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「ほー、残業。残業とはの。主を一人家に置いて、随分とお気楽な身分じゃのぅ、小童」
 家に帰り、「ただいま」さえも言わぬうちに、軽いジャブでお出迎えされた。


「……パックンさん、遅くなってすいません。ただいまです」
 引きつる頬を叱咤し、目線の下にいる小さなパグ犬に笑顔で挨拶する。
 パックンはフンと鼻を鳴らすなり、イルカと目を合わすのも嫌だと言わんばかりに踵を返した。
「やれやれ、カカシにも困ったものじゃわい。出来損ないを家に入れるとは。家事も録にせず、最近は主のカカシにまでやらせてのぅ。厚顔無恥とはこのことじゃ」
 イルカに聞こえるよう文句を言い、奥に引っ込むパックンに、引きつった笑みが出る。
いかん。パックンはカカシの大事な家族だ。ここで切れてはまずい。
 「すいません」と小さく呟き、靴を脱いであがる。途端に、「イルカー」と尻尾を振って出迎えてくれた忍犬たちに、イルカの顔はほころんだ。
「イルカー、おかえりーッ! 今日はおれっち野菜煮たんだぞー」
「おれ、配膳した」
「わんわん!」
 褒めてと言わんばかりに突っ込んできた忍犬たちを抱きしめて、頭を撫でて労をねぎらう。
「そうか、すごいなー。良くやったな」
 イルカが褒めると、千切れんばかりに尻尾を振り回す忍び犬たちを微笑ましく見ていれば、前方から冷やりとした空気が流れてきた。
 その空気をいち早く察知した忍犬たちは、それじゃ寝るなと断りを入れて、「おやすみ」「わんわん」とそれぞれ挨拶をして、忍犬たち専用の寝室へと駆け込んでいった。
「おう、今日はありがとうな。おやすみ」
 忍犬たちが右手に続く廊下へと姿を消したところで、いまだ冷たい空気をしつこく送ってくる主の名を呼んだ。


「カカシ先生、ただいま戻りました。今日は、ありがとうございます。洗濯物、入れてくださったんですね」
 壁に張り付くようにして尖った髪を覗かせていたカカシが、のっそりと顔を出す。微妙に頬を赤らめ、視線をさ迷わせながら、イルカに近付いてきた。
「……おかえり。予定より早かったじゃない」
 ぶっきらぼうな言葉と一緒に、カカシが手を差し出す。何だろうとその手を見ていれば、イルカの肩にかかった鞄をひったくるように奪い、鈍いと小さく呟いた。
「ご飯、用意してあるよ。風呂も出来てるし、どうする?」
 奥へと進むカカシの言葉に目を見開く。お帰りと出迎えられることはあったが、こういう言葉をかけられたのは初めてだった。
「……ちょっと、どっちなの?! 早く言いなさいよ」
 ぐるりと振り返ったカカシの顔は赤い。柄にでもないことをしたと思っているのだろうか。
 おかしくて声に出して笑えば、外で聞く声よりも少し高い声を出してカカシは詰ってくる。それにすいませんと謝りつつ、イルカは思う。
 まるで奥さんみたいだ。
「ありがとうございます。それじゃ、ご飯からいただいてもいいですか?」
 頭に手を乗せて撫でれば、カカシの顔はもっと赤くなった。「子供扱いするなッ」と手を弾かれたが、イルカがカカシに触れた瞬間、嬉しそうな表情を見せたことに、胸が温かくなる。だが、次がいけなかった。


「言っとくけど。オレは、こっちの方がいい」
 むすっと頬を含まらせていた顔が意地悪げに歪んだと思った直後、胸倉を引っ張られるなり唇を奪われた。
「カ、カカシ先生ッッ」
 軽い接触だったが、毎晩、カカシの愛撫を受けているイルカには毒だ。
 途端にあがる熱に、イルカはうろたえる。帰ってきて早々、口付け一つで簡単に煽られる自分の体を恐ろしく思う。
 反応した自分のものを悟られたくなくて、カカシから距離を置こうとすると、カカシに腰を抱かれ、無遠慮に股間に手を伸ばされた。
「やめっ」
 身を捩ろうとしたが、壁に背を押し付けられ、股の間に体をねじ込まれた。突っ張ろうとした手を壁に貼り付けにされ、身動きを封じられる。
「……ご飯よりも、欲しいものがありそうだーね」
 カカシの目が妖しく光る。さっきまで年相応の顔をしていたのに、瞬く間にオスへと変貌していた。
 膝頭で股間を撫でられ、火がついていたそれは隠しようもないほど成長していく。「ね」と至近距離で顔を見上げられ、羞恥で顔から火が噴くかと思った。
 涙目になるイルカを見てうっそりと笑い、カカシは耳にそっと息を吹き込んで、イルカを誑かす。
「――媚薬、抜こうか」
 腰に響くような甘い声が脳髄を痺れさせる。腹が減っていたのに、それよりも違うものが欲しいと、体が甘い痺れを伴ってイルカを苛んだ。
「……風呂、入らせてください」
 媚薬に侵されたとはいえ、節操のない自分を理性が詰る。付き合わせているカカシに申し訳ないと思いつつ、「了解」と囁いたカカシの口付けを受け入れた。


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「……風呂でするなんて、聞いてません」
 のぼせ気味の体を、ひんやりとしたシーツにうつ伏せに張り付かせ、イルカは掠れる声でカカシを詰った。
「ん〜? だって、時間は有効活用しないとーね。けど、アンタって本当可愛いよねー。『お湯入る』って、泣くんだもん」
 突然放たれた暴言に、ぐわっと顔に熱が集まる。
 湯船の中で揺さぶられたことを思い出して、居たたまれなくなった。風呂はくつろぐところで、決して欲情するところではないはずだ。
 信じらんねーと目を見開くイルカに、隣のカカシは「なーに」とご機嫌な顔でこちらを見下ろしている。


「口にして良いことと、悪いことがある!! からかうなッ」
 振り上げた拳をあっけなく捕まえられ、カカシは笑いながら仰向けに寝転がった。握った手を離さないまま、胸元で抱きしめて、カカシは笑う。
「いいじゃない。気持ちよかったでショ」
 まだ言葉を慎まないカカシに怒りの鉄拳を食らわそうとするが、胸元で拘束された腕は動きもしなかった。そればかりか、カカシは開閉する手に何度も口付けを降らせる。
 しばらく暴れていたが、次第に抗うことが面倒になってきた。全身重だるく、節々が痛い。腹も空いていたが、それよりも睡眠を主張している体に、だんだんと目が閉じていく。
「ん、眠いの?」
 反応が鈍くなったことに気付いたカカシが声をかけてくる。それにこくんと頷き、イルカは忍び寄る睡魔に身を任せようとした。
「えー。まだやろうと思ったのにー」
 イルカの手を握ったまま、くるりと反転したカカシの頬が膨らんでいる。風呂場ではオスの顔で傍若無人にイルカのことを翻弄していたのに、今は年相応の顔を見せていた。
 発言は問題だが、表情が可愛いなと思って笑えば、カカシは驚いたように体を起こし、気まずい表情を浮かべて視線をそらした。
 カカシと距離が縮まり、だいぶ仲良くなったと思うが、それでもカカシは時々イルカを見て、今のような顔をする。
 何かを隠しているような、ばつの悪い顔。まるでイルカに悪いことをしたと思っているような、そんな顔。


「……カカシ先生、そんな顔しないでください。…どう、考えても、俺の方が、迷惑を…」
 カカシの手が緩む。そのまま何か思い詰めるような顔をするから、イルカは重い腕を持ち上げて、カカシの頭を撫でた。
「……子供、扱い、するな」
 くしゃりと泣きそうな表情を見せるカカシが切なくて、今度は首に腕を回して引き寄せた。
 抵抗されるかと一瞬思ったが、カカシは素直に寝台に倒れこんで、イルカの側に横になった。
肩口にカカシの銀髪が当たる。眠たい目を瞬かせた先で、カカシははにかんだ笑みを浮かべていた。イルカの行動は間違っていなかったようだ。
「カカシ先生、何か、不安あるんですか?」
 そっと尋ねれば、はにかんだ顔が萎んだ。イルカには言いたくないことなのだろうか。
「俺じゃ、役に、立ちませんか?」
 イルカの言葉にううんと首を振る。だったら、言って欲しいと思う。イルカにできることなら何でもしてやりたい。カカシが悲しむような顔は見たくない。笑顔が見たい。
 口に出して言えればいいのに、睡魔に侵された頭は口を動かそうとしてくれない。カカシの顔を見るのが精一杯で、必死に眠気と戦っていれば、カカシがぽつりと言った。


「不安よりも、お願いがある…」
 視線を向ければ、笑い泣きに似た表情を浮かべていた。
「カカシ『先生』って呼ばないで。オレ、もう先生じゃないかーら」
 「アンタに呼ばれるの、実は結構きつい」と小さな声で言った言葉に、なんでだろうと思った。
「…カカシ先生は、先生です」
 半分寝かかっている頭に喝を入れ、必死に口を開く。今ここで眠ってしまえば、カカシは泣くと分かったから、イルカは回らない頭で必死に言葉を紡ぐ。
「あいつらの、先生でしょう。今は解散して、サスケもいなくて、ナルトも、サクラも、それぞれ別の人に師事してますけど。それでも先生は、先生ですよ」
「……資格ない」
 頑なに言い切った言葉に、イルカは笑いたくなる。先生に一体どんな理想を抱いているのだろうかと、おかしくなった。だから、イルカは言ってやる。
「カカシ先生。先生だって人間ですよ。間違うこともあるし、失敗だってするんです」
 「失敗しちゃダメでショ」とふて腐れたように呟いた言葉がおかしい。それでも先生は先生なのだと、イルカは言い張った。
「誰かが、あんたのことを先生って呼ぶなら、あんたは先生なんです。自分で違うって言っても、あんたは先生なんですよ」
「……サスケはオレのこと、一度も先生って言わなかった」
 えらく固執すると思っていたら、サスケのことが気にかかっていたのか。
「それじゃ、サスケはカカシ先生のことを先生とは思えなかったんでしょうね」
 ちらりと視線を向ければ、むぅと唇を曲げるカカシがいた。泣くまいと、眉根に力を入れるカカシの意地っ張りな所に笑みが零れ出る。けれど、泣かせてしまうのは本意ではないので、イルカは言葉を続ける。寂しいですよねと、声を掛ける。
「…何よ、ソレ」
 認めないカカシにイルカは笑う。イルカにも経験がある。教師に成り立ての頃、どうしても自分のことを先生と呼んでくれなかった生徒がいた。


「ねぇ、カカシ先生。大人も子供もつまんない意地をよく張りますよね。別にどうってことないことなのに片肘張って、本当は素直に自分を曝け出したいのに恐くて、見せ掛けばっかり良く見せようとする」
 「それと同じですよ」とイルカは笑う。
 サスケはたぶんカカシとよく似ているのだと。
サスケは、カカシに自分の姿を見て、素直になれなかったんじゃないかと。自分に向き合うことが一番恐いことだから。一度認めてしまえば、それは覆らない絶対のこととなる。何かを決めたとき、己の根幹に座すものが邪魔になることほど、危ういものはない。
「サスケは聡い子です。周囲に合わせることだって、口先だけで呼ぶこともできた。でも、サスケはしなかった。それは、それだけカカシ先生のことを意識していたってことです。それって、こう言い換えることができるんですよ」
 「憧れていた」って。
「――何よ、ソレ」
 「いい加減なこと言わないでよ」とカカシの声が濡れたので、イルカは重い体をひっくり返して、仰向けになるなり、カカシの頭を抱いた。
「よく言うじゃないですか。自分と似た者同士は強く反発し合うか、惹かれ合うって。カカシ先生とサスケは前者だったんですよ。ガイ先生とリーとは逆バージョンですね」
 笑って肩を叩けば、カカシは「冗談じゃない」と噛み付いてきた。「ガイと一緒にしないで」とぐずる声で言うから、まぁまぁと肩を撫でて宥める。
落ち着いたところを見計らって、イルカは言う。
「ねぇ、カカシ先生。サスケはね、今、とっても辛いんだと思うんですよ。どんな切欠があって、どんなことを思って里抜けしたかは分かりませんが、自分にそぐわないことをして、つまんない意地を張って、一人でらしくないことをして、今、すっごく辛いんです」
 カカシは黙ってイルカの言葉を聞いている。色違いの目を瞬きもせずに、イルカだけをじっと見つめている。その瞳を見返して、イルカは笑う。


「だからね。サスケが帰ったとき、深く悩まずに一発お見舞いしてやりなさい。バカ野郎って言って、拳骨くれたらいいんですよ」
「拳骨?」
 戸惑うカカシにそうだと深く頷く。
「あなたが卑屈になることじゃないんですよ。俺たち先生は、でっかい悪戯をした生徒に拳骨くれて、後は抱き締めてやればいいって話なんです」
 「簡単でしょう」と首を傾げれば、カカシの顔が歪んだ。「そんな簡単なことじゃ」と掠れる声で言ったが、イルカは簡単なことだと断言する。
「生きている限り何でもできますよ、カカシ先生。俺たち生きている人間って何が起こるか分からないんです。悪いことも良いことも、無理だって思ったことでも、死なない限り、絶対に希望は捨ててはダメなんです。じゃないと、人生楽しくないでしょ」
「……アンタ、言ってること無茶苦茶だ」
 「理に適ってない」と弱気な発言するカカシを叩き、イルカはもう一度言う。
「バカ言ってんじゃないですよ。人間、理に従うために生きてると思ったら大間違いですからねッッ」
 涙に濡れた瞳がきょとんと見開く。同意を求めて、髪を掻き混ぜてやれば、沈んでいた表情が少し明るくなった。


「……アンタの言うこと、ちょっと分かる気がする」
 ちょっとだけかと、内心肩を落とすが、カカシは目元を擦るなり、イルカに抱きついてきた。
 首にしがみ付き、体に乗り上げてきたため、カカシの全体重を支える羽目になった。
身動きがとれないほど抱きしめられ、疲弊した体は悲鳴をあげる。
「ちょ、カカシ先生、くるし……!」
「……アンタといると、自分がバカバカしくなーるよ」
 ふふふと胸に顔を押し当てて笑うカカシに、まぁいいかと抗おうとした体から力を抜いた。カカシが元気になれば、それだけでイルカは幸せだと思えるから、それでいいのだろう。


「カカシ先生、おやすみなさい」
 体は疲れでピークを迎えている。頭も朦朧としだして、イルカがおやすみを告げれば、カカシはイルカの胸から顔を上げて、頬を膨らませた。
「でも! やっぱりイルカ先生にカカシ先生って呼ばれたくなーいんだよねッ」
 我侭めいたことを言い出すカカシの言に、疑問符が突き立つ。首を傾げていれば、カカシは唇を尖らせた。
「『先生』だなんて他人行儀な呼び方は嫌なのッ」
 カカシの言葉に夢現を彷徨っていたイルカの意識が少し覚醒する。もしかして、カカシはそのことを一番に言いたかったのか? 先生話はもしかして前振り?
 分かり難いばかりか、遠回りすぎる主張に内心呆れながら、イルカは仕方ないなと覚束ない口調で言う。
「分かり、ましたよ、カカシさん」
 胸の上のカカシが一瞬微妙な顔をしたが、「まぁ、アンタにはこれで精一杯か」とどうやら納得してくれたらしい。
 これで本当に寝ることができると、イルカは辛うじて保っていた意識から手を離す。
 眠りに落ちる寸前、カカシが小さく呟いた。
「……早く、気付いてーよ」
 胸元に顔を押し付け、服を握り締めるカカシの存在が小さく思えて、イルカは守ってやりたいと思った。





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カカシ先生は一生懸命口説いているつもりです。
イルカ先生総スルー。






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