『おかえり』1

「イルカ、火影さまがお呼びだ」
 昼休み、アカデミーの同僚と共に食堂へ行く道すがら声がかかった。
「……火影さまが?」
 新しく木の葉を統べる長の顔を脳裏に描き、イルカは繰り返す。
 三代目のときならば、溜まった書類整理やら、私用に近い書簡の配達などの用を細々と頼まれていたが、医療忍術と怪力で鳴らした女傑の五代目とは面識がほとんどなかった。
 訝しがるイルカに、声をかけた男――マサキは肩を竦める。
 マサキは三代目のときと同様、五代目の近くで働いている。その関係で、イルカという忍びを連れて来いと言い渡されたと簡潔に説明してくれた。



「アカデミー教師のイルカって、お前しかいないだろ。だから、お前で間違いねーって。じゃ、伝えたからな」
 つれないまでの呼び出しだけの言葉に、眉根が寄る。
 三代目が溜めに溜めた書類を、一緒に片付けてやった恩を忘れたのだろうか。その書類整理のおかげでイルカの癒しであり楽しみである、一楽、年に三度の期間限定特製ラーメンを食べ損ねた。食い物の恨みは何たらだ。
「って、そんな目で見んなよ! 三代目以上に、五代目は書類を溜める癖があんだよ。これから、その処理に必要な資料集めに奔走しなきゃなんねーのッ」
 ぶすくれた顔を見て、可哀想にと気持ちにゆとりが出る。
 それが伝わったのか、マサキはもっと不機嫌な顔を見せたが、口元ににやりと笑みを浮かべた。
「案外、書類を片付ける用でも言い付かるんじゃねぇの? お前の書類捌きはぴか一だもんな〜。アカデミー教師クビになったら、こっち来いよ。仕事溜めて待ってるからな、イルカちゃん」
 「縁起でもないこと言うな」と返せば、あはははと能天気な笑い声を残してマサキは走り去った。
 元気そうではあるが、目の下の濃い隈が気になるところではある。イルカの経験からして、一週間は自宅に戻れていない日が続いているに違いない。
 近々、様子でも見に行って、手伝えるようなことがあるなら手伝うかと、アカデミーの授業日程などと照らし合わせていれば、隣のカジカが感心したように息を吐いた。
「お前って、ほんと顔広いよな。おれ、内勤になって長いけど、あんな男見たの初めてだぞ」
「あ、オレもオレも」
 カジカに続いて、ナギの同意の言葉に、イルカは笑う。
「さっきの奴、マサキっていうんだけど、あいつの仕事は主に中央の事務方だからな。裏方の裏方だから、知らないのも無理ないって。俺が知ってんのは、三代目繋がりだ。ま、そういうわけで、ちょっと行って来るな」
 二人に断り、火影室にイルカは走る。「今日のAランチは煮卵つきラーメンついてたのになぁ」と呑気にぼやくイルカを二人は見送った。
「……火影さまに呼ばれて、ちょっと行って来るって言える奴って、そうはいねーよな…」
「…裏方の裏方なんて、里の機密文書に近い仕事だろ。三代目繋がりだろうが、お近づきになりたくねーよ」
 顔を合わせて、同時にため息を吐く。イルカの頭の中では、どういう認識がされているのか、一度見てみたいところだ。 
「…イルカってすげー奴なんだか、それとも底なしに鈍い奴なのか、わかんねーな」
「だな…」
 遠い目をして、イルカの背に視線を送る二人だった。
 褒められているのだか、貶されているのか、同僚に複雑な批評をつけられていることを、当のイルカは知る由もなかった。



 火影室の戸の前に立ち、身だしなみを整える。
 重厚な扉に視線を向け、ノックをするため手を上げれば、ふと懐かしさと同時に切なさを覚えた。
 この部屋にいる人は、イルカの良く知る火影ではないのだと、今更ながらに気付く。
 扉の前に立つだけで匂った、少し苦味のある特有の香り。ノックする前に、中に入れと気軽に言ってくれた声。そして、あのどっしりとした重厚なチャクラの気配。
 目の前にあるのは同じ扉だというのに、その中にいる人物が違うということがひどく切なかった。
 思い返せば、三代目を失ってから初めてこの部屋に入るのだと気付く。
 目の前がぼやける前に、イルカはノックを叩いた。
 手を打つ感触と、廊下にまで響く低い音に、この扉はこんな風に鳴るのだと初めて知る。
 ――三代目。
 心の中で名を呼べば、不意に三代目の穏やかな死に顔を思い出して、口元が笑んだ。
 三代目が散った悲しみは深いけれど、その三代目が命を懸けて守ったこの里を継ぎ、新しい風を吹き込む新しい長の存在は、素直に喜ぶべきことだ。



「入れ」
 艶やかな声音に引かれ、イルカは戸を開ける。
 中に入った直後、息を飲む。扉の正面に対して座す火影は美しかった。
 金の髪に、若々しい容貌。白く艶やかな肌は、イルカよりも若く、潤っている。これで実際の年はイルカの倍はあるというのだから、恐れ入る。
 だが、外見の美しさより、その苛烈なまでの烈しいチャクラに、イルカは心引かれた。何ものも燃やす激しさは、恐怖を覚えるよりも先に心を魅せつける。
 全てを包み込むような大樹を思わせる三代目のチャクラ。
 立ち塞がるものを燃やし尽くす、業火のような五代目のチャクラ。
 火影となる者は人に対しこうも強烈な印象を残すものなのかと、イルカは感動にも似た感情を抱く。
 自分の教え子である、火影になるとことあるごとに言った子供は、一体どんな風になるのだろうかと考え、知らず口元がほころんだ。
 訝しげに向けられた視線に気付き、イルカは咳を払って誤魔化すと、こちらを見詰める火影に印を組んだ。
「中忍、うみのイルカ。呼ばれて、参上いたしました」
 深く頭を垂れれば、火影とその側近であろう者たちが小さく会話する気配が伝わってきた。
 火影に気を取られていて、側近に気付かなかったが、漏れ聞こえる声からして女性のようだ。時折、ぶひぶひと小さく鳴く声は豚なのだろうか。
 どうして火影室に豚がと、不思議に思っていれば、火影から声がかかる。



「うみのイルカ、よく来た。顔をお上げ」
「はっ」
 顔を上げるなり、鼻の先に惜しげもなく晒された谷間へ、ひぐっと変に喉がなる。
 胸元の襟を押し開き、豊満なそれを見せつけるように寄せられたそれは、寂しい独身男にはとんでもない破壊力を持っていた。
 ぐわっと顔が熱くなり、駄目だと思うものの視線はそこから離れず、気付いた時は鼻を押さえることしかできなかった。
 変に止めようとしたのがまずかったのか、鼻息と同時に飛び散った鮮血に心の内で絶叫した。
 五代目が就任してから、すごい巨乳だ巨乳だと、同僚達が色めき立って話していたのに。もし会うなら、絶対に視線を向けまいと決めていたのに、初っ端からコレとはっっ…!
 里の長たる火影の、よりにもよって胸を見て鼻血を吹くという失態、無礼討ちにされたって文句は言えない。
「っ、す、すいませっっ―」
 半泣きになって謝れば、頭上からご機嫌な笑い声が聞こえてきた。
「はっはっはっは! 見たかい、シズネ。ナルトの言ってた通りだよ。いや〜、しばらく里に帰ってこないうちに、おもしろい奴が育ってるねぇ」
「綱手さまっ、失礼ですよ! うみのさんは純粋なだけですッッ」
「忍びなのに、純粋? ますます面白い。やはり私の目に狂いはないってことだ」
 目前にいた綱手はからからと笑いながら、執務室の椅子へと腰掛ける。そして長い足を組み、隣にいた子豚を抱いた女性に人の悪い笑みを向けた。それに対し、女性は困ったような顔をしていた。
「ほら、シズネ。何、ぼやぼやしてんだい。うみのにティッシュでも持っていってやんな」
「あ、あわあわあわ! す、すいません、わたしったら気付かなくて…!」
 慌ててこちらに駆け寄る女性――シズネにやんわりと断りをいれ、懐から手ぬぐいを出し鼻を拭う。
 つまり、これはどういうことなのだろうか。もしかしなくても、からかわれたのか?
 ちらりと窺うように視線を向ければ、綱手は身を乗り出し、肘をついて笑った。
「そんな捨て犬みたいな顔されたら、もっと悪乗りしたくなるだろ。からかってはないさ。ナルトの言ったような人物か、確かめたかったんだよ。まぁ、悪かったね。あんたには恥をかかせることになった」
 にかっと悪びれもしない笑みを向けられ、顔に熱が集まる。美人は得だなと思う一瞬だ。
 ごにょごにょと言い訳めいたことを呟きつつ、情報源であるナルトに何を吹き込んだのだと恨みがましく思う。それと同時に、よく知る名に胸がざわめいた。



「あの、ナルト。ナルトは元気ですか?」
 たまらずそう口走れば、咎める気配もなく綱手は口を開く。
「ん? ナルトかい? 元気にやってるよ。私が会ったのも、そうだね…もう半年前くらいにはなるけど。あいつはいいね。これからの木の葉の里を担う忍びだ。見ていて、気持ちが良い。ああいう子がいると、里の未来に希望が持てるよ」
 懐かしむように、慈しむようにたわむ瞳と声音を聞いて、イルカは安堵と同時に嬉しさが込み上げた。ナルトをナルトとして見てくれる人がここにもいてくれた。
 里の皆から疎まれたナルトはもういない。一人で大きく羽ばたき、新しい世界へと飛び立っている。
そのことを喜ぶ半面、自分の元から遠く離れてしまったことに気づき、ぽっかりと胸へ穴が空いた心持ちにさせられた。
 「そうですか」と気を紛らわせるように呟き、火影へと視線を向ける。
 ここへ来た理由は、ナルトの近況を聞くためではないのだ。



「ご用件は何でしょう」
 顔を引き締め尋ねれば、綱手も里の長としての顔に切り替わる。
「あんたを呼んだのは他でもない。うみの、あんたに単独任務を任せたい。ランクはA。期間は約一ヶ月。動向によっちゃ、延長も有り得る」
 端的に言われた内容に、驚く。
 確かにAランクの任務を数度こなしたことはあるが、それはアカデミー教師になる以前の話だ。木の葉崩し以降、教師も任務に借り出されているとはいえAランクに近いBランクがせいぜいだ。
 Aランクの単独任務。
 はっきり言えば、イルカに任せるには荷が重すぎる。
 ということは、死に直結するが故の高いランク付けの任務。用は囮役、もしくは死に番。
 数秒で自分なりの結論を出せば、鋭い声に打たれた。
「待ちな。どうもあんたは思ってることが顔に出るね。うみの、あんたが心配してるような任務じゃない。それに、例え苦境下にあろうとも、木の葉は仲間を犠牲にして遂行する任務はしない。見くびらないでもらおうか」
「し、失礼しました」
 燃え盛る炎のような視線を受け、イルカは俯き身を正す。
 きゅっと鳩尾が萎縮したが、それと同時に顔がほころんでしまう。三代目の志は受け継がれていると、無性に笑いたくなった。
「……本当にあんたは感情が駄々漏れだね。火影に叱られて笑えるなんて、いい度胸してるよ」
 バレてる。
 ひやりとした汗を感じ、イルカは慌てて顔を上げる。
「い、いえ、そういう意味では決してないんです! その、も、申し訳ありません!」
「あぁ、いいよ。分かってるよ。あんたが腹黒だったら、猿飛先生が側に置くわきゃないんだからね。ホント、何ていうか、あんたみたいなのがいて先生も助かっただろうねぇ」
 しみじみと深い眼差しを向けられ、言葉が詰まった。
 ずるいと、思ってしまう。出し抜けに言われた言葉は奥底まで突き抜け、本心を曝け出してしまう。
 助けられていたのは自分の方だと言おうとして、喉につかえる固まりのせいで言うこともままならなくなる。その代わりにイルカは笑った。
 頬が引きつるのが分かり、見られないほどの笑みだと気付いたが、綱手は何も言わなかった。
 代わりに一つ息を吐いて、イルカとは比べようにもならない美しい笑みをその口元に引き、口を開いた。



「で、話は戻るが、イルカ。あんたに任せたい任務は、ちょっと特殊でね。とにかく機密性の高い任務だ。その高さからAランクになってるが、実質、C……いや、やっぱりAになるのかね…」
 眉間に皺を寄せ、首を捻りだした綱手に不安が過る。顔に出ていたのか、綱手は視線を上げるなり豪快に笑った。
「やだねー! そんなに不安がることはないんだよ。あんたの専門分野だ」
 自分の専門分野に入る、機密性の高いCランクのようなAランク任務。
 これという詳しい内容はなく、全く予想がつかない話に、不安がるなという方が無理だろう。
「は、はぁ」
 ひとまず頷くと、綱手は隣に立つシズネに目線を向けた。
 シズネはそれを受けるや、子豚を床に下ろす。その足で執務室の隣にある小さな応接室へと向かい、扉の前で印を組み始める。
 印の形からして、結界の解呪を施しているらしい。
 長い印とその複雑な指の動きから、応接室を包む結界は高等結界であることが窺い知れた。
 シズネの動向を見守っていたイルカに、綱手は話を続ける。
「私はあんたが適任だと思っているが、相手がそう思うとは限らないからね。ちょっとした適正判断を受けてもらうよ。もし適正が認められるなら即、任務開始だ。任務中は、こちらが用意した所で生活してもらう。無論、結界つきで、外には出られないと思ってもらいたい。で、ここからが肝心だ」
 綱手が一旦、言葉を切った瞬間、みしりと小さな音が聞こえた。
 応接室の結界がほころび始めている。
 気を取られるイルカに、綱手は厳しい顔で告げた。
「もしあんたに適正が認められなかった場合、この場で話した内容の記憶は消す。そして、適正が認められ、無事任務が完了した場合においても、任務中の記憶は全て消す」
 思わぬ言葉に声を失った瞬間、小さな澄んだ音が響き、空気が揺れる。
「――解けたみたいだね。ついておいで」
「は、はい」
 椅子から立ち上がり、応接間へ向かう綱手の後についていく。
 扉の前で、ふらつく体を何とか立たせている状態のシズネの肩に労わるように手を乗せ、綱手は場所を代わった。
 応接間のノブを握り、綱手は一度振り返った。
「言うより見た方が早い。木の葉の忍びたちにも秘さねばならないし、他国にでも知られれば、侵攻なんてことにもなりかねない、厄介な奴だよ」
 綱手の手によって開かれる扉に、生唾を飲み込む。
 高等結界で隠し、情報規制が敷かれる存在。里の最高実力者である火影、自らが監視しなければならない者がここにいる。
 その者に対して、イルカは一体何ができるのだろうか。
 緊張で顔が強張ってくるイルカを尻目に、扉が完全に開き切る。
 さぁ見ろとばかりに綱手が体をずらし、イルカの視界に応接間の全貌が見えた。



「――なっ、何ですか、これはッッ」
 目に飛び込んできた部屋の有様に、思わず悲鳴を上げた。
 イルカも接待したことのある、応接間の調度品はことごとく壊され、カーテンは破られ、ソファの中身は抉りだされ、白い綿が散らばっている。床や壁、天井の至るところに走る刀傷がより惨状を悪化させて見せた。
 その中で見覚えのある物を発見し、イルカは応接間に飛び込んだ。途端に、後ろで声があがったが、それどころの騒ぎではない。
「あ、あ、あぁぁ! まさか、唐西方の掛け軸っ?! 嘘だろ、これって今は亡き、柳大全の焼き物っっ」
 三代目が心酔していた書家の掛け軸は無残にも裂かれ、中途半端に壁にぶら下がっていた。目玉が飛び出るかというほどの名陶工家の大皿は、その影すら見えないほど粉々に打ち砕かれている。
 床に打ち捨てられた物を手に取り、超一級品のなれ果てに愕然とした。
 数え上げれば切りがないほどの大損害に、里の財政について聞き齧っていたイルカは眩暈が起きる。
 ただでさえ木の葉崩しで里の財政が疲弊している上、博打好きの綱手の借金返済で大打撃だったそうだ。
 真っ先に売っぱられていたかと思っていただけに、三代目の愛蔵品が残されていたのは驚きだったが、まさか売られもしないでこの有様になるとは……!!
 経費削減、経費削減と口を酸っぱく、事務方と協力し、アカデミー教師共々、里の財政のためにとチョーク一本買うのにも渋るほどみみっちく頑張っているというのに。
 もう何も見たくなくて、ふらつく体を元超高級ソファに埋め、首を下に落とせば、ちらちらとした光が目を打つ。
 やけに光る絨毯を訝しがり目を落とせば、絨毯の毛に埋もれ、淡い色のガラス破片が散らばっていた。



「はぁぁぁぁ! こ、これは、これは……ッッ!!」
 後ろに仰け反り、イルカは絶望の声をあげた。
 あれは忘れもしない。三代目がどうしてもと駄々をこねて粘り買った、東の国が作る精巧なガラス細工のランプだ。
 海を越えた大陸にあることと、その国が戦乱中であるため、火の国にはおろか木の葉の里まで流れてくることはない一品で、品物を売りに来た男は、珍しい物に目がない三代目の足元を見て、それはもう目の玉が飛び出るほどの額を吹っかけてきたのだ。
 それをまけにまけさせて、それでもイルカの給料の二百年分にはなろうかという額で、三代目は卑怯にも老い先短いなどとしんみりとした空気を作り、まんまと購入を許してしまった。
 だから、こんな触っただけで壊れそうな物のくせして、べらぼうに高い物を買うなと言ったのに、何度も何度も、己の薄給を例にして口を酸っぱくして言ったのに……!
 返品も利かない、がらくたと化した物を前に、言いようのない怒りが芽生えてくる。
 今は亡き三代目にどうこの怒りを向ければいいのだろうか。
 くぅぅぅと全身を震わせ、髪を掻き毟っていれば、不自然な咳払いが聞こえた。
 何だと怒りに任せて目を向ければ、あきれた顔をした綱手と、その後ろでこわごわと様子を窺うシズネの姿が見えた。
「……ナルトの無鉄砲さは、あんた譲りだねぇ」
 額に手を置く綱手に目を止め、しばし固まる。そういえば、どうしてここに通されたのだっけ?
 ――まずい、任務だ…!!
 直立不動に突っ立ち、九十度に腰を折った。



「す、すいません! 軽率でしたッ。三代目の遺品を見て、我を忘れましたッ」
 馬鹿正直に白状すれば、綱手は頬を掻いて苦笑を漏らした。
「…まぁ、無事だったからいいんだがね。いきなり踏みこんだ時は、首が飛んじまうんじゃないかとさすがに肝を冷やしたが……。進入を許すくらいだから、適正は十分ありってことだね。そういうことだよな、カカシ?」
 独り言に近い返答と、その後に続く人物への呼びかけに目を見開いた。
「……何の、お話ですか…?」
 おそるおそる顔を上げ、尋ねてみるが、綱手は顎に手を置き、天井に近い壁を見据えている。
 イルカが同じ方向を見ても、そこには何もいない。
 一体、どういうことだと戸惑うイルカに、綱手の背中から顔を覗かせ、シズネが興奮した面持ちで叫んだ。
「すごいです、うみのさん! わたし、一度も入れたことないんですよ! うみのさんなら、きっとうまくいくはずですっ、頑張ってくださいッッ」
 声をかけた直後に後ろへ飛び退り、怯えた表情を見せるシズネに疑問が募る。
 やたらと怯えるシズネに気になって、出入り口へと一歩足を踏み出した瞬間、真後ろに気配が現れた。
 ぞわりと背筋が震えた。本能的な恐怖を感じて、体が凍る。今、わずかでも動けば、殺られる。
 息すらできずに固まったイルカが、我に返ったのは、顔面に衝撃が走った後だった。
「ブッッ!」
 鼻っ柱に嫌というほど痛みを感じ、気づけばイルカは床に倒れていた。一体何が起きたのか確かめようと振り返る寸前、そのまま腹に何かが回り、万力のように締めつけてきた。
「こら、カカシ、止めないか! イルカ、どうにか頑張れ!」
「うみのさん、がんばってくださいー!」
 出入り口から応援の声が聞こえてくる。
 直接助けるつもりはないのかと、痛みの中イルカは呻く。
 腹に回る腕を引っかいたり、叩いたりするが、全くもってびくともしない。



「ぅッッ」
 腹に走る激痛と息苦しさに、悲鳴があがる。
 みしみしと骨が軋む音に、本当にまずいと思った瞬間、イルカは体を捩じり腰にひっつくものめがけて拳骨を落とした。
「――い加減にしろッッ」
 相手の実力は自分より格上だ。
 当たりはしないまでも、牽制になればと思っていた矢先、拳に重い衝撃が走る。
「え」
 確かな手応えに、まさかと目を見開く。
 よほど痛かったのか、しがみついてきた何者かはぷるぷる震え、腕の拘束が緩んだ。
 楽に息ができることに安心し、一体どういう奴がこんなことをしてきたのだと体を捻った瞬間、それは爆発した。



「うああああああああああああああああっっ」
 小型爆弾が間近で落とされたような音の衝撃に、咄嗟に両耳を押さえる。それでも耳を貫く音に、脳しんとうが起きそうだ。
 音の発生源は間近。イルカに引っ付いた何かが音を発生していることだけは分かった。
「イルカー! あんたの専門だろうッ、何とか泣き止ませないかいッ」
 応接間の出入り口で、イルカと同様に両耳を押さえた綱手が声を張る。
「泣き止ませるって、泣いてんですか、コレ!」
 凄まじい音の中、切れ切れに聞こえてきた言葉に叫び返す。どう考えても超音波か、音の波状攻撃にしか思えない。
「泣いてんだよッッ! いいから、泣き止ませろッ。火影命令だッッ」
 こんなことに火影命令を使ってもいいんだろうか。
 ふとこれからの里の行く末が気になるところだが、早々に泣き止ませないとイルカの鼓膜がどうかなるに違いない。
 チャクラを練って耳を保護し、両手を後ろ手に回した。それでもわんわん響く音に顔をしかめながら、手探りで形を確かめる。
 腰にひっついているのが頭だろうと見当付けて、包みこむように撫でた。ゆっくりと落ち着かせるように、大丈夫だと声をかけるように優しく撫でさすってやれば、次第に音が小さくなっていく。それと同時に、圧迫していた腕の力が徐々に抜け始めた。
 ぐずぐずとむずかるような声に変わったころには、ベストをかろうじて掴む程度の強さになり、イルカはようやく息がつけた。それと同時に耳を保護していたチャクラも解く。
「よっし、さすがだ、アカデミー教師ッ。これでお前が適任だと証明された。任したよ、イルカ!」
「すごいです、うみのさん! 子供の扱いはお手の物ですね」
 手放しで褒めてくる二人に、疑問が増すばかりだ。
 背中にひっついているものの呼吸が寝息のそれに取って変わったのを見計り、ゆっくりと起きあがる。そのまま体を捻り、背中にへばりついていた体を両腕に抱き止めた。その拍子に首が反り、イルカの目前でその顔が明らかになる。



「カ、カカシ先生!?」
 思わぬ人物に、素っ頓狂な声がついて出た。
 カカシは、イルカが受け持っていた生徒の元担当上忍師だ。本来ならば中忍であるイルカと、上忍のカカシと接点が生まれることはあり得なかった。だが、教育熱心なカカシは、折を見ては子供たちについて質問してくることがあった。
 それが縁で、すれ違えば雑談したり、時々飲みに行く間柄になったが、木の葉崩し以降、顔を合わすことがなくなっていた。
 どこで何をしているのか、それさえも知り得なかったが、今のカカシを見て、イルカは複雑な思いが浮かぶ。
 久しぶりに会うカカシが着ている服は、体に添う黒い袖なしのアンダ―に、白いプロテクター。
 緊急時以外、滅多に見ることがないそれは、暗部の忍服だ。
 特有の獣の面はなかったが、苦い思いが込みあげる。もう暗部は抜けたと思っていた。
 木の葉崩しの影響か、それともカカシはナルトたちを指導している合間にも、この服に腕を通していたのだろうか。
 イルカが挨拶すると、少しぎこちなさそうに、それでも笑みを浮かべて挨拶を返してくれた顔を思い出す。記憶の中のカカシはいつも穏やかだった。
 顔半分はいつものように口布で隠されていたが、秘されていた左目は額当てがない今、剥きだしに晒されていた。
 写輪眼の埋め込まれている左目に、縦に切り裂かれた大きな傷がある。
 隠しているものを本人の了承のないまま覗き見したようなバツの悪い思いに駆られ、イルカはカカシの頭を引き寄せ、顔が見えないように胸へとくっつけた。すると、カカシはむずかるような声をあげ、力のなかった腕を持ち上げ、イルカの背にしがみついてくる。ついでに、足まで腰に回るや挟み込まれ、これにはイルカも動揺した。



「え、ちょ、ちょっとカカシ先生?!」
 胡坐のかいたイルカの足に座り、真正面から抱きつかれている。
 体に回る腕と脚は、しっかりと締めつけ、意地でも離れない意志を感じさせた。
 無理矢理剥がして、またあの音波攻撃を受けても叶わないと、両手を意味もなく上下に振っていれば、出入り口から訝しげな声が聞こえた。
「……お前ら、もしかしてできているのか?」
「っ、はわわわわ――?!」
 綱手の言葉を真に受けたシズネが顔を真っ赤にさせて、抱き合う二人を凝視した。
「ち、違います! だいたいカカシ先生に失礼ですよっ」
 勘違いされては堪らないと声を張り上げれば、途端にカカシが身じろぎ始め、嫌がるようにぐずりだした。
「バカ! 寝た子を起こすんじゃないよッ」
「あやしてくださいっ、うみのさん!」
 両耳をしっかりと押さえ、こちらに檄を飛ばす二人に、慌てて揺りかごのように体を揺する。
「い、いい子ですねぇ、いい子、いい子〜」
 成人男性に俺は一体何を言っているのか。自分で言いつつ、違和感が拭いきれない。
 それでも、再び爆音攻撃を受けたくなくて、必死であやし続けていると、ぐずっていた声も徐々に小さくなり、それは再び寝息に取って代わる。
 イルカの胸に顔を擦りつけるように眠りについたカカシを見て、イルカは深く息を吐いた。
「…で、本当は恋人同士なんだろう? 夜の主導権はお前なのか、カカシなのか? え?」
「は、はわわわ! つ、綱手さまっっ」
 酔っ払いの親父のような下卑た笑みを口に貼り付け、こちらに視線を向けてくる綱手を睨みつけた。すると唇を尖らせ、羽織っている半被に腕を突っ込み、拗ねた様子を見せる。
「なんだい、堅物だねぇ。そこはもう少し可愛げな反応でもして、年配者を楽しませようとか思わないのかい」
「え?! 嘘なんですかっ」
 驚愕の中に残念そうな表情を見せるシズネが、イルカには恐ろしく思えた。
「と、とにかく。今は、カカシ先生の説明をしてください」
 この会話は危険だという直感に従い、イルカは真面目な顔を作り二人に視線を向ける。
 つまらないと綱手は表情を歪めさせたが、付き合っていてはこちらの身が持たない。
 しばらく無言で見つめ合うことになったが、譲らないイルカの態度に綱手は息を吐き、ようやく里長の顔に変わった。



「木の葉の大口の顧客である大名から、処分に困っている巻物があると相談されたのが、事の起こりだ」
 話をまとめると、こうなる。
 とある大名家に、忍術、特に巻物に興味を持っていた当主がいた。
 使用するにはチャクラや特殊な印が必要とするのが巻物だが、その当主は収集するのが趣味で、使えもしない巻物を片っ端から集めていたらしい。
 塵も積もれば何とやらで、その当主が生前集めた巻物はその数、千を軽く越えた。
 その当主が亡くなってからは、年月と共に忘れられていたのだが、最近になって蔵の改修工事をするにあたり、大量の巻物が発見された。
 巻物の目録があればよかったのだが、集めた当主は整理するような質ではなく、ろくな情報もない中、中には見たこともない文字で記し書きがされており、万が一のことを考え、信頼のおける木の葉へと依頼を出した。その際、現当主がはたけカカシはどうかと打診してきた。
「カカシは珍しい巻物を収集するのが趣味でね。それをどこで聞いたんだか、カカシにぜひと依頼があったんだよ」
 ランク的には写輪眼カカシが引き受ける任務ではなかったが、ようやく木の葉が安定してきたことと、カカシ本人のたっての希望により、息抜きをかねて任せることとなった。
 カカシと、巻物に詳しい中忍二人のスリーマンセルで行かせたまでは良かったが。
 綱手は苦々しい顔でため息を吐き、言葉を紡ぐ。
「着いたそうそう、カカシの奴がとある巻物を手に触れた途端、術が発動した」
 思わぬ言葉に、イルカは驚く。もしや写輪眼カカシを狙った罠なのかと眉根を寄せていると、綱手は違う違うと手を振った。
「不幸な鉢合わせというかね。発動した巻物を調べたところによると、銀髪に反応して発動するものだったんだ」
「……銀髪、ですか?」
 巻物に髪の色を識別できる機能があるものなのだろうか。イルカも巻物には色々と世話になる身だが、そういうものがあるとは聞いたことがなかった。
「現に、家の者が触れても発動はしなかったという話だからね。まぁ、珍しい巻物ではあるな。その巻物の作者ってのが変人で有名だった呵尺の手のものだってんだから驚きだよ。この時代によく残っていたもんだ」
 阿尺という名前に全く聞き覚えはなかった。首を傾げるイルカに、「あんたが知らないのは無理ないよ。古い話だ」とぶっきらぼうに呟く。
「問題なのは、その阿尺の巻物が、刷り込みを利用した人心術だったてことだ。術にかかった相手は、時間を退行し、赤ん坊の精神状態になる。その状態で付きっきりで世話して面倒みれば、自ずと分かるだろう?」
 言われた直後、事の重大さに息を飲んだ。
 ならばカカシ先生は、刷り込み可能な無垢な状態ということなのか。もし今のカカシ先生がよその里にでもさらわれたりしたら……。
 腕の中にいる者が、途端にか弱い者に思えて、思わず背中を抱きしめる。
 敵に知られる前に、木の葉に帰れて良かったと、改めてカカシの無事な姿にほっとしていれば、綱手は妙な顔をした。
「この任務に、あんたは適任と言わざるを得ないねぇ。あの写輪眼カカシをどうとでもできるって言ってんのに、思うことはこいつの心配かい? 欲ってもんがないのかねぇ」
 しみじみ言われた言葉に、どう反応していいか分からない。五代目綱手という方は、里の反逆罪を賞賛する人なのだろうか。
「は、はぁ…」
 ひとまず頷いていれば、シズネが口を挟んでくれた。
「綱手さま、あまりうみのさんをいじらないでください。うみのさんは、綱手さまと違って真面目なんですッ」
「なんだい、シズネ。おまえ、やけにイルカの肩を持つじゃないか」
 「な、何言うんですか!」と顔を赤らめるシズネを笑い、綱手は唇をにやりと広げた。



「イルカの心配はごもっともだがね。生憎、変人で名をはせた阿尺の巻物は使えるものを作りゃしないのさ。ご多分に漏れず、この巻物もそうだ。同行していた中忍からの連絡じゃ、この巻物は精神を退行させるが、本人の過去をも付随する。つまり、カカシは赤ん坊から今現在に至るまでの出来事を、もう一度経験することになる」
 予想だにしない言葉に、目が見開く。だが、それは。
「人心術といっても過去の記憶があるなら、意味がないのではありませんか?」
 刷り込みを使いたいならば、本人の過去は邪魔でしかならない。
 困惑するイルカに綱手は肩を竦めた。
「だから、言ったろ。使えるものを作りゃしないって。それにね、変人が作るもんなんだ。意味や目的なんて考えたって無駄さ。けどね、イルカ。人心術として意味がないとは言い切れない」
 首を傾げるイルカを見詰め、綱手は告げる。
「カカシの精神は過去に遡ってはいても、目の前にいる人物は認識できるんだ。つまり、過去には介入できる」
「――過去に、介入?」
「そのことが、どれだけ現在のカカシに影響を及ぼすのか分からないけどね。できれば、余計な波風立てたくないのが本音だ。カカシの過去は特殊だからね」
 綱手の言葉に、物憂げな響きが混じっているのを感じ取り、何も聞けなくなる。
 カカシの過去をイルカはよく知らない。耳に入るのは華々しい戦歴や、功績の類で、カカシ自身がどこで育ったのか、家族構成はどうなっていたのか、そして、わずか六歳にして中忍となったカカシがどんな任務を遂行していたのか、全く知らない。
 どれだけ才に恵まれていようと、幼くして中忍として任務を遂行することが、どれほど困難で厳しかったことか。まだ幼い体と精神で、何を握りしめ戦っていたのか、イルカには想像もつかなかった。
 知らず黙り込んでいると、綱手が頭を掻いてぼやいた。
「しかしねぇ、精神が赤子だからといって、安易にくのいちへカカシを任したのはまずかったねー。今のカカシを誑し込もうとするとは思いもしなかったよ」
 「その服もそいつが用意して無理矢理着せたらしい」とあっけらかんと言い放った綱手の言葉に、イルカは固まった。
 確かに暗部姿のカカシはかっこいいと思う。イルカも見てみたいなとは思ったこともある。だが、本人がこの状態なのに、無理矢理着せるばかりか、誑しこむって…。
「……五代目」
「ん、なんだい」
 悪びれもしない綱手に、イルカは頬を引きつらせる。黙ったまま見つめるイルカの意図をくみ取ったのか、綱手は肩を竦めた。
「まぁ、私も特に考えもせず上層部の決定を鵜呑みにしたのが悪かったよ。何も分からないカカシをいいことに、子の一つでももうけさせようっていう算段だった、て訳だ。けど、手っとり早く済ませようとしたのが悪かったようだねぇ。恐慌をきたしたカカシにつれなく拒絶されて、件のくのいちは重傷負っちまった」
 「自業自得だが、カカシはそれ以来、女と認識すると暴れるようになってねぇ」と、これまたあっけらかんと言い放つ綱手に、イルカは叫びたい気持ちでいっぱいだった。
 これが原因で、カカシが女嫌いになったら、どうするのだろう。
 赤子には、くのいちの高等テクニックは重すぎて、それはそれは恐ろしいものに映っただろう。
 トラウマにならなければいいがと、気もそぞろにしていると、イルカへ綱手は大丈夫と手を振った。
「心配すんじゃないよ。カカシは何だかんだ噂される奴だけどねぇ。女方面はこれっぽっちも甲斐性なしなんだから。今更、女嫌いになっちまったて、変わりゃしないよ」
「甲斐性なしと、女嫌いは天と地ほど差がありますが」
 男を代表して抗議したイルカを笑いで誤魔化し、綱手はよしと手を合わせた。



「ということで、だ。あらかた説明も終わったし、場所を移動しようかね。これから当座、あんたとカカシの家になる場所だ。せいぜい居心地良くなるよう頑張りな。物資は定期的に送ってやるが、外には出られないからね。うまくやるんだよ」
 ほらと何かを投げられ、反射的に掴む。掴んだ手の中にある物は札だった。
「これは?」
「その状態で出歩いてもらう訳にはいかないからね。空間転移の札さ。チャクラを流し込めば、家に転移できる」
 とっとと行ったと追い払うような仕草を見せる綱手に、イルカは慌てた。
「ちょ、ちょっと待ってください。具体的に俺はどうすればいいんですか? カカシ先生の面倒といっても、何をすればいいんですか」
 カカシの過去をろくに知らないイルカがどこまで対応できるか、甚だ不安だ。もし下手を打って、とんでもないことになったらどうすればいいのだ。
「安心おしよ。今のカカシは子供だ。お前はアカデミー教師だろう? 子供たちと接するようにカカシと接してくれればいい。大変だろうが、見守ってやってくれ」
 子供と言われて、思わずカカシを見下ろす。自分に抱きついている様は確かに子供じみた仕草だが、いかんせん、その体は己と同じ、いや下手したら大きい。
「子供と言われましても……」
 とてもじゃないが見えないと泣き言を言えば、綱手は手が掛かるねぇと呟いた。



「イルカ、こっち向きな」
 声に従い、綱手へと顔を向ける。綱手の姿を視界に収め、その手が印を組んでいるのを直視した直後、世界が歪んだ。
 目眩を覚え、とっさに胸にいる確かな者へと縋る。不意にその存在が小さく、驚くほど柔らかい感触に変わったことに気づき、目を開いてもっと驚いた。
 イルカが抱いているのは、乳飲み子と言っていいほどの小さな赤子だった。その赤子の髪が銀髪であることからして、カカシだということで間違いないとは思うが、その愛らしさと言ったら。
 丸みの帯びた頬に、閉じた瞳を彩る銀色の長い睫。ふくよかな丸い輪郭を覆うように銀色の柔らかい髪が縁取り、傷一つない白い肌とバラ色の頬は、まさしく天使といっていいほどの愛らしさだった。
「こ、これ、カカシ先生なんですかっっ」
 きゅぅんと胸を鷲掴みされ、綱手を振り返れば、疑り深い眼にぶち当たった。
「……お前、まさかショタコンじゃあるまいね」
「しょ、ショタ?!」
 綱手の言葉に、シズネが顔色を変えてイルカへ視線を向ける。
 そんなバカなと必死に否定すれば、綱手はまだ疑り深い眼を向けていた。
「ご、五代目! 仮にもアカデミー教師なんですよ、俺は!!」
 今までの実績を見てくれと声高に言えば、綱手はぷふぅと吹き出す。
「冗談だよ。そう必死に否定されると悪ノリしちまうだろうが」
 けたけたと笑い続ける綱手を恨めしげに見つめつつ、変な汚名を着ずにすんだことにひとまずほっとする。そして、胸で眠っている小さな存在を見て、この子の面倒なら見られるなと胸をなで下ろした。
 胸ですやすやと眠る子供の頬を撫で、頬をゆるめる。
 当たり前のことだが、カカシにもこんな時があったのかと思うと、前にも増してぐっと親近感が強まる気がした。



「…断っておくが、今、カカシが子供に見えているのはお前だけだからね」
 ふにゅふにゅと頬を突っついていると、出し抜けに言われた。
「え」
 顔を上げれば、シズネが見てはいけないものを見てしまったような恥じらい方をしている。
 イルカの胸にはすやすや眠っている、愛らしい赤ん坊。だが、綱手たちから見ると?
 端から見た自分たちを想像し、羞恥で顔が燃え上がった。
「あ、あのですね! これはその」
 突っついていた手を慌てて退ける。子供に見えているのだからついやってしまったと口に上らせば、綱手から思わぬ反応が帰ってきた。
「まぁ、いいことだよ。そうやってカカシに構ってくれると、ありがたい。せいぜい可愛がってやっておくれ」
 綱手のカカシを見つめる視線は優しかった。
「――今、掛けた術の説明もしておこうかね」
 イルカの視線に気づいた綱手が、誤魔化すように咳払いをする。異論のないイルカは黙って頷いた。
「今、掛けた術は、お前が見たカカシに対する認識が形となって見える。実際、カカシはこれから過去を経験するんだからね。当然年も取っていく。その変化を感じ取り、お前はカカシの精神年齢を見ることができるって、寸法さ」
 「あくまでお前の認識を通してだが」と付け加える綱手に、イルカはぽかんと口を開ける。
「何だい、間抜けな面して」
 腕を組み咎めてきた綱手に、イルカは目を泳がせる。
「あ、あの。カカシ先生は、ずっと赤子のままじゃないんですか?」
「何を言ってるんだい。さっき説明しただろ。阿尺の作った巻物は『対象者の精神を若返らせ、今現在に至るまでの過去をもう一度経験させる』。当然、カカシは成長して、いずれお前の知るカカシ先生とやらになる。お前、中忍だろ、しっかりしな」
 飛んでくる檄を受け止め、イルカは更に口を開く。
「あの、でしたら、俺が今のカカシ先生の姿に見えたら、任務は終了と思っていいんですか?」
 イルカの言葉に、綱手は思案げな顔を作り顎先に手を置いた。
「……そうだねぇ。任務終了の判定は微妙なラインだ」
 歯切れの悪い言葉に困難性を嗅ぎとり、イルカは眉根を潜める。
 どうもこの術は、ただ過去に遡るだけの話ではない気がする。綱手は何かを隠しているのではないか。
 イルカの気持ちがどこから漏れ出ていたのか。綱手はイルカの顔を見るなり苦笑し、言葉を付け足した。
「確かにお前が心配したくなる気持ちは分かるが、生憎、隠すような情報は持っちゃいないさ。いかんせん、情報が少なすぎる。変人、阿尺の講釈をそのまま鵜呑みにして、カカシを危険に晒すわけにもいかないんでね。こちらも慎重にならざるを得ないんだよ」
 的確にイルカの心を読んだ綱手に恐縮してしまう。不安だったとはいえ、五代目火影を疑ったことを恥じれば、綱手は気にするなと声をかけた。
「滅多にない事例だ。任されたお前が不安に駆られるのは仕方ない。こちらも全面的にバックアップする。どうかカカシを頼むよ」
 綱手がまっすぐに視線を投げかけた。
 火影としてだけではない、綱手本人の願いのこもった眼差しを受け、イルカは了承の印を組む。
「はっ」
 しっかりと眼差し受けとめたイルカを見て、綱手が嬉しそうに笑った気がした。








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完売本『おかえり』より。
鈍行更新となりますm(_ _)m