『おかえり』6
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玄関の戸を開け放ち、廊下に腰を下ろして、外の風景を見据える。
雑木林が生い茂る中、うつ伏せに倒れているカカシの姿が見える。
『――俺の力、見せつけてくる』
見送るイルカへ、カカシは背を向けたままそう言い残した。
今朝、起きると、カカシは十二歳となっていた。今日は上忍となって初めての任務だという。
朝食もそこそこに、装備の点検を繰り返すカカシは並々なら気迫を発していた。
厳しい顔に、張り詰めた緊張感。眼差しは鋭く、全身を覆う空気は尖っている。
幼少時の面影は残っているのに、空気が違うだけで別人のように見えた。寂しさを覚えると同時に、イルカが介入できなかった時間の中で、どれだけの辛苦を味わったのかが想像できて、遣る瀬無くなった。
「……本当に、カカシと一緒に過ごせたら良かったのに」
望んでも無理な願いが口から零れ出て、苦笑した。
小さいカカシと共に暮らし、その苦悩に寄り添えたらと、半ば以上本気で思う自分にため息が零れ出る。
昨夜の風呂場での出来事を綱手に報告すれば、綱手は険しい顔になった。そして、言った。
『後々、消される記憶だということを忘れるな』
だから、距離を保て。
だから、思う存分にやれ。
相反する言葉を想像し、イルカは目を閉じる。綱手はそれ以上何も言わなかったが、イルカ自身はどちらの言葉を望んでいたのだろうか。
一つ息を吐き、思考が散漫している己の頬を叩く。
今回の任務は、カカシに影響を及ぼすであろう過去の一つだ。
早朝にカカシが玄関を出てから、時刻は昼を過ぎようとしている。その間、カカシに目立った動きはないが、忍びの任務は一度動き始めれば、瞬く間に事が進んでいく。気を抜く訳にはいかない。
動かないカカシを見据える。
風にそよがれ、カカシの銀色の髪が揺れる。木漏れ日に包まれ、ぴくりとも動かずに眠っている姿は平穏そのものなのに、カカシは今、戦いの只中にいる。
苦い思いが舌をつく。代わってやれればいいのにと、拳を握りしめた時、カカシの右腕が大きく動いた。足掻くように足が動き、突っ張っては弛緩する。
駆けつけたい思いを押し殺し、祈るように額へ組み合わせた拳を押し付けた。
大丈夫と言い聞かせる。過去に傷ついた傷が、今現在もカカシの体を傷つけるが、それは命に関わる怪我にはならないと、綱手は断言した。過去の傷よりも浅い傷になると、綱手ははっきりと言った。
傷つくとはいえ命まで取らないと、己に言い聞かせる。
「っっぁぁぁああああッッ」
甲高い声が響き渡った。
瞬時に、腰を浮かせる。我慢できずに、外へと飛び出た。
駆け寄ったイルカの目に、カカシが左目を押さえ、寝がえりを打つ姿が見える。
左目を押さえた手の下から、赤い血が流れる。咄嗟に触れようとして、寸前で指先を握りしめた。
カカシを思うなら触れてはならない。カカシは今、過去の体験を繰り返している。当時、その場にいなかったイルカが関わってはならない。
「…カカシ」
カカシの側に跪き、小さく名を呼ぶ。触れようとした手を地面に下ろし、見守った。
カカシが左目を押さえていた手を下ろす。そこには今までになかった痛々しい傷が刻まれていた。
左目を縦に抉る刃物傷。
時折苦悶の表情を浮かべるカカシの額には、汗がびっしりと噴き出ていた。
「…ビト!!」
歯が軋む音が聞こえる。抗うように一、二度首を振り、手足が突っ張る。大きく呼吸を繰り返し、右手が拳に握り締められた。ぶれるように震える手は激情を伝えていた。
不意に、カカシの手の強張りが抜ける。動から静へ。今まで荒々しかった呼吸さえ静かになる。
さわさわと葉を揺らし、風が通り抜けた。
眠るカカシを優しく撫でるように触れた後、見守るイルカの目の前で、カカシは涙を零す。
傷ついた左目から、音もなく。
眦から頬を伝い、途切れることなく涙を流した。
その後、カカシの体は完全に動きを止めた。
強張っていた手足を弛緩させ、全身の力を抜いて、地面に横たわる。大きく胸が動き、呼吸をする以外の目立った動きは見せなかった。
日が没し、虫の音が大きく鳴き始めた頃、カカシは音もなく目を開けた。覗きこむイルカを見つけ、カカシは一瞬驚いた顔をしたが、柔らかく微笑んだ。
「……イルカ」
ゆっくりと伸ばされた手を取り、イルカは「おかえり」と声を掛ける。
その言葉にカカシは「ここ、家じゃないよ」と軽口を叩きながらも、ただいまと小さく返した。
出て行った時よりも、険が取れ、柔らかい気配を纏うカカシに、何かを越えた事を知る。
ぎこちなく起き上がろうとするカカシを助け起こす。背中に腕を回したイルカの体に擦り寄り、カカシはため息と共に参ったと笑った。
「イルカの話がいちいち的に当たり過ぎて、泣けてくるよ」
カカシの体を抱きとめながら、イルカは黙って聞く。カカシは息を吐いて、「知りたくなかったかも」と弱弱しい声を出した。
「知ったら、イルカのことだけ考えられない。イルカのことだけ考えて、思って、守ることができなくなるじゃない」
見上げるカカシの双眸は、色違いに変わっている。
本来の青灰の瞳と、模様が浮かんだ赤い瞳。
写輪眼カカシの誕生だ。
「……それでいいんだ、カカシ。俺はその気持ちだけで、十分なんだよ」
腕に伝わる重みが、やけに重く感じて、少し感傷的になる。
カカシは目を細めて、笑う。「それ言われると立場ない」と、小さく笑った。
息を吸って、カカシはぽつりぽつりと話し出した。スリーマンセルの仲間のこと、今日の任務のこと、代わりに得た目のこと。
「オビトの奴、俺に誕生日プレゼントだって言って、この目をくれたんだ。役に立たないものじゃないから受け取れって、この目を俺にくれた」
遠い目をして、カカシは夜空を仰ぐ。
満天の星空の下、虫の音を二人で聞きながら、しばらく身動きせずにいた。
二人で密着していると、少々暑いくらいだった。けれど、どちらもそのことについては触れず、汗ばむ肌を合わせて、時折吹き抜ける風の涼しさを話した。
ぼんやりと夜空を見ていると、大きな光が空を横切った。
流れ星だと、見たかと、視線を落として、静かに泣いているカカシに気付いた。これだけ間近にいながら、イルカに気取られず泣くカカシに、変な特技が出来たなと苦笑した。大声で泣き喚いていたカカシが今では懐かしい。
何も言わずに涙を拭ってやる。親指で目の下を拭い、頬に零れた雫は手の平で掬う。
カカシは一つしゃくりあげ、静かに息を吐いた後、ぽつりと言った。
「…オビトにとって、俺は家族だったのかな」
問いかける態だったが、もう答えを知っている口ぶりだった。
何も言わずに、涙を拭うことに専念していれば、カカシは独り言のように呟いた。
「あのとき、死んでもいいと思ったんだ。オビトが助けてくれたこの命で、オビトが誰よりも助けたいと思ったリンの命を守るために、死んでもいいと思った」
イルカが他人を庇うことは今でも許せない。でも、その気持ちは分かった気がすると、カカシは結ぶ。
サクモの教えを受け継ごうと、変わり始めたカカシを誇らしく思う。だが、カカシの言葉は痛かった。理由はどうあれ、カカシが一瞬でも死んでもいいと思うことがイルカには辛かった。だから、イルカは息を吸う。
「…カカシ、一つ言わせてくれ」
見上げたカカシと視線を合わせた。カカシが術に縛られているなら、このイルカの一言にこそ縛られて欲しいと念じる。
「生きろ。何があっても生き残れ。死んでもいいなんて絶対思うな」
厳しい顔で言い切る。目を見開くカカシの瞳を見詰め、忘れるなと言葉を送る。
「俺は、お前がここに帰ってくれたことが嬉しい。命を掛けて、お前を守ってくれた子に、感謝さえしてる。……言っただろ、カカシ。お前を心配している奴がいるんだって。お前の帰りを待っている奴がここにいるんだって」
カカシの顔が歪む。瞳に広がる新しい雫を見詰め、イルカは声を振り絞った。
「――お前、俺を置いて行く気か?」
腹から出したと言うのに、情けなくも最後は震えてしまった。喪失の痛みは誰もが痛い。
もしもを考えた瞬間、震え続ける指先を握りしめ、イルカは願うように見詰める。
それに対して、カカシは小さく首を振った。唇を噛みしめ、イルカの眼差しを真正面から受け止めて、しっかりと首を振ってくれたカカシを認め、イルカは笑った。
「誕生日おめでとう、カカシ。プレゼントは用意し忘れたから、また日を改めて渡すよ。わりぃな」
ごちそうも作って、ケーキも作るから楽しみにしとけと言ったのに、カカシは小さく首を振り続けた。
最後には「イルカがいるだけでいい」と、顔を胸に押し付けて言った。
カカシの欲のなさに、笑いが零れ出た。
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カカシは落ち着いている。
時折左目を押さえ、痛みを感じているようだが、精神的に安定していた。
カカシが十二の時、第三次忍界大戦の只中だった。大戦はその翌年に終結したが、木の葉の忍びの命は数多く失われた。
大戦で疲弊した木の葉は、新たに四代目火影を立て、新しく生まれ変わろうとした矢先だった。
災厄がやってきた。
「イルカはここにいてッ」
叫び、玄関を出たカカシ。
険しい顔で、余裕すらない様子で雑木林を駆け抜けていったカカシに、ついにその時が来たのだと知る。
九尾が残した傷跡は、今もなおイルカの心を苦しめる。
心配になって思わずカカシの後を追ったイルカに、カカシは走りながら叫んだ。
「イルカは家にいてッ。絶対、外に出ないでっ」
懇願に近いその声に足が止まる。イルカが動きを止めたことを見て、カカシは柔らかく笑った。
足を止めれば、カカシの姿はあっという間に小さくなる。追いかけることもできたが止めた。
イルカにはとうに過去の出来事で、追いかけてもカカシには届きそうにないから、カカシの望み通り、家にいた。
綱手に九尾の襲来を報告した後、イルカは玄関先でカカシを待った。夜が来て、朝が来て、また夜が来て。
食事を取る気にもなれず、夜もあまり眠れず、玄関先に蹲って、カカシの帰りを待つ。
膝を抱えて、戸を見詰める自分に既視感を覚えた。
あの日もそうだった。今と違って、周りにはイルカと同じような子供がたくさんいたが、誰もが声を潜め、何かに怯え、ずっと誰かを待っていた。
不安で潰れそうになりながら、大丈夫だと、必ず帰ってくると、何度言い聞かせただろう。
結局、己に言い聞かせた言葉は、全て叶わなかったけど。
だけど、カカシは大丈夫。カカシは生きている。九尾の襲撃でも生き残った。だから、大丈夫。必ず帰ってくる。イルカがここで待っていることは無駄にはならない。カカシは帰ってくる、カカシは帰ってくる。
「…ルカ、イルカ」
肩を揺さぶられて、目を開けた。しばし眠っていたらしい。
顔を見たくて、跳ね起きたイルカの目にカカシの顔が映った。自分の前にカカシがいることに安堵を覚える。
安堵のあまり脱力しそうになった。そのとき、不意に、濃い金気の臭いを捕えた。
「……カカシ?」
イルカを見下ろすカカシの顔には疲労が濃く出ている。額にびっしりと汗を掻き、片膝をついてその上に右手を乗せている。左手は垂らしたまま、ぴくりとも動いていなかった。
動かない左手に視線を這わせて、息を飲む。真っすぐに伸びた腕から指先。その指先から床に血が絶えず流れていた。
「カカシ!!」
悲鳴が付いて出た。触れようとして、カカシの顔が歪んだのを見てとり、近付く気配だけでも痛いのだと知る。
「触るぞ」
宣言して、カカシのアンダーを切り裂く。左肩を大きく抉る傷は骨に到達するかというほど深い。傷の周囲は焼かれ、細かい裂傷はなく、内部を一線するようにつけられた傷は、九尾の特徴だ。
蘇る記憶に奥歯を噛みしめ、チャクラを手の平に集める。
淡く光る手の平をかざし、患部を圧迫し止血する。それと同時に、抉られた傷の細胞にチャクラを注ぎ込み、自然治癒力を増す。
イルカができるのはそこまでだ。綱手やシズネのような高等医療忍術が使える者ならば、完治は無理でも、傷を塞ぐことができるのに。
医療忍術の初歩しか扱えない己の才を、このときほど悔しく思うことはなかった。
せめてと、イルカが出せる全てのチャクラをカカシの治癒力へと変換していれば、腕に手がかかった。
「ありがと。もう行かなくちゃ」
「え?」
立ち上がるカカシに呆けた声が出る。バックパックから包帯を取り出し、簡単に固定すると、カカシは笑った。
「どうしてもイルカのことが心配で抜けて来たんだ。みんな、まだ戦っているから、俺も行かなくちゃ」
これから戦いに行く者とは思えない顔で、カカシは笑う。
「馬鹿言うなッ。お前の傷は重傷だ。ここで休んでいろ!!」
無事な方の手首を握りしめ、引き止めた。
誇張表現は全くない。カカシの傷は重傷だ。簡単に止血したとはいえ、ここに来るまで夥しい出血をしたことは想像に難くなかった。
巻き付けた包帯にうっすらと血が滲むのを認め、イルカは絶対行かせないと手首を握る指に力を込める。
だというのに、平素より青白い顔をしたカカシは、嬉しそうに笑った。
「イルカが引き止めてくれるのって、何か新鮮」
冗談言っている場合かと怒鳴り付けようとして、カカシが「あのね」と口を開いた。
「イルカも、父さんも言ってたでショ。木の葉の里の者は皆、家族だって。……俺、家族を見捨てるような奴にはなりたくないんだ」
怒鳴りつけようと溜めた息が抜ける。カカシは傷ついた左手をぎこちなく動かし、引き止めるイルカの手を軽く叩いた。
「ねぇ、イルカ。俺、後悔したくないんだ」
困ったように眉根寄せるカカシに、奥歯を噛みしめる。そんなことを言われたら、引き止めようがないではないか。
促されるまま手を離そうとして、もう一度掴み直す。何かを言われる前に口を開いた。
「待ってるから、必ず帰ってこい」
カカシから反応はなかった。
何を言われたか分からないような顔をするから、イルカはもう一度言う。
「飯作って待ってるから、灯りつけて、寝床整えて待ってるから。絶対に帰って来い、いいな!」
言い切った後、手を離す。離れていく手を取りたい衝動を押さえながら、カカシの言葉を待った。
「――うん。もちろん」
ふわりとカカシが笑う。花が綻ぶように柔らかい笑みは、悲壮感の欠片も見せなかった。
生きる意志を感じさせるその笑みに、イルカは泣き出しそうになる。
「行ってきます!」
翻り、駆けていく後姿に声を掛ける。行って来いと、無事に戻って来いと思いを込めて叫んだ。
じわりと浮き出た涙を袖で拭った。あの悪夢の中でも、カカシは笑い、人を気遣う心を忘れていない。
その強さと優しさを目の当たりにして、胸が震えた。それと同時に、この任務の完遂を誓う。強く優しいあの人を失わないために、力は惜しまないと再度心に決める。
カカシに言ったように、飯を作って、風呂の準備をして、温かい寝床を用意しよう。することはたくさんある。いつまでもあの悪夢に引きずられている場合ではない。
パンと両頬を叩いて、気合いを入れる。だが、その前に。
玄関に背を向け、イルカは迷いなくある場所を目指す。イルカの寝室に置いてある水晶玉。
綱手に聞かねばならないことがある。
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子カカシくん、上向いてまいりました!!
そして、捏造が多くてすいません……。