『おかえり』7







「……お前に、全て話そう」
カカシが受ける傷について追及したイルカへ、綱手はそう切り出した。
 綱手は過去に受けた傷よりも軽くなると言っていたが、実際は過去についた傷と同じものを受けるのではないか。
 九尾の傷は特徴のあるものだ。狐火で覆われた体に触れるだけで焼かれ、鋭い牙や爪は人の体をいとも簡単に切断した。
カカシの傷は、過去に見た九尾の傷痕そのものだった。



「――どうして、今まで黙っていたのですか!?」
 我慢できず非難する言葉が突いて出た。カカシの身を案じるならば、一番近くにいるイルカへ全て話してこそ、万全の態勢が取れるのではないか。
 今までカカシの傷が軽かったため、イルカでも対処できたが、今後、九尾のときのような重傷を負った場合、イルカにはどうすることもできない。
「綱手さまは、カカシがどうなってもいいとお考えなのですかッ」
 感情が荒ぶるままぶつければ、綱手の横からシズネが飛び出してきた。
「イルカさん、違うんです! 綱手さまはきちんとカカシさんのことを考えています。言わなかったのは、真実を知ってイルカさんが動揺することを避けたかったから。イルカさんの不安がカカシさんに影響するのを恐れたんです。それに何より、イルカさんのことを思ってのこともあるんです」
 「シズネ」と咎める声をあげた綱手に、シズネは首を振る。
「いいえ、黙りませんッ。今回の任務は上層部とも深く絡んでいます。全てを話せば失敗した際、イルカさんへの追及を回避できなくなる。綱手さまは、イルカさんの身を案じて…!!」
「シズネ」
 静かに名を呼ばれ、シズネの口が閉じる。悔しそうに唇を噛みしめながら身を引き、頭を下げた。
「……差し出がましいことをしました。申し訳ありません」
 脇に控えるシズネの肩を軽く叩き、綱手はイルカに向き直る。
「今となっては全て言い訳になるが、お前に余計な心配をかけたのは事実だ。すまなかった」
 真正面から頭を下げられ、血が上っていた頭が瞬時に冷えた。
 八つ当たりだ。
何もできない自分への怒りを、綱手に向けた。



「……申し訳、ありません。失言でした…」
 頭を下げた。綱手の小さな苦笑の声を聞きつけ、頭を上げれば、複雑な顔をしていた。
「お前が謝らなくてもいいことだ。こちらがしっかり対処できないのが問題なんだ。……何度も言うが、お前はよくやっている」
 微笑む綱手に、頭が下がる思いだった。火影という存在は、どうして、こうも人の心を軽くすることができるのか。
 己の未熟さに、心の中で詫びた。
「怪我の対処だが、送った物資の中に封がついた箱がある。中には私のチャクラが封じられた札を置いた。緊急用に用意したものだが、それさえあれば大抵の怪我は治るはずだ。少なくなり次第、連絡しろ。すぐ送らせる」
「はい」
 頷くイルカを認め、綱手は本題に入ろうと口を開く。
「あれから巻物の解読が進んでね。サクモの意図までは分からないが、あいつが加えた術式もようやく分かった」
 ぴくりと肩が動く。
サクモの加えた術式。
 一言一句聞き逃さぬように集中していれば、綱手は何処か苦しげに顔を歪めた。
「対象者の幻術耐性の無効化、並びに左脳の抑制だ」
 終わりの言葉がよく分からずに瞬きを繰り返せば、綱手は見越したように話を続けた。
「左脳が何を司っているか、分かるか?」
「……確か、思考や論理を司っていると」
 聞き齧ったことのある記憶を呼び起こせば、綱手はそうだと頷く。
「サクモは左脳、俗に言語脳と呼ばれているものへ抑制をかけた。つまり、思考能力を低下させたってことだ。その分、動物的ともいえる、五感を司る右脳の働きを促進させている」
 綱手の言葉に動悸が激しくなる。
こちらを真っすぐに見詰める視線はぶれない。まさかと口の中で呟けば、綱手は小さく息を吐いて肯定した。
「サクモが付け加えた術式は、阿尺の術を高め、対象者に現実と信じこませるためのものだ。――今、カカシに掛かっている阿尺の術は、死に直結する。カカシが死んだと思った瞬間、それはカカシの現実となる」
 嫌な予感は当たっていたと唇を噛んだ。
 阿尺の術は、過去を付随した人心術だと言っていた。だが、サクモが本当に利用したかったのは、人心術ではなく、対象者にもう一度過去を体験させることにあったのだ。
 厳しいと思った。
 イルカでさえ、死んだと思った瞬間は過去に幾度もあった。だが、幸運に導かれ難を逃れたり、瀕死の傷を負った時も、体が生にしがみついてくれ、今日まで生き残ることができた。
 現実の時間軸ではないが故に、主観の過去が全てを左右する。死を思った瞬間、命を絶たれる術。
 使えない人心術から、過去の体験から死を導き出す術へと昇華させたサクモの意図が分からない。
 今さらながら、カカシに掛った術を憎く思っていれば、綱手がもう一つと呟いた。



「もう一つ分かったことがある。……サクモはその巻物を、カカシに渡すため残した」
 聞き返そうとして失敗した。
 息を吸ったまま言葉は出てこず、綱手を見詰めることしかできない。
険しい表情を見せたまま、綱手は事が分かった経緯を話し出す。
「この巻物を保持していた大名とサクモの関係を調べてみた。すると古い記録にあったのさ。上忍に成りたてのサクモが、現大名当主の命を救ったという記述がね」
 任務扱いではなく、サクモが別の任務を完了した時の話だったらしい。
 任務を終えて帰るサクモが、人攫いの一味と遭遇し、成り行き上、子供を助けた。その子供が現当主だったという。
 それが縁となり、その大名家は木の葉を指名することが多くなり、大口の顧客として木の葉に名前を連ねることとなった。だが、あくまで非公式の話であったが故に、あまり表沙汰にはならなかったようだ。金をもらって任務を請け負う忍びが、任務外で無報酬で動いた事実を言いたくない上の判断もあったらしい。
 そして、現当主はそのときからサクモを命の恩人として、大層感謝していたようだ。
そのサクモが病に伏せたと、どこから話を聞きつけた当主は、お忍びでサクモの見舞いに行った。そこで病に伏せっているサクモから、時期を見て、自分の名は伏せたまま、成長したカカシに渡してくれと託されたものが、件の巻物だったという。
「大名としては、命の恩人へのせめてもの恩返しということで、今回の任務をカカシへ依頼したようだ。あっちは厚意からしたことで、サクモの思惑とは一切関わりがないとみていいだろう」
 古い記録を見せて探りを入れれば、当主は驚くほど簡単に口を開き、「サクモさんからの伝言。確かにカカシ君へ伝えましたからね」と、笑みさえ浮かべたようだ。
 参ったよと額に手を押し当てる綱手を、ただ茫然と見ていた。
 サクモがカカシへの伝言として残した巻物。
 過去を遡り、現実のものとして認識させる術。
 そこから導き出されるのは――。



「……殺し、たいのですか」
 みっともなく声が震えた。
 まさかと一笑に付したくて口に出した言葉は、妙に現実的な響きを持っていた。
「サクモ上忍は、カカシを――?」
 否定してもらいたくて視線を投げかけるが、綱手は沈黙した。横に控えるシズネも表情を暗くしたまま口を閉ざしている。
 口を押さえる。聞いた事柄をどう自分の中で処理していか分からず、呻いた。
 こめかみが波打つ。どういう顔でカカシと会えばいいのか、分からなくなった。
「――まだ、そうと決まった訳じゃない」
 慰めの言葉だと思った。咎めるように見詰めれば、綱手は口端を持ち上げた。
「何て、顔してんだ。しっかりおしよ。お前が言ったことは、ただの憶測に過ぎん。自分の言葉に踊らされんじゃないよ」
「しかし――」
 それしか考えられないと言い切る前に、綱手ははっきりと言った。
「憶測と真実は違う。だから私も言っただろう。サクモの意図までは分からない、と。それにな」
 不安な表情を浮かべるイルカに、綱手は少し眉根を寄せた。
「サクモの奴は、こうも言っていたそうだだよ。『私は、父親として失格だった。だから、せめて息子にこれを渡してやりたい』とね。現当主が言うには、サクモはとても寂しい顔をしていたそうだよ」
 だからと、綱手は言う。サクモが術の意味合い通りに、カカシへ術を掛けたとは思えない、と。
 綱手の言葉に、奥歯を噛みしめた。イルカには判断がつかない。カカシの身が危険に晒されている状況で、サクモを好意的に捉えることができなかった。
 難しい顔をしたまま押し黙るイルカへ、綱手は息を吐いた。
「残念だが答えは藪の中だ。今、私たちにできることは、カカシを見守ることだけだ」
「……はい」
 その言葉に、ようやく頷くことができた。






 風呂を沸かせ、寝床を整えて、食事の準備をしている最中に、玄関の方で鈍い音が聞こえた。
「カカシッ」
 包丁を放り投げ、飛ぶように玄関へと走った。
 駆けつけたそこには、玄関戸へもたれかかるように座り込んでいるカカシがいた。
 傷を負った左肩からは滴り落ちるほどの血が流れ、土間に血だまりを作っている。それに加え、額に深い裂傷があった。
「触るぞ、我慢しろ」
 声を掛け、包帯を毟り取る。ところどころ乾いた血は肌を引っ張り、その度にカカシの顔が苦痛に歪んだ。
 包帯を取り終えた後、綱手から言われた緊急用の札を懐から出す。前回同様、手の平にチャクラを集め、札と一緒に左肩へとかざせば、見る間に傷が塞がっていく。
 綱手のチャクラが入った札は、イルカが扱うことのできる初歩の医療忍術でも高等忍術並みの威力に変換できる。札の使い方を教わる際、お前が医療忍術を使える奴で良かったよと笑った綱手に、イルカは救われる思いだった。
 数分の後に塞がった傷を安心する間もなく、額の傷を癒す。
 身動きしないカカシの体を調べ、三本の肋骨の骨折と、右足首の骨のひび、内臓の損傷を治した。
 全てが終わる頃には、札にはほとんどチャクラが残っておらず、イルカのチャクラも底が尽きそうになった。



「……イルカ、ただいま」
 痛みから解放され、意識を取り戻したカカシが、イルカの顔を見詰め無邪気に笑った。血の気が失せ、疲労を濃く残しているが、カカシは生きている。
「…お、おか」
 言葉途中で顔を覆った。瞳から壊れたように出てくる涙を押さえるのが手一杯で、まともに喋ることが出来ない。
「イルカ、ちゃんと言ってよ。俺、帰ってきたでショ?」
 肘の袖を軽く抓み、カカシが笑う。
「っ、お、がえっ、り」
 しゃっくりを繰り返しながらようやく言葉にしたのに、カカシは「そんなんじゃ駄目」と言った。
 手の甲で擦っても、袖で拭いても止まらない涙に、息継ぎさえ出来ずイルカは体を震わせる。
「ど、す、れば、いい、だ!」
 八つ当たり気味にカカシの要望を聞けば、カカシはイルカの手首を捕える。
「顔、見せて。それで、ちゃんと言って」
 開くように引っ張るカカシの手に逆らわず、顔を見せる。流れる涙と鼻水で、顔はひどいことになっているだろう。
 鼻を啜って、息を継ぐ。真正面で顔を覗きこんでいるカカシを見詰め、イルカは一息に言った。
「おかえり」
 途端に、カカシの顔が綻ぶ。両目を細め、口布を取るなり、イルカの頬へ優しく唇を寄せた。
「ただいま。……イルカは、かわいいね」
 「かわいい」と言いながら、何度も唇を寄せるカカシに、度肝を抜かれた。驚いた拍子に涙が止まってしまう。
軽く顔を背け、アホかと叫んだ。
「お前、一度眼科で見てもらえッ!! こんなおっさん捕まえて、何、言ってんだッ」
 終いには音を立てて吸いついてきたカカシに文句を言っていれば、カカシは小さく笑いながら抱きついてきた。
「俺にはかわいいの。あんたみたいなかわいい人、見たことないよ」
 肩口に擦り寄り、痛いくらい背中を締めつけてくる。痛い痛いとカカシの肩を軽く叩けば、「やーだ」と首を振られた。
「頑張った俺へのご褒美なんだから、大人しくして」と強請るから、イルカは仕方ないと力を抜く。目の前で揺れる、銀色の髪を撫でてやれば、喜ぶ気配が漏れた。



カカシの体はどこもかも血だらけだ。かさついた髪を撫でつつ、髪を洗うのを手伝った方がいいかなとぼんやりと考える。
 そのとき、カカシの腕がイルカの体を包んでいることに気付いた。前までは、腹周りにようやく腕を回すことができるくらいだったのに、いつの間にか胸回りに軽く巻きつけるほど成長している。
 そういえば、十四歳になってから、ぐっと身長が伸びた気がする。上に上にと、もやしのように伸びているから、少し心配だ。
 もやしっ子って苛められてなきゃいいけどな。
 安心しきったかのように深い呼吸を繰り返すカカシの髪を撫でつつ、そんなことを考えていると、ふるりとカカシの体が震えた。
「…イルカが待っているから、帰ってこられた。あの地獄の中でも、生きようって思えた」
 背中に回った指先が、イルカのアンダ―を握りしめる。
「……うん」
 九尾が通った後は、悲惨としか言う他なかった。
 そこら中に誰とも知れぬ肉片が飛び、里は血と火の海で、家も何もかも崩され原形を止めていなかった。
 生臭い匂いと、里の土と血が混じった泥の中を駆けた記憶を思い出す。あの感覚と記憶は、一生涯忘れることはないだろう。
 労うように背中を撫でる。大人にはまだ遠い体で、九尾と戦ってきたカカシ。後方にいたイルカでさえ、胸が潰れるような感覚に陥った。最前線にいたカカシが見たものは、たぶん比べ物にならないほど悲惨で、残酷だったに違いない。
 カカシの頭に頬を擦り寄せる。生きた者の体温を感じて欲しくて、隙間ができないように抱き締めた。
「……先生、逝っちゃった。俺に、ナルトを頼むよって、笑って逝ったんだ」
 「死んでほしくない人ばかりが死ぬ」とカカシは小さく呟く。それと同時に「みんな、守りたい者のために必死なんだね」と背中を震わせた。
「…そうだな」
 相槌を打ち、声を殺して泣くカカシに寄り添った。
 夜の帳が下り、土間につけた尻が冷たさを感じる頃、カカシが身を離した。



「もう、いいのか?」
 ご褒美なんだろと軽口を叩けば、カカシは泣き濡れた目を擦り、小さく笑った。
「イルカのご飯もご褒美の一つなのっ。今日は背中流してもらって、添い寝もしてもらおうかなー」
 ゆっくりと立ち上がるカカシと一緒に腰を上げる。ずいぶん安いご褒美だなと、胸の前にあるカカシの頭を荒く撫でた。途端に、カカシがよろめくのを見て、慌てて支える。
 言葉も動作もしっかりとしているが、カカシは大量の血を流したことに改めて気が付いた。
「すまん、カカシ。飲ませるの忘れてた。これ、増血丸だ。綱手さまの特製だから、よく効くぞ」
 ポケットから薬包紙に包まれた丸薬を取り出す。口元に持っていけば、カカシはじゃれるようにイルカの指まで食らいついてきた。
「こらっ、悪さするな。寝床は整えているから、しばらく横になっていろ」
 カカシの靴を脱がせ、肩を貸してやりながら寝室へと足を向けていれば、台所へ行く曲がり角でカカシの足が止まった。疲れたのかと顔を覗きこめば、カカシはイルカをじっと見つめてくる。



「……イルカ、食事の準備するんでショ? 側で寝たい」
 裾を握りしめ、懇願してくるカカシに、思わず胸を鷲掴みにされる。まるで幼少時のカカシが戻ってきたような素直さに感動しながら、イルカは一も二もなく了承した。
「分かった。ここで待ってろ。布団持ってくるからなッ」
 廊下でカカシを待たせ、急いで布団を取ってくる。天日干しした布団はお日さまのいい匂いがする。
 台所に布団を引き、カカシを寝かしつけて料理した。イルカが視線を落とせば、カカシがずっとイルカを見上げているので、少し面映ゆい思いに駆られながら、カカシの大好物の秋刀魚を焼いた。
 夕飯の準備を終え、うつらうつらと夢の中を行き来しているカカシにそっと尋ねた。
「カカシ。このまま寝るか? それとも風呂に入ってさっぱりするか?」
「……ごはん」
 選択肢にない言葉を言われ、イルカは苦笑する。辛うじて目を開けている様を笑いつつ、今日だけは特別だぞと囁いた。カカシの背にクッションを置いて上半身を起こさせて、出来たての夕飯をお盆に置いて、イルカは秋刀魚の身をほぐす。
「カカシ、口開けろ。あーん」
 ゆっくり開いた口に秋刀魚の身を入れ、ご飯も投入してやる。もぐもぐと反射的に口を動かすカカシに、次々と夕飯を食べさせていった。
 人に食べさせるのに慣れていないせいで、一時、ハムスターのようにカカシの頬を膨らませてしまったが、黙ったまま咀嚼するカカシの姿はとても可愛かった。
 機会があればまたやりたいなと淡い期待を持ちつつ、夕飯を全部平らげたカカシの胃と精神力の強さに感心した。
「よく食べたな、えらいぞ」
 ぐりぐりと頭を撫でれば、にへらとカカシの顔が緩む。無防備なその笑みに再び胸を高鳴らせつつ、それじゃ寝るかと声をかけた。だが、カカシは力なく右に左に首を振り、「おふろ」と小さく呟いた。
 夕飯直後に風呂に入るのは、胃に悪い。渋るイルカに、カカシはなおもおふろと連呼してくる。



「あー、もう仕方ないな。気分悪くなったら、ちゃんと言うんだぞ? いいな?」
 こくこく頷くカカシの体を抱き上げ、風呂場へ向かう。脱衣所で、ほとんど意識のないカカシの服を脱がせる。どうせなら一緒に入ってしまえと、イルカも服を脱いだ。カカシが抱きついてきた時に、少なからず血がついてしまったので、ちょうどいい。
 床のタイルを温めた後、ぐったりと体を弛緩させているカカシを寝かせた。
「カカシは十四ですでにフル装備か……、早いな」
 目に入った大人の証をしげしげと眺め、イルカは己の時を思い出す。確か、イルカは十七くらいで全て生えそろった気がする。
「……俺が遅かったのか?」
 仲間内でいつ生えそろったという話はしなかったが、イルカが生えそろう頃には、周りの皆は顎に髭を生やしていた気がする。当時のイルカは体が小さくて、肋骨が浮くほど痩せていたから、それも関係しているのかもしれない。
 カカシも痩せていることは痩せているのだが、男としてイルカより成長が早いのはどうしてなのだろう。
「ちょっと嫉妬だな…」
 独り言を呟きつつ、カカシの体を浴槽にもたれかかせ、湯をかけた。タオルに石鹸をすりこみ、よく泡立てて上半身から洗っていく。
左肩の傷に触れる時少し躊躇したが、固まっている血を流せば、薄い傷跡だけになっていた。これならば跡にもならないだろう。そのことに安堵の息を吐きつつ、爪の中に入り込んだ血と泥を拭う。
 背中もしっかりと洗い。次は下半身に移る。
 ふと視線を落とせば、心なし反応している物に少し戸惑った。
 戦闘の昂揚感からくるものだとは分かっているが、風呂に入れたことをちょっと後悔する。
 できるだけ刺激を与えないように、そろそろと下半身を洗い清めていったが、それが逆に悪かったらしい。
 太ももから足先まで洗った後、それは納まりがつかないほど育ってしまった。
 十四の持ち物として立派すぎるそれは、イルカの自尊心をほんの少し傷つけると共に、見てはならないものを見てしまった罪悪感を煽りたててくる。思わず周囲を窺い、誰もいないことを確認してしまった。
 放っておけばそのうち納まるだろうと、見て見ない振りをして下半身の裏側を洗っていたが、一向に納まる様子をみせなかった。
 足の爪先まで全てを洗い終え、湯をかけて泡を払う。泡が流れ落ちた中、猛々しくもいまだ硬度を保つそれと真正面から対面し、イルカは呻いた。
 これは、もう覚悟を決めるしかない。



「――カカシ、本当ごめんッ」
 手早く処理しようと、綺麗に洗ったタオル越しにカカシの物を片手で掴んだ。
 他人の物を握ったことはないが、自分の物は散々触っていると己を鼓舞しながら、手を動かすことだけに集中する。
 なるべく見ないようにして顔を背けていれば、眠っていたカカシの口から小さな吐息が零れ出した。
「…、は」
 熱い息と時折動く気配に、鼓動が飛び跳ねる。カカシの吐息につられておかしくなりそうで、イルカは早く終わらせようと両手を使ってカカシのものを擦った。
 頼む、早くイってくれ!!
 懇願するように胸の内で繰り返せば、カカシの体が硬直し弛緩した。それと同時にタオルの中の物も波打ち、硬さを失う。
 終わったと、荒れ狂う鼓動を宥めているのも束の間、小さな声がした。
「…イルカ?」
 背けていた顔を戻せば、どこか気だるげな空気をまとったカカシが目を開けて、イルカの顔とその下に視線を行き交わせていた。
「ッッ、こ、これはだなっ」
 慌ててカカシの物から手を退けようとすれば、それよりも早くカカシの手が上から重なった。そして、ゆっくりと体を前屈みにしながら、カカシはにっこりと笑う。
「イルカのも勃ってる」
「え、あ? カ、カカシ!!」
 目で確認する暇もなく、カカシの手がイルカの物に伸びてきた。非難の声をあげながら手で払いのけようとして、カカシの手が両手首を掴み、拘束してきた。
「ちょ、ちょっと待て、お前ッッ」
 後ろに逃げようと体を引けば、カカシの体も前に倒れ、イルカを下敷きにして乗り上げてきた。



「カ、カカシッッ」
 押し倒された態勢に、居た堪れなくて顔が熱くなる。カカシは笑みを張り付けたまま、イルカの頬に口付けた。
「お返しに、イルカのもやってあげるよ」
 細い指がイルカの物に直接触れてくる。途端に腰へ重く甘い痺れが走り、動揺した。カカシに触れられただけで、硬く張り詰めていく己の物が信じられない。いくら何でも早すぎる。
 イルカの動揺を悟ったかのように、カカシは小さく笑った。
「かーわいい、イルカ。よっぽど溜まってたんだーね」
 前半の言葉を否定するか、後半の言葉を否定するか、瞬間迷った。だが、結局否定の言葉は出せなかった。
「はっ、ん」
 指を絡ませ、カカシが追い立ててくる。口を開けば声が出そうで、唇を噛みしめた。指から逃げようと足掻いてみるが、脳天を貫く快楽に、抵抗する気が殺がれる。
「気持ちいい?」
 ぐちゃぐちゃと浴室に卑猥な音が響く。その合間に尋ねてくるカカシの言葉に言い返せず、与えられる快楽に溺れた。
「ん、んん!!」
 我慢もせずに呆気なく放ってしまう。はぁはぁと荒い息を零していれば、カカシは「かわいい」と呟き、目元に口付けてきた。
 一体どういう目をしてんだと怒ろうとして、カカシの頭が下に下がった。何だと首を起こせば、イルカの臍の下、カカシはイルカの物を持って口を開けた。



「うあぁぁぁぁぁぁ!! 待て待て待て待てぇぇッッ」
 衝撃映像に一瞬頭が真っ白になったが、すぐさま声を張り上げ、体を捩る。
「わ」
 まだ本調子でないのか、カカシは反転したイルカの体から滑り落ちた。それでも両手首を離さないカカシを、イルカは空恐ろしく思う。
「何すんの?」
 横向きに倒れるイルカの横で、ことんと首を傾け、尋ねてきたカカシにイルカは叫んだ。
「それはこっちの台詞だッッ。お、おま、一体何を!?」
 目を白黒させていれば、カカシは不思議そうな顔をして言った。
「イルカのを、口に」
「わ―っ、言うなッ、それ以上言うなッッ」
 「イルカが聞いてきたんじゃない」と首を傾げるカカシに、イルカは涙が出そうだった。
十四の癖に、十四の癖に!!
 一体どこで覚えたと、叱る気満々で首を起こせば、性懲りもなくカカシが口を開けていた。
「馬鹿野郎ッッ! 子供の癖に、何してやがんだッ。お前には早すぎるというか、しちゃダメだろうがッッ」
 力任せに起き上がり、拘束がついたまま、頭突きを食らわせる。ガゴと鈍い音がして、カカシは堪らずといった様子で額を両手で押さえた。
「い、いったー!! ひどいよ、イルカッ。イルカから手、出してきたんじゃないッ」
 涙目で睨んできたカカシに言葉が詰まる。が、すぐさまイルカは拳を握りしめ、怒気を湛えた。



「俺のは緊急対処だッ。お返しは五十万歩譲って納得するとして、次のアレは行き過ぎだッ」
「緊急対処〜? 何それ。色気なーい」
 カカシは頬を膨らませる。色気なんて元からないと切り捨て、イルカはむくれるカカシの肩を掴んだ。
「カカシ。いつ、あんなこと覚えたんだ?」
 「あんなことって何?」と無邪気に聞くカカシが憎い。
「あ、あんなことっていうのは、アレだ。カカシが俺にしようとした、その…」
 直接的なことは言いたくなくて、言葉を濁せば、カカシはなおも聞いてくる。言葉に窮して顔を背けるイルカに近付き、「あれってなーに?」と尋ねるカカシの顔を掴んで遠ざけた。
「う、うるさい! アレはアレだ。さっさと答えろッ」
 もう一発頭突きをお見舞いするぞと脅せば、カカシは慌てたように口を開いた。
「そ、そんなの廓に行けばやってくれるじゃないッ。もう頭突きは勘弁してよ」
 石頭なんだからと両手で頭をガードするカカシに頬が引きつく。
 敢えて答えなかったカカシに怒りを覚えたが、それよりも聞き逃せない問題発言にイルカは額に青筋を立てた。
「廓だぁ〜? お前ッ、その年でなんつーとこ行ってんだッッ」
 こめかみを両拳で挟み、ぐりぐりと力を入れて絞ってやった。
「い、痛い痛い痛い痛いッッ」
「うるさいッ、教育的指導だッ。十四の癖に、お前はぁぁッ」
 じたばたと暴れるカカシにたっぷり仕置きした。痛いと頭を抱え、体を縮こませるカカシに、イルカは指を突きつける。
「いいか!? 廓に行くのは、十七、いやせめて十八になってからにしろッ。それで出来れば、好きな人とやれッ」
 もちろん、将来を約束した真面目なお付き合い前提でだぞと腕を組めば、カカシがぽかんと口を開ける。



「……無理にしなくていいの?」
「は?!」
 飛び出た言葉に目を剥く。一体、お前に何があったと聞くイルカに、カカシは事も無げに言った。
「だって、皆が言うんだもん。任務後は必ず廓に行けって。若いんだから、色々と困るだろうって。行かないと逆にどうしたんだって心配されるから行ってたんだけど、べたべた触られるの好きじゃないから、行かなくていいなら良かった」
 けろりと言われた言葉に二の句が出てこない。これはカカシの周りを責めるべきなのか、里の教育を恨むべきなのか。
 眉間に皺を寄せ、考え込んでいると、四つん這いでカカシが近付いてくる。
「ん、なんだ?」
 何か言いたそうな顔をしていたので聞けば、にこっと笑い、カカシは嬉しそうに言った。
「でも、俺、イルカに触られるの好き。好きな人と、真面目なお付き合いなら、やってもいいんでしょ?」
 手首を掴んでくるカカシの行動が不可解だ。ずいずいと迫ってくるから、カカシの額に手を置いて距離を開ける。額に触れれば冷え切っているのに気付いて、イルカはカカシを風呂に追い立てた。
「そりゃ、真面目な付き合いならいいって言ったけど、肝心なこと忘れてないか?」
 軽く抵抗してくるカカシを無理矢理風呂に入れる。尋ねた問いに、カカシは真面目な顔をして首を傾げた。話を聞いていないカカシの様子にため息を漏らしつつ、イルカは自分の体を洗う。
「あのなー。十八になるまでは我慢しろって言っただろ。若いうちは、まず人との付き合い方を学べ。体の付き合い方はそれからでいい。……まぁ、忍びともなればそうも言っていられない現状もあるが、里にいる間は年相応に生きろ」
「……ふーん」
 浴槽の縁に脇をかけ、両手をぶらぶらと揺らしながら、カカシは生返事を返す。聞いてんのかと視線を向ければ、カカシはイルカを見詰め、居心地悪そうに体を揺らせた。



「……イルカ、勃った」
 仰天して目を落とせば、己の物は鎮静状態を保っている。一体何言ってんだと、内心の動揺を隠して呆れた顔を作れば、カカシは真面目な顔で自分に指を向けた。
「俺の、勃った」
 先ほどの行為を思い出し、顔に血が上る。口を開閉させるイルカをじっと見つめるカカシの視線は恐いほど真剣だった。
「じ、自分で処理しろよッ。意識あるんだから、できるだろッ」
 視線が痛く感じて、顔を伏せる。己の体を洗うことに集中していれば、カカシは「分かった」とどこか不満げな声をあげた。
 そのまま風呂から上がって、便所にでも行くのかと思っていれば、カカシは湯の中に入ったままだ。ぶら下げていた両手も湯につけていることに、不穏な何かを感じ、ひょいと浴槽を覗けば、カカシは湯の中で致していた。
「あ、アホかぁぁぁ!! 風呂の湯が汚れちまうだろッ。便所行け、便所ッッ」
 泡を落とすことも忘れて、カカシの両脇に腕を通し、引きずり出す。
「だって、めんどっ、ん」
「こらこらこらッ。手、離せッ。扱くなっ、出ちまうだろうがッ。止めろ、中止中止ッ」
 おりゃぁと力任せにカカシの体を引き上げ、残った足を出すために体を振るように捩じった。その瞬間、体にまとわりつく泡に滑って、横ざまにカカシをタイルに投げつけてしまう。
 怪我はほぼ治ったとはいえ、病み上がりともいえる。
大丈夫かと慌てて駆け寄った直後、
「あ」
 カカシが間の抜けた声をあげた。ピュッと何かが顔に飛ぶ。
 しばらく沈黙が続き、口を開いたのはカカシだった。
「えっと……。泡ついてるから、あんまり目立たないね」
 残念と、冗談にしてはきついことを言ったカカシに、イルカの堪忍袋の緒が切れた。
「カーカーシーッッ」





「もう機嫌直してよ〜」
 媚びるようにくっつき、頬に擦り寄ってきたカカシへ、イルカは続きと眼光鋭く睨みつける。
「はいはい、わかりましたよー」
「『はい』は、一回!」
「はーい」
 間延びさせるなと睨みつつ、イルカは肩にほどよく伝わる指圧の気持ち良さに、つい顔を緩めてしまう。その直後にいかんいかんとばかりに怒り顔を作り、まだ許していないのだという態度を強調した。
 顔に引っかけられた後、カカシの不精をこっぴどく叱り、こめかみぐりぐりで仕置きしてやった。反省したカカシがお詫びにイルカの髪を洗うというので、病み上がりとはいえ償いだと心を鬼にして髪を洗ってもらい、風呂上がりのマッサージまでしてもらっている。



「イルカ、気持ちいい?」
 上機嫌な声を出し、肩を揉むカカシ。
 気持ちいい。デスクワークが多いイルカが、凝っていると感じている箇所を正確に押し当て、ちょうどいい力加減で揉んでくれる。イルカが怒っていない状態なら、手放しで称賛し、また頼むよと頭を下げてお願いしたいくらいだ。
しかし、反省の色が全くないカカシは気に入らない。
 カカシはイルカの髪を洗っている最中も、風呂上がりに冷たいお茶を持ってきてくれた時も、今ここで肩を揉んでいる最中も、常に上機嫌だった。果ては鼻歌まで飛び出してくる浮かれ具合に、イルカは疑念を抱からざるを得ない。
 こいつ、反省してねぇな…。
「……カカシ、もういいぞ。電気消しとけよ」
労いの言葉も掛けず、イルカはそのまま布団に潜り込む。
朝から干していた布団は、お日さまの光を浴びて、ふかふかだ。暑くなる時期なので、上掛け布団は薄い物にしてある。それでも、干したのと干していないものでは雲泥の差だ。
カカシの態度は気に入らないが、今日はよく眠れるなと目を閉じると、後ろで情けない声がした。
「……イルカ。俺もそっちで寝かせてよ」
 無視。
「イルカー」
 べそをかきながら肩を揺さぶるカカシの手をぱんと叩く。うぅと小さく唸りながら、しょげる気配を感じ、イルカはため息を吐いた。
「……本当に反省したのか?」
 肩越しに睨めば、涙目のカカシが縋りつくように見詰めてきた。
「した! もうしないっ。十八まで我慢するから、一緒に寝させてよッ」
 血だらけの布団は嫌だと、情けない顔をするカカシに、再度念押しした。
「……本当だな?」
 こくこくと真摯に頷いたカカシを見て、気が済んだ。意識的に寄せていた眉を和らげ、カカシのスペースを作ってやる。
 帰って来てすぐ寝かせたせいで、カカシの布団一式は血に塗れて、もはや使い物にならない。
 買い物リストに布団も加えようと考えていれば、開いたスペースにカカシが滑り込んできた。
 バスタオルで即席の枕を作ってやり、手渡せば「ありがとう」と笑って礼を言ってくる。



「電気、消すぞ」
「うん。イルカも早く早く」
 隣をばんばん叩き、催促するカカシを笑いながら、電気を消した。
 おやすみと声をかけ、二人で並んで天井を見上げる。カカシの気配を間近に感じて寝るのは久しぶりだ。
 人がいる気配に安心して、忍び寄ってきた眠気に身を任せようとすれば、頭に優しい感触が落ちた。解いた髪を梳るように、上下に動くそれはとても気持ちいい。
 寝ないのかと、頭を撫でてくるカカシの方に顔を向けて、息を飲んだ。
 イルカの髪を撫で、カカシはとても優しい笑みを浮かべている。柔らかく細められた瞳は愛しいものを見詰める目で、あの日のカカシを思い出した。
 まさかと思う。
 そんなまさかと、浮かんだ考えを否定しようとして失敗した。



「…起こしちゃった?」
 目を見開くイルカに、カカシは大人びた視線を向け、尋ねてくる。
 優しく撫でる手はそのままに、どうしたのと唇に小さな笑みを浮かべて、カカシはイルカを見詰めていた。
 愛しいと、堪らなく愛しいと目を細めて。
 ――あの日、カカシが里を見詰めていた、同じ瞳で。
 疑念はやがて確信に至る。
 幼少時からずっと側にいたカカシの言動の数々を思い出し、目の前のカカシを目の当たりにし、イルカは悟った。
 サクモが手を加えたとしても、人心術としての効力は消えていない。阿尺の巻物は対象者に、特定の相手を刷り込ませることが、本来の目的だ。
 叫び出しそうになって口を押さえた。自分がしてしまったことに、強い恐怖を抱いた。
 カカシの、里に対する温かくも強い愛情は、側にいたイルカへと移り変わってしまった。過去のカカシが長い年月を経て、温めていた思いを、イルカが横取りしてしまった。
 里を心から愛していたカカシを、イルカが奪ってしまった。
 取り返しのつかないことをした自分に目眩がして、それになにより、あのカカシには二度と会えない気がして、胸が詰まった。
 里を見ていたカカシ。
 家に帰る人々を優しげに、そしてどこか寂しげに見ていたカカシ。
 灯が点る家を、儚い笑みを浮かべ眺めていた、カカシ。
 そんなカカシに、イルカは――。
 ふっと息を吐く。それと一緒に出てきたものを隠したくて、体を折り曲げて隠した。



「イルカ? イルカ、どうしたの?!」
 訝しげな顔から、血相を変えてカカシはイルカの肩を掴む。見られたくなくて両手で隠したが、カカシはそれを許さずにこじ開けた。
「なんで、泣いてるの!? イルカ、何か悲しいことでもあった? それとも俺が何かした?!」
 頬を包み、カカシが泣きそうな顔で尋ねてくる。
 イルカは違うと首を振る。
カカシが悪いのではない。考えなしに接したイルカが悪いのだ。術のことを知っていた癖に、自分の感情を押さえ切れず、必要以上に接したイルカが悪い。
 己の浅ましい感情がカカシを蝕み、変えた。そのことに小さな愉悦を覚える強欲な己も醜くて、消え入りたいと恥じた。
 声を詰まらせ泣くイルカに、カカシは答えてと何度も言う。
 それに対して、ただ首を振るしかなかった。







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イルカ先生のジレンマ……。イルカ先生ここから悩みます。