『おかえり』4



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「何だい、またやりあったのかい? お前は大人で、しかも教師だろ。それくらいどーんと受け止めてやれ」



 息を荒げ、髪を乱して現れたイルカに、綱手は呆れた顔で窘めてくる。カカシの言い分を聞いてやれと暗に言う綱手に、イルカは憤慨した。
「何、言ってるんですか、五代目ッ。あいつ、俺に自慰をして見せろって言ってくるんですよッ!?」
 何考えてやがるんだと叫ぶイルカに、綱手はため息を吐いた。
「今、カカシは、六歳なんだろ? 中忍になりゃ、否が応でもそういう情報は耳に入ってくる。精通していない身の上じゃ、興味深い話だろうよ。知的好奇心てやつさ」
 ここはお前が大人になって見せてやれと、他人事のように言う綱手に涙が出そうだ。
「――俺の、俺のあの可愛いカカシはどこへいったんだ……」
 「イルカ、だいすき」と満面の笑みでイルカに抱きついてきた幼子が懐かしい。
 セクハラまがいの言動は、ほとほと頭の痛い問題だったが、一番痛いのは――。



「で、イルカ。カカシは今どこにいるんだい?」
 綱手に水を差し向けられ、気分が沈む。
「……林です。修業しに行くと言ってました」
 カカシが成長して中忍になり、任務が入ってきたことで、二人で過ごす時間は目に見えて少なくなった。
 たまに一緒に過ごせる時間もあるが、そういう貴重な時間のほとんどを、カカシはイルカにセクハラ紛いの言葉でからかう時間に使っている。そのため、カカシと顔を合わせる度に喧嘩となっているのが常だった。
 これではいけないと思い、時に叱り、時に宥めたりなどカカシの接し方を変えてみるが、カカシはイルカを怒らせることに全力を尽くしている感がある。
 カカシが六歳になってから一ヶ月は経つが、手を変え品を変えてのセクハラ攻撃に、イルカの胃は悲鳴をあげていた。
「五代目。俺、カカシとこれから先うまくやっていけるか自信がありません。成長してから一ヶ月は経ちますが、カカシに成長の兆しは見せませんし、顔を合わせば喧嘩ばかりで……。俺、カカシに完璧に嫌われています…」
 幼い時とは違う雲泥の差の関係に、肩が落ちる。今のカカシと同い年の年少組のアカデミー生徒とはうまく付き合えていたのに、事、カカシに関しては、全く手応えを感じることができない。
 暗い顔で肩を落とすイルカに、綱手は苦笑いを浮かべる。
「お前は十分やってるよ。カカシの奴が浮かれてるだけさ。ほら、よく言うだろ? 『好きな子なほど苛めたい』ってな」
 人差し指を向け、したり顔で言った綱手に、イルカは乾いた笑みを浮かべる。
 イルカが受けている仕打ちの数々を全部告げた後も、言い切ることができるのか怪しいものだ。
 きっとカカシはイルカを暇潰しのおもちゃ、もしくは家のお手伝いさん程度にしか思っていない。
 「本当に俺と同じ階級なの?」と小馬鹿にした態度を常に取り、「大人なんだから知ってるでショ?」とどぎつい艶本を見せては体位の名前を言えと迫ってきたり、食事の時も「塩味きつい。俺を殺す気?」と今時姑も言わない小言を言ってきたりと、思い返せば切りがない。
 顔を合わせる度に、そういう態度で食ってかかられるのに、どうやってカカシがイルカのことを好きだと思えと言うのだろうか。
「……そうですね。頑張ります」
 何を言っても無駄だと、イルカは悲哀の笑みを浮かべた。
「だが、そうだねぇ。今まで一足飛びで成長してきたのに、ここにきて止まるのは不自然だ。……今回は私が発破をかけてやろうかね」
 腕を組み、思案の表情を浮かべた綱手は、カカシを呼んで来いとイルカに告げた。それに対し、イルカは戸惑いの表情を浮かべる。
「ん? 何だい。カカシは外で修業してるんだろ? ほら、行った行った」
 犬でも追い立てるように手を払われ、イルカは気乗りしないながらもカカシを呼ぶために席を立つ。



 玄関に出たところで、ついため息を吐いた。
「……また、怒るんだろうな」
 思い浮かぶのは、成長してから少し経った時のことだ。
 カカシが任務へ行くと家を出た時、イルカは心配になって尾行した。
 カカシの頭の中では任務先へ行くことになっているが、現実ではここは結界に閉ざされた空間だ。外に出ようと結界に触れれば、暗部が駆けつけてくる。そうなった時のカカシの反応が気がかりだった。
 Aランクの任務並に気配を消し、カカシの後を追っていると、家の庭と呼ぶには広い林を抜ける直前、突然、カカシが倒れた。
 驚き駆け寄ると、カカシは眠っていた。
 外傷は見当たらなかったが、カカシの体に触れた途端、カカシは目を覚まし、クナイを振り上げてきた。
 咄嗟にクナイで受け止めれば、カカシはイルカを見るなり顔色を変え、怒鳴った。
「こんなところで何してんの?! 邪魔、消えてッッ」
 反応できないイルカを前に、カカシが切羽詰まった顔で振り返った直後、血臭を嗅いだ。
 舌打ちしたカカシが前方に向かって足を踏み出した途端、再びカカシの体が地面に倒れる。
 信じられない思いで近付き、そこで見たものは、四肢の末端を痙攣させ、時折大きく波打ちながら震えているカカシの姿だった。
 異常なのはそれだけではない。露出している肌にじんわりと線が走ったかと思うと、そこから血を流した。見えない刃に傷つけられているかのように、カカシの体は徐々に傷ついていく。
 目の前の異様な情景に、イルカは家から水晶玉を持ち出し、綱手を呼び出した。
 閉じた瞼の下で眼球が激しく動き、カカシの四肢が痙攣を繰り返す。小刻みに震える体は地面と擦れ、土を引っ掻いた。
 祈るような気持ちで綱手の判断を待てば、しばらくしてから綱手が口を開いた。



「……過去の記憶を経験するために、夢を見ているようだな」
 予想外の言葉に、イルカは驚きを禁じ得ない。
 戸惑うイルカに綱手は説明する。
 睡眠には二種類ある、と。
 脳の眠りと体の眠り。その二つの眠りを交互に繰り返し、人は眠る。通常、人は休息を得るために寝ているが、カカシの場合は記憶をなぞるために眠っている、と。過去の体験をもう一度頭の中で経験している最中だと、綱手は言った。
 だが、カカシの傷はどう説明するのだろうか。勝手に傷つくカカシの様子を口に出せば、綱手は不思議なことはないと断言した。
「人というものは、思い込みの生き物だ。本人が現実に起きた出来事だと頑なに信じたなら、その影響は体に及ぶ。聖痕というものを知っているか?」
 聞き覚えのない言葉に首を振る。綱手はそれを認めると、淡々と告げた。
「遠い国の話だ。神の子が磔になった際についたとされる傷が、信者の体に現れるとそう呼ばれる。奇跡の顕現とされているが、医学者の目からすれば、それは思い込みによる自身の力だ。人はね、見えるものを見えなくしたり、その逆だってできる。自分の体を制御するのは、自分でしかないんだよ」
 幻術だってその応用さと結んだ綱手の言葉を聞きながら、カカシを見詰めた。
 痙攣する度に、カカシの口がわずかに開く。苦痛とさえ見える表情はひどく痛ましかった。
「術のせいとはいえ、こういう状況が長く続くのは良くない。カカシの負担を考えれば、過去の一日を密に経験させるより、数年単位で流して経験させた方がいいだろうね」
「カカシの成長が早ければ、その分負担は軽くなると考えていいのですか?」
 イルカの問いに綱手は頷いた。そしてこうも付け加えた。
「カカシが寝ている時は決して関わるな。過去にない映像を過去の記憶として捻じ込むことは、膨大な情報処理が必要となる。それだけカカシの脳に負担がかかるということだ」
 綱手が通信を切った後も、イルカは倒れたカカシの側にいた。足掻くカカシを何も出来ずにただ見守った。
 カカシが目を覚ましたのは、空が夕闇に変わる頃だった。
 イルカを認めるなり、カカシはひどく怒った。
 普段は表情を変えない子供だったのに、このときばかりは顔を赤らめ、怒りに震えてさえいた。
 「あんたは家から出るな」と言い捨て、それから一週間の間、カカシは口を利かなくなり、イルカを見ると背中を向けた。
 あの一週間は辛かったなと、イルカは苦い笑みを唇に浮かべる。
 カカシの怒りを目の当たりにして以来、余計な刺激を与えるのも成長に悪影響を及ぼしそうで、洗濯や布団を干すとき以外、イルカは極力外に出なかった。
「……気が重いなぁ」
 五代目の命令には逆らえず、足取り重くイルカはカカシの元へ向かった。





「――イルカの癖に、よくここが分かったね」
 雑木林の中、吊した的にクナイを命中させながら、カカシは振り返りもせずに言った。
「……『癖に』は余計だろうが。ほんと、お前、かわいくないな」
 見渡す限り、吊り下げられた的の、ど真ん中へクナイを命中させている。
 六歳にして、ここまでの精密さを身につけるのは、驚嘆に値する。ただ、より完璧を目指すならば、あと一点、惜しい点がある。
 カカシの左斜めにある的を手に取る。左手で投げたであろうそれには、ほんのわずかだが切っ先が真ん中から外れている。
 右利きのカカシは左手でクナイを投げる時、わずかだが腕に力が入る。それがブレとなって、的を外しているのだ。
「…自分でも分かってるから、余計な口出ししないでくれる?」
 カカシの言葉に、肩が下がる。
 これだ。イルカが何も言わないうちから、カカシは喧嘩腰の態度でくる。
「何も言ってないだろう?」
「俺が言わなかったら、口出ししてただろ」
 即突っ込まれ、言葉に詰まった。そう言われると、弱い。
 鼻傷を掻いて、笑って誤魔化していれば、カカシはなおも恨めしげに半眼で見つめてくる。そのあまりのしつこさに、イルカは両手をあげた。



「分かったよ。分かったって。今度から言わないよう努力する。職業病みたいなもんだから、あまり手厳しく言わないでくれよ」
「職業病?」
 訝しげ声をあげたカカシに、そういえば言ったことがなかったなと気がついた。
「ああ。俺、アカデミーの教師しているんだ。今は休職中だけど、ばりばりの現役アカデミー教師だぞ」
 胸を張って言えば、カカシは複雑な表情を浮かべた。
見覚えのある表情に苦笑が零れ出る。イルカが教師になると決めてから、よく遭遇した表情だ。侮蔑や憤り、時には「腰ぬけ」と罵られ、手を上げられたことも少なくはなかった。
今でこそ、厳しい規定や審査が課せられ、火影や上層部の手によって選定されている教師だが、昔は怪我や病気で第一線を退かなければならなくなった戦忍たちが務める、閑職だった。
カカシやイルカが子供の頃は、あちこちで戦が起こっていた時代であり、五体満足な忍びは全て戦に駆り出されていた。当然、その時代ならば、イルカは前線任務に就かなければならない立場だ。
戸惑う素振りを見せるカカシに、イルカは笑う。非難よりもどこか気遣わしげな表情を見せたカカシの優しさが嬉しかった。
「心配してくれるのか? ありがとうな」
「……別に。そういう訳じゃ……」
 尻つぼみになったカカシの口調に、吹き出しそうになった。
視線は彷徨い、所在無げに手が揺れる。時折、イルカを見ては、動揺した素振りを見せた。
六歳で中忍になったとはいえ、感情を隠せないでいるカカシの子供らしさに、少し安堵した。
あきらかに気にしているカカシの側へ行き、心配すんなと頭を撫でた。



「カカシ。俺は俺自身で教師になることを決めたんだ。例え、周りが何を言おうとも、それに挫けない決意も覚悟もある。どんなに苦しくても辛くても、自分が信じていればどうにかなるもんさ」
 イルカが教師を目指した頃と、カカシが子供の頃は、風当たりも倍以上違うだろう。だが、もし今のイルカがその時代にいたとしても、教師になる道は諦めなかった。
なれるかなれないかは別として、イルカは足掻き続けただろうと、考えるより先に確信している。
「……信じたって、どうにもならない」
 か細く呟いたカカシの言葉に、イルカはため息を落とす。咎めるように睨んできたカカシの目線に合わせるため、屈んだ。
「カカシ、自分を信じる事は大事だぞ。信じ過ぎると痛い目を見るけどな。でも信じないよりは信じた方がいい。お前という人間は、まずお前を通して、他人へ、世界へ繋がるんだ。お前が自分を信じてやれば、他人も、世界も、同じだけのものを返してくれる」
 イルカをじっと見つめた後、カカシは皮肉な笑みを浮かべた。
「イルカは知らないんだよ。イルカが信じているほど、人は、世界は綺麗じゃない」
 すでに何かを諦めている子供は痛々しい。顔を歪めるイルカを笑い、カカシは背を向けて、数歩歩いた。
「父さんみたいな里の誉れと一緒にいると、それがよく分かるよ。あいつら、自分の得しか考えてない。父さんに全部任せている癖に、口では大きいことばかり叩いて、常に他人を蹴落とそうとする……。最低だ、あんなの」
「…カカシ」
 「ま、いいさ」と、カカシは大きくため息を吐く。
「俺が大きくなったら、あんな奴ら蹴散らしてやる。父さんは優しいから拒まないけど、俺は違う。あんなのいない方がいいんだ。あのままじゃ、父さん、泥かぶってばっかりだ」
 「だから、そのためにも修業しないと」と言い、クナイを投げ始める。
 カカカッと、木に突き立つ音が周囲に響く。全方向に意識を向け、無心に投げる様は、真剣そのものだ。



「……カカシは、サクモ上忍が大好きなんだな」
 ぽつりと言った言葉に、カカシの手が止まる。こちらに振りむいた顔は真っ赤になっていた。
「そうやって、何でも口に出すの止めてくれる?!」
 口布から上を紅潮させ、噛みついてきたカカシに破顔する。
 決して否定はしない、父親思いのカカシが微笑ましい。
「で、用は何? 俺に会いに来たんでショ」
 腕を組んで、こちらに視線を飛ばしたカカシにそうだと手を打つ。危うく忘れてしまうところだった。
「綱手さまからの伝言だ。話したいことがあるから、家に帰ってくれって」
 用件を伝えるなり、カカシの顔がまずいものでも食べたかのように歪んだ。「期待させて」とぶつくさ文句を言うカカシが不思議だった。
「帰るよ」と、若干怒った調子で踵を返したカカシの後につく。大股で歩くカカシの後姿を見ながら、そういえばと口を開いた。



「今日は怒らないんだな」
 てっきり罵倒と共に怒り狂うかと思ったが、特に何の反応もないので拍子抜けした。この調子なら、あまり気負わなくても良さそうだ。
 これからは林の中を気兼ねなく歩けると考えていれば、振り向いたカカシの眉が寄った。
「あんた、何言ってんの? ここ、うちの庭じゃない。どういう了見で怒れって言うのよ」
 カカシの言葉に肩が落ちる。カカシの今日の修行場所は自宅の庭だったようだ。
 庭にいても、カカシには違う場所に見えることがあるので、イルカには判断がつけ難い。
 一度、洗濯物を干しに庭に出たら、「こんなところで何やってる」と血相を変えて無理矢理家に押し込められた。
 カカシの頭では、前線で任務中だったらしい。そこにひょっこりと洗濯物を持ったイルカが出て、カカシはたいそう驚いたようだ。
 家を野営テントと見立てているカカシは、ここから出るなとイルカに言い、しばらくして帰るよと林の中をつれ回されて、家に戻ったことがある。
 その間も、カカシは始終不機嫌で、機嫌を直すまでかなりの時間を要した。
 ほぼ軟禁状態の己にため息を禁じえない。
 散歩ぐらいしても罰は当たらないと思うんだけどなとぼやいていると、歩調を緩めたカカシがイルカの隣に並んだ。



「綱手の用件って、何なの?」
 後ろ首に手を組み、面倒くさいと隠しもしないカカシへ、イルカは問答無用で拳骨を落とした。
 小さく声を上げて、頭を抱えるカカシを見下ろし、拳を握りしめる。
「お前はなぁ。何度言えば分かるんだ? 目上の人にはきちんと『さん』付けしろ。しかも、相手は三忍として名高い綱手さまだぞ!! 礼儀を弁えろっ、礼義をッ」
 ちなみに今は火影だが。
 心の中で呟き、今度という今度は絶対引かねぇと闘志を燃やす。涙目でこちらを睨みつけてきたカカシの視線を真っ向から受け止めていれば、カカシが噛みついてきた。
「いちいち説教するの止めてくれる!? 親でもないのに、言われる筋合いないねッ」
「アホか! 説教に親だなんだは関係ねぇ。俺はな、カカシを立派に育てる義務があるんだ。このままだと顔向けできないだろうがッ」
 穏やかに笑う大人のカカシを思い出し、イルカは奥歯を噛みしめる。イルカの介入によって、あのときのカカシと会えなくなるのは溜まらなく嫌だった。
 しばし睨み合っていれば、不意にカカシの視線が揺らぐ。いつもの騙し手だと我関せずにいれば、カカシの瞳から涙が浮かび上がってきた。
 思いも寄らない反応に動揺が走る。だが、まだカカシの演技とも限らないと警戒していれば、カカシはきゅっと眉根を寄せた。



「……何よ、それ。イルカが俺と一緒にいてくれたのは、誰かに命令されたからなの?」
 知らなかったと顔を俯けたカカシに、鼓動が跳ねた。俯く寸前、カカシはひどく傷ついた顔をしていた。
「イルカは他人の命令で俺と一緒にいてくれただけなの? ――今まで、俺を騙していたの?」
 震える声に、胸を衝かれる。カカシの言葉は全て事実なだけに、とっさにどう言っていいか分からなくなる。でも、任務だけじゃない思いもあるのだと伝えたくて、イルカは俯くカカシの視線と同じになるように腰を落とす。
 カカシの感情が作用する術なだけに、言えないこともある。でも、これだけは信じてくれとカカシの肩を掴んで、イルカは口を開いた。
「カカシ、違うんだ。お前を騙すだなんて、これっぽっちも思ってない。俺がお前と一緒にいるのは――」
 言いかけた言葉が途切れる。イルカの言葉に顔をあげた直後、口布を下ろしたカカシが唇に噛みついていた。
 どうしてこういう状況になるのか、頭が追いついていかない。
 呆けて油断したのが悪かったのか、カカシが悪のりして舌まで突っ込んできた。ここにきて、ようやく今までの傷ついた顔も演技だということに思い至る。
 ふざけんなとカカシの体を引き離そうとしたが、見た目は六歳児でも、実際はイルカと同じ体格だ。力もカカシの方が強い。
 肩を押していた手を捕まれ、体ごとのし掛かってくる。じたばたと暴れても、一向にカカシの体は離れず、とうとう地面に押し倒されてしまった。



「んー、ん、んぅん!!」
 口の中を這い回る舌を外へ押し出そうとするが、カカシの舌は器用に避けるばかりか、反対にイルカの舌に絡みついてきた。
 精神年齢六歳児に好き勝手やられる自分が情けなくて、泣けてきそうだ。息苦しくもあり、瞳に涙が盛り上がる頃、ようやくカカシの顔が離れる。
 荒い息を吐いていると、カカシはイルカを見下ろしながら、実にむかつく顔でにやりと笑った。
「忍びは、裏の裏まで読めって習わなかった?」
 イルカの血管がぶち切れた瞬間だった。
「ふっざけんな、カカシ!! 今日と言う今日は、本気で許さねぇッッ」
 「逆さ吊りにしてやる」とカカシに手を伸ばせば、「おお、こわ」とふざけた口調で後ろに飛んだ。体を跳ねさせて起き上がり、前方を駆けるカカシの後を追う。
「待て、こら!! このクソガキッッ」
「うわー、イルカが怒ったー」
 棒読みで叫ぶカカシに、怒りが煽られる。本当にこいつは一体どういう性格してるんだッ。
 逆さ吊りの後はお尻を叩いてやると息巻いたイルカが、カカシと追いかけっこを終えたのは、それから数時間後のことだった。





「……イルカ。お前は、私を何時間待たせるつもりだい?」
 腕を組み、額に青筋を浮かべた綱手の言葉にイルカは小さな声で謝罪した。
「も、申し訳ありません…」
 水晶玉の前で正座し、イルカは項垂れる。



 カカシの挑発にまんまと乗り、綱手を待たせる結果となってしまった。
 カカシは不貞腐れた顔をして、イルカの隣で我関せずを決め込み、そっぽを向いている。
 あの後、カカシを捕まえたはいいが、綱手を待たしていることに気づいたイルカは、逆さ吊りは諦め、尻叩きを実行した。カカシは本気で抵抗したが、そこは中忍として長い経験を積んでいるイルカの知識でカカシを拘束し、しこたま叩いてやった。
 イルカの手も赤く腫れているが、カカシの尻も今宵は腫れることだろう。
 二人して息を荒げ、土と葉に塗れた格好でいることから、綱手は今まで何をしていたのかそれとなく察しているようだった。
 綱手は二人を一瞥し、ため息をはいた後、改めてイルカに向き直った。



「イルカ。お前、自分が何をしたか、分かっているのか?」
 綱手の眼差しの強さに身が竦む。
 簡単な言いつけとはいえ、五代目火影の言葉を蔑ろにした自分に、致命的なものを感じた。
 この任務を遂行しているのは、木の葉の忍びであるうみのイルカではなく、ただのうみのイルカなのかもしれない。
「申し訳、ありません」
 弁解する言葉は出ない。頭を下げるイルカに、綱手は厳しい顔を崩さなかった。
「お前がそれじゃ困るんだよ。家にこもっている間、忍びとしての意識が錆び付いてきたんじゃないかい? ちょうど任せたい任務がある。一回、外に出て、その根性を叩き直しておいで」
 突然の任務中断を言い渡され、イルカは戸惑う。どうだいと重ねて尋ねられ、口を開くより先に、カカシが声をあげた。



「ちょっと待ってよ! 綱手に――綱手さんにイルカをどうこう言う権利なんてないッ。勝手なこと言わないでよ!」
 身を乗り出し、綱手に食ってかかるカカシが意外だった。しかも、イルカの言いつけを守ってきちんと「さん」付けをしている。欲を言えば、敬語を使ってもらいたいところだが、今までのことが今までなだけに、それだけでも胸に迫るものがあった。
「カカシ…」
 万感の思いで名を呼べば、カカシは一瞬イルカの顔を見て、なんともいえない表情を浮かべたが、再び綱手に視線を戻した。
「イルカはうちの者だ。火影でもないのに、口を挟まないでッ」
 見据えるカカシの目は必死だった。
 カカシがイルカのことをうちの者だと、家族だとはっきり言ってくれた。
 喧嘩ばかりしていたのにと、目頭が熱くなる。だが、カカシの言葉に少し引っかかるものを感じ、それは違うと口を出した。
「カカシの気持ちはすごく嬉しいけど、忍びとしての言葉なら、俺は綱手さまの言葉に従わなければならない」
 虚をつかれたように、カカシがイルカへ向き直る。その目は大きく見開き、信じられないと物語っていた。
「俺は中忍で、綱手さまは上忍だ。上の言うことを聞く責務がある。任務外だとしても、それが基本だ」
 イルカの言葉にカカシの顔が歪む。一度何か言おうと口を開きかけたが、カカシは思い直したように口を閉じた。悔しそうに唇を噛みしめて、眉根を寄せている。サクモから忍びの心得を教えられているのだろう。
 そのまま口を閉ざしたカカシから、綱手に視線を移す。どういうことですかと、視線で問うてみれば、綱手は微かに口元をあげた。
 何か企んでいる節のある綱手に戸惑っていれば、やけに芝居がかった口調で綱手は言う。



「錆ついたお前に任せたい任務は――」
「待って」
 声を遮り、カカシが固い声をあげる。「なんだい」と平坦な声音で返したが、カカシが俯いていることをいいことに、綱手はイルカに向かって親指を立てていた。
「……上忍になれば、イルカを外に出さなくていい?」
「は?」
 飛び出たカカシの言葉に、思わず声が出る。
「そりゃ、もちろん。私と同じ階級ならその権利はあるさ」
「は?!」
 続けて綱手の口から出た言葉に、イルカは驚きの声を上げた。いつから上忍は中忍の身を拘束できる権限が与えられたのだろうか。
 カカシが勘違いしてしまいそうな遣り取りに、一人泡を食っていれば、カカシは綱手を睨んで言い切った。
「俺、絶対、上忍になる。だから、前借りさせて」
 「前借り!?」と素っ頓狂な声をあげれば、綱手は実にふてぶてしい笑みを浮かべた。
「おもしろい。木の葉に優秀な人材が増えるのは喜ばしいことだ。お前がそう言うなら、前祝いで今の言葉を取り消してやってもいい。ただし――」
 笑みを引っ込め、綱手は圧力を忍ばせて、カカシに突き付けた。
「そう長い時間は待ってやれない。お前が思っているより、イルカは忍びとしても優秀だ。中忍風情のお前が、いつまでも独占できると思うな」
 ずばりと啖呵を切った綱手に血の気が引きそうだった。明らかにイルカを高く持ち上げすぎだろう。カカシに一笑されて終わりだと、身を固くしていれば、突然カカシが立ちあがった。



「お、おい、カカシ?」
 名を呼べば、カカシはこれ以上ないほど眉根を寄せ、イルカを睨みつけた。
「修業してくる」
 何故?
 呆けるイルカを前に、カカシは身を翻し、障子を開けて廊下へと走っていく。
「カカシ、夕飯までには帰れよ!!」
 慌てて廊下に身を乗り出し、玄関から外へと出る背中に叫ぶ。「分かってるよッ」とぶっきらぼうに返ってきた可愛くない言葉に、ため息が零れ出た。
叩きつけるように玄関戸を閉めたのを認め、綱手の前に戻る。一つ息を吐いて、綱手に尋ねた。



「…どういうことですか?」
 その直後、綱手は感に堪えないというように、腹を抱えて笑い出した。
「あっはっはっは! カカシも苦労するねぇ。一世一代の告白をしているってのに、肝心のお前の反応は『夕飯までに帰れ』だなんて」
 カカシの上忍発言のことを差しているようだが、また綱手の妙な勘ぐりにイルカは肩を落とす。
「告白って…。勘弁して下さいよ。カカシの奴は、身の回りの世話してくれる奴がいなくなるから嫌なんでしょうよ。――ま、まぁ、家族とは思っていてくれたみたいですが……」
 嬉しい半面、面映ゆくて照れていれば、綱手は重いため息を吐いた。
「……あいつも報われないねぇ」
 しみじみとした言われように反発したくなったが、それよりもとイルカは背筋を伸ばす。
「綱手さま。カカシにお話というのは、どういう?」
 首を傾げるイルカに、綱手は額に手を当て嘆く。
「お前、どれだけ鈍いんだい。さっきのカカシの反応を見ればわかるだろう? お前を出汁にして、カカシが成長するよう発破をかけてやったのさ」
 ちょっと褒めすぎたねと、綱手は呆れた顔で視線を向けた。
「では、任務中断のお話は嘘ですか?」
「当たり前だよ。今、優先されるべきはカカシだ。お前、大丈夫かい? 本当に錆ついちまったんじゃなかろうね」
 自分でも自覚があるだけに、乾いた笑いしか出てこない。歪んだ顔で笑うイルカをしばし呆れた目で見ていたが、綱手は顔を引き締めるとおもむろに言った。
「さて、やれるだけのことはした。ここからカカシがどう成長するかだ。上忍になる前に、必ずサクモの死を経験する。何が起こるか分からないからね。ぼやっとしてないで、しゃんとしなよ」
「はい」
 頭を下げて、通信を切る。



 綱手からもらった、はたけカカシに関する資料を頭の中でもう一度通し見する。資料は頭の中に叩きこんだ後、燃やしている。
 資料から読み取れた、カカシに影響のある出来事は、七歳の時の父親の死、十二歳の時の上忍昇格後の初任務。そして、十四のときの九尾襲撃。
 まずは七歳の時のサクモの死だ。自殺なだけに、カカシにとって衝撃が強いはずだ。綱手は再三に渡って注意を勧告しており、サクモが手を加えた術のこともあるため、最も用心しなければならない。
 十二の時の任務では、スリーマンセルの仲間を一人失っている。それと同時に、写輪眼を移植されたと記されていた。亡くなった仲間が、うちはの名であることから、そのことと何か関係があるのかもしれない。
 十四の時の九尾襲撃。いわずもがなというところだ。このとき、カカシの師である四代目火影が命を落としている。
 その後の記録はない。カカシが上忍師としてこの里に在住するまでの間、空白になっていた。
 九尾の襲撃によって、資料が燃やされたことも関係しているのだろうが、カカシは元暗部だという。もしかすると、十四の時点でカカシは暗部入りしていたのかもしれない。
「……辛いな…」
 息を吐くと同時に、畳の上に寝転がった。これから起こる出来事を思うとやるせなくて仕方ない。
カカシの過去には必ず死が付きまとう。しかもそれは自分の身近な人たちだ。
忍びならば覚悟せねばならない道。だが、カカシに関しては――。



「早すぎる…」
 目を閉じて、それでも目にかかる光を嫌って、手で覆った。
 任務中の死、九尾という天災に近い存在により与えられた死。
 仕方ないと思う。誰かが頑張ってどうにかできる問題ではない。だが、サクモの死に関してだけは納得ができなかった。
 この任務に就くまで、はたけサクモに純粋な憧れを抱いていた。木の葉の白い牙と呼ばれ、どんな苦境下でも常に仲間の命を優先し、任務を遂行する凄腕の忍者。
 サクモの生き方に、幼い頃のイルカは感動さえしていた。いつか自分も白い牙のような忍者になるのだと夢を持ち、そして教師になってからもサクモのような強い心を持った忍びを育てたいと、そう願っていたのに。
「…あんたを恨みますよ」
 唸るように、何もない空間に告げた。
 胸が痛いのは憧れを穢されたからじゃない。忍びとして、サクモの憧れは今なおも薄れない。だが、父親としてのサクモに強い憤りを感じた。
何故、生きなかったのか。何故、生きられなかったのか。カカシという光がありながら、それに目を背けたサクモが信じられなかった。
「くそっ」
 訳も分からず涙が零れ出る。拭っても溢れる涙が示す感情は、ぼやける視界同様、はっきりと見えてこない。
「カカシ…」
 名を呟く。これは同情なのだろうか。サクモを失くし一人になったカカシと、九尾の襲撃で一人になったイルカと重ね合わせているだけなのだろうか。
 あり得ないと馬鹿な自分を痛烈に非難する。その発想が出てきたことにすら、吐き気を感じた。
どうやって重ね合わせるというのだ。イルカは両親を亡くしたが、それは九尾によってだ。両親が亡くなるまで、イルカは二人から数えきれない愛情をもらった。大好きだと、一番大切だよと、人として一番大事なものを育ててもらった。
カカシの過去を憐れみたい訳じゃない。自分と比べて、優劣を決めたい訳じゃない。
ただ胸が苦しい。
息がうまくできない。



『日課なんです』
 不意にあのときのカカシの声が蘇る。
 優しい瞳で、家に帰る人々を見ていたカカシを思い出す。夕闇の中、ぽつりぽつりと点る家の灯を見て、愛おしそうに微笑んだ顔が忘れられなかった。
 カカシの幸せが何かを知りたいと思う。カカシが何を思い、何を感じ、何を見て微笑むのかが知りたい。
 そして、それを知った時、その何かがイルカにできたらいいと思う。イルカの手で、少しでもいいからカカシに微笑みをあげられたらと、思った。







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ちょっと生意気な子カカシです。
子供の成長具合がよく分かりません。
カカシ先生は幼い時から精神年齢高いんだよ(っぽく見せてる)と言い聞かせていました。