『おかえり』5
「イルカ……。もしかして、あれからずっと寝てた?」
「んがっ」
出し抜けに名を呼ばれ、体を起こした。横には口布を取ったカカシが呆れた顔で、しゃがみ込んでいた。
「……おかえり、カカシ。いつ帰って来たんだ?」
妙に腫れぼったい瞼を擦れば、深いため息が聞こえてきた。
「ただいま…。外、見なよ。もう夕方」
カカシの言葉に、庭に面した障子を見やる。白い障子には夕日の色が映り込み、真っ赤に染め上げていた。
「な、なにぃぃ!! うわ、何もしてねぇッ。わ、わ、わーっ」
飛び起きて、台所へと駆ける。この家には炊飯器と言う文明の利器がないため、鍋で炊かなければならない。
がたがたと調理器具を出し、冷蔵庫の中身を確認する。流して見れば、煮込んで簡単、カレーの材料が揃っている。
献立は決まったとカレーのルーを手に取ったところで、後ろから声がかかった。
「ちょっと。明日任務なんだから、匂いがきついの止めてよね。というか、もう兵糧丸でいいよ」
面倒くさいと、懐から取り出した黒い玉を見て、イルカは神速の速さでそれを奪い取った。
「なっ」
取られたことが衝撃だったのか、目を見開くカカシに、イルカは深いため息とともに横に首を振る。
「カカシ。家にいる時、いや、里にいる時は、温かい家、気持ちいい風呂、美味しい手料理、ふっかふっかの布団で寝ることが基本だ! 生きる上で極めて重要な基礎だからな、忘れるなよッ」
だから、これは没収と懐に仕舞いこめば、カカシがむくれる。
「元はといえば、イルカが夕飯作ってないのが悪いんじゃない。俺、腹減ってんだって」
待てないと駄々をこねるカカシは、体中泥だらけだ。しかも、よほど腹を空かしているのか、情けない顔をしている。
仕方ないなーとイルカはため息を吐いて、冷蔵庫からきゅうりを取り出し、軽く水洗いするとカカシに投げ渡す。
「飯ができるまで、それ齧ってろ。んで、カカシは先に風呂入れ。家中泥だらけにする気か?」
「っ、風呂できてないじゃん」
しぶしぶながらも、ぼりぼりときゅうりを貪るカカシが、非難の声をあげる。言われてみればそうだが、イルカは夕飯の準備がある。
「カカシー、今日はお前が風呂準備してくれよ〜」
頼むよと両手を合わせれば、カカシは「もうッ、腹減ってんのにっ」と一つ叫び、風呂場に走ってくれた。
てっきり断られるかと思ったが、素直に風呂洗いをしに行ってくれたカカシに感動を覚える。もしかすると、お願いしないからやってくれないだけで、頼めばやってくれるのかもしれない。
大人のカカシが自炊をすると聞いたことはないが、この際、カカシのためにも家事を仕込むのもいいかもしれない。
カレーから肉じゃがに変更し、もう一品、魚を焼くことにする。
カカシは若いのに魚をよく好む。魚より肉を好んで食べるイルカには味気ないが、魚を出した時のカカシは心なし、表情が明るくなるのでついつい魚の頻度が多くなっていた。
これで最後の魚だから、また暗部さんに魚を買って来てもらおうと、次回の買い物リスト表に魚を書き込む。
「イルカー、石鹸どこー?」
湯を溜める音と一緒に、風呂場から声が聞こえてきた。
「一番下の棚にあるだろー。いい加減、覚えてくれよー」
叫び返せば、何やらぶつくさと文句を言う声が聞こえたが、小さすぎて聞こえない。
石鹸を探しているということは、風呂が溜まるまでの間に体を洗おうとしているのだろうか。
結局、カカシが風呂から上がってもまだ料理はできておらず、腹減ったというカカシに料理を手伝わせてしまった。
「準備悪すぎ」と口では文句を言っていたカカシだが、口とは裏腹に始終機嫌が良かった。実は家事が好きなのかもしれない。
晩飯を食べ終えた後、イルカは風呂に入った。風呂から上がれば、カカシが上手そうに茶を飲んでいるところに出くわしたから、イルカもご相伴に預り、取りとめのない話をした。そうこうしている間にも、夜は更けていき、二人で並んで歯を磨いて、明日は早いと言うカカシに「おやすみ」と告げ、別々の寝室へ別れた。
カカシが中忍になったのを切っ掛けに、イルカとカカシの寝床は別々になった。イルカとしてはカカシの今後の成長具合が気にかかるため、できるだけ同じ空間にいたかったのだが、カカシが頑として認めなかった。
絶対嫌だと譲らないカカシに折れる代わり、今まで寝室として使っていた部屋の隣で寝てもらうようにした。ここなら異変があればすぐ気付き、駆けつけることができる。すぐに連絡がとれるよう、綱手との通信手段である水晶玉は常に枕元に置いていた。
隣のカカシの気配が、一か所から動かなくなるのを感じ、早々に寝たのかなと思う。寝床に入りながら、今日は見事な夕焼けだったから明日は晴れるだろうかと考えつつ、目を閉じた。
ふと目が覚めたのは、しとしとと静かに降る雨の音を耳に捕えたためだった。
外に出て夕焼けを見ていないため気付かなかったが、黒みがかった夕焼けだったのだろうか。
夢現を彷徨いながら、寝がえりを打って、鼓動が跳ねた。
誰かがいる。
寝ているイルカの背後に、覗きこむように見下ろしている影を認め、ぞわぞわと悪寒が走る。
まさか幽霊とイルカが固まっていると、影は小さな声を出した。
「……起きてる?」
馴染みの声を聞いて、緊張していた体が一気に弛緩した。じっとりと肌に張り付いた服に、どれだけ緊張していたかを知る。
「…カカシ〜、頼むから声掛けてくれよ。寿命が縮んだかと思っただろ」
跳ねる鼓動を押さえ、身を起こす。本気でビビった自分が恥ずかしくて、笑いながら取りつくろった。
今、何時だと時計に視線を向けようとしたところで、カカシが問いかけてきた。
「ねぇ…。イルカはずっとここで寝てたの?」
「あぁ、寝てたよ。どうしたんだ?」
当たり前のことを聞くカカシが不思議だった。聞き返せば、カカシは微かに眉根を寄せ、「何でもない」と俯いた。
常より大人しいカカシが気にかかる。よく見れば、カカシの顔は普段よりも青白く見えた。
具合が悪いのかと覗き込もうとすると、カカシの顔があがる。
「触っても、いい?」
こちらの了解を取ることも知らなかったカカシの、初めてのお窺いに目が見開く。いつものお前らしくないなと軽口を叩こうとして、言葉を止めた。
闇の中、素顔を晒したカカシの瞳は揺らぎ、蒼白気味な顔色と相まって、今にも壊れそうな脆さを感じた。
今、イルカの目の前にいるのは、庇護を求めている子供だ。
「……いいよ」
怯えさせないように笑って、心持ち体を前に倒す。カカシが手を伸ばせばすぐ触れるほど近付いたのに、カカシはイルカを見詰めるだけで動く素振りを見せなかった。
「遠慮するなよ。…見られていると恥ずかしいか?」
問いかけるがカカシから返事はない。
イルカは勝手に決め付けて、瞳を閉じるなりカカシの両手を掴んだ。一瞬強張ったカカシの手に構うことなく手を引き上げ、頬へと触れさせる。離しても落ちることはないと確認してから、イルカは両手を離した。
しばらくカカシは頬に軽く手を当てているだけだったが、そのうちゆっくりと指が動き出した。
眉頭から眉を辿り、瞼、まつげ、鼻と指先が触れる。手の平は指先がたどる後について行くように、肌を覆い、感触を確かめていた。
鼻先で少し止まり、上唇に触れ、下唇、顎へと進む。一度も手を離すこともなく、肌を伝いながら首を両手で覆う。
指先が頸動脈に触れる。鼓動を確かめるように身動きを止めた後、肩に滑り、鎖骨を通り、胸の前で手が止まった。
カカシの左手が落ちる。
右手が触れているのは、心臓の前。カカシは手を押し当てたまま、そこから動こうとはしなかった。
「……イルカ」
ひそやかに名を呼ばれ、イルカはゆっくりと目を開ける。俯くカカシの表情は見えない。
いつしか雨は霧雨に変わったようだ。音もなく降る雨に、周囲の音が同調したかのようだった。
カカシと自分の音しか聞こえない世界で、音をそっと唇に乗せる。
「なんだ?」
カカシが一つ、息を吐いた。両肩を波打たせ、押し殺した声で問いかける。
「今でも、父さんに――はたけサクモに憧れていたって、言える?」
その問いで全てを知る。
カカシの普段とは違う様子を、壊れそうな気配を、ずっと何かに耐えている理由を。
「…今でもはっきりと言えるよ。サクモ上忍は、俺にとって尊敬できる忍びの一人だ」
息を飲む声がした。そして、微かな嗚咽を。
「――嘘つき」
カカシの頭が傾ぐ。肩に押し付けてきたカカシの額を受け止めた。
「…つき、嘘つき、嘘つき!!」
動かなかった両腕が持ち上がる。その直後に拳が胸を叩いた。イルカの胸を叩きながら、カカシは叫ぶ。
「嘘つきッ、イルカの嘘つき!!」
胸倉をつかみ、カカシは涙を零す。イルカを見上げて、あり得ないと声をあげる。
「父さんは里中の笑い者だッ。命を助けられた奴も、今まで助けてもらった奴も、みんな、父さんに背を向けた。父さんは、忍びの爪弾き者だって、木の葉に泥を塗ったって、恥知らずだって臆病者だって罵ら」
最後は言葉にならず、顔が落ちた。しゃくりあげる度に、背中が大きく波打つ。それと同時に、拳が上がり、イルカの胸を叩いた。
「誰も来なかったっ。父さんの葬儀には誰も来なかった……ッ。俺一人で、父さんを見送ったんだ…!」
それなのにと、カカシは息を吸う。しゃくり上げながら、甲高く吠えた。
「イルカがそんなこと思える訳ないんだッ。俺だって思えないでいるのに! 父さんは腰抜けだって言葉に言い返せないのにッ。なんで、イルカはそんなことが言えるんだよ! なんで、なんで、なんで……!!」
振り上げては落ちる、力が込められた拳。
体に走る重い衝撃は、カカシの深い悲しみを表していた。
黙って受け止める。怒りに任せて罵るカカシの雑言を黙って聞いた。何も言葉を掛けず、カカシを見詰めていた。
「っ、なんで……」
荒い息を放ちながら、言葉が弱弱しくなる。それと同時に、振り下ろす拳も勢いを失くした。
胸に落とされた拳は解かれ、指先がアンダ―へとしがみ付く。上下に波打っていた背が、引きつるように震えた。
「なんで、父さんは逝っちゃったの…? なんで、僕を置いていっちゃったの?」
小さく零したカカシの素の声に、堪えていた声が漏れた。
「――カカシ」
胸にすがりつく子供の背に手を回す。大きく震えながら、声をあげ始めた子をきつく抱きしめた。
子供は泣きながら言う。
「信じられない」と。
サクモも、自分も、里も、何もかもが信じられないと、カカシは泣いた。
「カカシー、飯、ここに置いておくぞ」
部屋の前に、作りたての朝食を置く。
昨夜置いた晩飯に一つも手をつけていないことを認め、ため息がこぼれ出た。
イルカの元で朝まで泣いた後、カカシは「しばらく一人にして」と寝室の戸を閉めた。
今日で三日目だ。
二日間こもりっ放しで、一度も外に出た気配はない。二日間飲まず食わずの状態も気に掛かったが、それより増してカカシの精神状態が気になった。
部屋に閉じこもったことも含めて、綱手に事の次第を報告すると、綱手はそうかと頷いただけだった。何か助言はないかと期待したが、気を抜くなと、前から言われ続けていた言葉を言うだけで、それ以上は何もなかった。
静かに見守ってやれということなのだろうか。
寝室の戸を見つめても、その中の気配は動かず、戸も普段どおりと変わりはない。
このまま閉じこもってしまったらどうしようかと、やるせない息を吐く。無理やり引きずり出すのは違う気がする。かといって、このまま何も行動を起こさないのも気が引けた。
具体的な行動が思い浮かばず、視線を落とす。残されたままの夕飯を見て、このままにしておく訳にもいかず、片付けようと腰を屈めた。
そのとき、気配もなく開いた戸に、しこたま頭をぶつけた。
「っって!」
額に入った、思わぬ衝撃に呻けば、「ごめん」と小さな声が落ちた。
突然の登場に顔を上げる。
カカシは青白い顔で瞼を腫らし、イルカを見下ろしていた。
今にも倒れそうなカカシの憔悴具合に、大丈夫かと手を伸ばそうとすれば、カカシが口を開いた。
「……朝食、食べた?」
「え。いや、まだ、だけど」
伸ばした手をカカシに触れようか迷っている内に、カカシは小さく頷き、部屋から出た。
「そ。じゃ、一緒に食べよう」
イルカが持ってきた朝食を持ち上げ、居間へと歩き出す。イルカも夕飯を持ち、慌ててその後を追いかけた。
居間へ着くと、カカシはちゃぶ台に盆を置き、その足で台所へと向かった。何をするのだろうと、突っ立って見ていれば、カカシはご飯と味噌汁をつぎ、フライパンの中にあった目玉焼きを皿に移し、居間へと運んだ。
「……食べよ」
いただきますと手を合わせたところで、ようやくイルカの分を用意してくれたのだと気づく。
「う、うん、ありがとう。いただきます!」
席に座り、向かい合わせで食べ始める。用意してくれたことを改めて礼を言えば、カカシは目を伏せて小さく首を振った。
「…それより、イルカのご飯、食べなくてごめん。無駄にした」
不意に謝ってきたカカシに、鼓動が跳ねた。やけにしおらしいカカシに、胸さえときめいた。
「いやっ、誰だって食べたくない時だってあるさっ! うん、うまいな。やっぱり飯は一緒に食べた方がうまいよ」
今日はカカシがよそってくれたから、特にうまいと言えば、カカシは小さく笑った。
父親の不幸は消えない事実だが、カカシはちゃんと前を向いている、立ち直るだけの強さがあるんだと、そのときは大丈夫だと思えたのに。
「……おかしいんです」
真剣な顔で事の次第を話したイルカに、綱手は頬杖をつきながら平坦な声をあげた。
「へー、そうーかい」
興味ない素振りで耳をほじった態度に、イルカは憤る。些細なことでも報告しろと言っていたのは綱手なのに、しかも、今、イルカが報告した事は些細というレベルではなく、完全なまでの異常行動とも言えるというのに……!!
五代目火影をあからさまに非難する度胸はなく、恨めしげな視線を送っていれば、綱手は大きく息を吐きながら椅子の背もたれに体を沈めた。
「あのなぁ。毛も生えていないようなガキに、濃厚な口付けを仕掛けられて、その舌技で腰抜けにされた上、吐精されかけるような悪戯を、最近されないと泣きつかれても、こっちは困るんだよ」
「夫婦の営み相談所じゃないんだぞ」と失礼なことを言う綱手に、頭の血が上る。
腰抜けにされてないし、泣きついてもいないと口を開いた直後、
「あわわわわ…!!」
綱手の横で慌てふためく声に続いて、盛大に何かが壊れる音が聞こえた。その後、「すいません、すいませんッ」と悲鳴に近い声が聞こえてくる。
「……ここには、初な恥かしがり屋の子もいるんだ。セクハラ発言は止めてもらおうか」
「おかげでまた借金が増えた」と真顔で言われ、否定しようか、借金について言及しようか、言葉に詰まる。だが、今はカカシの事だと、イルカは畳を叩いた。
「ともかく、カカシがおかしいのは本当です。あいつ、一つも文句言わないで食事するし、嫌味もなくなったし、俺をからかうこともなくなりました。そればかりか、俺の言うことを嫌がりもせずに、聞くようになったんですッ」
身を乗り出して、異常事態を語る。
カカシが寝室から出たことは喜ぶべきことだったが、カカシは人が変わったように大人しくなった。
イルカを見れば、嬉々として実行していたセクハラ行動は影を潜め、口を開けば憎まれ口を叩いていたのに、今ではすっかり聞き分けの良い子に変貌している。
始めこそ、しおらしく良い子なカカシに感動し放しだったが、二日も経てば気が落ち着かなくなり、今ではカカシの良い子振りに、胃が痛くなる有様だった。
正直な話、今のカカシは誰かが変化した別人だと言われたほうが納得できる。
青筋立てて語るイルカの訴えを聞き、綱手は小さく息を吐く。
「言っておくがね。今、お前が言っているカカシが、私の知っているカカシに近いよ。ガキみたいに浮かれて悪戯するような子じゃなかったからね。文句一つ言わずに、黙々と任務を遂行するような子だった」
「その分、口数も少なかったけどね」と続けた綱手に、眉根が寄る。
「要は、カカシは自分の殻に閉じこもったってことだろ。お前に今まで見せていたのが素のカカシで、今のカカシはよそ行き用だってことだ」
「…そんな」
表情を暗くさせたイルカを笑い、綱手はにやりと口の端をあげた。
「そう悲嘆するのは早い。サクモを亡くした後のカカシは、誰一人として人を寄せ付けようとしなかったからね。あの子が本当に閉じこもっているなら、あんたとは話もしないだろうよ。…そうだねぇ。大人しくなったのと同時に、他に何か変わったことがあるんじゃないのかい?」
「変わったこと、ですか…?」
綱手に聞かれ、そう言えばと思い当たる節があった。
態度が変わると同時に、イルカの視界によくカカシが入るようになった。前までは、イルカが接触を持とうとしなければ、下手すれば三日間顔を合わすことがなかったのに、最近ではカカシの顔を見ないということがない。
それは、カカシが任務外のときに、家にいることを意味していた。
気付いたことを伝えれば、綱手はしたり顔を作り、心持ち前屈みになる。
「カカシはお前に、聞いてもらいたいことでもあるんじゃないのかい?」
その言葉に動揺する。視線を逸らすイルカに、綱手は情けないとため息を吐いた。
「お前、気付いていただろ? カカシから逃げてどうすんだ。これはお前に任された重大な任務だってこと覚えてるかい?」
普通ならば叱責される場面だろうに、綱手はため息を吐くだけに止めている。
任務が特殊だということもあるが、イルカの気持ちを尊重してくれようとする綱手に感謝すると同時に、自分の力不足を申し訳なく感じた。
「…すいません。どう答えていいか、分からなくて……」
黙っているのも苦しく、胸の内にある思いを正直に告げた。
あの日泣いたカカシと向き合うのが恐かった。
カカシはサクモと一緒に死にたかったとイルカに言った。だが、イルカはそれを認める訳にいかない。しかし、カカシに一人で強く生きろとも言えなかった。
「俺、教師なのに、カカシの役に立ってやれないんです。どうやったら、カカシが生きることに希望を見出せるのか、答えを見せてやれない…」
悔しさが込み上げ、唇を噛みしめる。
長い教師生活で、イルカは子供たちと共に笑い、泣き、成長を見守った。里の掟の中で、子供の意志を尊重し、忍びとは何かを問いかけた。己の目指す忍びは何かと問い続けた。
躓くこともあったが、卒業していった生徒は誰もが真っすぐに育ち、木の葉の里の忍びとして恥ずかしくない忍びになっている。イルカの尊敬していたサクモのような忍びに。
それがイルカの誇りであり、教師としての自分の拠り所だった。
カカシはそのサクモから教えを受け、そして、サクモの死を目の当たりにし揺らいでしまった。
誇りにすべきサクモの行為は、忍びの取るべき行動ではないと非難され、里ぐるみで断罪された。
時代が悪かったと言える。
だが、カカシに時代が悪かったから我慢しろ。そのうちきっと良くなるから希望を持てと、安易なことは言えなかった。
俯き、イルカは押し黙る。そんなイルカを笑い飛ばすように、綱手は考え過ぎだと事も無げに言った。
悩むことではないと言っている綱手が意外だった。顔を上げたイルカに、綱手は母性を感じさせる表情を浮かべる。
「無理に答えなくていいのさ。お前はお前にできることをすればいい。頭で考えようとするから、おかしくなるんだ」
言われた言葉に戸惑う。カカシが今欲しているのは、進むべき道であり、明確な言葉であるはずだ。道に迷ったなら、誰かにしかと指し示してもらいたいと思うのが普通ではないのか。
意味が分からないと頼りない表情を浮かべるイルカに、馬鹿だねとしみじみ言葉を漏らす。心底思っている言い方に、少々傷ついた。
「何だい。しょぼくれた顔すんじゃないよ。苛めたくなっちまうだろ」
「綱手さまっ」と横から声が飛び込み、綱手は「冗談だよ」とすぐさまその声に返した。
何となく疎外感を感じて、黙っていれば、綱手は体を起こすなり机に肘をつき、イルカを覗きこんだ。
「お前、ナルトのこと、どう思ってんだ。あいつがお前の言うことを聞いたか? お前の言葉一つ一つを指針として、立派な忍びになれるよう真面目に行動したかい?」
突然出た名前に驚くと同時に、首を振る。
ナルトはイルカが叱りつけても、宥めても、勝手気ままに問題ごとばかり起こしていた。悪戯しては逃げるナルトを追いかけ捕まえて、きついお仕置きや罰を与えたが、一向に収まる気配は見せずに苦労した。
ナルトがアカデミーに通っていた時、イルカがナルトを追いかける風景は、里の日常の一コマと化していた。
あのときの苦労を思い出し、心持ち顔がやつれる。毎日毎日、よくも飽きずに手を変え品を変えて悪戯をしてくれたものだ。
ナルトの数々の悪戯を思い出し、暗くなっているイルカを見つけ、綱手は笑う。言葉に一体、何の意味があるんだと豪快に笑い飛ばした。
「それはナルトだからで、言葉が無意味だとは思えませんッ」
ナルトとカカシを一緒にしないで下さいと口に出せば、それだと指を差す。
水晶玉越しはいえ、ぐっと近付いた指先に体を引けば、綱手は腕を組んだ。
「お前、カカシはまだ七歳だぞ。いくらしっかりしても、まだまだガキだ。ナルトと同じだよ。そう考えたら、答えは出たようなもんだろ。お前のお得意な分野だと思うが、どうだ? 九尾という化け物を抱えたナルトを、あそこまで真っすぐに育て上げたのは、お前の影響力が大きいと私は思っているが?」
思わぬ言葉に目が見開く。声が出せずに視線を向けるイルカに、綱手は小さく笑った。
「お前のやり方でカカシと接してやれ。心配するな。カカシを傷つける真似は、お前にはできやしないよ。この私が保証してやる」
はっきりと断言してくれた綱手の言葉に、咄嗟に返事ができなかった。肩に張っていた力が抜けるのを感じる。それと同時に胸を満たしたのは、逃げ腰だった己を奮い起こさせる感情だった。
「――はい、ありがとうございます」
唇を引き締め、深く頭を垂れた。
言葉が欲しかったのは、どうやらイルカの方だったらしい。
「よっし。それじゃ、思う存分やってこい。またセクハラしてこないって泣きついてきたら、ただじゃおかないよ」
「惚気話はたくさんだ」と冗談を口にした綱手に笑みを返し、イルカは今日、カカシと向き合おうと覚悟を決めた。
「よっし。準備は万端。いつでも来い、だなッ」
浴室に立ち込める湯気と、なみなみと湯が溜められた浴槽を眺め、イルカは拳を握りしめる。
腹を割って話すならば風呂。これは外すことができないお約束だろう。
ナルトともよく銭湯へ行った。いつも悪戯で手が付けられないようなナルトだったが、銭湯に行った時は普段話せないことも話すことができ、風呂を上がった後は二人でコーヒー牛乳又はフルーツ牛乳を飲み、笑い合ったものだ。
一緒に風呂を入るうちに、だんだんと距離が近付いていったことを思い出し、懐かしくてつい笑みが零れ出た。
「これで、カカシとの仲も改善するに違いないな」
「誰と、誰の仲が悪いの?」
ひょいと横から声を掛けられ、体がびくついた。いつの間に帰ったのか、カカシはイルカの隣に立っている。
「お、おかえり。今日は早かったな」
平静を装いつつ、イルカは声を掛ける。
カカシが成長していく度に、気配を察することができなくなっている。同じ階級とはいえ、すでに実力差が出ていることに凹んでいれば、カカシは「ただいま」と呟き、含みのある視線を向けてきた。
「俺、イルカのこと好きだけど、イルカは違うの?」
ど真ん中を投げてくるカカシの言葉に一瞬詰まったが、根性で食らいつく。
言葉はキャッチボール。受け止めて投げ返してこそのコミュニケーションだ。
「違う訳ないだろ! 俺だってカカシのこと、大好きだぞッ」
勢い余ってぎゅっと手を握れば、一拍の沈黙の後、カカシの視線がついーと横へと移動した。素っ気ない態度に外したかと内心焦る。
ここは大人の貫録を見せるべきだったかと、悔やんだのも束の間。
「…手、汚れてるから離してもらっていい? イルカの手、汚れる…」
ぼそぼそと聞こえてきた言葉に、そういうことかとイルカは合点する。イルカを気遣うからこその素っ気ない態度に、安堵の息が零れ出た。
改めて見れば、確かにカカシは全身泥だらけだ。派手に汚れたなと見詰めていれば、カカシは口布を外しながら服を脱ぎ始める。
「先に風呂入るよ。部屋、汚しそうだから」
ついっと視線を脱衣所に向けるカカシを見ていれば、カカシは一度咳を払い、イルカを見詰める。何かを伝えたいらしいが、何を言いたいのか分からない。
だが、カカシが風呂に入るならば都合が良い。思い立ったら吉日と、イルカはその場でアンダ―を脱いだ。
「はっ?! ちょ、ちょっと何してんの?」
驚くカカシに、イルカはにかっと笑う。
「一緒に風呂入ろう! 男同士、裸の付き合いをしようじゃないかッ」
口を開いて、何故かカカシは固まった。中途半端に腕に引っかかっている服が窮屈そうで、裾に手をかけ脱がしてやる。小さい時、こうやって脱がしてやっていたなと感慨深く思っていると、カカシが突然叫んだ。
「ちょ、冗談じゃないってッッ! 俺は一人で風呂に入りたいのッッ」
服が首から抜けた途端、カカシは腕に服を絡ませたまま主張してくる。顔を真っ赤にして、噛みついてきたカカシの元気な姿に、イルカは自分の計画は間違っていなかったと確信した。
嬉しくなってはははと笑い、問答無用でカカシのズボンを下着ごと下ろした。
声のない悲鳴をあげるカカシがおかしい。泥だらけの服を隅っこに置いて、イルカも全裸になる。前を隠して、口をぱくぱくと開閉しているカカシに頭からお湯をぶっかけて、簡単に泥を流して湯船に放り込んでやる。イルカも掛け湯をして、後に続いて湯船に浸かった。
二人入ったことで、湯船から滝のように湯が流れ出た。それに合わせて湯気が立ち上り、浴室を白く染める。
「あー、二人で入ると格別なものがあるなぁ」
天井に渦巻く白い湯気を見上げ、語りかける。
向かい合わせのカカシに視線を向ければ、カカシは顔を真っ赤にして横を向いていた。
「何なのよ、一体…」
不機嫌に顔をむくれさせていたが、風呂に入るとすぐに肌が赤く染まるのは、昔と変わらないらしい。
「久しぶりに、カカシと一緒に風呂入りたかったんだよ。昔は毎日、一緒に入っていたしなー」
懐かしい気持ちでカカシの頭を撫でれば、それとなく体をずらすとイルカの手を避け、そのまま背を向ける。
「バッカじゃないの。いつまでもガキ扱いしないでよねッ。だいたい俺にあれほどやられてんのに、どうして一緒に入る気になるかなッ」
壁に向かって、カカシは文句を言う。
口喧嘩をしていた頃と同じ空気をまとうカカシに、顔がほころんだ。よっしと声を上げ、イルカはカカシの背後に近づくと、脇に腕を通して抱きつく。
「な、何なのよッッ! ちょ、ちょっとっ」
「何だよ、照れるなよー。ようし、毎日頑張っているお前にごほうびだ。今日は俺が背中流してやるよ」
「はぁ?! いいって、頼んでないってッ」
じたばたと暴れるカカシを持ち上げて、風呂から一緒に出て風呂椅子に座らせる。湯から出るなり、両手で前を隠し、カカシは固まった。七歳ともなれば、羞恥心が出てくるものなのだろうか。
ナルトは十二になっても平気で曝け出していたが、カカシは繊細だなぁと思いつつ、タオルに石鹸を擦りつけ泡立てる。
昔に比べて大きくなったが、まだ華奢な背中に泡立てたタオルを乗せて擦った。傷つけないように優しく、くすぐったくないように強く。
擦っている中、あの頃にはなかった細かな傷を見つけて、少し切なくなった。
「…カカシはえらいな。この年で里のために体を張れるってことは、中々できることじゃない」
労いも込めて背中を洗う。首筋から肩へ、揉み解すように力を入れれば、強張っていた体が徐々に解れてきた。
「別に…。そういうつもりじゃないよ」
いっちょ前に謙遜してみせるカカシに笑いが零れ出る。咎めるように、肩越しに睨まれたから、ごめんと笑ってイルカは語りかけた。
「なぁ、カカシ。頑張ることはいいことだけど、無理はすんなよ」
風呂場に響くのはイルカの声と、タオルが微かに擦れる音だけだ。時折、天井から落ちる水滴がタイルを打つ音を聞きながら、イルカは続ける。
「お前は頑張り屋だから、時々、無理して頑張ってるんじゃないかって、心配になるんだ」
カカシから反応はない。でも、確かに聞いてくれていると感じたから、イルカは一番伝えたいことを口に乗せる。
「カカシのこと心配している奴もいるんだってこと、忘れんなよ」
お前は一人じゃないんだからと、カカシの後頭部へ軽く額を寄せた。
びくりと震えた体に、驚かせたかなと顔を起こせば、カカシは消え入りそうな声で一つ頷いた。
「……うん」
震える声に、こっちまで引き摺られそうになる。
ツンと鼻を貫く痛みを誤魔化したくもあり、カカシを泣かせたい訳でもないから、空気を一新させるように、湯桶いっぱいに汲んだ湯を、カカシの頭からかけてやった。
勢いよく落ちた湯はカカシの予想外だったようで、素っ頓狂な声が風呂場に響く。
「…っ、ちょ、イルカ!」
ぺったりとひしゃげた髪を笑い、今度は俺とばかりに、振り返ったカカシへタオルを握らせた。
「今度はお前が俺の背を流してくれよ。毎日、一生懸命、家事をしている俺を労ってくれ」
にしゃりと笑えば、目を見開いた後、カカシは皮肉な笑みを見せた。
「――よく言うよ。イルカ、一体何回食事作り忘れたと思ってんの? 自分で言ってりゃ、世話ないね」
正面から憎まれ口を叩いてきたカカシに、声をあげて笑ってしまう。やっぱりカカシはこうでなくては、調子が出ない。
けたけたと腹を抱えて笑い出したイルカに、カカシは笑いすぎと文句を言ってくる。心なし前より顔が赤い気がして、カカシも大人しかった自分に気付いていたのかなと眦に浮かんだ涙を拭った。
「もうッ、あんまり笑ってると背中洗ってやんないよッッ」
機嫌を損ね始めたのを知り、イルカは慌てて口を閉じる。せっかくカカシが背中を流してくれるこの機会を逃す手はない。
「ごめんごめん。カカシー、そんなこと言わず背中流してくれよ〜」
背を向けたカカシに慌てて懇願すれば、カカシはしばらく押し黙っていたが、ため息を吐くと振り返ってくれた。
「じゃ、前、向いて」
カカシの言葉に一つ返事で、前を向く。
今のカカシに思い詰めた、切迫した気配はない。悲しみはまだ癒えないが、ゆっくりでいいから立ち直れたらと思った。
ちょっと強めで頼むと希望を口にする。イルカは力を入れて思いっきり擦られる方が好きだ。
前にナルトが背中を洗ってくれた時、力加減が分からなかったのか、撫でるように優しく洗われて、大笑いした。
くすぐったくてひぃひぃ笑うイルカに、ナルトはたいそうむくれていた。
懐かしい思い出に忍び笑いを漏らした時、カカシの息を飲む声が聞こえた。
「……何よ、コレ」
震える声を聞きつけて振り返れば、血の気が失せたカカシに出くわした。
豹変したカカシの様子に気分でも悪くなったのかと慌てた。どうしたと声を掛けるより早く、カカシは叫んだ。
「どうしたのよ、コレ! 一体何があったのよっ」
一体何を言っているか分からない。口ごもるイルカに痺れを切らしたのか、焦れたようにカカシは背に触れてきた。
背中の中心部分。大きく横切ったそれは、ナルトを庇ったときについた傷だ。
「あー、それか。でかいだろ。まぁ、名誉の負傷みたいなもんだ」
俺も少しは忍びらしいだろうと笑えば、怒鳴られた。
「笑いごとじゃないでショッ!! あんた、馬鹿じゃないのッ。背中にどうして傷なんて受ける訳? こんなところに受ける傷なんて、逃げる時か。あり得ないけど、誰かを――」
言葉が途切れた。カカシは呻くように口を閉じる。
青灰色の瞳が揺らいでいる。背中に押し当てられた手の平が、微かに震え、拳の形に握りしめられた。
「カカシ?」
唇を噛みしめるカカシが不思議で、呼びかけた。カカシは唇を震わせ、顔を歪めている。
「――誰かを、庇った傷なの?」
答えてと、泣きそうな顔で迫られ、頷いた。教え子を守るために受けた傷だと正直に告げた。
直後に、ひっと小さく息を飲む声がした。口元を覆い、前屈みにしゃがみこんだカカシに鼓動が跳ねる。
「カカシ!」
顔を覗きこめば、カカシは顔を白くさせ、えづいていた。呼吸が荒い。
がたがたと震える肩は異様で、カカシの身に何かが起きたのだと思った。
「待ってろ、今、綱手さまを呼ぶからッ」
水晶玉を取りに行こうと、身を翻す。戸に手を掛けて、一歩踏み出したところで背中に飛び付かれた。
「待ってッッ」
小刻みに震えながら、カカシの腕が腹を締めつけてくる。しがみつく指先が冷たい。
カカシの手を握りしめ、はやる気持ちを押さえ、言い聞かせた。
「カカシ、不安になるのは分かる。でもな、綱手さまに見てもらったら治るから。大丈夫だから、この手を離せ。な?」
黙ったまま、しがみついた力を強くするカカシに、つい咎める声が出てしまう。
「カカシ!」
「俺のことが心配なら、ここにいてっ。誰にも会わないで、ここにいてよッッ」
巻きついた腕が腹を圧迫する。瞬間痛みを感じて呻けば、力は弱まったが、拘束は解かれなかった。
不安定なカカシを刺激するのも心配で、しばらくカカシの好きにさせた。
浴室に湯気が充満しているとはいえ、肌に張り付く水滴は冷め、少し肌寒いくらいだった。だが、背中にひっついたカカシの体が徐々に温もりを取り戻しているのを感じ、イルカはひとまず詰めていた息を吐いた。
「……カカシ。どこにも行かないから、顔を見せてくれないか?」
全身で呼吸を繰り返していたカカシの息が治まったのを機に、穏やかな声で語りかけた。
締め付けている腕を撫でれば、カカシの拘束がゆっくりと外れる。
急に振り向かないように、ゆっくりと動くことを心がけて、体を反転する。俯くカカシの肩に手を置いて、しゃがみこんだ。
「カカシ、顔、見せてくれないか?」
俯いた頬に手を当て、お願いしてみた。カカシは一つ息を吸って吐くと、ゆっくりと顔を上げる。
上げられた顔を見た瞬間、胸が衝かれる様に痛んだ。
イルカを見つめる瞳は怯え、何かに耐えるような仕草で眉を潜めている。
何がカカシを怯えさせているのか分からず、その不安から解放したくて、カカシを抱き寄せた。
「カカシ、どうしたんだ? 何を恐がってるんだ?」
濡れた髪を撫で、華奢な肩を巻き込み、しっかりと抱きしめる。弾かれるようにカカシはイルカの首に腕を回し、押し殺した声で言った。
「…俺を見てよ。俺だけ見て、俺のことだけ考えて、イルカの頭の中全部、俺のことでいっぱいにして」
可愛い主張だと思った。親に関心を強請る、子供によくある言動だと思った。
「見てるよ。カカシだけ見てる。俺、毎日、カカシのことばっかり考えてるんだぞ。気付かなかったのか?」
今までどこに目をつけてんだと笑ったイルカに、カカシは呟いた。
「……ない」
「え?」
「――足りない。そんなんじゃ、全然足りない。……俺は、イルカの全てが欲しいんだ。庇護が欲しいんじゃない。俺は、イルカにまつわる全てが欲しい」
飢えを感じさせる声に、鼓動が跳ねた。
驚いて身を離せば、恐いほど真剣な光を浮かべたカカシの瞳とぶつかった。
変なこと言うなよと、茶化そうとして失敗する。肩に乗せていた手を取られ、カカシは一度も目を逸らさずに言い切った。
「本気だよ。そのためにも、上忍になる」
細く華奢な指が、指の間に滑り込む。誓いを立てるように、イルカの指と絡ませ握りしめてくる。
向かい合わせでお互いを見詰める。
大人びた表情で見詰めてくるカカシに、不安を覚えた。イルカの知っているカカシでないような気がして、不意に恐ろしさを感じる。
「…カカシ?」
自分の感情を否定したくて名を呼んだ。いつものように他愛無い会話をしたくて、口喧嘩をしたくて、誘うように呼んだが、カカシは答えない。
痛いほど真っすぐに見詰め、イルカの瞳を覗きこむ。全てが欲しいと言った言葉を証明するように、奥底まで入ろうとするカカシに焦りを感じた。
逃れるために手を引けば、深く手を握られた。
「――ダメ。どこにも行かせない」
痛みを感じるほど握られ、顔が歪む。歪んだイルカの顔を見詰め、カカシはうっそりと笑い、歌うように告げた。
「俺は上忍になるよ。そして、ずっとイルカをここに置く。外には絶対に出さない。誰にも文句が言えないよう、俺は強くなる。誰よりも強くなってやるんだ」
盲信的な眼差しに、わんと頭が揺れた。酔ったような眼差しに晒され、じっとりと嫌な汗が浮く。
術の影響だと、直感した。綱手の言葉をなぞるように思い出し、イルカは泣きそうになる。
刷り込みを利用した人心術と、綱手は言った。
身内の者として認識しているイルカへの執着が、歪に作用したと想像した。今のカカシは術中にはまり、正常な判断ができなくなっているのだ。
「カカシ、どうしてだ? なんで急に、そんなこと」
問わずにはいられなかった。突然、イルカへ固執し始めた切っ掛けを知りたくて、口に出した。
強くなるとうわ言のように繰り返していたカカシの口が閉じる。
強かった眼差しは急に揺らぎ、瞳に膜が張った。
「――だって、そうしないと、イルカ死んじゃうでしょ? また俺を置いていくじゃない」
当たり前のように言った言葉を聞いて、奥歯を噛みしめる。悲しみと恐れが綯い交ぜになった言葉に、胸が掻き毟られた。
そんなことはないとイルカは叫ぶ。カカシを置いて行くようなことは絶対にしないと言った。けれど、カカシは歪んだ顔で笑う。「嘘つき」と笑った。
「イルカは他人を庇う。その身を犠牲にして、里のどうしようもない奴らを助けようとする。――ねぇ、イルカ。俺があんたのその傷を見て、どれだけ絶望したか分かる? あんたも父さんと同じなんだよ」
絡み合った手に、カカシの手が乗った。胸に引き寄せて、いいやと、首を振り、カカシは濡れた声で続ける。
「父さんと比べ物にならないくらい弱い分、最悪だ。弱い癖に他人を助けようとする。忍びは任務遂行が第一だ。あんたが怪我したって、誰も助けてはくれないよ。忍びの命は己の命を含めても二の次だ。他人に気に掛ける方が間違っているんだ」
「カカシ、それは」
違うと口を挟もうとして、カカシは大きく頭を振った。
「違う訳ないじゃない!! 間違っているのはイルカの方だ。忍びは道具でしかない。任務を忠実に遂行する道具であればいい。その道から外れるから父さんはああなった。父さんの末路を見れば分かるじゃない」
追い詰められた眼差しがイルカを射る。
カカシが一人で必死に考え、行きついた結論が切なかった。木の葉の里の忍びとして、父の死を受け入れるためには、父が教えてくれた忍び像を捨てるしか方法がなかったのか。
だが、それでは駄目だと、カカシの手に手の平を重ねた。これは決して譲れないことだと、カカシの手を強く握りしめる。
「サクモ上忍のことは痛ましく思う。カカシが信じられなくなる気持ちも無理ないと思う。でも、忍びは決して道具なんかじゃない。俺たちは忍びである前に人だ。どんなに辛い任務も仲間いるから遂行できる。他人の血に塗れようとも、信じ合える仲間がいるから立っていられるんだ。カカシ、俺たちは決して一人じゃない。木の葉の者はみな、家族なんだよ。家族を守るために、俺たちは戦っているんだ」
虚を突かれたように、カカシの顔が青ざめる。瞳を開き、揺らぎを大きくさせてカカシは吐息を吐いた。
「――ほら、ね。やっぱりイルカは父さんと同じだ。父さんも言っていた。『里の者は家族だ。家族を助けるために、理由は必要ない』って、笑いながらいつも俺に言ってたッッ」
握っていた手を振り払われる。瞳に浮かぶ光が強くなる。
「カカシ!」
逆効果だったかと臍を噛んだ。
忍びとしてのサクモの在り方に憧れていたが、それは己と同じ信念を持っているためだったとイルカは気付けなかった。
カカシが睨む。強固な意志を宿らせて、カカシは声高に叫ぶ。
「絶対にイルカを外に出したりしないッ。家族を裏切るような里の糞虫どものために、イルカを犠牲にさせてたまるかッ」
そんなことは無理だと言う。上忍にそんな権限はないと、冷静になってもらいたくて言った言葉に、カカシは肩を震わせた。
「なら、火影になってみせる。イルカを守るためなら、何でもなってやるッ。こんな思い、二度とごめんだ。奴らが危害を加えるなら、俺だって容赦はしない。力も、発言力も全て手に入れてやるッ。奴らを反対に利用してやるっ」
忍びが道具なら、俺は使う立場になってみせると、カカシは言い切った。
「カカシッ」
我慢できずに、手をあげた。高い音が鳴って、カカシの顔が横に振り切る。
「――馬鹿野郎ッ」
堪え切れずに涙が零れる。人を思うことを知っているカカシが、どんな思いで口に出したのかを考えると、辛くて仕方なかった。
徐々に強い赤味が差してくる頬を押さえ、カカシが放心した顔でイルカに向き直った。その肩を掴み、イルカは言う。思い出せと、その肩を揺さぶった。
「里の者が、皆、カカシが思っているような奴らじゃないってことは、お前も分かってるだろ? 確かにカカシが言うような奴らもいる。でも、それは一部分だ。一部分だけ見て、切り捨てようとするなッ。お前の周りにもきっといたはずだ。サクモ上忍の最期に心を傷めた者だっているんだよッ。諦めるな、カカシ。里の者を信じることを諦めるなッ」
カカシの顔が歪む。それを見て大丈夫と自分に言い聞かせる。カカシはまだ全てを捨て切った訳じゃない、まだ引き返せると鼓舞したが、
「無理なんだよッ! もう間違う訳にはいかないんだッ」
甲高く叫び、カカシは頭を抱えた。
「父さんがおかしくなった時、見舞いに来てくれた奴もいた。大丈夫かって心配してくれる奴もいたさッ。でも、見舞いと称して嘲笑いに来た奴もいたんだ……! 俺にはそれが見抜けなかったッ。そいつらのせいで父さんは……。俺は、父さんを守ることができなかったんだッッ」
悲痛な声に、掛ける言葉を失う。カカシはイルカを見詰め、小さく息を吐いた。
「イルカの方が大切なんだ。いるかもしれない信用できる者たちより、イルカの方がずっと大切だ。あんたを失くしたら、俺はもう生きている意味を失う」
揺れる瞳で淡々と語られた言葉は、胸を抉った。
ただ見詰めることしかできなくなったイルカを見詰め、「でも」とカカシは呟く。
泣きだしそうな顔で、カカシは苦痛を吐くように、囁いた。
「あんたは、違うんでショ? あんたは俺と同じようには思ってくれない。イルカだけだって言う俺の手を振り切って、あんたは背を向けるんだ。誰かをその胸に抱きとめて、その背を晒して……」
「だから、決めたんだ」と、カカシの決意を止める言葉は、もうイルカには残っていなかった。
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