カカシ主編1



〜 初めまして、主さま 〜



 電車を待つ人の姿もまばらな早朝時間。
 早起きは大の苦手だと自他ともに認めているというのに、今日もオレは、始発から三番目の電車へ乗り込むためにホームへ立っていた。
 到着を告げる電車の音楽が鳴り、滑り込む電車の風圧を受けて髪が舞い上がる。
 電車が停止し、ドアが開く。
 開くと同時に視線を動かし、初めて見た時と同様の定位置に座る男の姿を見て、ほんの少しの安堵と自嘲気味な笑みが浮かんだ。
 始発から三番目の電車の、三号車両の前から三番目の席。
 料理の本を真剣な顔で読んでいる男は、今日も背筋を凛と立たせ、変わらぬ姿でそこにいた。


 黒い髪を頭の天辺で一つに結んだ、黒目のどこでもいそうな男。
 顔で目立つと言えば、鼻の真ん中を一文字に横切った古傷くらいか。
 普段なら気にも留めない存在だろう。
 だけど、人に対してあまり興味のないオレが目で追うほど、男の格好は奇怪に満ちたものだった。


 額を防護するためであろう、鉄板のついた紺色の布を頭に巻き、長袖の上に深緑色のレンジャー部隊が着ていそうなベストを身に着けている。
 下のズボンは一見普通だが、その太ももには筒状のものをつけ、脛から足首までを白い布で巻いている。靴はくるぶしまで覆う丈夫そうなものだが、踵とつま先が完全に見えていた。
 そして、特に注目すべきところは、太ももに巻きつけてある筒の中身だ。
 長細い筒状に三つ並んでいるそこには、暗色の丸い輪っかの金属がおさめられている。
 古めかしいような、使い込んだようなそれを初めて見た時、どこかで見たことがあると散々頭を悩ませていたが、ひょんなことからそれが判明した。
 昔の時代劇の再放送。
 お忍びで城下町へ視察という名の息抜きをする殿の周りを影ながら護衛していた忍びが持っていたもの。敵からの攻撃を弾き、また屠るためにふるうそれ。
 両刃がついたクナイという、危険物だった。


 滅多にない正義感に駆られ、このことを車掌に伝えた方がいいのかと悩み、平凡そうな男が持つそれが本当にクナイというものだと見極めるためにも、男が乗る電車を調べ、共に乗るようになってから数日。
 男の持つそれは、かなりの高確率でクナイだろうということが分かり、オレは行動に移すか迷った。
 だが、結局、何の行動もしなかった。
 何故と聞かれるとオレにもよく分からない。
 ただ、毎朝気を付けて見た男の人となりは微笑ましさを感じることはあれど、到底危ない奴には見えなかったのだ。


 男は毎朝の電車で決まって本を読んでおり、読んでいる間中、表情が動く。
 傍から見て、喜んでいるのか悲しんでいるのか、面白いのか、憤っているのか分かるほどで、本を読む振りをして、男の変わる表情を観察し、密かに楽しんでいた。
 一番驚いたのは男が絵本を読んいた時で、残りページ数が少なくなったとき、突然男はその瞳から大粒の涙を流した。
 その涙に驚き、本を読む素振りも忘れ、妙に焦ったオレに気付いたのか、男は泣き顔を見られた気恥ずかしさからか、涙を拭うと「すいません。感情移入しすぎちゃいました」とオレに向かってはにかんできた。
 初めて聞いた男の声。
 柔らかく優しい響きなのに、一本芯があって、よく耳に馴染んだ。
 今思うと、男に話しかける絶好の機会だったのに、そのときのオレは「あ、うん」と上ずった声を返すしかできずに、後々ひどく悔やんだ。


 奇怪な服を着た人から、危険物の可能性のある物を所持する男。そこから、表情が動く微笑ましい人。
ここまで来たら、じっくりと話してみたいと思うようになっていた。
 どこに住んで、どこに向かっているの? 仕事は何をしているの? 普段はどういったことをしてるの?
 見知らぬ他人同士。
 一度話しかけられたが、それはとうに時が経ちすぎて今更蒸し返すのも変な話。
 それでも、どうにか話すことができないかと、オレは始発から三本目の電車の三両目の三番目の席に座る男を前に、頭を悩ましている。
 女に対しては向かうところ敵なし。女を落とすためのアプローチはお手の物。軽薄な言葉なんぞ考えもせずに口から出ていたのに、どうしてかこの男に対する接し方には躊躇いが入り、一言も声が掛けられないでいる。
 学生時代、好きだからこそ話しかけられないと、乙女ちっくなことを言っていた後輩の言葉を一笑に付していたが、男と女の性別の差はあれど微妙に似通った状況に、もう後輩を笑えないなと息を吐く。


 今日の男は真剣モード真っただ中。
 楽しそうな顔で読んでいたのなら、「いつも楽しそうに読んでますね。どういった本なんですか?」と昨日になってようやく捻りだした問いを言おうと意気込んでいたのに、ご破産だ。
 せめて、名前とか男のことが何か一つでも知れたらいいのになぁと、フェイクで持っている文庫本に向かってため息を吐いた直後、異変が起きた。


 ギギギギーと耳障りな音が鳴ると同時に、体が進行方向へと引きずられ、席に倒れこんでしまう。
 幸い、朝早い時間帯なため隣の座席に人はおらず、オレの体は少し硬めの席に受け止められた。
 己の確認よりも男はどうなったかと視線を向ければ、驚くべきことに男は座ったままの体勢を維持していた。
「怪我はないですか?」
 男の体幹の良さに感心していると、男が席を立ってオレの元へとやってくる。
「え! あ、大丈夫、大丈夫です。ありがとう」
 途中すっぽ抜けた本を拾い、オレの元へ運んでくれた男に礼を告げると、男は「どういたしまして」と柔らかくはにかんだ後、急に顔を上げて一両目の方向を睨み据えた。
「……まずいな」
 ぼそりと呟いた言葉に、オレは首を捻りながら立ち上がる。
 三両目にいる乗客が何があったのか確かめるように席を立ち、ほんの少しざわめきが起きた。
 だが、それも車内アナウンスの声で掻き消される。
 ジジという音に混じって、車掌の声が聞こえた。いや、貫いた。


『逃げっ、逃げてください、ここは危険です、今すぐにげ――』


 ぶつっという音と共に掻き消えた声は、職務を遂行する人というより、切羽詰まった人間の声に聞こえた。
 何今の、一体何がとあちこちで声が上がる。
 何か異様なことが起きたことだけは分かるが、どうしていいのか分からない、そんな空気。
 オレ自身も戸惑い、傍らにいる男の様子を見て、少し怯んだ。
 男の顔は青ざめ、何か恐ろしいものを見たような顔で生唾を飲み込んでいた。


「みなさん、今すぐここから離れてください。一両目、そちらにはいかず、後方の線路沿いに走って、さぁ、早く!!」
 男は車内の非常口のレバーを引くなり、ドアを開け、声を張り上げる。
 呆気にとられる乗客は、男の声に急かされるようにドアへと向かい、男の指示に従い始める。
「そこのあなた、後ろの人にも伝えてください! 全員、後方へ、最寄りの駅についたら、このことを駅員に知らせてください、さぁ!!」
 比較的若いサラリーマンを捕まえ、男は後ろの車両へと行くよう指示する。
「え、いや、あなたは?」
「俺は前に行きます。乗客がまだいますから」
 問いへ手短に答え、戸惑うサラリーマンの背を押し促した。サラリーマンは未だ戸惑っているものの指示に従うことにしたのか、後ろに向かって走り出す。
 それを認め、男はオレに視線を向けると言った。
「あなたも逃げてください。それとお願いですが、どうか女性やお年寄りの方がいたら助けてあげてください」
 お願いしますと頭を下げる男に、オレは言葉を失くす。
 「では」と小さく告げた後、前へと走っていく男の後ろ姿を見送った。周囲の者たちはこの車両からあらかた出たようで、人の気配が途端に薄くなる。
 前にも後ろにも足を踏み出せず、ただその場に突っ立ていたオレは、踏ん切りをつける意味でも思い切り床を蹴りつけた。
「あー、くそ!! 柄じゃないんだけど、こういうのっ」
 一つ叫んで、男の後を追って走る。
 何が起きているか分からない。でも、かなりな厄介事が待ち構えているだろうそこ。
 そんな面倒事に首を突っ込むくらいなら、男の言う通り、逃げながらかよわい者たちを手助けした方が、外聞的にも心情的にも実に気楽でいい。
 だけど、ここ数か月、平日の日は欠かすことなく男と会いたいがために、柄でもない早起きを習慣にしてしまうくらいには、オレは男との接点を求めていた。
 これを機に、お話ができる関係になれるんじゃない?
 そんなアホらしい理由のために、オレは今、まさに厄介事へと首を突っ込もうとしている。


「あー、オレってバカ。そんなにも、あの人のこと気にしてんの?」
 相手が絶世の美女ならばいざ知らず、あの人はちょっと奇天烈な格好をしただけの平凡な男。
 でも、あの人がオレを見て笑う顔が見てみたいと思ってしまうのも本当。
 それを想像して、何となく気分が良くなる自分に気付いたのは、つい最近のことだ。
「……オレってゲイじゃないはずなんだけど」
 数々流した浮名はどれも女限定だった。勘違いした男から言い寄られることもなくはなかったが、腕っぷしもそれなりに強かったから、拳で諦めてもらっていたのに。
 新たなステップに踏み込んじゃうのかしら〜?
 冗談ぽく思ってみたものの気持ちは未だ高揚しているのだから、苦笑しか出てこない。


 三両目から二両目へと渡れば、そこはすでに男が避難を促し、静まり返った車両だけがある。
 なんというか、男の足の速さには驚く。
 一両目にいるだろう男を求めて、少し息切れをし始めた肺に気合を入れ、走り出した瞬間。


 キンという何かがぶつかる音と同時に、前方からものすごい勢いで影が眼前に迫った。
「え!?」
 声を出すと同時に影が少しゆらめく。
「こんなくそ!!」
 影は悪態をつくように叫ぶと、何かを払うように体を回転させ、そしてオレの前に立った。
 男は両手を前に突出し、オレがクナイだと見当づけていたそれを構えていた。
 柄の部分からしてそうではないかと思っていたが、この目で実物を見ると感動にも似た感慨がわき上がる。
 男に声を掛けようとして、それより早く男が鋭く言い放った。
「あんた、どうしてこっちに来た!!」
 オレを背に庇うようにして立った男の目が一瞬だけこちらに向く。その目は憤りに彩られていて、男から睨まれたと自覚する。
 あ、やばい。なんかすっごい凹む。
 思わずごめんなさいと言おうとしたオレに、男は舌打ちをつくなりオレの腕を握り、前方へと飛ぶ。オレの背後に向けて男は腕を振るうなり、カンと何かを弾き返したような音が聞こえた。
 周囲で何かが激しく動いていることを察し、床に着地したと同時に顔を上げようとすれば、上から押さえつけられた。
「頭低くして、そこに居てください!!」
 男のくるぶしが見える。右へ左へと動き、踏み込むようにつま先が床へと押し付けられ、そしてそれを支点に回る。
 男の動きに合わせて、軽く、だが、無数に何かが弾かれ落ちる音がした。
 男が落としたものがぼたぼたとオレの周囲にも飛んでくる。
 目の前に落ちたそれに焦点を合わせ、首を傾げる。
 白い湾曲したもの。長さは五センチ程度だが、先は鋭い切っ先を持ち、それなりの勢いで投げられたら突き刺さりそうだった。
 もしかしなくても、男はこれを弾いているのだろう。
 だが、こんなものを投げつけてくるものは一体なんなのだ。


 男の言いつけを破らぬよう、頭を低くしたまま周囲を窺った。
 男の足の向こうに何かがいる。それはじりじりとこちらへ近づきながら距離を縮めていた。
 忙しなく動く男の足に視界を遮られながら、じっと見つめること数秒。
 目にしたものに、一瞬目を疑った。


 横から差し込む朝日に光る緑色の肌。
 口が突き出た長細い顔に、黄色い目。
 避けたような口からは赤い細い舌が時折、出ては引っ込んでいた。
 屈強な体躯で二本足で歩くそれは、トカゲに似た奇妙な人の形をしたものだった。


「ウソだろ……」
 呟いた言葉が白々しく響く。
 トカゲ人間は胸元を金属の鎧で覆い、大ぶりな刃物を肩に担いでいた。それも一匹ではない、前には少なくとも三匹の姿がある。
 男が後ろにも注意を払っていることから、後ろにもそれなりの人数がいるのだろう。
 トカゲ人間が大きく腕を振るう度に、光に反射して何かが飛ぶ。それと同時に上で叩き落とす音がしてくることから、あれはトカゲ人間の爪なのだろうかと想像した。
「っ、」
 オレが混乱と動揺を繰り返していると、上から息詰める様な声がした。
 嫌な予感がしてふり仰げば、男の左肩が下がり、右手で押さえるような仕草をしている。
「大丈夫!?」
 怪我をしたのかと男の制止も聞かずに立ち上がる。
 トカゲ人間は男の怪我を知って余裕を持ったのか、攻撃をしかけようとはせずに歩みだけを進ませていた。
 男の腕を見れば、そこには腕に突き刺さっている爪が何本もあった。じわりと染み出した血が、男の服を染め、オレは眉根を顰める。
「手当を!!」
 男の顔に苦悶の表情が見え声を掛けたが、男は首を振り、突き立った爪を無造作に引き抜いた。
「……無駄です。この爪には毒があります。これを癒せるのはただ一人しかいない。……すいません、あなたを守りきれなかった」
 すいませんと泣きそうな顔でこちらを見詰められ、胸が痛くなった。
 男にとってオレは見知らぬ他人だ。毎朝、同じ電車に偶然乗っているだけの一人にしか過ぎない。
「いいよ。そんなの、気にしなくていい」
 すいませんとなおも言おうとする男の体を咄嗟に抱きしめる。
 がっちりとした成人男性の体。
 女のようにいい匂いもしなければ、柔らかくもない。でも、どうしてか堪らない気持ちにさせられた。
 男が言ったように毒が回ってきたのか、小刻みに体が震えている。
 肩口から吐かれる息は早く、熱い。
 男の体が異常を表していることを感じながら、男の太ももに挿してあるクナイへ手を伸ばした。


「……え?」
 引き抜かれた感触でオレがクナイを持ったことに気付いたのだろう。
 疑問の声をあげた男にオレは言う。
「泣き寝入りは性に合わないんでーね。悪あがき、してみるよ。……アンタみたいに動けないけど、こう見えて喧嘩は強いのよ、オレ」
 男を抱きかかえたままクナイを構えた。
 ずっしりとした重みに、これは凶器だということを実感する。
 朝の通勤がとんだ事態になったものだと世の不思議を笑っていれば、オレの腕に縋るように捕まっていた体が突然動き出した。
 どうしたと男へ問うより早く、男から鋭い指示が飛ぶ。
「息を止めてください!」
 腰にあるポーチから何かを取り出し、床に叩きつけた直後、辺りに煙幕がかかる。


 間一髪息を止めたオレの腕を、男が引っ張る。
 煙幕は何か仕込んでいるのか、目がひどく痛んで涙があふれ出る。
 男が手を引く方向へと進み、頬に風を感じて目を開けた。男は「すいません」と小さく謝るなり、オレを横抱きに抱えて飛んだ。
 大の大人を抱えて飛ぶ男のあり得ない筋力に驚き、降り立った場所に若干恐怖を覚えた。
 電車の上部。
 電車の上に張られてある架線には高圧電流が流れている。
 今、電車に接している状態で架線に触れれば、間違いなく即死だろう。
 こわごわと架線を見るオレを尻目に、男は電車に腰を下ろすなり、オレを下ろした。
 息が荒い。
 相当無理したのか、脂汗を額にびっしりと浮かべる男の体が心配になった。


「クナイが見えるんですか?」
 大丈夫と声をかけようとしたオレに言葉を遮り、男が問う。
 男のクナイを持っている右手を見れば、男は小さく笑いながら頭を振り、オレを真っ直ぐ見詰めた。
「いえ、俺の格好はどう見えてますか? お願いです、言ってください」
 顔色は悪いのに、嬉しそうに、まるでオレの言う答えを知っているように問いかける男へ、オレは見たままを告げた。すると、男はくしゃりと顔をゆがめ、空を仰ぐように上を向く。
「いた。俺にも、いた……!」
 父ちゃん母ちゃんと小さく呟いた男の頬に一筋の涙がこぼれていた。
 何となく見てはいけないものを見てしまった気分になって、オレは目を逸らす。
 男が腕で顔を擦り終わる気配を察して顔を戻せば、そこには真剣な顔でオレと対している男がいた。


「突然のことで申し訳ありませんが、俺と主従契約を結んでください。俺とあなたが助かるにはこれしか方法がありません」


 ギャギャと下で何かが鳴いた。
 カチャカチャと金属が小刻みにぶつかり合う音を耳にし、今のままでは死んでしまうことが予想された。トカゲ人間はどうやらオレたちを探しているようだ。


「うん、いいよ」
 トカゲ人間の動向を気にする男へ了承すれば、男は何故か痛い顔をした。男が言いたいことは、たぶんオレは分かっている。
 何か言おうとする男の唇に人差し指を当てて、笑う。
「分かってるって。主従契約とやらを結んだら、オレは今までの生活を捨てなくちゃならないんでショ? 何もかもがうまくいくって道理はないし」
 オレの言葉は図星だったのか、男は目を伏せ「すいません」と呟いた。
 男はオレの右手を捧げ持ち、人差し指を突き出させるとクナイを持った。


「ちょっと痛いでしょうが、ほんの少し切ります。……俺はうみのイルカと申します。お名前を教えていただけませんか?」
 クナイの切っ先を指先に当てられ、小さな痛みを感じながら男ーイルカの問いに答える。
「はたけカカシだーよ」
 男はオレの名を吟味するかのように口の中で呼び、そして片膝をついた。


「あなたに全てを捨てさせる代わりに、あなたへこの身の全てを捧げます。我が身はあなたの刃となり盾となり、あなたに害する全てのものから守ることを誓います。我が身をあなたのお側に」
 一息で言われた言葉に、腹の奥から高揚にも似た疼きが沸き起こる。
 漆黒の瞳がオレだけを見詰め、音もなく言う。
 「赦す」と言ってくれ、と。


「赦す」


 何かを支配したような、笑いたくなるような興奮が体を貫く。
 イルカは殉教者のような敬虔さを孕み、人差し指からわずかに出た血を舐めとった。
 途端に貫いたのは快楽と愉悦で、熱い息が零れ出る。
 イルカもオレの熱を感じたのか、小さく呻き、体を折り曲げた。
 オレの血がイルカに齎す影響力に舌なめずりをしてしまいたくなる。
 イルカは悶えるように己の肩を抱きしめ、何かを御するように荒い息を吐く。そして、それは唐突に過ぎていったようだった。
 荒い息を零しながらも、顔を上げこちらを見たイルカの顔には、オレが感じたような愉悦の光は見られなかった。それがつまらないとも、楽しみだとも思うのは、オレの頭がゆだっているせいなのか。


「……あるじ、様、見てください」
 イルカがオレを呼ぶ。
 ベストのチャックを開け、服を押し下げるように首筋をさらしたイルカの首には、青い色の印が刻まれていた。
 へのへのもへじ。
 畑の案山子を記号化したそれに眉根を潜めると、イルカは小さく笑った。
「主様の印です。主様以外のものが触れると、俺は痛みで悶え狂うような仕組みになってます」
 なんだそれはと思うのと同時に、ある疑問が浮かぶ。
 オレが触れたらどうなるのだろうか?
 オレの疑問を察したのか、イルカは苦笑じみた笑みをこぼした。
「主様の質問は追々説明させていただきます。それより、まず、お願いしたいことが」
 ぐっと小さく喉で呻き、前かがみに倒れこんできた体を慌てて抱きとめた。
 体がさきほどより熱くなっている。そういえば、イルカは毒を受けたといっていた。


「イルカ、お願い事って怪我のこと? オレはどうすればいい?」
 顔を覗き込めば、イルカは少し驚いた顔をした後、躊躇うように目を伏せた。
「け、怪我の場所に触れてくれませんか。主従契約を結んだ主だけが、俺たちを癒すことができるんです」
「うん、わかった」
 イルカの言葉に一つ頷き、怪我が一番ひどい左肩へと手を持っていけば、イルカから弱弱しい声があがった。
「あの…、すいません。……素肌に触れていただけますか」
 消え入るように言ったイルカの耳は真っ赤になっていた。決して毒のせいではないその赤みに、ひどく喉が渇く。
「えっと……。……脱げる?」
 下ではガチャガチャと忙しない足音が響いており、悠長なことをしている場合ではないと分かっているのだが、事務的に作業するには惜しい展開に、イルカの反応をどうしても見たいと思ってしまう。
「……は、はい。脱げます。……すいません、見苦しいものをみせます…」
 ベストを脱ぎ、左肩を庇うように服を頭から抜く。
 その際、額当てと髪留めが引っ張られ落ちた。


「お願いします」
 オレの前に正座して、上半身を曝け出したイルカに思わず生唾を飲み込んだ。
 肩口までの黒髪の下、首から肩にかけて綺麗な筋肉がつき、胸から腹にかけてぎゅっと引き絞った、ほれぼれするほど鍛えられた体だった。
 ところどころ、切り傷だと思われる古傷が残っていたが、ひきつれた傷は本来の肌と比べると少し白く、つるりとしていて触れてみたいと思ってしまう。
 同性の裸なんぞで緊張する日が来るとは思わなかった。
「さ、触るよ」
 このまま黙っていると怪しげな空気に飲まれそうで、無理やり吐き出した声は情けないことに震えていた。
 「はい」と顔を赤くし、俯くイルカのしおらしさも心臓に悪い。
 微妙に体を固くしているイルカを驚かせないように、特に怪我の具合がひどい左肩へ手をゆっくりと伸ばした。
「いくよ」
 触れる前に一度断り、指先を当てる。流れ出る血を感じた直後、指先がひどく熱くなった。
「っっ!!」
 その熱を感じたのか、イルカの体がおおげさなまでに跳ねる。
 電車の上部から転げ落ちそうな反応に驚いて、咄嗟に体を引き寄せれば、胸元に落ちたイルカから切ない声があがった。
「う、んぁぁぁ」
 濡れたような明らかに快楽を感じている声。
 心臓が跳ねて、そのままトップスピードに乗って走り出す。
 まずい。興奮してきた。
 このままイルカに触り続け、あんな声をひっきりなしにあげられるとなると、下半身が大変なことになりそうだ。
 現に、抱き留めたイルカの素肌の感触と熱、そして、仄かに香るイルカの体臭をもっと知りたいと願うオレがいる。勝手に動き出そうとする指先を懸命に抑え、なけなしの理性でイルカを気遣う。


「だ、大丈夫? このまま続けてもいい?」
 そこは止めるという選択もあったんじゃないかなー!?
 己の理性も大したことがないらしい。欲望に忠実な言葉を吐く理性に、オレは内心泣きそうになる。というのも、オレの欲望の象徴が微妙に元気になっている。
「す、すいません…。俺、主を持つのが初めてで……。ここまですごいとは、思わなくて……」
 はぁはぁと荒い息を吐きながら、何度も唾を嚥下するイルカ。
 息を必死で吸っているせいか、少し鼻にかかった声は甘さが加味され、背筋がぶるりと震える。
 ここまできて、オレは確信する。


 間違いない。オレは、イルカを抱ける。


「あ、主様……」
「ふぁい!!」
 よこしまなことを考えていたせいか、イルカの呼びかけに素っ頓狂な声が出てしまう。
 イルカはけだるそうに顔をあげ、唇に人差し指を当てオレを少し睨んできた。あ、だから、そういう表情は逆効果なんだけど……。
 もっと本格的に色々したいと騒ぐ心を尻目に、イルカは赤い顔を晒して真面目な調子で言った。
「続けてください。声は、何とか抑えます」
 早く回復して、あいつらをどうにかしないとと、奥歯を噛みしめたイルカの表情に若干理性が舞い戻る。
 そうだ。まずはイルカの回復を優先しないと。これから先、こういうことが何度でも起こるだろーしね!!
「分かった」
 イルカの意志を尊重し、極力刺激を与えないようにそっと触れた。だけど、イルカにとってはオレがどう触れても変わりないようで、触れる度に全身を波立たせていた。
 イルカの様子を見ながら、少しずつ触れる範囲を広げていく。
 右手で口元をきつく押え嬌声を封じ込めていたが、指先が陥没している皮膚へ触れた瞬間、イルカの目が大きく見開く。まん丸に見開いた瞳からぼろりと大粒の涙が流れた瞬間、イルカは自らの右手に噛みついた。
「……! イルカ!」
 噛みついた手から血が流れる。だが、イルカは痛みを感じていない様子で、フーフーと荒い息を吐きながら、陶然とした表情を浮かべていた。
 イルカの感じる快楽はそれほどまでに強いのか。
 だが、怪我を治しているのに、また新たに怪我を作るのでは本末転倒だ。
 もっと人気のないところだったら良かったのにと、それこそ人気のないところだったら自分が抑えきれないのではないかという危惧を頭の片隅で考え、オレはひらめく。
 違った方法で声を塞げばいいんじゃなーい?
 息を荒げ、いまだ噛みしめているイルカの右手を撫でる。
 快楽がようやく過ぎたのか、イルカの首が動いた。煙るような瞳でこちらを見上げてきた無防備な顔に、情欲を煽られるのを覚えながら、諭すように声をかけた。
「イルカ。自分の手を噛むなんてしないの。オレがイルカの声を塞いであげるから」
 口開けてと囁くオレの声に従い、顎から力を抜いた口から右手を取り、イルカの首筋に手のひらを置いた。
「? な、にを?」
 舌足らずな声をあげるイルカに向けて、微笑みかける。
 顔と顔の距離がだんだんと近付いても、イルカはまだ分かっていないようで、その初々しさに加虐的な喜びで唇が歪む。
「あるじさ」
 イルカの呼びかけに答えず、半開きになったその唇を貪った。


「ん、ん!!」
 何をされているのかようやく思い知ったのか、暴れだそうとする体に指先を這わせる。途端に、こちらへしだれかかってくる体に目を細め、唇を吸う。
 びくびくと震える体に連動して、口の中の舌も震えている。
 鼻から吐き出される甘い息に、頭がくらくらとした。
 話す切っ掛けになれたらと思っていたのに、蓋を開ければこんなことをしている。
 変なことに巻き込まれたけれど、これならば十分おつりがくると、柔らかい唇と舌を思う存分味わう。


 左肩の傷を執拗に撫で、右手の噛みついた傷も触れる。
 果たして本当に傷は癒えているのか。見ようにも、イルカの唇を貪っている現状では分からなかったが、この際いろいろと触れておこうと、あちらこちらに手を伸ばす。
 いつも凛と背筋を伸ばしていた背骨に触れ、引き締まった脇腹に指を這わす。微かな肌の違う感触を見つけ、これは傷跡だろうかと想像して、吟味するように触れた。
 その度にびくりと波打つ体が楽しくて、人体で性感帯と呼ばれる場所に触れたら一体どうなるんだろうかと、肌寒さからか、ぷっくりと存在を主張している乳首に触れようとしたところで、こめかみに手が掛かった。え?


 がくんと音が出んばかりに後方へ頭が移動する。
 触れようとした指先が空を切るのを感じ、目論見が失敗したことを悟る。
 目の前のイルカが俯いたまま肩で息をするさまを見て、オレは少し気まずくなった。
 体を離して分かったことだが、イルカのそれとオレのものは完全に主張していた。
 はぁはぁと未だ荒い息をつくイルカに、オレは少し悩み、提案をしてみる。
「ここまできたら一緒に処理する?」
 あくまで下心を隠し、親切心だということを前面に出して爽やかに言い切る。だが、イルカはオレの言葉を聞いて顔をあげるや、ものすごい形相でこちらを睨んできた。
「……しません!」
 えーと思わずぶーたれた表情を出せば、イルカは顔ばかりか胸元あたりまで紅潮させて、小声でなじってきた。
「だ、だいたい主様が変なとこ舐めるから!! 治療中の快楽は普通、こっちに直結しないんですっ。これでも噛んで気を落ち着けてください」
 腰のポーチに手をいれ、丸い緑色の葉をオレに渡してくる。
 匂ってみれば、ミント系のさわやかな匂いがした。
 イルカはオレに目をくれず葉を噛みながら、服を着始める。もう少しゆっくり見ていたかったのにと残念な気持ちになりつつ、葉を噛み、自由に左手を動かすイルカに、傷が本当に治ったのだと理解した。
 葉のおかげか、一回抜くまでどうしようもならないと思った息子が沈静化している。
 横目でイルカのものを見れば、オレのと同様に沈静化していたため、残念な息が漏れた。


「……変なとこじろじろ見ないでください。主様、俺は今から奴らを撃退してきます。たぶん、もうじき俺の仲間来るので、主様はここにいてください

 仲間?
 イルカのような者が他にいるというのだろうか。
 今更ながら、イルカの正体が気になり、オレは背を向けたイルカへ問いを発す。


「ねぇ、イルカって一体何者?」


 オレの問いに、イルカは首を巡らしてくすりと笑うと、振り返る。


「俺は、あなたの忍びですよ。主様」


 にっと歯を見せて笑う、自分を忍びというイルカに、オレは瞬きを繰り返すのだった。





「初めまして、主様」 おわり




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カカシ主でした!!