立つ空気。
 囲まれて、逃げることもままならない中、はたけさんは悠然と俺の前に跪き、指示を仰いでいる。
 絶望的な状況なのに、何故か先ほどまであった不安も恐怖も微塵も感じなかった。
 それは、俺を主と呼ぶ、風変わりな人の力を理解するより早く知っているからなのか。


 噛み切られた指先が鼓動を持ったように打ち付ける。

 命令を出せ。彼は刃であり盾であり、そして、俺の―ー。


「倒してくれ。こいつらのせいで、誰かが泣かないために!!」


「御意」


 頭を垂れ、短く言い切ったはたけさんは迷いもなく奴らへと向かっていった。







「初めまして、ご主人様」 おわり



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イルカ主でした!!