「……どーっすっかなぁ」
暗い夜道。
あてもなくさ迷い歩きながら、上空に浮かぶ満月を見上げる。
今日は待ちに待った給料日。
イルカの一カ月の成果と頑張りが形になって、茶封筒の中へと収まっている。
さすが内勤。外回りの時とは一回り違う厚さと、重みに、いささか愕然としながら、イルカは恭しく受け取った。それと同時に、カカシの家に戻る理由を失った瞬間だった。
「あーぁ」
満月を見上げたまま、ぶらぶらと歩く。
教材が入った鞄の紐が肩に食い込む。胸に抱えている風呂敷には、着替えの服と下着が詰まっている。
教材は別として、後は全部カカシに買ってもらったものだ。お金で返さないといけないなと呟いて、その前に住むところだよなと一人呟く。
今朝、カカシの家を出るときに、イルカは手紙を残した。白い封筒の中に今まで世話になった礼と、カカシに買ってもらったものはお金で返すからと手紙にしたため、家の鍵を入れて、卓袱台に置いた。
カカシが忍犬と共に、短期の任務へ行っていたのは正直助かった。とてもじゃないが面と向かって、さよならとは言えそうになかったから。
「うおっと」
あてもなくぶらついていると、いつの間にか土手に来ていた。
軽い傾斜がかかる草むらに足を取られ、踏み止まる気力もなくて、そのまま転がった。
くるりと回って、次の瞬間には、満月が視界を占領した。
闇の中、一際大きく輝く白光の月。
「あーぁ」
声に出して嘆いてみた。
別れはいつも突然で、あっけない。
カカシと別れたのは、体を繋げ始めて七日目の夜が明けた日。
自分の気持ちを知り、今まで散々嫌だとか辛いとか言っていた口を閉じ、カカシを浅ましく求めた夜の翌日だった。
散々痴態を繰り広げた後、それでも名残惜しくて口付けを送ったイルカに、カカシも返してくれた時、窓を叩かれた。
暗い夜明けでも飛ぶことのできる白い小鳥。
火影からの式だ。
口付けを中断し、舌打ちをつきながら寝台を抜けるカカシを見送り、イルカは寝台に寝そべっていた。
肌を重ねることはもうないのだと、軽い喪失感を覚えていると、カカシの沈んだ声が聞こえた。
「イルカ先生。オレ、数日、里を離れることになった」
式を燃やした後、イルカよりも情けない顔をして、こちらに戻ってきたカカシを、イルカは笑った。
「任務ですか。さすが売れっ子は大変ですね」
茶化して言えば、カカシはぶーたれた顔で寝台に飛び込む。スプリングのよく利く寝台はおもしろいほど跳ねあがり、イルカの体を宙に浮かせた。
「おわっ」
寸で転げ落ちそうになるイルカの腰に手が回り、その場に辛うじて止まる。ほっと息を吐きつつ、後ろにある頭を軽く叩いた。
「危ないじゃないですか」
振り返って軽く咎めれば、カカシは頬を膨らませ、腰に回した手を胸に移動させ、密着してきた。
「イルカ先生がつれないのが悪い。ちょっとは寂しがってーよ」
背中に張り付き、首筋に頭を擦りつけられた。頬や耳に髪が触れる度、くすぐったくて笑いが零れ出る。
くすぐったいと身を捩じらせれば、カカシはため息を吐いて、イルカを力いっぱい抱きしめてきた。
「い、痛い痛いっ! ちょっと、強すぎですって、カカシさん!!」
みしみしと骨が軋む音がして、悲鳴をあげる。肋骨がいかれると胸に巻きつく腕を叩けば、ようやく力が抜けた。
「……ればいいのに」
カカシの独り言は小さすぎて聞こえなかった。首を回せば、カカシは何でもないと言葉とは裏腹の声を発した。
こういうところは子供だよなと思いつつ、後ろ手でカカシの頭を撫でる。すると、手を取られて頬を擦り寄せられた。
「……任務、行かないんですか?」
火影から直接下された任務について大っぴらに聞く訳にもいかないが、遅刻癖のあるカカシが心配で声をかけた。
「うん。出立は今日の昼だから。イルカ先生を見送った後に、身支度したら十分間に合うよ」
身支度しなければならない任務かと、一瞬気が滅入る。難しいのですかと聞こうとして、慌てて口を閉じた。他人の任務に立ち入ることは厳禁だ。
「――それじゃ、少しでも寝ないと」
口に出そうになった不安を隠し、少しでもカカシが気持ちよく眠れるよう、汚れたシーツを取り変えるため起き上がる。
何度も交わったせいで、寝台はおろかイルカ自身も汚れている。
カカシに風呂へ入らせている間に、寝台を綺麗にした方が賢いかと、床に足をつけた途端、後ろから腕を引っ張られて体が回った。
スプリングの利いた寝台に体が横ざまに倒れ込む。目を開いた先には、ご機嫌なカカシの笑顔があった。
「……カカシさん」
いきなり何をと眉根を寄せれば、カカシはイルカの名を呼びながら、胸に飛び込んできた。胸に額を擦り寄せるカカシの頭を押さえ、一体何だと尋ねれば、カカシはふふふと笑う。
「イルカ先生、オレの心配してくれた」
無邪気に笑顔を向けるカカシに戸惑う。
「いえ、別に……」
視線を逸らせば、カカシは声を上げて笑った。
「はい、うっそー。先生、嘘つくとき、絶対視線逸らすんだもん。バレバレ〜」
自分でも知らない癖を指摘され、思わず目が見開いた。
「うそだ!」
「嘘じゃなーいよ。忍犬たちだって知ってるし。アンタ、こんなんで任務できるの? 里外任務なんて出るんじゃなーいよ」
茶化すように言ってきたが、言葉に本気の色が混じっているのを感じ、イルカは生意気な口を抓ってやった。
「こう見えても中忍です。見くびらないで下さい」
「痛い、痛い。あー、わかったって、もー冗談だって」
けたけた笑うカカシから手を離してやった。腑に落ちない部分は色々あるが、カカシほどの忍びから見れば、イルカの実力程度では不安になるのだろう。
未だに胸の中でくつくつ笑うカカシの頭を乱暴に掻き交ぜる。
「もっと優しくしてー」と甘ったれるから、両手でばさばさ掻き混ぜれば、「きゃー」と黄色い声を上げて笑った。
しばらくすると、笑っていたカカシの瞬きの回数が多くなってきた。
目を閉じて、うつらうつらするカカシに気付いて、掻き交ぜていた指を止め、髪を後ろに梳いてやる。風呂に入れと言おうと思ったが、眠たいならこのまま寝かせてやろう。
ゆっくりと髪を撫でていれば、気持ち良さそうにカカシは目を細める。単調な動きをしていたせいか、イルカも眠たくなってきた。
寝台の有様が気にかかるが、今日は我慢しようと掛布を引き寄せ、カカシを抱きこんで寝ようとした時、カカシが寝ぼけた声をあげた。
「……オレね。昔から可愛くて、年上のくのいちに可愛がられていたの」
突然の自慢話に、顔が歪む。
何だ、それは。イルカに聞かせて悔しがらせたいのか?
自慢げな顔をしていたら頭を叩いてやると覗きこめば、カカシは薄らと目を開け、眠たそうな顔のままぽつぽつと喋っていた。
「――オレ、ガキでさ。気持ちいいからって理由で、深く考えずに誰とでも寝てた。掘られるのはゴメンだったから、そういう目で見た奴は半殺しにしてたけど…。股開いて快感くれるなら、男でも女でも誰でも良かった。気持ちいいってことは、俺にとって分かりやすくて、優しい感情の一つだったから」
「誰でも寝てた」と、カカシは語る。
カカシが過去抱いた者たちに黒い感情を抱いてしまう。だが、それよりもカカシが何を言いたいのかが分からず、イルカは焼きつく感情を隠し、黙って聞いた。
「……イルカ先生。オレのこと軽蔑する?」
ふと顔を上げて不安な瞳を向けてきたカカシに、咄嗟に首を振る。
イルカが勝手に胸を痛めているだけで、カカシを軽蔑しようとは思わない。
イルカの反応に、良かったと目を撓ませ、カカシは言う。
「――昔、くのいちの姐さんたちから、ずっと言われたことがあったんだ。『忍びだからこそ、こういうことは本当に好きな人とやった方がいいよ』って。その時は、何言ってんだってバカにするばかりで、意味を考えようとも思わなかったけど…」
瞳を切なそうに細め、カカシは静かに呟いた。
「……今は、その意味がよく分かるよ」
頬を殴られた気がした。
この関係が間違っていると、カカシに告げられた気がした。
カカシがイルカの言葉を待っていることに気付いたが、イルカは何も言えず、ただカカシを見詰めることしかできなかった。
しばらく見詰め合った後、カカシは顔を伏せるなり、「おやすみ」と小さく呟いて、イルカの胸に額を擦りつけた。
「…おやすみ、なさい」
掠れる声で言葉を口にできたのは、カカシが深い眠りについた後だった。
それから、カカシとは会っていない。
アカデミーに出勤するイルカを、玄関口で忍犬たちと見送ってくれたのが最後。
誰もいないカカシの家に帰って、掃除をして。飯を作って、一人で暮らした。
カカシの家は毎日がにぎやかだったから、一人で暮らすには静かすぎた。
別れる前までは、カカシに欲情したらどうしようと考えていた。だが、実際は、カカシの匂いが残る寝台で一人眠る侘しさに比べれば、カカシの隣で欲情した体を抱えたまま、朝まで眠らないでいる方が遥かにマシだと思った。
「……今日の宿はどうっするかなー」
棒読みで呟いてみた。
馬鹿なイルカは、カカシの家を出ることしか考えていなかった。アパートを借りるならば、部屋を探し契約を結び、色々としなくてはいけないことがたくさんあったが、イルカの頭にはそのことしかなかった。
野宿するにはまだ寒い。腹はお腹が空いたと鳴いている。
だが、土手から起き上がる気力が沸いてこない。
ベストのホルダーをしつこく弄っている指を見つけて、情けなさに笑いが零れ出る。
カカシの家の鍵は、もうここにはない。イルカとカカシを繋いでいた小さな鍵は、今では家主の家の中だ。
「…どう、すんだよ」
満月に向かって言葉を吐く。白々しく光り輝く満月に答えを求める。お前なら分かるだろうと、無茶なことを考える。
「どうしろってんだよッッ。答えてみやがれッ」
怒鳴って、手に触れた石を月に向かって投げつけた。
石は決して月に届くことはなく、土手の下を流れる川に吸い込まれて消えた。
「…アホくせー」
目元を覆う。
白くて大きい月は誰かを思い出しそうで、視界から隠した。それなのに月の残像が、瞼にくっきりと残っている。
静謐で、楚々と空中にあがる満月。
冴え冴えとした銀色の光を放ち、孤高に昇る月。
誰の目も捕えて離さない癖に、誰かの手に入ることのない存在。
「……アホくせー」
それは表向きだ。写輪眼のカカシだ。カカシが必死に作り上げてきた、里を牽引する忍び像だ。
分かっている。本来のカカシは違う。はたけカカシは、違うということをイルカは知っている。この短い期間で、カカシを知ることができた。
いつか、本当のはたけカカシを知る人物が現れて、カカシの隣に収まるのだろう。はたけカカシの魅力に気付いた誰かが、カカシのことを幸せにするのだろう。
それを黙って見ていられるのか。
「……できねーよ」
唇を噛みしめ、本音を零す。
今、カカシの前に、優しくて理解があって、カカシの幸せを望んでいる誰かがいたら、イルカはその存在を隠す。邪魔をする。カカシの気を引こうとする輩の足を引っ張り、カカシと寝たことがあるのだと心優しい誰かを傷つける。
「…ホモの横槍かよ」
自嘲気味に笑う。
分かっている。イルカがいくら声を荒げたところで何一つ変わらない。
カカシの家に身を寄せ、カカシと肌を合わせたのは、カカシの厚意だ。優しかったからだ。気持ちがいいなら誰でも良かったからだ。
――これから先は、たぶん違うけど。
別れた時に交わした言葉を思い出す。
切実に漏らした言葉にはカカシの思いが込められていた。呟いた言葉は、カカシの想い人へ向けられたものだった。
「……一人は、寂しいな」
見るだけで涙が溢れ出そうになる存在は今までいなかった。側にいるだけで温かくなれる存在がいたなんて思いもしなかった。
あんなに愛しい存在を、イルカは知らない。
思いを告げてみる?
馬鹿な自分が無茶なことを言う。
告げてどうする。カカシを困らせてどうする。厚意を取り間違えたイルカの扱いに、カカシが困るだけではないか。
「――誰か、一緒に住んでくれないかな」
知らない頃には戻れないし、戻りたくもない。
カカシの存在はイルカの力になる。カカシが笑ってくれたら、イルカも嬉しい。幸せになってくれたら、イルカも幸せを感じることが出来る。
「犬も、飼いたいな」
わんわんキャンキャンと吠えていた、にぎやかな面々を思い出し、口端が上がる。口うるさい姑の小言も思い出して、苦笑が零れ出た。
気持ちが浮上したのは一瞬で、すぐに表情は硬く凍る。
カカシは誰かの物になる。
予感ではなく、絶対だ。
カカシが望むなら、カカシの想う誰かもきっとカカシへと心を返す。
男であるイルカが、男であるカカシに惚れた。
愛しいという感情をくれた。
大事なものをくれた。
そんな人が振られる訳がない。幸せにならない訳がない。
仮に振られたら、そのときは振った相手に説教してやる。カカシがいかに優しいか、魅力的な存在か、永遠に語ってやる。
「……結婚、しようかな」
苦しいからと、声にならない声で呟く。
最低だなと笑う。イルカと結婚してくれる誰かを裏切る行為をしていると思う。
一番はあげられないが、イルカはその人を大切にする。その人のことを常に考えようと努力する。ずっと一緒にいて、その人の幸せを一番に考える。
その人との生活を大事にしていけば、そこから生まれるものもきっとあると思えた。
「――許して」
愛しい存在が誰かの手に渡るのが辛い。
愛しい人の側にいるのが自分でないことが悔しい。
自分の手で幸せにできないことが無念で、堪らない。
「――許して、ください」
逃げるイルカを。
諦めてしまうイルカを。
「許して、ください」
愛しい人から離れようとすることを、己の心に謝った、刹那。
「許さない」
冷たい声が耳を打った。
聞き覚えのある声。聞き間違いなどするはずもない。
「カカシさ」
目を覆っていた手を退けた瞬間、腕を草むらに押し付けられ、腰に乗りあげられた。
「許さないッ」
至近距離で見下ろしてくるカカシは、額当てと口布をしているが、変化していない本来のカカシだった。
任務から帰ってきた直後なのだろうか。カカシから微かに血臭と土埃の匂いが漂ってきた。
名を呼ぼうと口を開いた瞬間、「聞きたくない」と叫ばれた。
白くなるほど手首を握りしめられ、痛みに顔を顰める。だが、右目だけ晒すカカシの顔が、イルカよりも痛々しくて、戸惑った。
「――なんでッ」
カカシが叫ぶ。
体を震わせて、カカシはイルカを詰った。
「なんで、アンタいないのさッ。オレと約束したのに、オレと一緒にご飯食べてくれるって、言ったじゃない?!」
カカシに答えようとする。手紙を読んでいなかったのかと、口を開こうとしてカカシは違うと首を振る。
「違うッ。そういうことじゃない、オレが言いたいのはそういうことじゃなくて。アンタを給料日まで預かるって、誰が決めたの。オレはそんなこと一つも聞いてないし、知らないッ」
カカシの言葉に、固まった。
青白い顔をして、イルカを見下ろすカカシに嘘は見当たらなかった。
「どうして? ――結婚、するから? アンタ、結婚するの? オレのいない間に何があったの? 一体、誰と結婚するのッ」
言えと恫喝された。青白い、殺気さえ混じるチャクラを体から迸らせ、イルカを睨む。
「……言ったら、どうするんです、か?」
息苦しさを伴う圧力を全身で感じる。今のカカシに逆らったら命を奪われそうだとも思った。だが、不思議と恐くない。
「殺す。アンタの相手を殺してやるッ」
迷いもなく、言い切った。
濃厚な殺気を発しながら、イルカを見詰めてカカシは断言した。
顔が歪む。涙が零れ出た。
「泣いても無駄。命乞いしても無駄だよ。庇いたてしても、絶対に見つけ出して殺すからッ」
強張っていた体から力が抜けた。怒り狂うカカシをもっとよく見たいのに、後から後から溢れ出る涙に歪み、良く見えない。
期待してもいいのだろうか。
口に出してもいいのだろうか。
イルカが望む答えと、カカシの答えが重なりそうだ。だが、それでも不安なイルカは、カカシに強請る。踏ん切りがつかないイルカの背を押してくれと、口を開く。
「……カカシさん。俺のこと、どう、思っていますか?」
場を支配していた殺気が、不意に消えた。
泣き出す一歩手前の表情を浮かべ、カカシは狂おしい声をあげた。
「好きに決まってるでショ?! 誰が好き好んで野郎を家に住ませるの? オレ、寝るときは一人でしか眠れなかったんだよッ。男を抱いて本当に楽しいと思ってんの!? 面倒だし硬いし、好きじゃなきゃ、あんなに抱ける訳ないじゃないッ」
真っすぐに注がれた、深い海の色をした瞳は切実だった。
引きつっていた心が緩む。苦しいと泣いていた恋心が、ふわりと解けて花開いた。
「カカシさん」
名を呼ぶ。
月光の下、届かないと思えた人は、イルカの側にいる。イルカに触れ、間近にいてくれる。
「俺が結婚したいのは――」
嗚咽が零れ出て、最後まで言い切れたのか。
しゃくり声で消えそうな声は、カカシに届いたのか。
イルカには良く分からなかったが、カカシは何も言わずに口付けをくれた。
動転していたのか、口布越しの口付けだった。
その後にイルカの上で大泣きしながら、しがみついてきたカカシに、イルカは安堵の息を零した。
カカシの背を固く抱きしめ、頬擦りすれば、カカシはイルカの名を呼びながら「結婚する」と何度も叫んでくれたから。
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ようやくくっつきました〜。
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