「ア、アンタ、何、本気にしてんのー?!」
 イルカが目を開く前に、寝台に転がり、背中を向ける。
 かーっと全身が熱くなるのを押さえきれない。それと同時に、自分のものがあり得ないほど硬度を持ったのに気付いて、カカシは笑った。
 あははははははと無心に笑いながら、荒れ狂う心臓を抑えようと必死に宥める。
「っ、カカシ先生、あんたなぁっ」
 イルカの悔しそうな声と一緒に、後頭部に柔らかいものが当たるが、茹だった頭は平静を取り戻してくれない。
 すんすん鼻を啜りながら、文句を言うイルカの声にも胸がときめいて、カカシは両耳を塞ぎ自分の感情を必死に否定した。
 分かっているのか、あれはイルカ先生だぞ。男で、もさくて野暮ったい、元部下の元担任のイルカ先生だぞ。そんな相手に対しておっ立てる訳がないではないかと、カカシは自分に言い聞かせる。
 今のイルカは普段との様子があまりにも違うから魔が差しただけだと、カカシは必死に昼間のイルカを思い出した。
 ひっつめ髪のちょんまげスタイル。
 忍び服はきっちりと折り目正しく着こみ、だらしない格好をしていると、笑顔で問答無用に身なりを整えられる。カカシは何度もイルカに捕まり、身なりを無理矢理、直されたものだ。
 声は大きくて、よく通る。アカデミーを通る時、イルカの授業中の声をよく耳にした。
 何か都合が悪くなった時や、嘘をつく時、イルカはしらーと視線を逸らす癖がある。
ナルトが奢ってくれとイルカにたかっていたが、給料日前になるとイルカは必ず視線を逸らしながら用事があると言っていたが、あれは嘘だ。たぶん金がないことを言いたくなくて、仕方なく言ったのだろう。
それが証拠に、カカシが奢りますから行きましょうと声を掛ければ、イルカは目を輝かせてついてきた。用事は大丈夫ですかと聞いてみれば、また今度でもいいって言われましたと、一体いつ聞いたのだと突っ込みたくなる事を平気で口にしていた。
 過去に触れた、日常のイルカを思い出していると、徐々に気持ちが落ち着いてくる。
 こうして思い返してみると、過去の記憶にはイルカの情報が多いことに気付く。ナルトがイルカ発見機のようなものだから、子供たちと一緒にいると必然的にイルカと遭遇する機会が増えたのだろうが、ここまで多いとは思っていなかった。


 自分のものが落ち着いたことを機に、問題のイルカの気配を探る。
 すんすん鼻を鳴らしては、きゅーごろごろごろと腹を鳴らしている。
 ゆっくりと背後に視線を向ければ、イルカは背中を向け、膝を抱えていた。そういえば、歓楽街で会った時、随分と痩せたなと思った。
 黙って見ていると、イルカの腹の虫はどんどんうるさくなってくる。よほど腹を空かしているのか、鳴き止む気配がない。
 一体どれだけ腹を空かしているのだと思いながら、カカシは携帯食を恵んでやることにする。
 枕の脇に置いた袋を取り、背を向けるイルカの肩口から突き出せば、イルカは眉を寄せた。
「……何ですか、これ?」
 気になっている癖に、突っぱねる態度が子供っぽい。ここは自分が大人になるかと、手の平を開かせ強引に持たせてやる。
「腹、鳴らされてるとうるさーいの。それ、食べなよ。安眠妨害だし」
 心おきなく食えと言ってやれば、イルカは笑みを噛み殺したような顔で、ぽそりと礼を言ってきた。
「……あ、ありがとうございます」
 にしゃっと笑うか笑わないかの微妙な表情が、何ともいえず可愛い。ずっと見ていたいなと思った直後、きゅんと再び鳴った心臓の音で、我に返った。


 ちょっと、それはあり得ないでしょ?!
 一瞬零れ出た声に、カカシは顔を青くさせる。
 目の前のでっかいもっさい、おっさんを何故、カカシはずっと見ていたいと思うのだ。可愛い女の子ならいざ知らず、何故、こんな冴えないおっさんを見たいと思うのだ。
 そんな馬鹿なと、カカシは否定を繰り返す。
 これはきっと子供の仕草を見るような可愛らしさを覚えたからであって、イルカ本人を可愛いと思った訳では決してないのだ。
「どーいたしまして」と早口で返し、カカシは背を向ける。
 どきどきと心臓が鳴っている。一体、これは何だと動揺しつつ、何故か背後のイルカが異様に気になった。
 イルカはこちらを窺うように視線を向け、しきりにカカシの気配を気にしている。イルカが見ていることを自覚すると、身の置き所がなくなってくる。
 咄嗟に寝た振りをして、平静を装う。意識的に寝息の呼吸を繕えば、しばらくして、ようやくイルカの視線がカカシから離れた。
 ほっと小さく息を吐く。任務以上に心臓がよく動いた気がしてならない。そのおかげですっかり眠気は吹き飛んでいた。
 今から眠れそうにないし、どうしようかと考えていると、イルカの気配が突然乱れたことに気付く。
 何だと振り返れば、イルカの顔が変な色でひきつり、手を前に出してもがき苦しんでいた。
 それを見て思わず吹き出した。子供っぽいところがあると思っていたが、味覚も子供らしい。
「オレ、甘いの嫌いなの。オレの特製だーよ」
 お子ちゃまには苦いの駄目だったかなと笑えば、イルカは悔しそうに目に涙を溜め、顔を真っ赤に染めた。いかにも怒っていますと睨みつけてくる視線が心地いい。
カカシを睨みつけたまま、イルカが床に足を下ろした途端、表情が固まる。何か起きそうな予感がして、わくわくした。
良い暇潰しができたと喜び、次はどんな反応をしてみせてくれるのだろうかと見つめていれば、イルカは顔から血の気を引かせ、口端を引きつらせる。そして、「おー、ビンゴーっ」と足を上げて、踏み潰したネギトロの残骸を見せてくれた。
忍びにあり得ないほどトロ臭いイルカに笑い転げる。けたけたと笑っていれば、イルカは自慢の声で突然叫んできた。


「清掃活動、開始――ッッ!」
 鼓膜を突き破らんばかりの声に、一瞬体がびくつく。何を言い出したのか分からず、ぽかんとしていれば、イルカは小さく鼻から息を出すと、カカシ特製の兵糧丸を口に放ち噛み砕いた。
 まずいと非常に険しい顔を見せた後、イルカはカカシを鋭く見据えて言った。
「カカシ先生。あの女の方がこの家に最後に来たのはいつですか?」
 終わった話を蒸し返すイルカが面白くない。それでも、気難しい顔を崩さないイルカに、渋々答えを返せば、イルカは腕を組んで眉根を寄せた。
 イルカは人と比べて感情は読みやすいが、一体、何を考えているのか予想がつきにくい。もしかしたら、イルカのような人間が、カカシには厄介な相手なのかもしれない。
じっと観察していれば、イルカは自分の太ももを叩き、ずばりと言ってきた。
「カカシ先生。俺、今から掃除しますけど、カカシ先生は――」
「はぁ? なーんでオレがそんなことしなきゃなんないのー? 冗談じゃなーいね」
 掃除をしろと暗に言ってきたイルカに反発すれば、イルカはちょっと残念そうな顔をした後、一人で掃除すると言った。
 思ってもみない言葉に、驚くしかできなかった。
 何を狙っているのだろうと窺えば、イルカは礼だという。それでも疑わしくて、何を望んでいるのだと聞けば、イルカは真面目な顔をして、カカシからは何も取るつもりはないと言い切った。
 イルカの眼差しは嘘をついている様子は一つもなく、本心からの言葉だと分かった。
 何かと利用価値のあるカカシを前に、忍犬以外で、無償で何かをしてくれる相手が存在するとは思いも寄らなかった。


 感動すら覚えてイルカを見詰めていれば、イルカが不思議そうな顔をする。
感情が顔に出ているのだと気付き、恥ずかしくなった。忍びたるもの、感情は隠してなんぼだ。
慌てて背を向けて追い払えば、イルカはため息を吐いた後、部屋を出ていった。
布団に潜り込み、熱くなっている顔を擦る。だが、熱いのは顔だけでもなく、胸もだった。
どくどくと鼓動を打つ胸も擦る。熱いというと、少し大げさかもしれない。それでも温かく感じる胸に、手の平を押し当てる。
寝室の隣の部屋では、ごそごそと動く気配がある。
今まで、ずっと一人でここに住んでいたカカシには不思議な感覚で、こそばゆいような恥ずかしいような、そんな気持ちが沸き起こった。
これは一体何だろう。
イルカの気配を追うと溢れてくるこの温かい気持ちは一体、何だろう。
今まで経験したことのない感覚に戸惑っていれば、寝室の戸が盛大に開いた。


「カカシ先生、 俺の服はどこですか?」
情けない声を出すイルカに驚いて、身を起こす。
前を隠しもせず、困ったと顔をしかめるイルカに、ああと手を打った。
「血がついてたから、全部燃やしたーよ」
「……はい?」
 一体何を言っているのだと、首を傾げるイルカに、カカシは言葉が通じないのだろうかと、もう一度口を開いた。
「だーから、アンタ、鼻血出したでショ。血が臭って不快だったから、燃やして捨てたーの」
事実をそのまま告げれば、一拍の沈黙の後、イルカは顔を真っ赤にし、爆発した。
「ふ、ふっざけんなぁ! てめぇ、この悪臭の中で生活できる癖して、血の匂いが不快だとぉ!? その鼻は飾りかっ。それにも増して、人の衣服を勝手に燃やす奴があるかッ。罰として一緒に掃除しろッッ」
 ずかずかと寝台に寄ったかと思えば、イルカは布団を剥ぎ取り、床に投げ捨てた。
「ちょ」
 イルカの行動を非難しようとして、間近で怒り眼に睨まれた。
「いいから、こっちに来い」
「え、ちょ、わ」
問答無用で手首を掴まれ、寝台から下ろされる。ぶちぶちと何かを潰す嫌な感触を足に感じながら、そのまま怒りに駆られたイルカに、掃除の手伝いをさせられる羽目になった。



 一度も浸かったことのなかった湯船に身を沈ませ、息を吐いた。慣れない事をして緊張していた筋肉が、じんわりと緩んでいく。
「……案外、気持ちいいもんだーね」
 湯気が天井に上る様を目にしつつ、顔を洗う。
 まさか湯の準備までしているとは思わなかった。
 イルカの意外な気配りの良さに驚くと同時に、無性にくすぐったくなった。


 階級差を露とも感じさせない態度で、イルカに叱られ、檄を飛ばされ掃除をした。何でこんなことをと思わないでもなかったが、カカシ以上にばりばりと動き、カカシの家を掃除してくれるイルカに怒りをぶつけるのも違う気がして、結局、イルカが言うままに体を動かした。
 おかげで、何年かぶりに家の床を見ることが出来た。庭も雑草がなくなり、忍犬たちをいつ呼んでもいいほどだ。


 それにと、カカシは思い出し笑いを漏らす。脳裏に浮かぶのは、白いフリルのついたエプロンを身につけたイルカの姿だ。
 カカシの家に押し掛ける女たちが、必ずと言っていいほど持ってきた、白いフリルのエプロン。
 イチャパラでは定番だが、だからこそ、女たちには絶対着てもらいたくない代物で、「趣味じゃない」と面と向かって言い放ち、奪い取っていた。
 朝飯を作るためエプロンを所望したイルカに、何の気なしに渡して本当に驚いた。
 白いフリルのエプロンを身につけたイルカは、悪くないを通り越して、よく似合っていた。
 健康的に日焼けした肌と、真っ白いエプロン生地の対比といい、伸びやかな筋肉がついた体にフリルが花を添え、それは愛らしいものだった。
 しかも、カカシがイルカの服を燃やしていたため、イルカは上半身裸で、カカシの半ズボンを着た格好で身につけたものだから、それは裸エプロンと言っても良かった。
 男に似合う訳もない代物を着こんだイルカを見て、愛らしいと見惚れてしまった自分。おまけに、裸エプロン特有の、際どいラインを晒すイルカに、堪らなく欲情してしまった。
 風呂場で手早く処理を済ましたが、過去稀にみないほどの昂りと気持ち良さに、カカシは今まで必死で否定した感情を認めた。
 カカシは、イルカのことを浅からず思っている。
 懸命に抗ってきたが、あの昂りと気持ち良さの前では、どう否定しようが無駄な足掻きだ。


 男は単純だと改めて思いつつ、思い切り背を伸ばした。
 台所では、イルカがカカシのために食事を作ってくれている。耳を澄ませば、微かに鼻歌が聞こえてきて、らしいなと笑ってしまった。
 イルカは男で、カカシも男で。加えて、イルカは真面目な堅物だ。
 浴槽から上がり、戸を開け放って、浴室から出た。体を拭くこともせずに、そのままの格好で台所へと足を進める。
 近付くにつれ、米の炊ける匂いが鼻をくすぐる。そっと覗けば、コンロの上に土鍋が置かれ、そこから白い蒸気が勢いよく噴き出ていた。その隣でも、何かを煮込んでいるらしく、微かに甘い匂いが漂ってくる。
 肝心のイルカはといえば、水場の横にあるスペースで何かを切っていた。鼻歌に交じって、トントンと快い音を立て、イルカの腕が動く。
 エプロンの合間から覗く背中は真っすぐ伸び、歪みのない背骨のラインが綺麗だと思った。


「へー。手慣れてんのね」
 後ろから覆い被さるように、首筋へ頬を寄せると、化け物にでも遭ったような声を出された。
女相手ならば、頬に口付けを交わし合うのだが、生憎イルカはその気配さえない。それどころか、手に持っていた包丁をカカシに押し付けようとしていた。
 寸でのところで思い止まったようで、「危ないじゃないですか」と、イルカは涙目でカカシを咎めてくる。
「うーん?」
 心臓を押さえているイルカへ、甘えるように声を出す。肩に懐きながら、間近でイルカを見上げた。
 昼と夜で印象を変える、一風変わった男。今まで接したことのない人物で、あらゆる意味で興味を駆り立てられる。
 ――おもしろいじゃない。


 気になるなら自分の物にすればいい。そして、飽きれば今までと同様に捨てればいい話だ。
 写輪眼のカカシという極上の餌にも食いつかない、なかなかに手強い獲物を見つけたと胸の内で忍び笑いを漏らす。
 イルカの肩に擦り寄りながら、どうやってこの獲物を落としてやろうかと、ゲームを楽しむようにその過程に思いを馳せていたときだった。
 イルカの目が引き寄せられるように、後ろへ向いた。息を飲む声がし、そして。


「こんの馬鹿者ッ。風呂あがったら体拭けと習わなかったのかッ」


 間近で弾けた声。
 直後に走った、脳天を貫く強烈な痛み。
 何が起きたのか理解できず、目の玉から火花が飛び出る。
 黒い背景の中、真っ赤な光と白い光が交互に光る中、じっと一点に目を凝らしていると、強い意志を感じさせる黒い瞳があった。
 闇と同じ色を持つ癖に、決して堕ちない強さと輝きを放つ黒い双眸。
 その二つはカカシを見詰め、問いかけていた。
 それでいいのか。お前はそのままでいいと本気で思っているのかと、カカシの深い場所を貫いた。


息を飲んだ。
頭を揺さぶる痛みとは別に、胸が焼かれたように痛んだ。
昔、何かを探していたと思う。ずっと何かを待っていたと思う。
それはきっと当たり前のことで、だがカカシには願っても叶えられないもので、大抵のことは自分の思い通りにできる今でも、ずっと欲して止まないものだった。
 育ての親の言葉が蘇る。それと同時に、擦り切れた記憶の中で、誰かが言った言葉も聞こえてきた。
『お前が心底望んだものは、何があろうと、決して離すんじゃないよ』
 寂しそうに笑いながら、カカシに語りかけてくれた言葉。大きな手で頭を撫でながら、噛みしめるように言い含められた、その言葉。


 目が覚めるような思いで、目の前の男を見た。
 男はまずいことをしてしまったと、今にも逃げ出しそうな顔でカカシを見ている。
 それを認めた瞬間、泣きそうになった。心臓がうるさくがなり立てる。
 嫌だ。絶対に逃したくない。この人が、カカシが待ち望んでいた人だ。カカシはずっとこの人が欲しかった。


 この人が、カカシの運命の人だ。


 思った瞬間、術を解いていた。
 長年、機密事項とされ、上層部しか知られてはならない秘密を、自ら明かした。
 形振り構っている場合じゃないのだと、カカシが初めて人に対して恐怖を覚えた瞬間だった。





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ここから、カカシ先生の泣きが始まる!!(受難ともいう)







色温度ぷらす 4