『おかえり』9




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「おはよう、イルカ。今日は、俺が作ったんだーよ」
 朝食を作るために台所へ行けば、すでにそこには朝食が出来あがっていた。



 旅館並みの豪華な朝食に、イルカの口が開く。
「お、おはよう。……すごいな。カカシ、いつの間にこんなに作れるようになったんだ?」
 イルカの料理を手伝っている時は、食材を切り分けるくらいしかできなかったのに、ここにきて煮物、焼き物、汁物と全てをマスターしたカカシに驚愕するしかない。
「それは、秘密特訓しかないでしょー。あ、イルカ、ご飯食べる前にこっち来て」
 こいこいと手招きされて、何も考えず近寄れば、肩に手を乗せられた。びくりと体を跳ねさせるイルカを見詰めたまま、カカシは動かず、じーっとイルカの顔を見詰める。
 黙ったまま見詰められるのが居心地悪くて、何だよと眉根を寄せれば、カカシは手を離して、にっこりと笑った。



「ううん、なんでもなーいよ。じゃ、冷める前に食べようか」
 イルカを座らせ、自分の席につくカカシ。
 上機嫌なカカシにますます戸惑いを覚える。昨日は、手当してもらったのに、イルカは礼の一つも言ってなかった。
 「いただきます」と手を合わせるカカシを制して、イルカは言いたいことがあると背を伸ばした。
「き、昨日は、心配掛けてごめん!! それと、手当てしてくれて、ありがとう」
 机に額をぶつける勢いで頭を下げれば、驚いた気配を感じた。礼を言うことがそんなに意外だったのかと、少し衝撃を覚えながら顔を上げれば、カカシは見開いた目を細め、笑った。
「イルカが俺の作った焼き魚とぶつかるかと思っちゃった」
 すごい勢いなんだもんと笑うカカシに、そこまで鈍臭くないと文句を言う。笑うカカシを睨んだ後、改めていただきますと二人で手を合わせた。
「……痛み、まだある?」
 どれから食べようかと目を移ろわせていれば、カカシに聞かれた。
「ちょっとだけな。でも、カカシが治療してくれたから、大丈夫だよ」
 包帯を巻いている手を見せて、平気だと振る。医療忍術も扱えるなんてすごいなーと褒めれば、カカシはおだてても何も出ないよと笑った。
 カカシの落ち着いた空気に、張っていた肩の力が抜けた。体の関係を持った後のカカシは、不意にイルカへ色のついた視線を送っていることがあった。
 それを感じる度に、苦い物を感じ、必要以上に固くなってしまったが、今のカカシにはその気配すらない。
 こんな風に心穏やかに過ごすことができれば、きっと状況は好転すると淡い期待を持った。
 今日は昼から任務だからと、カカシが怪我をしたイルカの代わりに洗い物をしながら言う。



「夕飯はどうする? 深夜に帰るなら、軽い物用意するけど」
「あー。そうだねぇ。……じゃ、お願いしようかな。久しぶりに、イルカの特製茶漬け食べたいな〜」
 魚の白身を焼いてご飯に乗せ、魚の出汁と焼き海苔をかけて出来る、簡単茶漬けだ。幼少時のカカシに食べさせたことがあるが、風味付けで乗せたわさびにひどい拒絶反応を示し、それ以来食べさせたことがない。
「おう、いいぞ。わさびは抜いてやろうか?」
「……いつの話してんのよ」
 拗ねた声を出したカカシに、堪らず笑った。カカシの隣で食器を拭きながら、もうわさびは食べられると力説するカカシの言葉に頷いた。
 カカシを任務に送り出した後、家事に精を出した。一人だけの夕飯を終え、風呂も済ませて、少し眠った後にカカシのリクエストを作ろうと思っていた。



 一時間眠ればいいかなと、布団に潜り込もうとして、ふと何かの気配を感じた。
 この家に入られるのはイルカとカカシ以外あり得ない。予定よりも随分早く帰れたなと、起き上がって気配がする方向へと足を向ける。
「カカシ、帰ったのか?」
 風呂場から水音が聞こえて、足を進ませた。
「カカシー?」
 返事が帰ってこないことを訝しく思いつつ、脱衣所を覗いて悲鳴が出そうになった。
 脱ぎ捨てられたアンダ―は腹の辺りにどす黒い染みを作り、重く濡れていた。
 寝室に置いてある綱手の札を取りに戻り、風呂場へと駆けつける。
「カカシ、開けるぞ」
 風呂場の戸に手を掛け、力を入れようとした瞬間、



「入って、くるな」
 低い恫喝の声と共に、場が変わった。
 きんと耳を貫いた耳鳴りと一緒に、体に掛かる重い圧力に膝が砕けて、床へぶつかった。額から滝のように流れる汗が、床へ落ちるのを見詰めながら、他人事のように荒い息をつく自分の呼吸音を聞いた。
 殺気だ。
 カカシは殺気を放って、イルカを牽制している。
 重苦しく、心臓を握りつぶされそうな恐怖感が否応なく体を震わせた。
 指一本動かすだけで、精神力が全て持っていかれそうだ。それでも、あの血を見て、蹲っている訳にはいかない。
「……カカシ…、入る、ぞ」
 掠れた声を出し、戸に手を掛ける。歯を食いしばって、開いた隙間からカカシの姿を覗き見れば、全裸のカカシが背を向け立っていた。右手が腹を押さえている。
 傷を見せろと動かない体を軋ませ、浴室に手を入れようとした寸前、静かな声が響いた。
「今、来たら、俺はアンタを犯すよ?」
 伸ばした手が止まる。
 見越したようにカカシは首を巡らせ、イルカにぎらついた目を差し向けた。
「――勢い余って、殺しちゃうかも」
 細めた瞳に、暗い愉悦の光を見て、背筋が総毛立った。
 浴室には、カカシの荒い呼吸だけがこだましている。暗い欲望を抑え込もうとしているのが分かった。左手で自分の顔を覆い、イルカから顔を背けようと懸命に闘っている。



 自制心が強かったカカシが、負に飲み込まれそうになっている様を初めて見た。
 一体どんな悲惨な任務を請け負ったのか。
 そこまで考えて、息を飲む。
暗部だ。カカシは暗部の任務を終えたのだ。
一体、いつ暗部に入ったのか。あれだけ側にいたのに、見落としてしまった自分に気付き、イルカは呻く。
カカシが元のカカシに戻ることはイルカにとって譲れないものだ。だが、今のカカシを危険に晒すことと同義ではない。
「……イルカ…」
 カカシの体がゆっくりと振り返る。凶暴な光を瞳に宿し、何度も唇を舐めていた。顔を覆っていた左手が外される。強張ったまま、イルカへと手を伸ばしてきた。
 獰猛な肉食獣の牙が、イルカに伸ばされる。その牙は瞬きをする間も与えず、イルカの命を絶つだろう。



 だから、それが、どうした……!!
 カカシの手が触れる前に、イルカはチャクラを奮い起こし、足に溜めると一気に放出した。
 伸ばされた手を掴み、勢いのままカカシを押し倒す。
 傷に触れ、カカシが呻いたのも束の間、イルカの首に手が掛かる。それよりも早くイルカはカカシの傷口に札と一緒に手を翳した。
 はぁはぁと荒い息を繰り返し、血走った目がイルカを見詰める。気道が狭まり、呼吸ができなくなる。
首を絞める手に手が掛かったのは一瞬で、イルカは両手を傷口に翳し、チャクラを放出した。
 視界が真っ赤に染まる。苦しさで自分が何をしているのか分からなくなる。だが、チャクラを注ぎ続けた。少しでも長く、一秒でも長く、届くように。





「…カ! イルカッッ」
 血相を変えてカカシが叫んでいる。
 イルカの名を呼びながら、泣き叫んでいる。
 カカシが触れているところが温かい。青白い顔で、明らかにチャクラ不足という様なのに、なけなしのチャクラでイルカを癒しているらしい。
 名前を呼びたくて声を出したのに、唇から出たのは小さい吐息だけでひどくがっかりした。
 声を殺して泣くのが癖だったカカシが、大声で泣き喚いているのは何かあったからに違いない。
 大粒の涙を流して、鼻水まで垂らして泣いている姿が忍びなくて、手で拭ってやろうと指先に力を入れたのに、ぴくりとも動いてはくれなかった。
 体が自分の体ではないかのように重い。それに、ひどく眠たい。一瞬でも気を抜けば眠ってしまいそうだ。
それでもカカシが泣いていることが気にかかって、閉じかかる目を開けようと足掻いていれば、カカシの視線がイルカの目を捕えた。
 こっちを見てくれたことが嬉しくて、わずかに動かすことのできる唇を上に引き上げる。
 カカシは一瞬息を止めると、くしゃりと顔を歪ませた。ものすごい形相だと笑えば、カカシの顔が迫ってきた。



「馬鹿ッ、アンタ笑ってる場合じゃないでショッ。なんで、アンタ…!!」
 俺に近付いたと呻くようにカカシが泣いた。
「入るなって言ったでショッ。あのときの俺に近寄る奴なんて誰もいなかったのにっ、なんでイルカは来たの?!」
 どうして近付いた、死につもりだったのかと詰られる。
 カカシの腹に視線を向ければ、綺麗に傷が塞がっていた。
チャクラの調整する暇がなくて、ぶつけるように送ってしまったが、綱手の札のおかげで、うまくいったらしい。
良かったと吐息を吐いたイルカに、カカシはその意味を知って、「馬鹿」と叫ぶ。
「あんなの傷のうちに入んないよッ。見た目よりもひどくなかったのっ。一日安静にしたら治ってる!」
 だからチャクラの調節ができなくても完治できたのかと、イルカは自分の早とちりに笑いが零れ出る。実際にはひゅーひゅーとした音が口から零れ出ただけだった。
「どうして? なんで俺のことをそうまでして気にかけてくれるの?! 家族でもこんな無茶なことしないよッ。あんたのやってること無茶苦茶だッ」
 カカシは喋っている間もずっと泣いていて、鼻水も流し放題だから、全身の水分が干からびるんじゃないかと、イルカはぼんやりと思う。
「イルカ、答えてよッ。俺のことどう思ってんのッ」
 涙を拭ってやりたいなと思う。
 カカシを泣かせるもの、全部取り除いてやりたいなと、願う。
「イルカ、答えてッ」
 必死なカカシの様子に笑いが出た。
 答えは言わなくても、一つしかない。
 笑みの形を作った拍子に、眦から雫が零れ落ちた。
 カカシの嗚咽が止まる。丸く見開いた瞳から、涙が止まった。
 それが嬉しくて、イルカは目を細めて笑う。
――この頬に流れた涙が、答えだ。





 瞼に光を感じて目を開けた。
 視界に映る天井は、今では見慣れたものだ。
「……あさめし、つくらなきゃ、な」
 障子窓から差す光は白い。今、何時頃なのだろうと、首を巡らして、ぎこちない動きに眉根が寄った。
 全身が硬直しているような感覚。
 動かす度に、関節がぱきぱきと鳴るような錯覚を覚えつつ、体を起こそうとして肩を押しとどめられた。
 気配を全く感じなかったことに驚く。顔を向ければ、銀色の髪が見えた。
「……今日は、寝てなさい」
 ひどく聞き取りにくい声で命令された。声はひび割れ、しゃがれている。
 風邪でも引いたのかと聞こうとした時、布団の端に突っ伏していたカカシが顔を上げた。



「――ブッ」
 上げた顔の悲惨さに思わず噴き出す。
 涼しげだった瞳は開いているのか分からないほど細くなり、瞼と目の下は真っ赤に腫れあがっている。鼻の下も荒れ果てて、真っ赤になっていた。
 笑うのは失礼だと思いつつ、衝撃的な映像に笑いが噛み殺せない。
「ぶはははっ、って、イッテッ。ふ、あはははあはは! いててててッ」
 腹を波打たせ笑えば、痛みが走る。それでもかっこいい部類に入るカカシの変顔に涙を滲ませ、笑っていれば、カカシはむくれた顔をした。
「ちょっと。大人しく寝ときなさいって。笑うのも止めて、寝なさいってばッ」
 奔放な髪もその変顔に面白要素を追加されて、イルカは無理と息も絶え絶えに笑い続ける。
 笑い止まないイルカに物を言うことを諦めたのか、カカシはイルカが笑い止むまで黙っていた。
ようやく笑いの波が引き、眦から零れ出た涙を、軋む腕を伸ばし拭っていれば、カカシが小さく謝ってきた。



「……ごめん。謝ってすむことじゃないけど……、ごめん」
 顔を俯けたカカシに、ああと昨夜の記憶を思い出した。
 正座したカカシの手には、綱手の札が握られている。意識を飛ばしていたため、何をされたかよく分からないが、危ないところだったようだ。
「……俺の方こそ、ごめん。カカシは忠告してくれたのに、俺が勝手に勘違いして飛び込んだから…」
 正座の上で、固く握りしめられた手が震えている。ゆっくり手を伸ばして、カカシの手に重ねた。
 びくりとカカシの体が跳ねた。ぎちぎちと歯を食いしばる音が聞こえる。
「止めてよッ、あんたが謝る必要なんてない!!」
 突然、声を張り上げたカカシに驚いた。顔を上げたカカシの目からは涙が流れていた。
「アンタ、知らないからそんなこと言えるんだよ。俺、アンタを殺そうとしたんだよ? 頬ぶって歯折って鼻折って、意識のないアンタの体を切り刻んだッ。骨の折れる音を喜んで聞いてたッ」
 掠れる声で苦しげに叫ぶ。うんと小さく頷くと、カカシは悲鳴のような声をあげた。
「――血塗れになったアンタを、俺は犯したんだッッ。何度も何度も、アンタの血塗れの体を白く汚して、俺は何度もッッ」
 見開いた目が絶望を伝えている。
 俺は畜生だと、血塗れのイルカに欲情した悪鬼だと、イルカの目を逸らさずにカカシは自分を責めた。
 尊い人だと、イルカは思う。
 カカシは真っすぐで綺麗だと心底思う。
 自分のしたことから目を逸らさず、しっかりと受け止めて前に進もうとする、その在り方が気高い。
 自分とは大違いだと、弱い己を蔑んだ。
「……でも、俺は生きてるよ。カカシが助けてくれたから、生きてる」
 罵っていた声が止まる。息を詰め、色違いの瞳が揺らめいた。
「カカシ、思い止まってくれただろ? 自分と闘って、最後には俺を守ってくれたじゃないか。……任務後の心理状態を知ってるのに、のこのこと近付いた俺が悪い。この怪我は自業自得だ」
 カカシは違うと首を振る。イルカは違わないと小さく笑う。
 それでも首を振り続けるカカシを強情だなと思う。目を細め、まだ固く握り締められている拳を軽く叩いた。
「自分を責めないでくれよ、カカシ。お前じゃなきゃ、俺は死んでいた。お前だから踏み止まってくれた。……俺を生かしてくれて、ありがとう」
 揺れる瞳でイルカを見下ろすカカシに頷いた。もう自分を責めるなと言い含めて。
カカシは唇を震わせ、目を閉じる。



「……なんで、アンタは……」
 ふっと息を吐き、カカシは言葉を止める。
 そのまま黙りこむカカシへ、気にするなと声を掛ける寸前、カカシはイルカの手を両手で包んだ。
「――苦しい時にいつも現れて、俺を救ってくれるんだッ…」
 胸に手を押し当て、カカシは前屈みに倒れる。イルカの体へ額をつけ、そのまま静かに泣いた。
カカシの震える背を見詰めながら、イルカはそうかと思う。



 カカシがイルカへと思いを寄せた理由。
 苦しかった過去、辛かった過去、悲しかった過去を抽出して、カカシは成長し、イルカの前に現れていたのだ。
阿尺の人心術は人の心の弱みを的確に突いている。人が弱っているところに、優しく温かい手が伸ばされば、誰でも掴んでしまう。何度も何度もその人が現れ、自分の手を握ってくれるなら――。
その人に信頼を寄せ、縋り、やがて恋い慕うようになるだろう。
 ちょっと困ったなと思った。
 もしイルカの考えている通りならば、イルカには拒否することはできない。
元のカカシを取り戻すために、今のカカシの思いを傷付けていれば、そのうち離れていくだろうと思った。イルカのことを見限り、カカシは積み重ねた自分自身の思いを大事にしてくれるだろうと思っていた。
だが、イルカの目の前に現れるカカシが辛く苦しい只中にいるのなら、寄り添ってやりたいと強く思ってしまう。
 困ったなと、口の中で呟く。



「――イルカ、好きだ。俺、アンタのことがどうしようもなく好きだ。アンタになら殺されてもいい」
 「イルカ」と小さく恋い慕うように名を呼ぶカカシへ、イルカは何も返してやれなかった。





「大変だったね。カカシから連絡が来た時は、仰天したよ」
 一日安静にしていれば、起きられるようになった。
 カカシから事の次第を聞いたのか、綱手は真っ先にそう言った。
「はい…。その、面目次第もございません」
 怪我の具合を見極められなかった事に発端する事柄に、イルカは深く恥じ入る。
「まぁね。でも、そんなお前にカカシを任せて良かったと思ってるよ。しばらく会わない内に、男ぶりがあがって驚いたぞ。今、カカシは十八なんだろ?」
 十八の誕生日を迎えてから、外見的な面でカカシに変化は見えない。たぶんと頷けば、綱手は満足げに笑った。
「良い目をしてるんだよ。その頃には暗部に入っていただろうけど、目が澄んでるんだ。嫌なもんばっか見る部隊だけどね、今のあいつなら安心して任せられる」
 暗部に戻したいとお考えですかと、イルカが眉根を寄せれば、綱手は豪快に笑った。
「カカシの保護者役が板についたね。まぁ、本音を言えばそうだ。カカシなら暗部の仕事を任せても、光を見つけてくれそうだからね。どうしようもない内容でも、私の意を汲んで最後まで足掻いてくれそうだ。言われた任務を忠実に遂行するだけじゃ、暗部は務まらないんだよ」
 優しく微笑む綱手に、少し泣きそうになった。
 三代目の後を継いだ方が、この方で良かったと心底思った。



「で、イルカ。伝えたいことは何だい?」
 鼻に走った痛みを飲み込み、イルカは綱手と向き合う。昨日、カカシが話した事から推測できる阿尺の巻物の仕組みを伝えた。
「――おもしろい。そういう視点からは、考えたことがなかったな。…ふむ」
 右手に左肘を乗せ、顎先を触り、綱手は何かを考えている。
 黙して待っていれば、綱手は「まさか」と小さな声を上げた。引き寄せられるように視線を向ければ、綱手は小さく鼻で笑っている。
「いや、まさかな。阿尺とはいえ、そんな馬鹿げたものを作る訳が……」
 一度は笑ったものの、綱手の眉間には皺が深く寄せられていた。そのまま押し黙る姿に、何か思い当たることでもあるのだろうかと考える。
 やがて、イルカの視線に気付いた綱手は、手を下ろして笑った。
「報告ご苦労。早速調べさせてみるよ」
「はい」
 返事をしたイルカに、綱手は少し驚いた表情を見せる。何だろうと瞬きをしていれば、綱手は目を細めた。



「お前、ようやく私のことを火影と認める気になったか」
 直球の言葉に鼓動が跳ね上がる。内心の動揺を必死に抑え込んでいれば、声を上げて笑われた。
「言っただろう。お前は顔に出すぎるんだよ。やれやれ、これで側近を一人、確保できたな。この任務が終わり次第、こき使ってやるから覚悟しておけ」
 突然の宣言に仰天するしかない。
「え、あの、何を?」
 シズネという優秀な者がいるのに、どうしてイルカを側近にする必要があるのだとビビっていれば、綱手はあっけらかんと言い放った。
「側近が何人いたっていいだろ。生憎と、人手が事足りると言えるほど、火影業は楽じゃないんだよ」
 にやりと笑った綱手に、マサキを思い出す。三代目以上に書類を溜めると言っていた、顔色の悪い友人に未来の自分を見た気がして冷や汗が出た。
「ま、側近としての仕事はひとまず置いておいてだ。カカシのこと、頼むよ」
 はいと頷き、そういえばとイルカは口を挟む。
「最近、シズネさんを見ていないのですが、どうかされたのですか?」
 前は綱手の代わりに報告を受けていたのにと、疑問を投げかければ、綱手は苦笑した。
「あぁ、シズネ一人とお前を会わせたら、刺激が強すぎてね。いい切り札だと思ったんだが、カカシの嫉妬深さの前じゃ、自爆スイッチとなっちまうんだよ」
 昨日の報告の時も、カカシの奴、シズネを親の敵のように睨んでいたからねと告げられ、はーとしか言いようがない。
 嬉しそうに笑っていた綱手は、イルカの反応を見て、ため息を吐く。
「お前、鈍いな」
 心底、呆れて言われ、イルカはほんの少し傷ついた。





 イルカを傷つけて以来、カカシは驚くほど穏やかだった。
 暗部の仕事を終えた後も、平素と変わらぬ精神状態で、イルカを驚かせた。
 カカシが言うには、吹っ切れたということだったが、カカシが何を吹っ切ったのか想像することもできなかった。幼少時とは違い、成長したカカシは奥底に抱えた葛藤や悩みを、イルカに話すことはしなかった。
 ただ側にいて、イルカを優しく見詰めるだけだ。
 そして――。



「っ…イルカ」
 深夜、小さな声を聞きつけて、目を覚ました自分に浅ましさを覚える。
 考えなくても分かっている。
 毎夜繰り返される切ない声は、カカシが自分を慰めている声だ。切ない声で名を呼び、押さえ切れない吐息を吐く。
 こもった声は、聞いているだけで甘い陶酔感を呼び起こされそうで、カカシの自慰の声を隠れて聞いている自分に罪悪感を覚え、耳を塞いでやり過ごしていた。
 だが、今では――。



 気配を殺して起き上がる。ズボンと下着を下げ、熱いほど熱を持った自分の昂りを見て、吐き出したくなる。カカシの感じている声に、否応もなく反応する自分に反吐が出そうだ。
そう思っているのに、体は勝手に動く。カカシの声に誘われるように、己の物を迷いもなく掴んだ。
 ゆるく立ち上がり、すでに薄く濡れ始めているものを塗り広げるように、手の平で擦りながら、指先を亀頭に這わせた。
 頭の中で、カカシが同じように触れるのを想像しながら、撫で上げる。隣のカカシの息が早い。
 つられて声が出ないように、歯を食いしばりながら、体を走る快感に目を瞑る。そうするとカカシの気配が一段と強くなったような気がして、食いしばった歯から熱い息が漏れ出た。
 先ほどまであった罪悪感はすでにない。うだるような熱さで、沸騰する頭は強い快感で占められている。
 もっとと、手を早める。快感で漏れ出そうになる声を飲み下し、走り出したカカシの後を追う。手の動きを早めて、喘ぐカカシを想像した。勝手に大きくなる呼吸を鎮め、震える気配を消そうと眉根を寄せる。
「っっ、あ、イルカッ」
 瞬間、唸るような声を聞いて、背筋が震えた。
 手早く脇にあったティッシュを手に取り、自分の物を包んだ。奥歯を噛みしめ、放ったものを受け止める。
 はぁはぁと隣から荒い息が聞こえる。その声を聞きながら、残った精液を出し切り、機械的に汚れた箇所を拭いていく。
「……イルカ」
 ぽつりと小さな声が漏れ聞こえた。身動きしなくなったカカシの姿を脳裏で描きながら、汚れたティッシュを見詰める。
 煮詰まった頭が冷めれば、己の行為を忌む気持ちだけが大きくなる。



「きったねーな…」
 握りしめ、カカシに聞こえない声で己を詰った。
 行為を終えた後は、いつも己に対する罪悪感と汚さだけが際立つ。何度も止めるべきだと言い聞かせたが、聞こえてくるカカシの声に欲望が押さえ切れず、繰り返してしまう。
汚い行為だと吐き捨てる癖に、毎夜、共に果てることを望む自分がいて、笑うしかない。
 一体、何がしたいのか。
 隣はもう、物音一つしない。
カカシは眠ったのだろうかと考える。
この部屋と隣の部屋を隔てる壁を見詰め、イルカは唇を噛みしめた。







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シリアスなのにごめんなさい一言。
オフ本では、「肉食動物」と書いてたところを「肉食獣」に変えました…。
ひぃぃぃ、とんだ恥ずかしい言葉選び間違いっ!
何か違うと思いつつ朦朧とした頭で選んだ「動物」でした…くっ……orz。