『おかえり』2
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「……一体、何考えてんだ?」
綱手から任務を拝命し、目的地に飛んでイルカはぼやいた。
イルカの目の前にあるのは、平屋建ての一軒家。純和風で設えられた家は、厳格という言葉がふさわしく、門から瓦から壁から、物々しい雰囲気を醸し出している。
そして極めつけは、家の周囲を取り囲む林だ。
最初目にしたときは、林の中の一軒家だと思ったが、周辺視察という名目で林の中を適当に歩いて、その先に垣根が見えて唖然とした。
林ではない、これは庭だ。
半径五百mはあろうかという広大な庭がついた、古めかしくも立派な家屋。
カカシの世話とはいえ、子守に近い任務にしては破格な宿に、度肝を抜かれる。
ぼーと突っ立ておくにも行かず、背中で眠るカカシの体勢を整え、家屋の戸に手を伸ばす。
赤ん坊のカカシは綱手のところから退出してからずっと眠っている。
抱っこの移動でも良かったが、後々のことを考えると両手が使えた方が便利ということで、シズネがおんぶ紐を投げ渡してくれた。
「今までよく寝れていなかったらしいからねぇ。その反動だろう」
身動き一つしないカカシが心配で尋ねたイルカに、綱手はそう言った。事が事なだけに、くのいちの悪夢にうなされでもしたのだろうかと、心底同情する。
「お邪魔しまーす」
カラカラと乾いた音を立てて戸が開く。
外からの光が玄関に射し込み、その様を見て、イルカは絶句した。
白い。目に付くすべてが真っ白い埃で汚れ、壁と天井の隅には蜘蛛の巣がはびこっていた。
全く人の気配がしない家に、数年そこら全く人が立ち入らなかった場所なのだと察する。
「一体、何考えてんだ……」
これから、このばかでかい一軒家の掃除が、まずイルカのすることだと判明した。狭くてもいいから、何故清潔な部屋を用意しなかったのだろうか。里長の考えが分からないと息を吐く。
しかし、くよくよしてもいられまい。
今日の寝床の確保並びに、炊事場の確保と、イルカは袖まくりして、家に踏み込んだ。
後から雑巾掛けするから、今は土足のままあがってしまえと白い埃が舞い上がる中、廊下に足を置いて、あっと思う。
肩越しに振り返れば、すやすやと眠る天使のような赤子がいる。
元はカカシなのだと分かっているが、こんな小さな子を連れて埃まみれになるのは忍びない。
極秘任務だけのことはあって、垣根向こうから先は強固な結界で出入り口が塞がれていた。しかも、結界に触れるとすぐさま暗部が駆けつけてくれる話なので、安全対策は心配ないだろう。
ひとまずカカシを外で寝かせておいて、その間に手早く掃除をすることにする。こんなことなら毛布なり敷く物を持ってくれば良かったが、ない物は仕方ない。
せめて寝心地がいいように、自分のアンダーを敷布にして、柔らかい草の上に敷いた。その上にカカシをそっと横たえる。
イルカが手を離す瞬間、むずがるように動いたが、カカシは大人しく眠り続けている。
いい子で待ってろよと、頭を撫でて、イルカはベストを素肌に着込み、掃除へと向かった。
どのくらい時間が経ったのだろう。
ふと気付けば、夕暮れの赤い光が室内に入り込んでいた。よほど集中して掃除していたらしい。時間の経過に気付かなかった。
ひとまず今夜の寝床と廊下、炊事、風呂場の掃除を終えたことに、安堵の息を吐きながら、急いで外へと駆ける。
暖かくなったとはいえ、夕方は冷え込む。冷たい風に晒されているだろうカカシを思うと、やるせない。
風邪を引いてなきゃいいがと玄関口に出たところで、小さな影が目の前をよぎった。
足を止め見下ろせば、ようやく歩き出したくらいの幼児が忍服のアンダーを抱きしめ、イルカを見上げている。
「あれ、お前どこから……」
言いかけて止まる。
ここは結界で閉ざされている。唯一この場所に来られる方法は、綱手が施した空間転移の呪札のみだ。
と、いうことは。
「…カカシ、先生?」
訝りながら名を呼べば、小さな男の子はぐしゃりと顔を歪ませ、イルカの足下へ飛び込んできた。
膝にしがみつき、わんわん泣く子にイルカは慌てた。
「わ、ご、ごめん。ごめんな。もしかして寂しかったのか? そりゃそうだよな、目覚ましたら、知らないところに一人でいたら、不安にもなるよな」
小さな手でズボンを強く握る姿に胸が痛む。柔らかそうな銀髪には、土や枯れ葉がくっつき、膝小僧には泥がついていた。
イルカの姿を探して、あちらこちら歩き回っていたことは想像に難くない。
泥だらけになった服を払い、イルカはカカシの気が済むまで抱きしめて、背中をさすってやった。
やがて落ち着いたのか、カカシがすんすん鼻をすするに至って、背中に回していた手を肩に回し、改めてカカシを見る。
ふっくらとした白い頬や、長い睫は変わらないが、どことなく顔立ちがしっかりしてきたように思える。
イルカが優しく涙を拭えば、にっこりとかわいい笑顔を見せてくれた。その口元から上下に四本の歯が見える。だいたい一歳前後だろうか。
「…成長した、ということか?」
綱手の幻術に掛けられた時は、乳飲み子くらいだった気がする。
きゃらきゃらと笑い出したカカシを前に、イルカは首を傾げた。
成長したこともそうだが、任務を受け取った時は確か赤子のおべべらしきものを着ていたように思ったが、今は動きやすそうな空色のベビー服を着ていた。
「五代目の幻術の副効果とか?」
女性ならではの気配りか。だが、カカシの衣服交換の時は一体どうなるのだろう。幻術にかかっているイルカがカカシに服を着せることはできるのだろうか。
尽きない疑問に頭を悩ませていれば、前方から小さな高い音が聞こえた。
きゅぅぅぅぅ
もしかしなくてもカカシの腹の音だろう。泣きそうな顔でイルカを見つめたカカシに、思わず笑いがこぼれた。
「そうか、腹減ったか。よっし、一緒に飯でも食うか」
気軽に抱き上げて、あり得ない重みが腰を襲った。根性で胸まで抱き上げたが、ずっしり腕にかかる重さは幼児の重さではない。
さきほどからカカシは幼児ではないと何度も言い聞かせているが、目の前にいる幼児姿のカカシを見ると、どうしても同年代の男には思えない。
「……先が思いやられそうだな」
視覚に囚われる己の未熟さを自覚した瞬間だった。それに、言葉遣いもどうすればいいのやら。
歩こうとはしないイルカを不思議そうに見つめる幼児に気づき、イルカはまぁいいかと笑った。
カカシは文句なしに可愛いし、イルカは子供が大好きなのだ。
どうせこの任務中の記憶は消されるのだし、綱手も見守ってくれと言っていたことだし、イルカの思う通りにさせてもらおう。
「よーし、カカシは何が好きだ? 俺はラーメンが好きなんだぞ」
跳ねるように歩けば、きゃらきゃらと笑う。その嬉しがる様が可愛くて、炊事場まで無駄に回ったり飛んだりしてしまった。
炊事場に着く頃には息が荒れ、さすがにカカシを下ろす羽目になってしまう。けれど、すかさずイルカの手を掴む、もみじのような手に、顔がにやけてしまった。
年の離れた弟がいたら、こうだったのかなと思いつつ、冷蔵庫を開けて、重大なことを忘れていたことに気付いた。
着の身着のままで飛んだ、宿泊先。そこにあった、手入れされていない一軒家。そして、ここは結界で厳重に封じられている。
「飯がねぇ……」
冷蔵庫の中身は空っぽで、電気さえも通っていない有様に、がくりと肩が落ちる。
「あーぁ」
カカシは無邪気にも、肩を落とすイルカの真似をしていた。
やっぱり先が思いやられると、イルカはため息を吐くのだった。
食料は約三週間分、確保できた。
布団も新品なものに新調できたし、電気や水道回りだって万全だ。
ついでに朽ちて使い物にならなくなった、物干し竿も入手できたし、洗剤、トイレットペーパー、フライパン、イルカの着替えなど、日用雑貨類はすべて揃った。
玄関先に並んだ物資を眺め、イルカは一人満足げに頷いた。
食料がないと気付いたイルカがしたことは、どうにかして外と連絡を取ることだった。
内からの式も結界に阻まれるため、イルカは最後の手段とばかりに結界へ触れてみた。
これで来なかったらどうしようと振り返った瞬間、イルカは暗部に取り囲まれていた。三秒も経たない招集に驚くやら、感心するやら。
けれども、同じ里の仲間だとわかっていながら、精鋭部隊に囲まれる恐怖はどうしようもなかった。
だって、相手は暗部。緊急時以外滅多に見ることのない、面を被った集団がイルカを取り囲んで、物も言わずに佇んでいるのだ。
そして、その後も悪かった。
怯えるイルカを敏感に察知したカカシが、激しく泣きわめいてしまった。
カカシを負ぶっていたものだから、イルカはたまったものではない。
小型爆弾を耳元で投下され、一瞬、鼓膜が破れたかと思ったが、イルカよりも更に恐慌に陥る人たちを見た時、イルカは胸の内でもっと穏便な方法を使ったらよかったと激しく後悔した。
イルカを囲んだ暗部の方々は、激しく泣きわめいているカカシを目にした直後、糸の切れた人形のように崩れ落ち、地に膝をつき、泣き始めてしまった。
異様な光景だった。
里の精鋭、木の葉の子供たちが羨望と尊敬を寄せる、無敵の暗部がさめざめと泣いている。
カカシを泣きやませた後、悲嘆にくれる暗部たちを泣き止ませるのに、イルカは苦労した。
背中には暗部たちの泣いた原因であるカカシがいるため、泣き止ませるのに耐えがたい時間と根気を必要とした。
「死にたい死にたい」と言う暗部を言いくるめ、イルカの本来の目的である、要望を伝えたときは、空は白み始め、山からご来光が覗いていた。
暗部にとって、カカシは憧れを通り越して、神格化されていたらしい。
そのカカシが中忍の背に負ぶわれて、身も蓋もなく赤子のように泣く姿は、過去受けたどの拷問よりも辛かったのだと、暗部の一人は語ってくれた。綱手さまから詳細は聞いていたものの、聞くのと見るのでは衝撃が違ったのと、暗部の女性も言葉少なに漏らした。
直にかっこいいカカシ先生に戻りますからと、暗部の人たちに伝え、ようやく物資取得に漕ぎ着けたのだった。
「カカシー、お前、あんまり結界の近くに行くなよ? またあの人たち『死にたい』って泣いちまうからな」
イルカの指の先には、物資をじっと見つめているカカシがいる。
カカシは人懐っこい性格のようで、絶えずイルカの指なり服なりの一部分を掴んで離さなかった。しかも、カカシは決して進路方向の前に立ったり、イルカが邪魔になるところには決していない。
幼い頃から人の動きを読むことに長けていたカカシに感心するやら、その才能に僻みそうになるやら。
親御さんもさぞかしカカシが可愛かっただろうなと、イルカは微笑む。忍びの才に恵まれ、こんなに可愛い息子がいたら、鼻が高いに違いない。
「ま。俺はお兄さんだけどね」
この年で、まだ子供は持ちたくないと虚勢を張るイルカを、カカシは不思議そうに見ていた。
物資を運び、生活空間を充実させたところで、イルカは暗部から手渡された水晶玉を前に腰を落ち着ける。
任務報告ならびに、何か相談したいことがあれば使えと手渡されたそれは、代々の火影に所有が許された通信球だ。
遠い土地や、特殊な結界に覆われた場所でさえも関係なく、瞬時に相互連絡がとれるそれは、里の宝の一つに数えられる。
遅くなってすまないと綱手の伝言も受け取り、イルカは身の引き締まる思いだった。
今回のことは、イルカが考えているよりずっと重要視されているようだ。里の至宝を持ち出すことは元より、上層部までその使用許可を認めたということは、はたけカカシを元に戻すことが里の意志だと言える。
今更ながら、はたけカカシという人物が、里に及ぼす影響力を知った。
「……カカシ先生はそんな素振り一つも見せなかったからなぁ」
大きな瞳で見上げるカカシの頬を覆って優しくかき混ぜれば、カカシは嬉しそうに笑う。
イルカの知るカカシは、噂で囁かれる、鬼神のような強さを誇る、写輪眼のカカシではなく、子供たちを心配する、気の優しい上忍師だ。
威張り散らすことの多い上忍の中で、珍しいほど控えめで、いつも穏やかに笑っている人。何度か話をしたが、カカシの穏やかな空気が、イルカは好きだった。
「早く元に戻れるよう、俺も頑張るからな。カカシも頑張れよ」
小さい手を伸ばしてきたカカシに、顔を近づければ、カカシもイルカの頬に手を当ててくる。
可愛いなぁと相好を崩せば、咳を払う音が聞こえた。
まさかと視線を走らせれば、水晶玉に綱手の顔が映っている。
「ご、五代目!!」
いつからそこにと慌てて正座をし、居住まいを正す。カカシは無邪気なもので、イルカの膝によじ登ろうとしていた。
「心配するだけ損みたいだったね。この調子ならいい結果が出そうだ。――準備不足で迷惑かけた。他に入り用なものはないかい?」
「暗部のみなさんに運んでもらったもので十分事足ります。ありがとうございます」
「そうか」と言った綱手は、イルカの膝にのぼったカカシを見て、苦笑いをこぼす。
綱手から見れば、成人男性が向かい合わせに座っている。密着する男同士のむさ苦しい様など見たくないのだろうと思っていれば、綱手は予想外のことを言ってきた。
「ずいぶんと懐かれたもんだねぇ。幼少時のカカシは可愛くないガキで有名だったんだけどね」
「え?」
腰を落ち着けたカカシの背を支えながら、目を見開く。
カカシは人懐っこい仕草でイルカの胸に顔を埋め、小さな手を広げて抱きついている。
口を開けたまま、瞬きを繰り返すイルカに、綱手は豊満な胸の前で腕を組み、ため息混じりに言葉を漏らした。
「私はこれでもカカシのおむつを代えたこともあるんだよ。泣きも笑いもしない赤ん坊でね。唯一表情を動かすのは忍犬を見たときくらいだった。――そういや、その時、気に入っていた忍犬と似てるかもね」
全身真っ黒い忍犬だったと上機嫌に笑う綱手に、とっさに言葉を返せない。
友好的な関係を作れることに越したことはないが、忍犬に似ているって。
複雑な表情を浮かべたイルカに、綱手はいいじゃないかと返すと、言葉を続けた。
「それで、イルカ。何か変わったことは? どんな小さなことでもいい。報告しておくれ」
厳格な顔つきになった綱手に、イルカは一つ頷くと、ありのままを話した。
執務室では赤子の姿だったカカシが、ここに来て、突然幼児の姿になり歩いたこと。イルカの言葉を理解している素振りを見せること。
少ないながらも報告した事柄に、綱手は険しい顔を見せる。
「…成長している、な。時間の経過による成長にしちゃ随分早い。カカシの成長は何か違う要因が関係しているようだね。引き続き、何か変化があったら連絡をおくれ。私がいなくてもシズネが応対するようにしておく」
「はっ」
頭を下げれば、胸の中でカカシも一緒になって頭を下げる。かわいい仕草にきゅんと胸を刺激されたが、綱手の手前、必死になって耐えた。
「こちらからも何か分かり次第、連絡を入れる。定期連絡は朝昼晩の三回。変化があればその都度、頼むよ」
そのまま通信を切ろうとする綱手を、イルカは慌てて止める。
「すいません、五代目。質問よろしいでしょうか?」
水晶玉の向こう、綱手は明後日の方向に手をあげると、イルカに顔を向けてくれた。
多忙である身を引き留めて悪いと思いつつ、イルカは心にくすぶる疑問をぶつけた。
「そんなに笑わなくてもいいのに。なー、カカシ」
あーと、意味は分からないまでも返事をしてくれるカカシに、心を慰められつつ、カカシの服に手をかける。
カカシの成長と同時に、イルカの目には年相応の服に代わって見えるという説明を受けて、イルカは一安心した。
大人サイズの幼児服を着せなくていいんですねとまじめな顔で言ったイルカに、綱手は盛大に笑い転げてくれた。
見てみたい気もするがカカシに恨まれちまうと綱手は涙を拭きながら、着替えは通常の忍服を用意してあると言っていた。
イルカの着替えにしてはやけに多いと思っていたが、カカシの分も含まれているようだ。
「よっし、さー風呂入るぞ。おいで」
カカシの服を脱がせた後、手早く自分の服も脱ぎ捨て、カカシと手を繋いで浴室に入る。
もうもうと湯煙が充満する中、一緒に掛け湯をかぶり、湯船に浸かる。
カカシはシャワー派なのか、溜められた湯におっかなびっくりしていた。怖くないぞと声を掛けてやりながら、すがりつくカカシを膝に座らせる。
「ほら、気持ちいいだろう。一日の疲れは風呂で癒すんだぞ〜」
小さいカカシに合わせて、湯の温度はぬるま湯にしてある。熱い風呂が好きなイルカには物足りないが、徐々に慣れさせていこうと計画している。
湯に浸けた時は緊張でがちがちに固まっていたが、大丈夫だと言い聞かせるうちに、カカシの表情が緩んできた。
もうちょっとリラックスさせるために、イルカはお風呂での遊びを教えてやることにする。
「カカシ、これ、なーんだ」
持ってきた手拭いを風呂につけ、空気を入れて、風呂に浮かべる。ぷっくりと膨らんだ手拭いを見て、カカシの目が丸く見開いた。
「あーあ、あ」
イルカと手拭いを見比べながら、カカシが何かを言う。何を言っているのかよく分からないが、とても興味はあるようだ。
「クラゲだぞー。海に住んでるクラゲに似てるだろう?」
内陸にある木の葉には海がない。
イルカも実物は見たことがないが、父親にこのように教えてもらったし、図鑑で見たクラゲも、おおよその形はこのようだった。
大人のカカシは色々な任務地に赴いているから知っているかもしれないが、今のカカシは知らないだろうと、イルカは得意満面で教える。
「いいかー、クラゲはなー。海の中に浮いて漂っているんだぞー。透き通っていて、とっても綺麗で、食べられるんだぞ〜。それで触ったらとっても気持ちいいんだぞー」
触ってみろとカカシに声を掛ければ、小さな指先でちょいちょいと膨らんだクラゲもどきを触る。
「ふにふにしてるだろー」
気持ちいいだろうと笑えば、カカシは真剣な顔してちょっと強めに指先を押し込んだ。途端にぶぶぶという音を上げて泡が出たことに、カカシの手がものすごい早さで引っ込む。
目を大きくしてクラゲもどきを見つめるカカシが可愛くて仕方ない。見るものが全て不思議でたまらないのだろうか。
ちょっとした悪戯心を起こして、カカシをそそのかしてみた。
「カカシ、今度は頬くっつけてみろ。気持ちいいぞー、ふかふかだぞー」
目を大きくしたまま、窺うようにイルカを見つめてくる。それに穏やかな笑みを返せば、カカシはおそるおそる顔を近づけていった。
警戒心の強い猫のように慎重に顔を近づけていくカカシの頬が、クラゲもどきに触れる直前、風呂の中に沈める。それを追って水面下まで来た瞬間、手拭いの一片を外した。
途端に閉じこめられていた空気が水面に大きく浮き上がり、音を立てて弾けた。空気と一緒に浮き上がった湯が顔に当たり、カカシの顔が硬直する。
「あはははははは! びっくりしたかー? クラゲが爆発したなぁ」
顔を濡らせたまま、目をまんまるく見開いて固まっているカカシが面白くて、イルカは笑う。
濡れた顔を手で拭いてやりながら、イルカは濡れた手拭いを持たせた。 一度瞬きして見上げるカカシに、やってごらんと声をかける。
「うー、あ、あ」
持たせた手拭いをイルカの顔の前に出し、カカシが何か言う。お手本をもう一回見せてくれということかなと、手拭いを受け取ろうとすれば、カカシは手拭いを握りしめ、嫌がるように首を振った。
「あ、あっ、あー!」
「わ、こら、暴れるな! 分かった、分かった、取らないから。このままな、このままっ」
手拭いを水面に叩きつけてきたカカシの攻撃に、顔からもろに湯を被ってしまう。イルカの言葉を理解したのか、途端に静かになったカカシの手を上から覆い、一緒にクラゲを作った。
「あうあぁ」
「うん、できたな」
にかっと笑うカカシにえらいえらいと声をかけた直後、カカシがクラゲに向かって顔を突っ込んだ。
細かい泡が浮き上がり、クラゲがしぼむ。その後に、カカシは無言で顔を上げた。
一体何がしたかったのだろうと訝しげに思っていれば、カカシは大層ご不満な顔をして、眉と口を引き絞った。
「あー、あ、う!」
再び手拭いを持ち、水面に叩きつけ始めたカカシに、イルカは驚く。
「わ、どうしたんだ? カカシ? お、おい、止めろって!!」
さっきまでご機嫌だったのに、どうして不機嫌になるのか、謎だ。懸命に宥めるが、カカシはますます顔をしかめさせ、仕舞には泣き出してしまった。
「カ、カカシ!」
顔を赤くさせ、全力で泣き出したカカシの声に、両手で耳を塞いだ。 反響する風呂場で泣かれると、その音攻撃は倍以上の威力を生む。
普通の赤子ではあり得ない音量に、知らない間にチャクラを使っているなと見当付けながら、どう泣きやませようか頭を悩ませる。
だが、イルカの悩みはそう長く続かなかった。
わんわん顔を真っ赤にして泣いていたカカシが突如、泣き止み、真正面から風呂に倒れ込んだ。
「っ! わー、カカシッッ!!」
沈む体を引き上げれば、カカシの体はぐったりとしており、白い肌は真っ赤に茹であがっていた。
イルカにとって長風呂とはいわない時間だったが、カカシには違ったらしい。
急遽風呂は取りやめて、急いで布団へ寝かせる。
自分の体を拭くのもそこそこに、盥と水を用意して、頭と脇に濡らしたタオルを置く。
扇ぐ物はないかと部屋の中をうろうろしていると、水晶玉が光っているのに気がついた。
渡りに船だとイルカは水晶玉へ飛びつき、カカシの元へと走る。
「イルカ、定期れ――」
「五代目、助けてください!! カカシが風呂で倒れたんですッッ」
水晶玉にカカシを近づけ、半泣きで叫んだイルカに、綱手は特に驚きもせず淡々と告げる。
「単なる湯あたりだ。冷やすなら頭と顔だけにしときな。体は冷やすんじゃないよ。それよ――」
「は、はい!」
水晶玉を転がし、脇に当てたタオルを取り除く。ついでにタオルを新たに濡らして、ぬるくなったものと交換した。
顔を真っ赤にして、全身で呼吸を繰り返すカカシは苦しそうだった。
もっと楽になる方法はないのかと水晶玉をのぞき込んだ直後、でかい雷が落ちた。
「落ち着かんか、馬鹿者!!」
脳天に拳骨を食らったかのように、頭がぐわんぐわん響く。
ふらつく頭を押さえて、改めて水晶玉を見れば、綱手は頭を押さえて深いため息を吐いた。
「まったく、だらしない。いい男が全裸で顔を真っ青にして右往左往して。お前が慌てても仕方ないだろうが」
言い切ると同時に睨まれ、イルカは正座に座り直し、しおれた。
「す、すいません」
火影の御前で、しかも女性の前で、全裸でいたとは無礼だったと、イルカは前を隠し反省する。
急に静かになったイルカに、綱手は息を吐くと、「まぁいい」と切り出した。
「あれからカカシの成長はどうだい。変化なしかい?」
綱手の視線がカカシへ向く。体を冷やすなと言われたので、カカシの体にはバスタオルをかけている。その体は幼く、庇護を必要とする子供のものだ。
「はい、変化はありません。報告したときのままです」
「そうか…。――イルカ、こちらでわずかなりとも分かったことがある」
そう言って、わずかに視線を逸らす綱手を不思議に思った。面と向かって話したのは初対面の一回だけだが、豪気な綱手らしからぬ仕草だ。
よほど言いにくいことなのだろうかと不安を覚えた時、綱手の口が開く。
「阿尺の巻物と言ったが、厳密に言えば訂正がある。カカシが食らった術は、阿尺の巻物にサクモが手を加えたものだと判明した」
自分の尊敬する忍びの名に、目を見開いた。それは。
カカシに視線を向けたイルカに、綱手は小さく頷く。
「そうだ、カカシの父親だ。どういう経緯で、あの大名家に渡ったかはまだ分からないが…。これで一層慎重にならざるを得なくなったよ」
イルカには綱手が何を危惧しているか分からない。はたけサクモは、三忍を凌駕すると称された伝説の忍びだ。白い牙と呼ばれ、その名声は広く知られている。
首をひねるイルカに、綱手は口元に苦い笑みを張りつかせる。
「抹消された事実で、お前が知らないのは無理ない。サクモは、公では殉職ということになっているが、自ら命を絶ったのが真実だ」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
声を失うイルカを尻目に、綱手は固い顔で話し出す。
「ある任務でサクモは任務よりも隊の命を優先した。それにより任務は失敗し、里に大きな損失をもたらした。それが原因で、サクモは責められ、仲間からも見放され、孤立し、心身を病んでしまった。そして……」
苦い物を吐き出すように、綱手は一息に言った。
「カカシが七歳の時、サクモは自ら命を絶った」
カカシを見る。
幾分穏やかな呼吸を取り戻したカカシは、今では安らかに眠っている。この時はまだ親と一緒に過ごしていた時期だ。
「…カカシ先生の、お母様は?」
不安もない様子で眠る幼子を見つめ、イルカは口を開く。しばらくの間を取り、返ってきた答えはイルカの心を暗くした。
「――カカシを生んで、すぐ亡くなった。サクモだけがカカシの血縁者だ」
「……そう、ですか…」
奥歯を噛みしめる。幼くして一人になったカカシを思うとやりきれなかった。
一人になった辛さはイルカにも分かるつもりだ。だけど、カカシはそれ以上に辛い。
手を伸ばして、小さな手を握る。無意識に手を開け、イルカの手を握ってきたカカシに胸が潰れそうになる。
いずれカカシが経験する不幸をやるせなく思っていれば、綱手が押し殺した声を出した。
「……サクモが木の葉に恨みを抱いていないとは言い切れない。カカシが変な行動を――」
「あり得ませんッ」
言葉を遮り、叫んだ。
綱手に視線を向け、カカシの手を強く握りしめた。
「このカカシがカカシ先生なら、カカシにだって乗り越えられますッ。あの子たちを、ナルトたちを愛しんでくれた。命に代えても守ると言い切ってくれたカカシ先生が、木の葉に仇をなすことはあり得ません。それに――」
イルカの脳裏に、夕日に照らされた木の葉を見つめる、カカシの横顔が思い浮かぶ。
会ったのは偶然だった。
早めに仕事を終えたイルカにこれから飲みに行きませんかと声を掛けられ、断る理由もなく頷いた。
そのとき、カカシに寄り道してもいいですかと言われ、連れられた先は、火影岩に近い場所にある高台だった。
里が一望できるそこで、カカシは優しい顔をして言った。
「日課なんです」と。
夕暮れの中、人々が家に帰るのを見送ることが。夕闇に包まれた、里の家々の明かりがついていくのを見るのが、里にいる時の日課だと。
「これを見ないと具合が悪くて」と照れたように笑ったカカシに、イルカは泣きそうになった。いや、実際泣いてしまった。
この人が戦っている理由を垣間見た気がして、その純粋な思いと願いに、胸が熱くなってしまった。
泣き出したイルカに、カカシは慌てふためいて見当違いの慰めの言葉をくれた。イルカは夕日が目に染みたんだと言い張り、気にするなと何度も言ったけど、カカシはずっとイルカを慰めてくれた。
優しい人だと思う。
温かい人だと思う。
彼以上に、この里を思う人は火影以外にいないと、そのとき思った。
「――例え、父親が里を恨んでいようとも、カカシが木の葉に仇為すことはあり得ません」
歯を食いしばる。悔しくて視界がぼやけた。
イルカよりも何倍も危険な任務に赴き、誰よりも里を思っているカカシに、疑いをかけられていることが、悔しくて堪らなかった。
顔を俯け、あり得ないと繰り返すイルカの耳に、ため息が聞こえた。
「……分かってるさ。カカシが里を心から思ってくれていること、私が十分理解している」
カカシに任務を渡しているのは誰だと思っているんだいと、静かに問いかけられ、勢いよく顔をあげた。
そこには優しい表情でイルカを見詰める綱手がいる。綱手の瞳に陰りは一切なかった。
当たり前のことを声高に言った心持ちになって、イルカは恥ずかしくなる。イルカに言われるまでもなく、綱手はカカシを心の底から信頼している。
「す、すいません。余計なことを……」
途端に身の置き所がなくなって、視線をさ迷わせる。どこかへ逃げ込みたいと体を小さくさせるイルカに、綱手は晴れやかな笑い声をあげた。
「余計なことじゃないさ。お前がそう言ってくれることが、救いだよ。先生がお前を側に置く理由が分かった気がする」
突然、三代目の名が出たことに動揺しながら、畏まっていれば、綱手は再度口を開いた。
「言い方を変えよう。カカシを信頼していることに変わりはないが、変人、阿尺の巻物に、天才忍者と称されるサクモが手を加えた術だ。カカシの心身にどんな影響を及ぼすか分からない。万が一ということもある。カカシから目を離すな。今まで通り、小さい変化でも逐一、報告しろ」
「はっ」
顔を引き締め、了承の印を組む。綱手は満足げに口端をあげた後、苦笑した。
「それとな。いい加減、服を着ろ。見せびらかしたいのか、お前は」
「す、すいませんっ!!」
綱手の言葉に、前を隠し、脱兎のごとく駆けたイルカだった。
「はぁー。なーんか、長い一日だったなぁ」
布団に潜り込み、今日一日を振り返った。
隣の布団にはカカシがぐっすりと眠っている。
綱手との会話を終えた後、カカシが平熱になっていることを確かめ、服を着せて、布団にいれてやった。
術がかかっているせいか、それとも子供はよく眠るものなのか。着替えの最中も、移動している間も、カカシの目が開くことはなかった。
「いい夢でも見てんのか?」
右手に頬を乗せ、体を横に向けて、眠るカカシを眺める。何となく指を伸ばして、カカシの頬を軽く突いてみれば、指先がめりこんだ。それと同時に、カカシの眉間に皺が寄った。
子供の癖にいっちょ前に苦悶の顔をするのが面白くて、突いたり離したりを繰り返していれば、前触れもなくカカシの目が開いた。
「わ、わりぃ。起こしちまったな。ごめん、ごめん、もうしないから寝ろ、寝ろ」
一瞬泣かれるかと思い、カカシに寄り添って、あやすように布団の上から体を叩く。
じぃーとイルカの顔を見詰めるカカシに冷やりとしたものを感じ、引きつった笑みを浮かべれば、それに対してカカシは満面の笑みを浮かべた。
「きゃー。あー」
ご機嫌な様子で手をばたつかせるカカシに、イルカはほっと安堵の息をつく。だが、何故、こうもご機嫌でいるのかが理解できない。
風呂場でもそうだったが、幼児のカカシの考えを汲みとってやれない己に凹む。
「いつになったら喋られるんだろうな。そうしたら、お前を泣かせずにすむんだろうになぁ」
それに湯あたりも起こさせちまったしと、深く反省する。
がくりと項垂れていると、イルカの頬に小さな手が触れた。
「あー、あー、あー」
ぺちぺちと当たる手は気にするなと言ってくれているようで、笑みが零れ出た。
「ありがとうな、カカシ。やっぱり、お前はカカシ先生だな。小さい時から優しい」
カカシの手を捕まえて、唇を寄せる。ちゅっと音を立てれば、カカシの目が大きく見開いた。
なんで音が出たのと言っているような気がして、こうするんだよと、もう一度カカシの手に音を立てて吸いつく。すると、カカシは興奮した面持ちで、イルカの腕に手をかけ、引き寄せようと引っ張る。
真似したいのかなと、されるがまま腕を口元まで持っていけば、口を開くなりカカシが噛みついた。
「いてぇぇ!!」
油断していたところをガブリとやられ、思わず強引に腕を引く。途端にカカシの顔が歪み始めた。
「う、え、えっ」
瞳は潤み、泣くために息を深く吸い込み始めたカカシに、イルカは慌てて腕を元の位置に戻した。
「泣くな、泣くなー! カカシー、夜は静かにしなくちゃいけないんだぞー。大声出したら、こわーいお化けが出て来てさらわれちゃうぞ〜」
腕が戻ってきたことに安心したのか、それともイルカの言葉に反応したのか、カカシの顔が固まる。
瞬きを繰り返し、イルカの顔を見詰めるカカシに、とりあえず気を逸らせとこうと、寝巻代わりに着こんだアンダ―の袖をめくって、カカシに差し出した。
「ほーら、カカシ。腕だぞ、腕ー」
目の前で揺らせば、カカシは嬉しそうに笑って噛みついてきた。力加減が分からないのか、思い切り噛みついてきて、結構痛い。
「うー、うー」
噛みついては顔を離し、イルカの腕を見るカカシは、何か試行錯誤を繰り返しているようだ。
カカシが何をしたいのか、全く見当がつかず、謎は深まるばかりだ。
こんなことになるのなら、下忍時代、ベビーシッターの任務を多めに受けておけば良かったと、イルカは心底思うのだった。
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赤子カカシ先生が大泣きした理由は、クラゲ爆発がしたかったのに萎んだためです。
そして、イルカ先生はクラゲを見たことがなく、ところどころキクラゲと間違えているオチ。
おまけネタで、カカシ先生が大きくなった時、誰かから聞いた確かな情報だとクラゲを顔に当て刺されて腫れるばかりか、食べられると言って、ひどくまずい目に遭って、イルカ先生にぼやいて、密かにイルカ先生は俺もそう思っていたと内心冷や汗かきつつ、カカシ先生を慰めればいいなと思っていました……。(本編に挟む余地がなかったためボツりました…はは)