色温度 1
うみのイルカは途方に暮れていた。
里の要と幾多の命を失い、消えぬ傷跡を残した、木の葉崩し。
弱体化した木の葉を守るため、生き延びた忍びたちはがむしゃらに任務をこなした。疲労困憊した体に鞭を打ち、老いも若きも一丸となって里を盛り立ててきた。
里の火を絶やさぬために、命を賭して敵に立ち向かい、里を信じ逝った三代目に恥じぬよう、来る日も来る日も任務に明け暮れた。
そして、それは報われることとなる。
三忍の一人として名高い、美しき火影が後を継いだ。
幾度の困難に陥ろうとも、火の意志は絶えず受け継がれていく。
新たな火影の元で立ち直った里を見て、これから新しき長の元、いっそう盛り立てていこうと、仲間達と笑い合っていた矢先だった。
路上で一人、ひゅるりと横から吹く、春にはまだ遠い冷たい風を身に浴びながら、イルカはもう何度目か知れぬため息をついた。
……何処へ行こう。
遠くなる目を夜空の星に向け、かくりと肩を落とす。
その拍子に、胸のホルダーに入った全財産が、やたらめったら軽い音を立てるから、なおのこと気が沈んだ。
カップラーメン、一、二個買えば、吹き飛んでしまう金では、安宿すら行けない。
給料日まであと二十日。
アカデミーが再開され、教職に戻れたのは涙が出るほど嬉しかったが、収入が給料制になってしまったことが、今ではとてつもなく痛い。おまけに、イルカの一時避難所として頼りにしていたアカデミーを、早々に追い出されてしまった。
曰く、アカデミーは宿ではない、と。
金のかからない宿を失くし、金もないイルカは文字通り、路頭に迷っていた。
ぴゅるりと横から嬲ってきた風に身を震わせ、イルカは唯一の荷物である小さな風呂敷を胸に抱え、腕をさする。
そもそもの発端は、あの木の葉崩しだ。
森の側近くに立つ、安さだけが売りの由緒正しきボロアパート。
外回りの任務から解放され、三ヵ月振りに帰ってきた、汚いながらの我が城へたどり着いた瞬間、イルカの頭の中にあった冷蔵庫の中身が恐いなという小さな悩み事はぶっ飛んだ。
なかった。
確かにあったはずの自分の城は、忽然と姿を消し、代わりに、どんよりと紫がかった瘴気がそこはかとなく漂い残っていた。
もしかしなくても、答えはすぐに出た。
なぜなら、イルカのアパートがあった場所を通り道に、道幅十メートルはあろうかというばかでかい道が、試合会場へと続いていたからだ。
遥か彼方に望むことのできる試合会場は、未だに傷跡が深い。そして、イルカの精神的ダメージも深かった。
将来の嫁さんと子供のために、ない金をこつこつと溜めて作った預金通帳。両親の形見の品。ナルトが初めてくれた誕生日祝いの肩たたき券。アカデミーの子供たちがくれた宝物たち。というか、家財道具一切合切、すべてが泡となって消え失せた。
膝から崩れ落ちる体。その拍子に、瘴気を嗅いで胸焼け、眩暈、嘔吐の三重苦。
走馬灯のように流れるアパートの思い出に涙腺を刺激されながら、へろへろの体で大家さんを尋ねると、留守。
近所の人の話を聞けば、息子夫婦が暮らす火の国の都へ旅立ったとのお話。
イルカに伝言を残していると言うので聞いてみれば、格安家賃を滞納する輩は住人ではないということで、こっちで解約したとの冷たいお言葉。
それは任務が続いて帰れなかったからだし、自動振込み受け付けていない大家さんのアナログ精神が関係しているんじゃないかと思うし、でろでろに解けたアパートになった時点でも家賃取るんですか?! と、悶々したイルカに近所の人はすまなそうに一言漏らした。
「気の毒だとは思うけど、私も近所のもんだからさ…」
引きつった笑みを浮かべるイルカに、近所の方は優しく肩を叩き、そっとみかんを持たせてくれた。
「頑張るんだよ」と近所の方に見送られ、イルカは結局、任務続きで家に帰れない忍びたちに、一時の宿として解放されていたアカデミーの一室へと舞い戻った。
その先で、悪友どもに大笑いされたことが逆に負けん気を呼び、アカデミーが再開されるまで、実入りのいい外回りの任務で金を稼いでアパートを借りたらいいだけさと、開き直ったイルカに、世間の荒波は容赦なく襲い掛かってきた。
「イルカ、おれたち結婚することになったんだ。ささやかだけど式するから、お前も来いよな!」
「イルカ先生、ぜひ、来てくださいねっ」
季節は何をも凍りつかせる冬から、そこら中に花を咲かせる春が到来した模様だ。
今月に入って数えるのも恐ろしくなった、結婚ゴールイン組が、イルカの前に立ち塞がる。
一日一食の、貴重な栄養源である素うどんを啜っていたイルカは嘆かずにはいられなかった。
曰く、お前らもかッ、と。
忍びの根性で引きつる顔を笑顔にすり代え、おめでとう、でも、俺、今持ち合わせがないから、祝い金期待するなよッとさらりと言おうとする直前、幸せご両人は輝かしいオーラを放ち、こう言った。
「でさ、ちょっと恥ずかしいんだけど、実はこいつの腹におれの子がいるんだ」
ブゥッ
口に入っていたうどんが思わず飛び出た。意地で、丼の中に舞い戻らせ、イルカは腹の奥底で叫ぶ。
曰く、お前らもなのかッッ、と。
続く言葉は、どれもがこれから誕生する我が子に対する愛しい思いだが、聞かされる方にとってはどれも同じ。
『生まれてくる我が子に不自由な思いをさせたくないから、ご祝儀弾んでねっ』だ。しかも、『独身なんだからいいだろ? 俺はこれから遊ぶことも出来ずに、子供と女房食わせて行かなきゃなんねーんだよ。あぁ、いいよな、独身は。一人で好き勝手に金を使える独身は』と同僚の目が鋭い視線を放って、脅してくる。
結婚するのも子供ができたのも、オメーの勝手だろうがとぶち切れたい気分満々なのだが、敵もさることながら、心底嬉しそうな奥さんと、大きなお腹を盾に脅してくる。
しかも、誰もが産み月間近の女性ばかり。その方々は輝かんばかりの笑みを浮かべ、こう言うのだ。
「この子が大きくなって忍びになりたいと言ったら、イルカ先生、頼みますねっ」
ごり押し、駄目押し、突き落とし。
未来の生徒に対して、イルカが為すべきことは唯一つだ。
こうして、イルカが外回りで稼いだ金は、ご祝儀へと儚く散っていく。
その行き着いた先は、一人悲しく夜風に吹かれる、この状況。
あぁ、寒い。空しい。腹減った。
アカデミーを追い出された上に、三日も満足に食えていない身の上には、寒い夜風は毒だった。
へっくしょーいと、夜風に向かってくしゃみをすれば、当然のことながら自分の鼻水と唾液が顔に跳ね返ってきた。
無言で顔を拭き、イルカはおかしくもないのに零れ出る笑みを浮かべ、夜の街をさ迷い歩く。
ふらふらと本能に任せて足を進めていれば、人が行き交う歓楽街へやってきていた。
赤い提灯を出している店が悪魔的な匂いを出しているのを眺めつつ、イルカは歩を進める。
焼き鳥、かば焼き、うどん、居酒屋、定食屋。
腹が減り過ぎて鳴きもしないお腹をさすりながら、せめて匂いだけでもと楽しんでいたら、店の者に睨まれた。
行く先々で、露骨に嫌な顔をする店の人たちに、イルカは涙を禁じえない。
なんだよ、何だよ! 始めは『味見します?』って、みんな言ってくれたのに、今日は野良犬を見るような目つきで俺を見るなんてッ。
世間は冷たいと、店の者の目から逃げるように路地裏に入ったイルカは、嫌味で味見と言った店員さんたちの本心を知らない。
逃げ込んだ路地裏の先。
くすんくすんと滲み出てきた雫を手の甲で擦っていると、人の気配を感じた。
ここは歓楽街。
表通りは健全そのものだが、少し路地裏に入れば怪しげな店がたくさん存在する。そればかりか、ここの界隈は影に隠れてこっそり仲良くやっている男女もいる、イルカにとって危険地帯でもあった。
その危険地帯に入り込んだことを知り、まずいと顔をあげた瞬間。
そう離れていない距離にある雑居ビルの階段の下、影に隠れるように蹲る女を目にし、イルカの脳は固まった。
暗闇とはいえ、夜目がきく忍びの目には細部まで鮮明に見える。
栗色の長い髪の女がしゃがみ込み、一生懸命何かをしている。その中、節の長い男の手が女の頭を時折掴んだり、離したりと気のない振りで動いていた。
時折、女が呻き、微かに男のものと思える荒れた吐息が聞こえてくる。
これは一体何だ。あと少しで分かるが分かりたくないと、ぐるぐる考えていたそのとき、それはやってきた。
今まで見えなかった男の上半身が、女の頭を抱えるよう前のめりに現れた。そして遊んでいた両手で女の頭を掴み、容赦なく前後に動かし始める。
「は」
大きく息を吐きながら、手を動かす速度はそのままに、こちらを見上げてきた男の顔を見て、血の気が引いた。
銀色の髪に、左目を隠すよう巻かれた額当て。口元を覆い隠す覆面をした男は、イルカの元生徒の元上忍師である、はたけカカシだった。
中忍試験でちょっとしたいざこざがあって以降、まともに顔を合わせていない。
そのときのいざこざはイルカの見込み違いであり、カカシの正しさを思い知らされた結果になったが、その後、木の葉崩しに襲われ、非礼を詫びずにここまできてしまった。
もちろん謝ろうとは思ったが、任務に次ぐ任務で一つ所にじっとしている暇もなく、カカシを探そうにもカカシは一般受付では姿を全く見せなかった。
そんなこんなで、ずるずると時を経て、今に至る。
何と言うか、機を逸してしまった。そんな言い訳が頭を回る。
非礼を詫びていない相手といきなり鉢合わせをしてしまった、なんとも居心地の悪い状況に、イルカの体は固まった。
だらだらと汗を流しながら、逃げることも出来ずにカカシを見詰めていると、カカシは妙に無感情な瞳を向けたまま、微かに眉根を潜め小さく呻く。それと同時に、何かを嚥下する音が聞こえた。
そこでようやく我に帰る。
あれ? この状況、俺ってもしかして……。
出歯亀。
そんな言葉がよぎった瞬間、何をしていたのか思い至り、ぐわっと顔に血が上った。直後、
「ぶっっ」
両手で押さえたが、吹き出るように飛び出た血は両手の隙間から流れ出てしまった。
「ふーん、本当に鼻血吹き出すんだーね」
「ナルトの言っていたことは本当だったか」と平坦な声音を出しながら、自分のものを仕舞うカカシの姿に、ぐわっと再び顔が熱くなる。
すいませんと頭を下げようとして、イルカに気付いた女が泡を食ったように振り返った。
「ッ、いつから……! カカシ、あんた!!」
一瞬にして顔を染め、カカシを睨みつける女に、返す言葉がない。
そんなところでする方が悪いと思うが、逃げなかったイルカもイルカで、自分に非がない訳ではない。
「あ、あのあのあの」
妙齢の女性に恥をかかせてしまったと、動揺するイルカに、女は呪うような目つきでこちらを睨み据え、「消してやる」と唸った。
その恐ろしいまでの顔に、ひぃぃと悲鳴を上げる。せめて半殺しにしてくれないかなと、ない覚悟をそれなりに決めたとき。
「やめなーよ。どうせ誰にでもあんなことしてんでショ。純情ぶるのも今更だーよね」
と、耳を疑うような発言が降ってきた。
空耳かと現実逃避する目の前で、女はカカシへ振り返る。
「…カカシ、…あんた……」
小さく体を震わせ始めた女に、気が気でない。
早くフォローの言葉を掛けろと視線を送るが、カカシは気のない仕草で耳をほじると、大きくため息を吐いた。
「ねぇ、それよりさ。早く家に帰って掃除してくんない? その様子だと何もしてないみたいだしさ。で、それが終わったら飯作りなさいよ。オレ疲れてんだから、とっとと寝たいし」
「今日はアンタの相手もなしだから」と、続けて投げられた爆弾発言に息を飲んだ。
そろりと女に視線を向ければ、震えは最高潮に達し、イルカの目では捉えきれない速さで右手が閃いた。
だが、それも途中で阻まれる。
「ッッ、離してッ!」
「なーによ。なーに、怒ってんの?」
握った手首を離し、カカシは笑う。
半笑いで言った言葉は、人を馬鹿にしているとしか思えない。
とんでもないことになったと、おろおろしているイルカの前で、女は濡れた声で叫んだ。
「カカシは私のこと何だと思ってるの?! 私の顔見れば、飯、風呂、掃除、抜きたいって…! 家に泊めてもくれないっ。私はあんたの家政婦じゃないのよッ」
家政婦は、夜の仕事はしません。
心の中で突っ込みつつも、義憤に駆られた。
女性の顔を見て、そんな横暴な言葉を吐いていたとは、全く持って信じられない。男の風上にも置けない、不逞な野郎だッ。
「そうですよ、カカシ先生! あんた女の人を何だと思ってるんですかッ。今ならまだ間に合います。今の言葉を撤回して、しっかりと抱きしめてあげないと駄目でしょッッ」
鼻から流れる血のために、ところどころ不明瞭な言葉になってしまった。だが、女のイルカを見る目が、少し穏やかになっていたのを見て、自分の言葉が十分伝わっていることを確信した。
不安げに瞳を揺らせる女と視線を合わせ、一度頷くと、女もこくりと頷き返してくれた。
にわか同盟誕生の瞬間だ。
さぁ言え、さぁ抱き締めろと、無言の圧力をかける二人に、カカシは再び息を吐いた。
「面倒だねぇ」
誠意の欠片も潜んでいない言葉を前に、二人は声を失う。
ぱくぱくと口を開閉していれば、カカシは小さく鼻で笑い、女を見下ろした。
「言っとくけど。アンタが勝手にオレの家に上がり込んで来たんでショ? 頼みもしない料理やら洗濯やら掃除。それにオレの性欲処理まで付き合ってさ。嫌なら別にアンタじゃなくてもいーのよ。アンタみたいな女はそこら辺にゴロゴロいるわけだーし、ね」
カカシの言葉に真っ青になる。それが事実だとしても、言っていいことと悪いことがあるのでは……。
「――分かったわ。もう二度とあんたの家には行かない……」
だらだらと再び汗を流すイルカの前で、女は小さく息を吸うと、ぽつりと零した。
その声に何とも言えない寂しさが潜まれていて、胸が痛んだ。
声を掛けたいが、女の名前を知らないことに思い至る。それでも元気付けるために口を開こうとすれば、突然、女は振り返り笑顔を向けた。
化粧は濃いが、瞳が緑の、ついぞ見た事もないような綺麗な人だった。
美人から見詰められ、笑顔を向けられた経験に乏しいイルカは、嬉しさよりも恥ずかしさが優る。
どこを見てかいいか分からず、視線をさ迷わせていると、女は口を開いた。
「このこと他言したらタダじゃおかねーからな。テメーの一物、切り取って鯉の餌にしてやっから、覚悟しとけよ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
ぎょっとして視線を女に合わせれば、女は綺麗な笑みを浮かべたまま、低い声で恫喝してきた。
「出歯亀なんざしやがって、この変態が。その挙句鼻血吹いてそのザマたぁ笑いを通り越えて気持ち悪いってーの。なに、あんた、まさか童貞? 童貞なの? きっしょ、変態野郎ばかりじゃなくてきもいんだよ、二度と私の前に面出すんじゃねーよ」
繰り出される心ない言葉の羅列に、イルカの心は見事にへし折られる。
目に映るのは見惚れるほど美しい笑顔の女なのに、その口から出る言葉のひどいこと。それは時間と共に聞くに堪えない言葉まで飛び出るようになり、涙が出そうだった。
にわか同盟破棄。そればかりか、敵に回ったようだ。
もう止めてくださいと泣いて耳を覆う寸前、女はにやーと唇の端を引き上げた。
「これは私からの礼よ。有難く受け取りなッ」
聞いた瞬間、意識がぶっ飛んだ。
内角に抉りこまれるように放たれた拳を腹に受け、前のめりになった首には極めつけの掌底が叩きこまれる。
痛いと思う暇もない連続技に、暗くなる視界。
やばい、落ちると、全てが真っ黒く閉じる前に、「あーぁ、どうすんのコレ」といかにも面倒臭いことになったと呟く声が聞こえてきた。
全部オメ―のせいだろうがッッ。
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完売本『色温度ぷらす』より。
鈍行更新となりますm(_ _)m