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「……イルカ。頼むから、その悩ましげなため息は止めてくれないか」
「は?」


 正真正銘の残業中。
 カリカリと物を書く音が響く職員室で、同僚が突如発言した。
「仲良いのはいいことですけど、もう少し忍んでいただけるとありがたいですねぇ」
「はぁ?!」
 向かい側から、先生が困ったわなんて顔を作りながら、同僚の援護射撃をしてくる。
 カカシに媚薬の解毒を頼んでからというもの、毎晩毎夜、例えカカシに深夜の任務が控えていようとも欠かさず治療をしてくれたおかげで、イルカの体力は大幅に殺がれていた。
 連日連夜の激しい運動にさすがに疲れが出たのだろうか。ため息を吐いている自覚が全くなかった。
「何言ってるんですか! ちょっと疲れたなって思っただけですよ。お、お前も耳おかしいんじゃないかっ。俺が悩ましげなため息を吐く訳ないだろーッ」
 気色悪いと空元気に笑い飛ばすが、二人の目は細く撓んでいる。「誤魔化しても無駄」「やだ先生ってば」と、何でもお見通しだという顔をされ、イルカは思わず顔を赤らめた。


「ちょ、ちょっと、マジで何もないからなッ。先生も、変な想像止めて下さいよッ」
「どう思いますか、こいつー」
「無駄な足掻きだと思いますけどねー」
 「ねー」と仲良く首を傾げる二人に、汗が吹き出る。
 前回同様、職員室には三人しかいない。
 あの一件を機に、同僚と先生は意気投合してしまい、イルカの仮住まい生活を根掘り葉掘り聞き出そうとしてくる。
 話す内容が内容なだけに、今まで話を濁してきたのだが、何も語らないイルカに痺れを切らして、実力行使に出たのだろうか。
「仕事しよう、仕事! さぁ、今日も元気に残業残業ッ」
 机に積み重なっている、採点待ちの答案などをちらつかせ、声を張り上げる。
「オレ、終わったもーん」
「私も終わりました」
 いや、俺は終わっていない。
 会話から抜け、一人、机の上の答案用紙に向かう。二人はこちらに視線を寄越しながら、楽しげに会話をしているが、無視だ、無視。
 まる、ばつ、まると、声に出しながら採点していると、同僚が朗らかな声で言った。
「で、イルカー。お前、その情熱的な跡はどう言い訳すんだよ。今日一日中、注目の的だったぞ」
 「イルカ先生ってば大胆っ」と先生が合いの手を入れたところで、顔から火が噴いた。
 あの野郎ッ。跡をつけるなとあれほど言ったのに、今日は見えない場所を狙ってきやがったかッ。
 昨日の夜、しつこく啄ばんでいた項を押さえ、怒りに身を震わせていれば、二人はにやーっとそれはそれは嬉しそうに笑った。


「かかったな、イルカ! オレは項につけたなんて一言も言っていないぞッ」
「イルカ先生、口を割った方が身のためですよッ」
 だ、だまされた……ッッ。
 己のうかつさに頭を抱える。唇を引き結んで二人を見れば、二人は心得たように、イルカの机の上にある処理できそうな書類を分けて、自分たちの机に置いた。
「先生ってば、かわいいですね〜。前まで家に帰りたくないって言っていたのが嘘みたい」
「そうそう。仕事人間まっしぐらだったってのに、授業終えるなりすぐ帰るようになりやがって。お前、オレたちの助言でうまくやったんだろ? ちゃんと報告しろよな」
 ペンの走る音が響く中、イルカは引き結んでいた唇を緩ませ、ぼそぼそと小声で礼を言う。
「ふ、二人には感謝してます。えっと、仮住まい生活は何とか順調です」
『ほほー』
 からかいの混じった笑みを向けられ、イルカは慌てて答案用紙に目を移す。


 カカシの家で再び生活し始めるようになって、イルカの中に変化が生まれた。
 姑パックンの小言だけは別だが、前はあれほど面倒で厄介だと思っていた家事や、忍犬の世話がさほど苦ではなくなってきたのだ。
 理由は分かっている。
 ――カカシが、いるからだ。
 家に帰ると忍犬と一緒にカカシが出迎えてくれて、一緒に料理を作ったり、洗濯物を畳んだりする。分担することもあったが、概ね一緒に作業することが多かった。
 労働量が半分になったということもあるが、一番大きかったのは家事に対する考えが前向きになったことだ。
 掃除にしても料理にしても、義務感ではなく気持ちよさから、皆で一緒に美味しく食べたいからと、やりたいことをやっていると思えるようになり、気持ちに余裕が生まれた。
 イルカの前向きな気持ちが、いい具合に作用したのか。今まで構って構ってと周りに群がっていた忍犬たちが、積極的に家事の手伝いをしてくれるようになった。
 忍犬とはいえ犬の身だから多くのことはできないが、それでも一生懸命やってくれた。たまにとんでもない失敗をする時もあったが、そんな時はカカシと一緒に笑って後始末をして、落ち込む忍犬を励ましている。
 毎日が楽しくて、家に帰るのが嬉しくて、そうやって日々を過ごしていたのだが、毎日即効で帰っていたイルカにツケが回ってきた。
 日中では処理しきれない答案用紙や、未処理の書類、カリキュラムの指導案並びに修正案、授業で使う忍具、修練場の使用申請書などの事務手続き他色々。
 二人が手を貸してくれたおかげで、溜まりに溜まった書類は今日中に目途がつきそうだ。二人がいなければ、今日は家に帰れなかっただろう。


 今夜は遅くなるから夕飯が作れないと、カカシに伝えてある。それに快く了承してもらい、今日は自分で何か簡単なものを作ると伝言ももらった。そして、
『残業で疲れてるからって言っても、やることはしないとーね』
 と、イルカの甘い期待を粉砕するお言葉ももらった。
 つい物憂げなため息が零れ出る。
 楽しい日常にプラスされた、ちょっと困った問題。
 暗部に飲まされた媚薬の解毒。
 暗部で使われている媚薬は、暗部が使うには至って普通のものだが、普通の忍びが使うには持続性の高い危険な物らしい。依存性はないが、一時的に禁断症状が出るため、七日間毎晩体を重ねて熱を散らす必要があると説明された。
 覚悟を決めて、こちらからお願いをしたのだが、カカシはすごかった。これが若さかと、媚薬に侵されたイルカがおののいてしまうほどの精力の強さを見せつけてくれた。
 こちらよりも先にへばってしまっては治療行為にならないため、それはそれでありがたいことなのだが、未だ慣れない快感とどうしても受け身にかかってしまう体の負担に、泣いて止めてくれと懇願したことは一度や二度ではない。
 だが、カカシは真面目な顔をして、もっとしないと後が辛くなると言うものだから、イルカは兵糧丸を服用して必死についていっている状態だ。
 治療をし始めてから、今日で六日目だが、あと二回、正直、体が保つか自信がない。
 しかし、それよりも心配でならないことがある。


「……はぁ」
 採点付けの手を止め、息を吐く。息が触れた指先に、小さな鬱血痕を見つけ、慌てて指先を手のひらに握りしめ隠した。しかし時すでに遅く、昨日の情事が脳裏にありありと映し出された。
 イルカの肌をたぐるカカシの指先を思い出し、触れられた箇所が熱を帯びる。妖艶な笑みを浮かべ優しく、時に強引にイルカを翻弄する、カカシの姿に鼓動が跳ねた。
 ぞくぞくと震えが走る中、しっかりしろと両頬を力一杯叩き、正気を取り戻させる。
 そうなのだ。イルカが心配していることは、この媚薬が解毒された後、まっとうな道に戻れるかということだ。
 困ったことに、カカシとの行為は気を失うほど気持ち良い。最中は、治療だということを忘れてしまいそうで、ほとほと困ってしまう。
 給料日まであと五日ある。媚薬が抜けてから三日ほどカカシの家に身を寄せることになる計算だ。
 その三日間、イルカはまともな頭でいられるのだろうか。あの快楽が忘れられずに、カカシに縋ってしまったらどうしよう。
 だいたいあのベッドはまずいだろうと、イルカは苦虫を噛む。
 あの家にたった一つしかない寝具の、ダブルベッド。
 広さ奥行きと共に十分な代物だが、今は治療があるから二人で使うのに問題ないとはいえ、抜けた後が困りものだ。それに、カカシは寝るときは必ず全裸になるため、これもイルカには頭の痛い問題だった。
 居候の身で寝具をもう一つ用意してくれとも言えず、かといって、イルカがソファで寝ると提案したら、猛反対された。
 カカシの真っ赤な顔を思い出し、吐息がこぼれ出る。
 まともな暮らしに戻る下準備のため、一度、カカシに打診したことがある。晴れて媚薬が抜けた後、ソファで眠ると言ったイルカに、カカシは本気で怒った。
 ソファは座ることを主体に作られたものだから、体を休めるにはベッドを使わないとダメ。忍びなら健康管理くらいしろと、青筋を立て、イルカの提案を蹴った。
 寝るときくらい一人でのんびり寝たいだろうに。ましてや、隣にはむさい男がいびきをかいて寝ているのに、イルカの忍びとしての体調管理を優先させるとは、見上げた忍び魂だ。
 これも上に立つ素質がある故かと感心する。
しかし、イルカとしては、媚薬の解毒ばかりか、寝る場所も迷惑かけているため遣りきれない思いでいっぱいだ。最後の手段は、アカデミーの備品である寝袋を借りて対処しようと考えている。


気を取り直してペンを動かしていれば、視線が突き刺さった。
 何だと顔を上げ、イルカは驚く。こちらに視線を向けたまま赤い顔で、二人が固まっていた。
「どうした?」
 あっけに取られて尋ねれば、二人は同時にため息を吐いた。その息の合い具合に内心感心してしまう。
 この二人の出会いがもう少し早ければ、案外くっついていたのかもしれない。
 そんなことを思っていれば、隣の同僚が髪を掻き毟り唸った。
「おい、勘弁しろよ。野郎のため息にどぎまぎされる気持ちを分かれよなッ。しかも同僚、しかもイルカだぞッ。オレが可哀相すぎるだろッッ」
 一体、何を言っているのだろう。
「イルカ先生…。そういう吐息は、例の方と二人きりの時にしてください。私たちを誘惑するのはお門違いですよ」
「はい?」
 眉根を寄せて窘められ、イルカは言葉に窮す。
 二人の考えが全く読めない。
 瞬きもせずに二人に視線を向けるイルカに、同僚は分かってないなーと首を振る。
「イルカ。お前、毎晩そりゃもー気持ちいいことしてんだろ?」
 あからさまな言葉に、目が見開く。子供がいないとはいえ、学び舎で何たる発言をしてんだ!
「最近のイルカ先生、艶っぽくなったって専らの評判ですよ。さぞかしいい夜を過ごしているんだろうって、くのいちの間じゃ盛り上がっているんですから」
 んふふふーと含みのある笑みを向けられ、絶句する。確かに毎晩しているが、それは治療行為というか、不可抗力というか。
『イルカ先生』
 不意に、昨晩耳元で切なく囁かれた声を思い出し、体内の血液が沸騰した。肌がざわめき、鼓動が跳ね上がる。
 今宵もまた治療行為が待っていると思うと、尻の座り具合が悪くなってしまった。
 思い出さないようにしていたのにと二人を睨めば、こっちを見るなと怒鳴られた。なんでだ!


 くさくさした気分で机に向かっていると、同僚が息を吐いた。
「…まぁ、よかったよ。イルカが親になるって出ていった時は気が焦った」
「そうですね。よかれと思って言ったのに、全く見当違いなこと言うんですもの。ご自分で気付かれて本当に良かったです。――私としては、あの晩、何があったかお聞きしたいんですけど」
 「あ、オレもオレも」と続けた同僚に、眉根が寄る。気乗りしないが、二人のおかげでカカシとうまくいったようなもので、イルカのことで気を揉ませてしまったのも事実であり……。
「……誰にも言わないか?」
 念を押すように視線向ければ、二人の目が輝いた。
 「もちろん」と身を乗り出す二人に、イルカは一度咳払いをし、おもむろに話し始めた。
あの日、職員室から出て家主を探しに行った先で媚薬を飲まされ、家主に助けられたことを語って聞かせた。
 あからさまな描写は避けたが、そういう行為をしたことも真正直に話した。ただしカカシの名誉のためにも、名前は明かさなかった。


「俺、二人が言っていたことがようやく分かった気がしてさ。媚薬を抜くための行為をした後、思いっきり泣かれちゃってな。『子供じゃない』って。自分の認識改めたよ。泣いた顔を見て、すごく辛くて、胸が痛んだんだ。できればその涙を止めてやるのが俺だったらいいのにって思ったよ」
「イルカ…」
「先生」
 しんみりとした声に顔を上げ、鼻の下を擦る。二人は瞳を潤ませていた。
 情感豊かな二人に照れ笑いを浮かべ、イルカはしみじみと言う。
「俺、父親は無理だったけど、きっと兄にはなれると思う」
『――は?』
 こくこくと感じ入っていた二人の声が同時にあがる。目を見開き、口を開閉させる二人に、イルカは笑った。
「子供でも一人前だって分かったから。庇護するだけじゃなくて、同じ目線で相手を見ないと――あれ、どうした?」
 黙り込み、ふるふると震え出した同僚たちに気付いた。
 この後に続く展開に既視感を覚え、何となく姿勢を正していれば、それは直後にやってきた。


『そこに座れ、この朴念仁ッッ』
 椅子を蹴飛ばして立ち上がり、二人は怒りの咆哮を上げた。
「は、はいぃぃぃ!」
 ちょこんと床に正座するイルカに、二人は前回と同様、仁王立ちでイルカを見下ろす。前回よりも怒っているような気がするのは、イルカだけなのだろうか。
 同僚は組んだ腕の上で、イラただしげに人差し指を何度も上下に振っていた。
「イルカ。テメェ、独り身のオレを前にして、よくもそういうことを平気で言えるなァ。健気な家主に、お前はどういう感情を抱いてんだッ、あぁ?」
 「鈍すぎるのも重罪だぞ」と額に青筋を立てて、本気で怒っている同僚に、イルカは身を縮こませる。
 身を乗り出す同僚を宥めつつ、先生は刺々しい口調で言った。表面的には笑顔を保っているが、言葉の端々に言いようのない怒りが込められており、とっても恐い。
「暴力沙汰はやめてくださいね。でも、イルカ先生。あなたちっとも家主の心を分かっていませんね。任務でもないのに、媚薬を抜くために体を貸すという事実を、先生はどういう風に考えていらっしゃるんです?」
 絶対零度の眼差しを受け、舌が凍えてしまいそうだ。同僚よりも数倍怒り狂っている先生を認め、イルカはつっかえつっかえ答えた。
「そ、それは悪いと思っています。媚薬も、えっとちょっと特殊だったみたいらしくて、何といいますか、その……」
 もごもごと歯切れの悪い言葉を漏らすイルカに、先生が笑った顔で「さっさと言わねぇとぶち殺す」と殺気を忍ばせてきた。その時点でイルカはハキハキと答える。
現在も続く行為を口に出すのはものすごく恥ずかしかったが、これも治療行為なのだと、己を納得させて言った。
「媚薬が特殊なものだったらしく、七日間ぶっ続けで体を重ねる必要があって、現在もお世話になってます! 俺としてはただただ感謝するばかりです!!」
 言い切ったとばかりに、イルカは鼻から息を吐き出す。
 身を硬くして反応を待っていれば、二人は「タイム」と左手の指先の上に水平にした右手を乗せた。
 イルカの了承を得ないまま、二人は背を向けてこそこそと内緒話をし始める。
「聞いたことあります?」
「ないですね」
「……っていうことですかね?」
「相手は上忍ですからね。利用できるものはって感じじゃ」
「――大変ですね」
「本当に」と、ぼそぼそと小声で話し終わった後、二人は思い切りため息を吐いた。
そして、振り返る直前に、二人は眦にそっと指先を添え後ろに流すと、笑顔を向けてきた。


「イルカ先生。今日はお帰りください」
「お前の残業はオレらがやっておく」
 まさかの言葉に、目が見開いた。
「え、え?」
 後はオレたちだけでできる類のもんだろうと、鞄を押し付けられ動揺が走る。どういうことだと、右往左往している間に、二人から背中を押されて、職員室の外に追い出された。
「ちょ、二人とも!」
 戸の前に立ち、中に入れないよう塞ぐ二人に、戸惑いの視線を向ける。
「勘違いするな。これは家主さんの気持ちを慮ってのことだ。決して、お前のためなんかじゃねーからな」
 背後から照る蛍光灯が逆光になって、同僚の表情は見えない。
「イルカ先生、本当にじっくり考えて下さい。家主さんの気持ちと、あと先生自身の気持ちも。イルカ先生は媚薬に侵されたからといって、感情を伴わない交わりを平気で受け入れるような人でしたか?」
 続けて問われた言葉に、息を飲む。
先生がどんな表情で言ったか分からない。しかし、大事なことを言われた気がした。
 微かに見えた答えを聞こうとすれば、それより早く戸が締まった。
 「後は自分で考えろッ。この幸せ者ッ」と戸を隔てて怒鳴られて、出した手を慌てて引っ込める。
 同僚の言葉に、くすくす笑う先生の声が聞こえる。それに小言を漏らし、二人は席に戻ったようだ。
 何かを話しながらペンを走らせる音を聞きつけ、イルカはずり落ちそうな鞄を肩に引っ掛けなおして、戸に向かって礼をした。
 何だかよく分からないが、今回は二人の好意に甘えよう。
 答えが分かった暁には、二人にしこたま酒を奢ろうと思った。たぶん、その答えは、とっても大事なもので、お金じゃ絶対手に入らないものだと思うから。
「今度、奢るからッ」
 戸に向かって声を張り上げれば、「はーい」「期待しないで待ってやるよ」と声が返ってきた。
 それに笑って、イルカはアカデミーを後にした。





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相談役の同僚二人がいなかったら、イルカ先生はカカシと恋仲になっていませんでした。
でも、鈍いイルカ先生が好きっっ。






色温度 9