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「……カカシよ。本当に、あれがお主の嫁か?」
どたばたと家の中を駆けるイルカと、それから逃げる忍犬を見据え、パックンは実に難しい顔で唸った。
「そーよ。どう、オレの嫁さん。元気で丈夫で可愛くて、諦めないド根性も持ってる。あんな人、どこを探してもいなーいよ」
胸を張って言ったが、内心冷や汗ものだった。
カカシの機密事項を、偶然を装って露見させ、軽い幻術を使ってイルカを家に縛り付けることに成功した。そして、
「パックンにも見えるでショ? イルカ先生の薬指に、はたけ家の婚姻の証が刻まれてるじゃない」
イルカが呪いの契約だと思っていた印は、はたけ家に古くから伝わる婚姻の証だ。
はたけ家のご先祖様が、子孫のために考え出した術。
昔から優秀な忍びを輩出していたはたけ家は、優秀であるが故に高ランク任務で死亡することが多かった。忍びの掟として、死亡すれば、その存在に関わるもの全てを抹消せられることを憂い、せめて夫婦の証は残してやりたいと考えられたもの。
たった一度しか刻めないそれは、はたけ家の由緒正しい婚姻指輪といってもいい。
「…確かにの。じゃが、お主には何故、刻まれておらんのだ?」
パックンのもっともな指摘に、カカシは顔色を変えず、落ち着き払って話した。
「それがさー。イルカ先生ったら、オレの家族に認めてもらうまでは、オレの指に刻みつけられないって言うんだーよね。今時、古風っていうか、奥ゆかしい人だよね」
「ふん」と小さく唸ったパックンは、先ほどと変わって少し機嫌が良くなっている。礼義にうるさいパックンならば、こう言えば心証が良くなるだろうと思った上での発言だったが、目論見が当たったようだ。
本来ならば、はたけ家の婚姻の証は、お互いがお互いに術を掛け合い、双方の薬指に名を刻まれて初めて完成する。その証は夫婦の間を繋ぎ、お互いの気配をいつでも感じることができると伝えられていた。
今回、イルカだけに証を刻んだため、本来の効力は発揮できないが、古い忍び文字でカカシの名が刻まれていることと、場所が場所だけに虫除けの効果が見込めるだろう。
中忍以下には見えないよう幻術を掛けているが、上忍連中にさえ知れ渡っていれば、後はどうでもなる。
絶対、イルカを物にしてみせる。
その決意を確固たるものにするためにも、勝手にはたけ家の婚姻の証をイルカに刻んだ。
今のイルカはカカシのことを、知人の親切な年下の上忍という認識をしているようだが、絶対、カカシに惚れさせてみせる。いや、惚れさせなければならない。
カカシは、イルカでないと嫌だ。イルカがカカシの嫁になってくれないと、我慢ならない。
イルカが違う誰かと一緒にいることを思うだけで、心臓が悲鳴をあげる。イルカが他人と見つめ合っているところを見たら、自分が何をしてしまうか正直分からない。
こんなことは初めてで、消えない不安と恐れが絶えずカカシを襲う。その癖、イルカの側にいるだけで、ひどく甘ったるい感情が忍び寄ってきて、泣き出しそうになる。
不安定な感情だと自覚しているが、それを制御する術をカカシは見い出せなかった。
「カカシが見染めるだけのことはあるようじゃの。しかし、贔屓はせん。カカシの嫁になりたいならば、拙者を認めさせねばの。それが亡き、お主の父との約束じゃて」
カカシの足元できっぱり言い放ったパックンの言葉に、苦笑いが零れ出る。
もう庇護してもらう歳でもないが、パックンはカカシのことを今でも小さな子供として見ている節がある。
パックンは、カカシの父親であるサクモの忍犬だった。カカシの母親は体が弱く、カカシが生まれると同時にその命を落としてしまい、サクモもまた妻を追うように儚く逝ってしまった。
サクモは亡くなる寸前、パックンにカカシを頼むと遺言を残し、サクモに恩を感じていたパックンは愚直までにその言葉を守ろうとした。
当時、パックンがカカシを育てることに対して、上層部から反対があがったそうだが、三代目や四代目の援助も得て、パックンはカカシの育ての親となった。
忍犬の身で、人間の赤子を育てることはさぞや大変だったと思う。それでも、小さな体で懸命にカカシを守り、愛情をかけてくれた。
カカシはパックンのことを親だと思い、パックンもまたカカシのことを実の子供以上に思ってくれている。
口うるさく、今もカカシを子供扱いしてくるのは、正直鬱陶しいと思うこともあるが、カカシは今でもパックンに頭が上がらない。
「どうぞ、ご自由に。でも、きっとパックンも気に入ると思うーよ。あいつら、見てよ。もうイルカ先生に懐いちゃって」
怒声を張り上げ追いかけるイルカに、忍犬たちは尻尾をちぎれんばかりに振り、鬼ごっこを楽しむように逃げ回っている。
カカシの使役している忍犬は、育ての親のパックンを含めて八匹いる。任務の時は主従関係を崩さないが、普段時のカカシと忍犬たちの関係は兄弟に近い。
忍犬たちはカカシを末の弟として見ている節が強く、庇護する対象のカカシに近付く者に対し、決して警戒を怠らない。
イルカと会わせる前に、前情報としてカカシの嫁だと軽く紹介はしたが、こうも忍犬たちが懐くとは思わなかった。
だが、それはカカシにとっては嬉しい誤算だ。
イルカは情に深いところがある。懐く様子を見せる忍犬たちの面倒を見ることで、この家に執着を持ってくれれば、しめたものだ。
まずは情でも何でもいい。イルカの心にカカシや忍犬たちの存在を馴染ませ、それを足がかりに、カカシの存在を大きくしてやる。
まずは外堀から埋めようと、イルカと忍犬たちの追いかけっこが一段落したのを見計らい、イルカに声を掛けた。
「お前たちに話がある」
イルカと暮らし始めて、カカシはある不満を抱えていた。
居間に呼び出しを掛け、集まってきた忍犬たちの前で、カカシは腕を組む。
家の中とはいえ、任務に関わっている時と同様の真剣な空気を作り、思い思いに座る忍犬たちの顔を見下ろす。すると、カカシの硬質的な空気に気付いたのか、忍犬たちは背筋を伸ばし、任務さながらの姿勢でカカシを注目し始める。
緊迫感が高まり、しんとなった場で、カカシはおもむろに口を開いた。
「――お前ら、イルカ先生に甘え過ぎじゃない?」
発言の直後、忍犬たちの姿勢が崩れた。小さくため息をつき始めた忍犬たちに、カカシはその態度は何だと肩をいからせる。
「ちょっと! お前ら、重大なことなんだから、ちゃんと聞きなさいよっ」
カカシの目の前に陣取っていたパックンが、踵を返してソファに飛び乗る。そこで実につまらなそうに欠伸をして、顔を伏せた。パックンはこの件に関して口を挟むつもりはないらしい。
援護射撃がないのは残念だが、カカシは腕を組み、だらけきった忍犬たちを再度見下ろした。
「いいから、聞いてって! お前らイルカ先生に甘え過ぎなの。先生が優しいからって、やたらめったら纏わりついて。これからはもう少し距離を開けなさい」
ふんと鼻息荒く言い放てば、忍犬たちは実に嫌そうな表情を浮かべた。
「えー、なんでだよ。最初に、カカシが言ったんじゃないか。イルカと積極的に関わり合いを持てって」
なーとビスケが振り返り、同意を求めた瞬間、そうだそうだと一斉に吠えられた。
「そ、それは確かに言ったけど、あれはオレの嫁さんなのッ! お前らがまとわりつくせいで、イルカ先生と二人っきりの時間をろくに過ごせないでしょー?!」
イルカがこの家に住み始めて、二日経つが、アカデミーと受付任務を受け持っているイルカは帰りが遅い。そのため、イルカは家に帰ってから、夕飯などの家事をすることとなる。あちらこちらにイルカが駆けずり回っている間に、気付けば夜も更け、寝室に入った直後、イルカは倒れるように眠りこみ、カカシと碌に会話をしていなかった。
「おかげで、ちっとも喋られないじゃないのよー!」
ちょっとは空気読みなさいよと地団太を踏めば、アキノが器用に肩を竦めた。
「カカシー。おれたちを怒るのはお門違いだぞ。言っとくけど、カカシが一番イルカと一緒にいる時間が長いじゃないか」
なぁと、アキノがウーヘイに聞けば、ウーヘイは神妙な顔をして頷いた。
「はぁ? どこがよ! イルカ先生が帰ってから、家事しているイルカ先生に纏わりついて、隙を見てはブラッシングとかしてもらってる癖にッッ。オレなんて、できた夕飯を目の前に出されて終わりよっ。風呂の準備やら床の掃除やらお前らの面倒見るだけで、オレのこと全然構ってくれないんだからッ」
これは差別だと叫べば、ブルが渋い声でうぉふうぉふ言ってきた。
「は? 『カカシは俺たちに焼きもち妬いているんだろう』って?」
ブルの言葉に一瞬体が固まる。十四個のつぶらな瞳がカカシを見詰める。
しばらく、忍犬たちと見詰め合った後、カカシは爆発した。
「っ、冗談言ってんじゃないよーッ?!」
「カカシが怒った、逃げろーっ」
わーと言いながら、蜘蛛の子を散らすように忍犬たちが逃げる。
「だ、誰が嫉妬なんかするかッ! それはオレじゃなくて、イルカ先生の責務でショっ」
「とか言って、顔真っ赤にして、図星だろ〜」
「カカシの顔は、真っ赤っか。エテ公みたいに真っ赤っか」
やーいやーいと囃し立てる忍犬を追いかける。これは尻を一発叩いても許される所業だ。
途中、あちらこちらでガシャンと何かが落ちたり割れたりしたが、気にも止めずに追いかけた。
上忍の力を如何なく発揮し、逃げる忍犬を捕まえ一つ所にまとめて縄で縛っていると、玄関先から声がした。
「ただいま、帰りましたー」
イルカだ。イルカが帰って来た。
いつもは忍犬たちに邪魔され、出迎えをすることができなかったが、今日こそはと足を一歩出したところで厳しい声が聞こえた。
「遅いわ、小童。貴様、主のカカシを待たせるとはどういう了見じゃ。さっさと、飯の支度をせんか。それと、拙者たちのもな。昨日食べた、あれは何じゃ。匂いが強いものはいかんと言うとるのに、言われたこと一つも守れんのか」
「……す、すいません。以後、気をつけます」
ぽかんとしている間にも、パックンとイルカの気配がこちらに向かってくる。
出遅れた。またしても、先を越されてしまった。いや、今からでも遅くはない。今日こそ、イルカと会話をしてみせる。
並々ならぬ決意で、イルカの到着を待つ。パックンの言葉に、すいませんねと言葉を返しているイルカが廊下から姿を見せた。
イルカの目がカカシに向く。イルカがいつカカシに声を掛けてもいいように全身で待ち構えていると、イルカの顔が固まった。そして、突然イルカの膝が崩れ落ち、床に伏してしまった。
何がどうしたのか分からない。イルカの行動が意味不明で動揺していると、ぽつりとイルカが呟いた。
「……また、掃除か」
沈んだ声を出すイルカに、周りの様子に気がついた。
ダイニングテーブルに置いてあった調味料は床に零れ、畳まれてあった洗濯物はあちらこちらに飛び散り、何故か床が水浸しになっていた。
「あ、イルカ。ご飯、ご飯!」
「お腹空いた。飯くれ」
「わんわんわーん」
続けて、イルカの姿を見た忍犬たちが、縛られたまま騒ぎ出す。
身動きせずに何かしきりに葛藤していたイルカは、疲れたように体を起こすと、額に手を当て大きなため息を吐いた。
「あー、分かった、分かった。今から準備するから、騒ぐなって…。カカシ先生も、ちょっと待ってくださいね。今、用意しますんで」
肩から提げていたカバンを下ろし、イルカは台所へと進む。その下では、口やかましくパックンがイルカに向かって何か言っていた。
あそこにも伏兵がいたかと、カカシは遠い目になる。この先、イルカと会話をすることは難しいのではないかと思ってしまう自分に、涙を禁じえない。
「なぁ、カカシー。いい加減、解けよなぁ」
「飯食えないじゃんかー」
「わんわぅ」
一人たそがれていると、縛った忍犬たちが文句を言ってきた。それに反発する気力もなくて縄を解いてやる。その際、カカシは一つだけ聞いてみた。
「…なぁ、オレがイルカ先生と一番長く過ごしているって、どういう意味だ」
イルカが帰って来てから、この家の中でただ一人、イルカと会話をしていないカカシが、どうして一番長い時間を一緒にしていると思えるのだろう。
縄から解放され、ぶるぶると体を振ったビスケは何を言っているんだとカカシを見詰め、事も無げに言った。
「カカシ、イルカと一緒に寝てるだろ。おれっちたちの中で誰よりも一緒にいるじゃないか」
そうだそうだと、頷く忍犬たちに、カカシは言葉が出ない。
ふぅと息を吐いて気持ちを落ち着かせ、カカシは引きつった顔で笑う。
「お前ら、本気で言ってんの? 爆睡している奴とどうやって話せっていうのよ?」
いずれそういう関係になることを見越して、カカシはイルカと同じ寝台で眠るようにしている。一回一緒に寝たんだから別にいいよねと、変な小理屈を並べれば、イルカは身を寄せている立場を慮ってか、特に反論をしてこなかった。
隙あらば襲ってやろうと虎視耽々と狙っていたが、イルカは一度眠りにつけば中々起きない体質のようで、何度か粉を掛けてみたが、全く通用しなかった。
「…カカシ、一緒に寝るの嫌なのか? それじゃ、変わってやろうか?」
「はぁ?」
突然出た言葉に、素っ頓狂な声が飛び出る。忍犬たちは自分の言っていることに何ら疑問を抱かず、無邪気に告げる。
「だって、イルカが寝ているの嫌なんだろ? 俺たち、イルカと一緒に寝てもいいぞ」
そうしたらもっと一緒にいられるしと、喜ぶ気配を醸し出す忍犬に泡を食った。
「ちょ、ちょっと、お前ら何言ってんの! だーれが、一緒に寝るの嫌だって言ったの」
勘違いしては困ると言い募れば、眉間にしわを寄せる忍犬が多数出現した。一体、どういうことだとカカシはうろたえる。ずっと長いこと一緒にいたが、こうも意志の疎通が食い違ったことはない。
どう言えばいいのだと言葉を探していると、シバが鼻からため息を吐いた。
「カカシ。お前、それズルイぞ。一応、お前の嫁だから夜は遠慮してやってるけど、何で日中まで俺たちが我慢しなくちゃいけないんだ」
シバの言葉にそうだそうだと、援護射撃が加わる。言い返そうとするカカシの言葉を遮り、ウルシがウ―と唸った。
「『カカシも喋りたいなら、努力しろ』って? オレの努力が足りないってお前ら言う訳?」
そうだと一斉に頷かれて、二の句が継げない。会話に努力が必要とはどういうことだろうか。今まで放っておいても、周りがカカシに話し掛けてきたため、具体的な努力というものが思いつかない。
首をひねって考え込んでいれば、グルコがしたり顔で言ってくる。
「あっしが見る限り、カカシは腰が引けてていけねーや。あっしらみたいに、どんどん押せばいいんでぃ」
「そうそう。待ちの体勢じゃいつまで経っても喋られないぞ」
「おれっちたちだって、色々努力してんだぞ」
わんわんと同意する忍犬に、カカシは眉根を寄せた。カカシの予想を遥かに越えて、イルカは忍犬たちに慕われているらしい。
忍犬たちと仲良くなることは願ってもいないことだが、それはカカシとの仲が進展していることを前提として考えていた。
当初の思惑とは違う、今の状況に苦いものしか感じない。
「おーい、飯、出来たぞ」
忍犬たちと円座で話し合っているところで、イルカの声が掛かった。ぴくりと耳を立たせ、誰もがはっはっと舌を出して、喜びの表情を浮かべている。
「カカシ先生、どうぞー?」
カカシの嫁が作ったご飯を一番初めに食べるのはカカシでなくてはならないと、影の支配者であるパックンの言いつけを守り、忍犬たちはカカシが食べるまで動こうとはしない。
ご飯食べないのかと潤んだ瞳で見詰められ、カカシはため息交じりに立ち上がる。
ダイニングテーブルに座れば、一人分の食事が用意されている。それを見て、またかと苦い気持ちが込み上げてきた。
「……イルカ先生は食べないの?」
ご飯をよそって、席に着いたカカシに渡しながら、イルカは苦笑いを浮かべた。
「食いますけど、これ放っておくわけにもいかないですから。……俺は、掃除し終わってから食べます」
居間と台所の汚れた箇所を見詰め、ははっとイルカは暗い笑みを浮かべる。パックンに視線を向ければ、パックンは当然のことを言ったまでだと、誇らしげな顔でカカシに向かって頷いていた。
パックンは、イルカがカカシにふさわしい嫁となるよう、花嫁修業をつけてくれている。
思ったよりもイルカを気に入っているパックンの態度に、余計な波風を立てたくなくて、口を噤む。この家で、一番影響力を持っているのはパックンだ。パックンを味方にしとく手はない。
背後から忍犬たちのまだかまだかという視線に押され、カカシは箸を取った。
「いただきます」
手を合わせて言ったが、イルカは慌ただしげに居間の片付けに走っていき、カカシの言葉を聞いてもいないようだ。
今日の夕飯は、ぶりの照り焼きと味噌汁、ほうれん草とこんにゃくの白和えだ。魚好きなカカシにとっては嬉しい献立なのに、素直に喜べない。
ぶりの身を箸で割って一口食べる。甘辛いタレがよくしみて美味しいはずなのに。
「いっただきまーす」
「わふぅ」
カカシの横では、一列になった忍犬たちが食事をし始めた。
がつがつとものの数秒で食べ終え、ごちそうさまと口々に言葉を残し、居間で動いているイルカの元へと走っていく。
「ふむ。まぁまぁじゃの。今宵はうまく作った方じゃ」
器の前でパックンが一つ感想を漏らし、ごちそうさまとテーブルの下から離れる。
居間のソファへと行くのだろうとその後姿を見送って、カカシは唸る。
「……嘘つき。一緒に食べるって言ったのに」
腹は空いているはずなのに、目の前の食事に手をつける気にならない。
誰も座らない、向かいの席をカカシはずっと睨んでいた。
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お子様カカシせんせー。
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