『おかえり』3
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「イルカ、おきてぇー」
声があがった直後、鳩尾に衝撃が走った。
「っっっっっ!!」
腹に乗った何かを巻き込んで、右に左に転げ回り悶え苦しむ。
「イルカよわぁい。ぼくよりよわーい」
息も絶え絶えの中、きゃらきゃら笑う子供の声が耳に響いた。
一体何だと腕に抱えたものへ視線を落とせば、銀色の髪をした子供が満面の笑みを浮かべていた。
「おはよぉ」
呆けるイルカの腕の中から体を起こし、子供は目を細めて、唇を寄せてきた。チュッと音を立てて離れていく、小さな顔を茫然と見送る。
「ちゅってできるようになったのー」
仰向けに寝転がるイルカの体に抱きつき、「すごい?」とご機嫌に聞いてくる子供に、ようやく頭が回転し始める。
この子供の正体ってまさか。間違いなく喋っていたし、名前呼んだし、というか、唇に残る感触って。
「……カカシ?」
硬直したまま名を呼べば、子供は無垢な笑顔を見せた。
「へんなかお〜」
否定しなかった。カカシだ。
がばりと起き上がり、カカシを胸に張りつかせたまま、一目散に水晶玉へと向かう。
「五代目ぇぇぇぇぇぇッッ!!」
「……喋ってるな」
「おはようございます、ツナデおばちゃん」と膝に乗せたカカシが礼儀正しく頭を下げたところで、綱手が口を開いた。
「朝起きたら、もう喋っていまして」
しどろもどろに話せば、寝起きの顔で綱手は眉根を寄せる。
幼少時のカカシは早起きが習慣のようで、叩き起こされたのは、日も出ていない時間帯だった。
「何か思い当たる節はないのかい? チャクラの反応があったとか、身に危険が迫ったとか」
頭を掻く綱手に、イルカは腕を組む。膝の上で、カカシはイルカと綱手の顔を交互に見比べていた。
「カカシが泣く時、無意識にチャクラを使って音量をあげていました。湯あたりで溺れかけましたし、他は……」
昨日の記憶を振り返っていれば、今まで黙っていたカカシが手をあげた。
「あのね。ぼくね。イルカとおはなししたかったの。あとね、ちゅってね、したかったの」
無邪気に言うカカシの言葉にギョッとする。チュッて、チュッて…!!
「や、違いますよ、これは…!!」
親愛の証として唇を寄せただけで、決して邪なことではないと弁解しようとして、鋭い眼差しがイルカを貫いた。
「イルカは黙りな。カカシと話す」
引き留めるために上げた手が落ちる。弁解の余地も与えさせてもらえなかったとしょげた。
カカシは無邪気なもので、綱手と喋られることが純粋に嬉しいらしい。綱手の言葉に、顔を輝かせていた。
「カカシ、イルカと話したくてどうしたんだい?」
「れんしゅうしたの。とうさんも、いっぱいれんしゅうしたらうまくなるっていってたから、ぼく、がんばったの」
舌足らずな口調だが、しっかりとカカシは喋る。綱手はそうかと相槌を打ちながら、どれくらい練習したかと聞いた。
「いっぱい。とうさんと、さんだいめと、しらないひとのおはなしきいたの。なんかいもれんしゅうして、きいて、ぼく、しゃべれるようになったの」
「そうか。頑張ったんだな」
「うん」
笑って綱手の顔を見た後、カカシは何かを期待するようにイルカを見上げた。
アカデミーの生徒がよくする仕草だと気付き、イルカはカカシの頭を撫でる。嬉しそうに笑ったカカシに、イルカは安堵の息を吐いた。この調子なら、カカシの考えを汲んでやれそうだ。
イルカの腕を掴み、体を擦り寄せてくるカカシの頭を思う存分撫でてやっていれば、綱手がカカシの名を呼んだ。
「カカシ。今、いくつだい?」
その手があったかと、心の中で手を打つ。カカシが話せるなら、年齢を聞けば成長具合が分かるというものだ。
カカシは綱手に顔を向け、小さい手でピースサインをした。
「ふたつ。あのね、もうじき、にんじゅつをおしえてもらうの。おとうさんがはやいうちにできるならしたほうがいいって、いってたの」
カカシの発言に度肝を抜かれた。イルカが忍術のにの字に足を踏み入れたのは、アカデミー学校に入った六歳からだ。
比べても仕方ないとは分かっているが、二歳から忍術稽古に入っていたとは思いもしなかった。しかも、あの天才忍者はたけサクモからの直々の指導だ。ついていくのはさぞかし厳しく辛いだろうが、その分、技術や戦術、忍びとしての生きた知識を会得することができる。六歳で中忍になったというのも頷ける話だ。
カカシの話に感じ入っていれば、綱手は「そうか」と吐息を吐き、笑って聞いた。
「今、サクモはどこにいるんだい?」
綱手の問いに思わず反応してしまった。
わずかに緊張してしまったイルカに、カカシが振り返って不思議そうな顔をする。水晶玉から、綱手の叱責の視線が飛んだ。
「何でもないんだ。俺、サクモさんに憧れてて。会えるのかと思うと、ちょっと緊張しちまった」
驚かせたかと笑えば、カカシは何故か眉根を寄せた。どうして不機嫌な表情を見せるのか気にかかったが、綱手の問いの方が先だと、カカシを促す。
「…とうさん、いま、いない。にんむ、いった」
しぶしぶとカカシが答える。先ほどまで笑顔だったのに、不貞腐れた表情で顔を俯けていた。
「サクモは一日どのくらいお前と一緒にいるんだい?」
綱手の問いに、カカシの眉間の皺が深くなる。そのまま口を閉ざしてしまったカカシに、イルカは慌てた。
「どうした、カカシ。ご……綱手さまが聞いてるぞ?」
後ろから顔を覗きこめば、カカシの頬はぱんぱんに膨れている。思いも寄らないことに動揺した。だが、綱手が聞いていることは、カカシのためになることだ。
何とか口を割らせようとイルカが声をかける寸前、
「イルカのばか!!」
突然膝から立ち上がり、障子を開け放し、廊下へと走り去ってしまった。
「カ、カカシ?!」
後を追おうとすれば、綱手が吹き出した。そこは笑うところですかと、腰を上げかけた姿勢で綱手を見れば、まぁまぁと手の平を見せながら、座りなと言ってくる。
五代目の言葉を無視するわけにもいかず、腰を下ろせば、綱手はにんまりと笑みを作った。
「お前を選んだのは適任だったようだな。カカシの奴、お前に夢中だよ」
「……は?」
これも私の腕ってやつだね。人を見る目はあるのに、どうしてサイコロの目を見る目はないのかねぇと、一人で反省し始めた綱手に何と言えばいいのだろう。
初対面のときに綱手の隣にいたシズネなら、話を進めさせることができるのだろうかと、遠い目をしていれば、綱手は我に帰ってくれた。
「まぁ、それはさておき。まだ憶測の域は出ないが、どうもカカシの気持ちが成長の鍵となっているようだな」
話が進んだことにほっとしたが、綱手の言葉に不安を覚えた。
「成長したいとカカシが望めば、カカシは大きくなる、ということですか?」
「そうだ」
「――では、その逆も?」
イルカの問いに、綱手は小さく笑みを浮かべる。
「残念だがな。その可能性も十分あり得る」
表情が曇るイルカに、綱手は言葉を継ぎ足した。
「カカシの気持ちが成長を左右するのは、あながち間違ってはいないと思うがね。ただ、成長を拒んだ時、カカシの成長が退行してしまうのか、止まるのかは分からん。それに、カカシがこれから経験する過去について、どこまでカカシが知っているかで、これから先の成長具合が影響されるだろう」
唇を噛みしめる。
一番初めにカカシが経験する、暗い過去。
「まずは、七歳の時の父親の死だ」
イルカの考えを読み取るかのように、綱手が口にした。顔を上げたイルカの目を見詰め、綱手は表情を険しくさせる。
「これからカカシの過去についての記録を持っていかせる。あくまで公式の記録だが、ないよりはマシだ。全て頭に叩きこんでおけ」
「はっ」
頷くイルカに、綱手は息を吐く。横から差し込んだ光に眩しげに眼を細めた綱手を見て、朝を迎えたことに気付いた。
「……これからが本番だ。気をしっかりと引き締めておくれ」
「はっ」
カカシの気持ちを汲んでやらなければいけないのはこれからだと、心を引き締めていると、綱手は「あと」と言葉を付け加えた。
「お前、カカシにあまり変なこと教えるんじゃないよ。泣くのはお前の方だぞ」
綱手の言葉に、顔から火が出た。
「カカシ、見ーつけた」
屋根裏の隅っこで、小さくなっていた子供の肩を掴む。
びくりと体を跳ねさせて、振り返ったカカシの顔は埃やクモの巣で汚れていた。
綱手に邪なことを教えた訳じゃないと弁解した後に、カカシの後を追いかけた。
そこで初めて屋敷内を探索することになったのだが、至る所に抜け道や隠し部屋、おまけに罠が仕掛けてあることに気付いた。
まさに忍者屋敷と言うにふさわしい構造に、ただ驚くばかりだ。
今は、カカシが歩いた痕跡や、隠れている気配が残っているから探しやすいが、この先、カカシが成長すればイルカには見つけられないのではないかと思う。
「どうしたんだ、カカシ。俺、カカシを泣かせるようなこと言っちまったか?」
一人で泣いていたのか、真っ赤に目を腫らせたカカシを見て、心が痛む。
頭についたクモの巣を取り、服の袖で顔の汚れを拭う。カカシはされるがまま大人しくしていたが、しゃっくりを繰り返しながら言葉を継いできた。
「イルカは、とうさんがすきなの?」
「へ?」
出し抜けに問われた言葉に、目が点となる。イルカとカカシの父親に、何の接点があるのだろう。
どういうことだと固まっていれば、カカシは真っ赤な目で睨んできた。このまま黙っていると泣かれそうで、イルカは戸惑いながら答える。
「えっと……そりゃ、憧れの忍びだし、好きだよ」
イルカの言葉にカカシの目が見開く。ぷるぷると体が小刻みに震え、カカシは思い詰めた表情をした。
「カカシ?」
悲壮感さえ漂ってきそうな様子に動揺する。再び傷つけるようなことでも言ったのかと慌てるイルカに、カカシは唇を真横に引いた。
「――ぼくより? イルカはぼくよりとうさんのほうがすきなの!?」
真剣な表情で、イルカの手を握りしめてくる。思わぬ言葉に瞬きを繰り返していると、カカシは焦れたように叫んだ。
「ぼくのほうがすきっていって!!」
くしゃりと歪んだカカシの表情を見て、ようやく合点した。
これは、あれだ。子供によくある、自己肯定の感情だ。親しい人を通して自分を見る行為、他者を介して自分を肯定する作業。
イルカはカカシと目を合わせて、断言する。聞くまでもないと、しっかりと言いきった。
「当たり前だろう。何、わかりきったこと言ってんだ」
だが、カカシはイルカの言葉が不十分なのか、頬を膨らませる。
「ちゃんといって!!」
きちんとした言葉が欲しいと強請るカカシを可愛いと思う。イルカは暴れるカカシの体をぎゅっと抱きしめた後、顔を見合わせた。
「カカシが大好きだ。サクモ上忍より、カカシが大好きだぞ」
青灰の瞳が丸く見開く。続いて、ふっくらとした頬に赤みが差した。カカシは身を乗り出して、イルカに好意を伝えてきてくれた。
「ぼくも、ぼくもイルカのことだいすき! だいすきなのっ」
一生懸命何度も言ってくれるカカシに、顔が緩む。あまりにも必死に言うから、「お父さんとどっちが好き?」と意地悪な言葉を投げかけたくなるが、そこはぐっと我慢して、ありがとうと、カカシを抱きしめる。
仲直りといっていいのか分からないが、カカシは機嫌を直してくれた。すかさず首に抱きつくカカシの背を軽く叩いた後、屋根裏から撤退することにする。
「さてと。カカシ、ご飯の前に、ひとっ風呂浴びるか」
掃除をしていない場所を這いずり回ったせいで、二人とも埃だらけだ。
「イルカ、くらげつくって、くらげ!!」
目を輝かせて強請るカカシに、いいぞと頷く。
わーいと無邪気に飛び跳ねるカカシを眺めながら、イルカは昨日のことを思い出す。あのとき、突然泣いたのは一体何だったのだろう。
「なぁ、カカシ。俺が初めてカカシにクラゲを作ってやったとき、泣いたよな。覚えてるか?」
話を振れば、カカシの表情が固まった。続けて小さな声で「しらない」と首を振る。
イルカにとっては昨日の話だが、カカシの感覚では一年前の話になる。覚えていないのも無理ないが、カカシの様子は明らかに変だった。
その話はおいおい聞くとして、まずは風呂の準備にとりかかる。
濡れるから居間で待っていろと言ったが、カカシはイルカの側にいると譲らない。濡れても知らないぞと声をかければ、どうせおふろはいるもんと返ってくる。
二歳とは思えない、しっかりとした受け答えに苦笑をこぼしながら、カカシの好きなようにさせておく。
浴槽を洗っていると、後ろでカカシが小さな声で呟いた。
「ぼくだって、れんしゅうすればできるようになるもん。ちゅっだって、できるようになったもん」
イルカのアンダーの裾を握りしめ、カカシは闘志を燃やしている。
何かできないことでもあるのかなと思いつつ、ちょうどいい機会だと話を振った。
「なぁ、カカシ。言い忘れていたけど、ちゅっていうのは、人に言うものじゃないんだぞ」
イルカの言葉にカカシの頭が傾く。浴槽に水をかけながら、イルカは言葉を続けた。
「ちゅっていうのは、その人が大事だよって伝える行為なんだ。人に言ったり、みせびらかしたりするものじゃなくて、お互いだけ分かっていればいいことなんだぞ。だから、人に言ったりしないようにな」
特に綱手には言うなと暗に言い聞かせれば、カカシはイルカの顔を見たまま、首を傾げ続けている。ちょっと難しかっただろうか。
どう言ったら伝わるのだろうかと思案していれば、カカシは一つ瞬きをした。
「でも、ぼく、おとうさんにいったら、おとうさんよろこんだよ。『だいじにしなさい』って、いわれたの」
そうかと頷きかけて、ぎょっとする。
「サクモ上忍に!?」
素っ頓狂な声をあげれば、カカシはうんと頷いた。どうやってと言いかけて慌てて口を噤む。カカシの中ではまだ父親は生きているのだ。
カカシから言いだすのを待っていれば、カカシはにっこりと笑って話してくれた。
「あのね、ちゅってするひとできたっていったら、おとうさん、わらって『だいじにしなさい』っていったの。ぼく、だいじにするっていったら、あたまなでてくれたの」
そのときのことを思い出したのか、カカシは頭に手を置き、嬉しそうに笑った。
明らかにカカシの過去にはない出来事だ。過去に介入するということは、こういうことを指すのだろうか。
慎重に行動を起こさなければ、カカシの思い出を荒らす結果にも繋がりかねない。
これは案外骨が折れるぞと唸ったところで、下から声があがった。
「イルカ、おふろっ。おふろ」
裾を引っ張るカカシに急かされて、蛇口を捻る。浴槽に流れ込むお湯と湯気を見つめるカカシの顔は嬉しそうにほころんでいた。
どうやらカカシは風呂が好きになったようだ。
できるなら、こうして楽しい思い出を作ってやりたいなと、目の前の頭をかき混ぜる。
指通りが良かった銀髪が、埃と蜘蛛の巣で汚れて、所々固まっている。一人で洗うのは難しいだろうと、イルカは声をかけた。
「湯がたまる間に、体洗うか。髪も洗ってやるよ。カカシはシャンプーハットが必要か?」
腰を落として、カカシの服に手をかける。
だいたい子供は髪を洗われるのが苦手だ。イルカも子供のときは、顔に突然かかる湯と目に入るシャンプーが苦手で、シャンプーハットがないと嫌だと散々ごねて両親を困らせた。
「いらないの。ぼく、ひとりであらえるの。ながすのだけ、おとうさんにやってもらうの」
「おー、すごいな、カカシ。もう自分で髪の毛洗えるのか」
感心した声を上げれば、カカシは誇らしげに胸を張る。万歳したカカシの服を引っ張り、下も脱がせれば、カカシは行儀良く足をそろえて、風呂椅子に座って待ちの体勢に入った。
「でも、きょうはイルカにあらってもらうの」
できるけどイルカにあらってもらうと、何度も言うカカシに、笑みがこぼれる。
「分かった、分かった。ちょっと待ってくれな」
服を手早く脱いで、カカシの服と一緒に脱衣所へ置く。振り向きざま、ふと視界に入った体を見て声が出た。
「うわッ、何だこれ」
見下ろしたイルカの体に、赤い点が浮かんでいた。比較的に柔らかいところを中心に、腕はおろか足にまで出ている。
掃除が不十分でダニにやられたかと舌打ちを打てば、カカシの元気な声が響いた。
「ちゅっのれんしゅう、ぼく、がんばったのー!」
「は?」
驚くイルカに、カカシは目を輝かせていた。もしかしなくても、これは虫刺されではなく、カカシの――。
「イルカ、ずっとねてて、あかいのついて、おもしろかったの。いっぱいいっぱいあかいの、がんばったの」
褒めてもらえると信じて疑わないカカシに、顔が引きつる。努力は認めよう。だが、しかし。
「カ、カカシ。ちゅっは、ふつうは頬にするんだぞ。こんなところまでつけちゃダメだろ」
カカシに全身吸いつかれ、目を覚まさない己の鈍さに凹むが、太股のかなりきわどいところまでに及んだそれに動揺が走る。
カカシに妙な癖がつくのを恐れ、今後は頬だけにしなさいと言い含めれば、あからさまにカカシの眉根が寄った。
どうしてそういう顔をすると内心悲鳴をあげれば、カカシは頬を膨らませる。
「おとうさん、いっぱいしなさいって、いったもん。すきってきもちはだいじだから、いっぱいしなさいって。ぼく、イルカだいすきだから、いっぱいするのッ!」
「いや、それは意味がちが――」
「あかいの、いっぱいするのーっ! やなのーッッ」
くしゃりと顔を歪ませ、大声をあげたカカシに慌てた。
一体どうすればいいんだと、あのとき何気なくしてしまったちゅっを深く後悔した。
「綱手さまは、イルカさんに言ったんですよ。カカシさんは変に真面目だから気をつけろという意味で」
定期連絡で水晶玉に呼びかければ、出てきたのは綱手の代理を任されたシズネだった。
カカシが風呂で泣き出した後、宥めながら風呂に入らせ、遅くなった朝食を食べさせた後、カカシは泣き疲れて眠ってしまった。
結局、ちゅっ問題は未解決のままだ。
「……分かりませんでした。それにしても、五代目もお人が悪いですよ。見えてるのに、教えてくれないなんて…」
首に未だについているだろう赤い印を撫でていれば、シズネは「まぁまぁ」と小さく笑った。
定期連絡を終えた後、相談と称して愚痴を聞いてもらっている。
シズネと話すのはこれで二回目だが、初対面の時の印象と違わず、とても気さくで話しやすい人だった。
「このまま生活していると、カカシに悪影響しか及ばさない気がして、気が気じゃありません。何か良い手はないものですかね」
ため息混じりに告げれば、シズネはそうですかと首を傾げる。
「悪い影響と言い切らなくてもいいんじゃないですか? 綱手さまも、子供らしい子供になったって喜んでいましたし」
「……男に吸いつく癖がついてもですか?」
イルカの言葉にシズネの視線がさまよう。それに、やっぱりと嘆けば、シズネはそうだと手を叩いた。
「イルカさんをお兄さんとして認識してもらえば、うまくいくんじゃないですか?」
「お兄さん?」
思いも寄らない言葉に、目が見開く。その発想はなかった。
「ええ。お兄さんの言葉を聞かない弟はいませんし、兄弟のような関係を築けば、カカシさんもきっとイルカさんの言うことを聞いてくれますよ。まずは呼び名から変えてもらったら、どうですか? カカシさんは今、イルカさんのこと呼び捨てで呼んでますよね」
思い返して、確かにと頷く。
今のカカシとは十以上離れているのに、呼び捨てで呼ばれている。懐いてくれるかどうかを気にしていたため、大して気にしていなかったが、これから生活をするにあたり、年上として、人生の経験者として、導く立場でいた方がカカシにも有益だ。
そして、何より。
「……お兄さん、か」
その響きの良さに、ふにゃりと顔が緩む。
一人っ子だったイルカは兄弟に憧れていた。ここにきて、仮初とはいえ、カカシのような可愛い弟ができるのは大歓迎だった。
「それ、やってみます。シズネさんに相談できて、良かったです。俺一人だと、袋小路にはまりこんで抜け出せませんでしたよ」
そんなことないですよと頬を赤らめるシズネの奥ゆかしさに、心が和む。任務とはいえ、監禁生活の中、こうしてシズネのようなうら若き女性と話せる機会は貴重だとしみじみしていれば、後ろから小さな気配がやってきた。
「イルカ!!」
振り返れば、カカシが体当たりをするように背中に張り付いてきた。
「お、起きたのか。よく眠れたか?」
寝起きで機嫌が悪いのか、心持ち頬を膨らませているカカシの頭を撫でる。カカシはイルカの手を受け入れながら、いまだ不機嫌な顔を崩さず、水晶玉を睨んで硬い声を放った。
「…だれ?」
「ん?」
「――あのおばちゃん、だれ?」
カカシの口から飛び出た言葉に、内心冷やりとする。努めて平静を装って、シズネに視線を向ければ、にこやかな笑みを浮かべていた。
この距離で聞こえないはずがない。
シズネが穏やかな女性で良かったと心底思いつつ、子供とはいえ禁句を放ったカカシに穏やかに言い聞かせた。
「綱手さまの身の周りのお世話している、シズネさんだ。カカシ、おばちゃんじゃなくてお姉さんだろ?」
そういう失礼なことは言っちゃ駄目だぞと、こっそり耳元で注意すれば、カカシの顔は強張り、前より険しくなった。
思いも寄らぬ反応に、一瞬、思考回路が止まる。
敵意を隠さず、シズネを睨みつけ始めたカカシに戸惑っていれば、気を利かせたシズネが口を開いた。
「では、私は用がありますので、ここで失礼します。カカシさ…、カカシくん、またね」
イルカの肩口から微かに顔を出し、睨んでいるカカシに、シズネは手を振る。それに対し、カカシは一言も答えることなく、ずっと威嚇し続けていた。
「こ、こら、カカシ。さようなら、だろ。すいません、カカシの奴、機嫌悪くって」
教育が行き届かず申し訳ないと代わりに頭を下げれば、シズネは気を悪くした素振りは一切見せず、「イルカさんのせいじゃありませんよ」と温かい言葉をかけてくれた。
「イルカさん、また」と軽く頭を下げるシズネに、「はい、また」と笑顔で返して、水晶玉の映像が消えた。
シズネの一貫した優しさに胸がときめく。気が強いくのいちが多い中、シズネのような女性は貴重といえる。
「シズネさん、いい人だなぁ。綺麗だし優しいし。な、カカシもそう思うだろ?」
ほぅと吐息を吐きながら同意を求めれば、背後からぎすぎすした気配が漏れ出た。
「……おもわないもん」
まさかの否定の言葉に、どうしたと顔を覗きこめば、カカシは顔を真っ赤にして涙目になっていた。
もしかして、暗部服に着替えさせられ、くのいちに迫られたトラウマを思い出したのだろうか。
綱手とは知り合いだったようだが、シズネは物心ついてからは初対面、しかも正真正銘の若いくのいちだ。もしかすると、カカシを襲ったくのいちと同年代かもしれない。
「カ、カカシ、ごめん。嫌な思いさせちまったな」
軽率だったと慌てて、カカシを胸に抱きとめる。微かに震えているカカシの背中を撫でさすってやれば、徐々に震えが治まってきた。
「……イルカは、あのひとのことがすきなの?」
「え?」
首にしがみついたカカシが、くぐもった声で聞いてきた。聞き返したイルカに、カカシは顔を上げて、至近距離で問い詰めてくる。
「すきかって、きいてるの!」
怒鳴るように叫ぶカカシの気持ちはよく分からない。だが、同じ轍は二度と踏まないと、イルカは自信を持って言い切った。
「好きか嫌いかって聞かれたら好きだけど、カカシの方がずっと好きだぞ」
寄せられた眉根が若干緩む。
「……ほんとに?」
疑り深い視線を向けたカカシに、イルカは手強いなと思いつつ、もちろんと大きく頷く。
「カカシのことがいっちばん好きだぞ。比べるまでもないだろ」
ぐりぐりと頭を撫でれば、ようやくカカシの眉間の皺が取れた。だが、カカシはなおも踏みこんできた。
「じゃ、ちゅっして」
「え」
「ぼくがいちばんすきなら、イルカから、ちゅっして!!」
首の後ろに腕を回し、至近距離で強請ってきたカカシに、頬が引きつった。
愛しているならキスしてと、色恋の手管としてくのいちが言いそうな発言だ。
カカシに教えたことがねじ曲がって明後日の方向へと進んでいるような気がして、イルカは早いところ手を打たねばと危機感を煽られる。
唇にしろと迫られなかったことが救いだと、イルカはカカシの額に唇を寄せて、軽く音を鳴らして離した。
「ちゅっしてもらったー」
額を押さえて笑うカカシに、ほっと息を撫でおろす。機嫌が直って良かったと油断していれば、カカシは「おかえし」と唇をぶつけてきた。
ちゅっと耳に届いた直後、思わず口を押さえる。
してやったりと笑顔を向けるカカシは可愛いが、こういうことを自然にこなす二歳児の先行きがかなり不安だ。
言うなら今だと、イルカはカカシの肩を掴んだ。
「カカシ。これから、俺のことは『イルカ兄ちゃん』って呼びなさい」
真剣な顔で言い切ったイルカに、カカシも生真面目な表情を作り、一言言った。
「や」
ぷいと横に顔まで背けられ、完全拒否したカカシに出鼻をくじかれる。だが、ここは引く訳にはいかない。大人のカカシへ顔向けできないようなことをしでかす前に、主導権はこちらが握っておかなければならないのだ。
深呼吸を繰り返し、イルカは再度挑む。
「カカシ。言うことを聞きなさい。これは礼義なんだ。俺はカカシより年上で階級も上だ。目上の人を呼ぶ時は、ちゃんと礼義を弁えないといけないんだぞ」
サクモ上忍みたいになれないぞと、少し脅してみれば、効果は覿面だった。
「やだっ」
体を跳ねさせ、イルカに縋りついてきたカカシに、よっしと握り拳を作る。少し情けない戦法だが、使えるものは何でも使うのが忍びというものだ。
難しい顔をしたまま、イルカはカカシに尋ねる。
「サクモ上忍は、目上の人を呼び捨てにしていることがあったか?」
眉根を寄せたカカシの顔が悲痛に歪む。
「……ない。おとうさん、よびすて、しない」
綱手からカカシの過去の情報と共に、はたけサクモの情報をもらっている。それと共に、イルカはサクモに憧れていた。
子供のときから憧れていた忍びなだけに、ほんの些細な情報も聞き逃さずに心に刻み付けている。
はたけサクモは実直かつ礼儀正しい人柄で、仲間内は元より、他里の忍びにも尊敬されていたと聞き及んでいる。カカシの反応からして、その話は本当だったのだと思わず感動してしまった。
潤む瞳に怯えの感情を見つけ、責め時はここだと心を鬼にして言う。
「カカシ。サクモ上忍みたいになりたいなら、忍びの技はもちろんのことだが、私生活も見習わなければならないんだぞ。サクモ上忍ほどの人を目指そうとするなら、常に己を磨く必要がある」
ひくっとしゃくりあげるカカシ。
思わず慰めたい衝動に駆られるが、イルカは微かに目を逸らして我慢だと己に言い聞かせる。
カカシが頷くか、それともイルカが屈するか。
このまま我慢比べに突入するかと思えたが、カカシは顔をしかめたまま小さな声で聞いてきた。
「っ、イルカは、かいきゅう、なに?」
「中忍、だけど……」
突然の質問に驚いて視線を戻せば、カカシは小さな手で目を擦りながら鼻を鳴らした。
「じゃ、ぼくも、ちゅうにんなる。イルカと、いっしょのかいきゅうになるの。そしたら、イルカってよべるもん」
泣きたいのを我慢しているカカシの様子に気が気でない。今までだったら、わんわん大声で泣いて嫌だと言うところなのに、カカシは必死に涙を堪えている。
中忍になるために、自分の感情を押さえようと努力しているのだと思えば絆される。
「……カカシ、そんなに俺のこと兄ちゃんって呼ぶの嫌か?」
そんなに嫌なら無理に呼ばせなくてもいいんじゃないかと心揺れるイルカに、カカシは首を振った。
「ちがうっ。イルカ、すき。でも、あのひと、きらいなのっ。イルカ、あのひとがいったこと、ぼくにいわせようとしてたの、いやっ」
イルカとシズネの話を聞いていたらしい。
敵視しているシズネの言うことを聞きたくないと主張するカカシに、そうかと言うしかなかった。
「――あ、兄ちゃんが嫌なら、『さん』付けはどうだ? そうしたら、お互い納得できるぞ」
カカシに兄ちゃんと呼んでもらいたかったが、そこまで嫌なら仕方あるまい。無理強いは本意ではないと妥協案を出したが、それに対し、カカシはもっと悲痛な顔を見せた。
「っ。あのひとといっしょのよびかた、や、なの!」
ふーっと息を吐き、しゃくりあげながら口を押さえる。目からぽろぽろと涙を出しているのに、決して声をあげないよう、小さな手で自分の口を押さえ、必死に堪えるカカシに、イルカは負けたと敗北を認めた。
「うん。そうか。わかった、わかったよ、カカシ。無理に呼ばなくていいから。今まで通り、『イルカ』でいいから。な?」
無理して我慢するなとカカシの背を撫でたが、カカシはずっと首を振り続けていた。
変な泣き方をするカカシにごめんと謝りながら、イルカはもっと違う方法を考えようと心に決める。
しかし、翌朝――。
「イルカ、鈍過ぎ。俺が敵だったら三回は死んでるよ。それでも本当に中忍なわけ?」
カカシの気配がぐっと近付いたのに気付き、目を開ければ、一回りも二回りも大きくなったカカシが、イルカの顔を覗きこんでいた。おまけに喉元にクナイを突き付けて。
「……は?」
置かれた状況についていけず、イルカは間の抜けた声をあげる。
それを聞きつけ、カカシは吐息を吐きながら、顔半分を隠していたマスクを下に下げるなり、呆けたイルカの唇に食らいついてきた。
「っ、ん、っ、っっ!?」
がっちり頬を掴み、突然舌を入れてきたカカシの暴挙に、血の気が下がる。イルカよりも小さな舌が口内を動き回る感触に、気絶したい思いに駆られた。
「っ、やめろ!!」
我に返って、本気でイルカが抵抗したところで、カカシはあっさり身を引くと、赤い舌をチラつかせながら自分の唇を舐めた。
「……あんた、くのいち関連の任務は絶対出ない方がいいよ。朝とはいえ、それって忍びとしてどうなの?」
荒い息をつくイルカを冷めた目で見下ろしながら、カカシの視線が移動した。
整わない息を吐きながら、カカシの視線を辿った先を見て、顔から火が噴いた。
体を飛び跳ねさせて、横に転がっていた布団で下半身を隠す。
口を開くが、動揺し過ぎて声が出ない。
羞恥でぷるぷる震えていれば、カカシは立ち上がり様にふと笑った。
「イルカって、かっわいーの」
小馬鹿にしたような言い方と、少年には似つかわしくない色気のある視線を送られ、イルカは心の内で絶叫した。
五代目ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!
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校正してもらった友人に「子カカシが可愛いだとっっ」という驚愕のお言葉をもらえて、嬉しかった記憶があります。
気に入った人だけに、大人顔負けの独占欲を見せる子カカシは可愛いと思います…(//口//)