「ちゃんと起きてるー? アカデミーに行かないからって、あんた寝坊なんて……。って、何してんの――っっ!!?」
玄関から声がして足音が響いた直後、どだだだだと何かが廊下に落ちる音が響き渡った。
近寄った気配を感じて、すんと鼻を啜って、膝を抱える腕に力を込める。
「……ごべんばばい」
「あんたいつからここにいたの?! なんでこんなに冷たくなってんのよッ。風邪引いたらどうすんの! ちょっと顔見せなさい!」
肩に置かれた手の平を熱く感じる。間近に気配を感じて、ふるふると首を振った。油断すれば出そうになる嗚咽を堪え、言葉を紡ぐ。
「き、きどう、がえらないでごべんばばい。ごばん、ごべんばばい」
顔を俯けているせいか、変に言葉が濁る。
何を言っているのか分からないようでうろたえていたけど、はたけ上忍は不意に理解したようで、思い切りため息を吐いた。
「あー。『ごめんなさい』ね。……いいよ、もう。怒ってないから、顔上げなさいよ」
すんと鼻を啜って、首を振る。合わせる顔がない。
頑なな私を見て、あーとはたけ上忍は呻くと、一拍置いて抱きしめてきた。
「……本当に怒ってないから。あんたの顔見せて。風邪引いてないか、確認させて?」
ぽんぽんとあやすように背中を叩かれ、そっと目だけを上げる。
はたけ上忍は肩と背中に腕を残したまま、少しだけ体を離した。
見えるはたけ上忍の顔は、覆面と額あてが取られている。目元は優しそうに緩み、怒っている気配は何一つ感じられなかった。
「顔、見せて」
ね? と優しく促されて、おずおずと顔を上げる。
ずっと鼻を啜りあげ、完全に顔を上げた直後、はたけ上忍の目が見開かれた。
「ぶっ」
……ぶ?
見つめていれば、はたけ上忍の声が弾けた。
「ぶっさいくー!!!」
……ぶさいく?
「やっだー、何その馬鹿面っ。お腹痛いーッッ」
けたけたけたと笑い転げ、床にくの字になって腹を抱えている。私を指し、大受けしているはたけ上忍の姿に、引っこんでいた涙がどばっと溢れた。
「はたけ上忍のばが――ッッ!!!」
わんわん言って、顔を覆った。人前で声をあげて泣くのは久しぶりだった。
声を押さえようとしても、開くそばから勝手に声が出る。
本当に悪いと思ったのに。色々と反省して、一晩中考えたのに、それなのに、はたけ上忍から返ってきた言葉は「ぶさいく」ってあんまりだ!
うえんうえんと肺がひきつったような、変な呼吸が出る。膝に顔を押し付けているから息がし辛い。とにかく辛い。
自分が一体何で泣いているのかよく分からなくなってきて、それにも泣けて、泣きに泣いていれば、焦った声が響いた。
「わ、わ!! ごめん、本当にごめん! 今のは俺が悪かったから、泣かないで、イルカ!!」
ぐいっと後頭部を押さえられて、頬が固い感触にぶつかる。痛いと悲鳴をあげる暇もなく、ぎゅーぎゅーと抱き込まれて、驚いて声が止まった。
「悪かったって。だから、泣かないでよ。あんたに泣かれると、本当に困る」
頭を撫で、背中を撫で、泣くな泣くなとさすられていたら、涙が止まった。
そのことに気付いたのか、はたけ上忍がゆっくりと体を離す。
涙と鼻水が出て、さっきよりもひどい顔だったのに、今度ははたけ上忍は笑わなかった。そればかりか、テーブルに置いてあったティッシュを手繰り寄せると、優しく私の鼻を拭いてくれた。
子供のときにくらいしかされたことのない行動に、かぁっと顔が熱くなる。はたけ上忍の持っていたティッシュを慌てて掴み、自分で処理した。
「……落ち着いた?」
床にティッシュの残骸を築きながら、最後とばかりにちーんと鼻を噛み、こくこくと頷く。
はたけ上忍はよかったと小さく呟き、「話がある」と床に座った。
椅子があるのになと思いつつ、後に続いて床に座れば、はたけ上忍は私を見つめて言った。
「……犯人が分かったよ」
昨日の今日で犯人を見つけたことに驚いていれば、はたけ上忍は小さく笑った。どこか悲しみを感じさせる笑みが不思議だった。
はたけ上忍は両腕を後ろにつき、顎を突き出すように天井を見る。つられて天井を仰いだが、そこには電気の付いていない照明ぐらいしかない。
よく分からないけれど、声を掛ける空気ではなくて、黙って待っていれば、はたけ上忍は一つ息を吸った。
「……犯人は暗部の後輩。……イルカを庇ってくれた、暗部」
「……え?」
内容が頭に入ってこなかった。
はたけ上忍はそんな私にゆっくりと視線を戻し、瞳を細めた。
「死ぬ間際に俺に言ったんだ。『先輩は、居場所を見つけたんですね』って。それと、あんたに伝えてくれって、『危険な目に遭わせるつもりはなかった。ごめんなさい』って」
こくりと唾を飲み込んだ。
やけに大きく聞こえるそれが、妙に白々しい。
「………え?」
どう反応していいか分からず、馬鹿みたいに聞き返す私に、はたけ上忍は体を立てると、深く頭を下げた。
「……イルカが一番の被害者だってのは分かってる。俺の我がままで混乱させるようなことを言ったこともすまないと思う。でも…、あいつの気持ちを伝えることは許して欲しい」
はたけ上忍のつむじを見ながら、だんだんと思考回路が回り始める。
はたけ上忍の後輩が、はたけ上忍を心配して仕掛けたことだったのか? はたけ上忍の居場所であった暗部を取り上げるような真似をした上層部を恨んで? もっとも効果的だろう子供を狙って傷つけた? はたけ上忍の暗部復帰の一番の障害である、あの子たちの命を奪おうとした?
今更ながらに、その犯人の身勝手な言い分に腹が立った。
「――許せません」
きっぱりと言った。
驚くように顔を上げたはたけ上忍の顔を見つめ、もう一度言う。
「何があろうと、子供たちの命を狙った行いを許すことはできません。私の命を助けてくれたとしても、その人がしたことは最低の行いです」
くっとはたけ上忍の眉根が寄る。きっと仲のいい後輩だったのだろう。はたけ上忍にとっては、大事な仲間だったのだろうと思う。
それでもはたけ上忍は口を噤んでいた。
お前にあいつの何が分かると叫びたいだろうに、私の正論を前に、唇を噛みしめて、後輩のためにただ黙っている。
じっとはたけ上忍を見つめていれば、噛みしめていた唇を解き、寂しそうな微笑が浮かびかける。
それが完成される前に「ただ、私はこう思うんです」と、切りだした。
「殺すことができただろう暗部の人が手を下さなかった理由を。わざわざ警告文を出し、トラップを仕掛けるだけに止めていたことを。……きっと悪い人じゃないんだろうなって」
はたけ上忍の取り繕った表情が崩れる。
ぐっと眉根を寄せて、唇を引き締めた顔を見ながら、手を伸ばした。
「もちろん、子供たちを危険な目に遭わせたことは許せませんが、私に関しては許すも許さないもないですよ。ここ数日間、あのトラップ解除してきましたが、結構好きでしたよ。ひたむきな熱意とどこか遊びもあって、今日はどう仕掛けてくるのかなって、楽しかったんです。作った人に会ってみたいなって、私、何度も思いました」
そっと頬に触れれば、はたけ上忍の瞳から音もなく涙がこぼれ出た。
馬鹿だなぁと思いながら、はたけ上忍の後頭部に手を回し、肩口に顔を引きよせてやる。
「こらえなくてもいいじゃないですか。好きな人が亡くなったら、悲しいのは当たり前です。亡くなった人のためにも泣いてあげてくださいよ」
泣け泣けと念じながら、頭を撫でていれば、はたけ上忍の手が胸元の襟を掴んできた。
そのまま声を殺して、背中を震わせ泣き始めたはたけ上忍に苦笑がこぼれる。
私みたいに大声で泣いてもいいんだけどなぁ。
天井を仰ぎ、頭を撫でながら、飽きるまで肩を貸してあげた。
鼻を啜って、はたけ上忍がおずおずと顔を上げる。
元が白いだけに、はたけ上忍の瞼や鼻の下は赤くなっていて痛そうだった。
もちろん、無神経でない私はそんなはたけ上忍の変顔を笑うこともなく、そっとティッシュを渡してあげる。えらいぞ、私。
「……笑いたきゃ笑えばいいじゃない」
チーンと鼻を噛むはたけ上忍に、何を言っているんですかと言葉を返す前に、じと目で睨まれた。
「顔が笑ってるんだけど……」
ひくひくと動く自分の頬の筋肉のだらしなさを、心の中で罵倒した。
「あーぁ。やっぱり、あんたといると、落ち着く」
睨んでいた目が柔らかくほころんで、私を見つめてきた。
今までにない優しい眼差しに、どきっと鼓動が高鳴る。いつも睨まれているか、呆れられているかだったから、調子が狂う。
何となく恥ずかしくなって俯こうとすれば、はたけ上忍の手が押しとどめた。顎にそっと手を添えられて、間近で見つめてくる。
「……イルカ。不安にさせてごめん。俺の気持ちは、あのときから変わってない。あんたが好きだ。昔も今も、これからも」
真剣な眼差しに当てられて、顔に熱が集まる。
鼓動はどこどこと荒れ狂い、全身から汗が吹き出た。
「で、イルカは? イルカは俺のことどう思ってる?」
改めて聞かれて、ガーッと体液が沸騰するかと思った。
ごくりと生唾を飲み込み、ここは外してはいけないところだと己に言い聞かせて、一度深く頷く。
「わ、私も、はたけ上忍が、カカシさんが、好き。――昔から大好きです!!」
ぐっと拳を握りしめ、よっし言ったと心の中でガッツポーズをあげる。
会心の一言だったと、己の決まり具合に浮かれていたというのに、間近のカカシさんの表情がだんだんしかめっ面になっていった。
あれ、どうした? 今のは完ぺきだっただろうと、おかしな反応を見せるカカシさんに動揺していれば、見慣れた感のある眉を潜ませたカカシさんがひくりと口角をあげた。
「……あんたさ。まーだ、分かってない訳? 俺としてはさ。この危機的状況も利用して、あんたに惚れさせる気満々だったんだーよ。頼れるところ見せて、『料理もできて、強くて頼りになって、なんてかっこいいの。やだ、どうしたんだろう、この胸の高鳴りはっ』って、朴念仁の超鈍感なあんたを落とそうとしてたの」
「……………はい?」
突然、小芝居を交えて訳のわからない発言をしてきたカカシさんに、ぽかんと口が開く。
カカシさんはあーと後頭部をかきむしると、「恰好つけるのは止めた」と呟き、私を睨んだまま顔を近づけた。
このままではぶつかると後ろに退避しようとした私の後頭部を掴み、固定される。え? え?
焦点が合わなくなるほど、カカシさんの秀麗な顔が近づく。肌のコンディションも最高だなと思っていたら、ふにゅりと柔らかいものが唇にくっついた。
「ん?」
「ん」
疑問の声を上げる私に、カカシさんが頷きながら体重をかけてくる。
そのまま床にゆっくりと押し倒されるように、体の上に乗られて、身動きが取れなくなった。
「ん? んん? ん?」
あれ? どうしたんですか? 一体何ですか?
どうして押し倒されているのか分からず、少々混乱して手足をばたつかせれば、カカシさんの眉根が勢いよく跳ね上がり、その直後にきた。
「っ! っ?!」
口内にとんでもなく柔らかいものが入りこみ、無遠慮に徘徊された。くすぐるようにそこかしこに触れた後、自分の舌に絡みついた時、ようやく何をしているか思い至った。
私、キスしてる…? しかも、カカシさんと?
理解した直後、ガーッと顔が沸騰した。
半ばパニックに陥ってカカシさんの胸を叩いたが、体の下にいるせいで力が入り辛い。
平静を欠けたせいで、息の仕方も忘れてしまったみたいで、息苦しくて仕方ない。そのうち、カカシさんの舌が戯れに動く度、背筋がぞくぞくとした電気が走った。
息が荒れる。
時々、唇が外される度に喘ぐように息を吸ったけど、すぐさま唇が覆ってきて、呼吸を止められた。
訳が分からなくなって、徐々に力が抜けてくる。突っぱねていた手が縋りつくようになった頃、ようやく顔が離れた。
息を止めて全速力疾走したみたいだった。
いつの間にか目を閉じていたみたいで、目を開ければ歪んだ視界にカカシさんの顔が映った。
カカシさんの口も少し開き、荒れる息を吐き出している。ほんのりと顔に朱を刷いた表情には、色香が漂っていて、落ち着き始めている鼓動を再びざわめかせた。
「……分かった?」
両脇に腕をつき、体を起こしたカカシさんに声をかけられて我に帰る。
見惚れていた自分に気付き、恥ずかしくなって視線を落とせば、帯は解かれ、襟が大きく開かれ、ほぼ下着姿を曝け出している自分に気付いた。
声すら上げられず、足を蹴りだしカカシさんの下から逃げ出す。
「っ、っっ、っ!!」
壁にぶち当たったところで、襟を引きよせて腕を交差した。帯をいつ抜かれたのか、全く気付かなかった。
今更ながらに、カカシさんが自分をどう見ていたのかに気付き、体が震えてくる。
許嫁と言われたけど、それは任務の設定上だし、妹として私を見てくれていたのだとずっと思い込んでいた。
カカシさんを血の繋がらない家族として認識していた自分が居たたまれなくなる。
もしかして、カカシさんはずっと私のことを?
そこまで考えて、ガァァァっと頭に血が上る。
信じられない思いが強いが、先ほどのねちっこいまでの口づけと今の自分の状況に、信じざるを得なくなった。
「…うん。いい反応だーね。今後、俺のことはそういう目で見なよ。俺が紳士で良かったーね。そこら辺のケダモノなら、あんた初日で食われてたよ」
にやりと微笑し、唇をなめた仕草に、ぞぞぞっと恐怖なのか興奮なのかよく分からない痺れが走る。
「え、だ、う」
ほとんど言葉にならず、音だけを発する私に、カカシさんはゆっくりと立ち上がり、こちらに向かってくると、壁際で縮こまっている私を見下ろした。
「これだけは言っとくけど、外で無防備に笑うのは止してよ。あんたのあの顔見ると、理性切れそうになるかーら」
「は?!」
壁に手をついて、ゆっくりと腰を下ろしてきたカカシさんに、動揺したまま視線を向ければ、カカシさんは苦虫を噛んだような表情を浮かべた。
「あと、そういう顔も。みっともないって言ってごまかしてきたけど、あんたのそういう表情見ると、場所とか立場とか考えられなくなるんだーよね」
投下された発言に、目が見開く。
は? それじゃ、今まで口うるさく言ってきたのは、私が写輪眼はたけカカシの許嫁にふさわしいかではなく、カカシさんが写輪眼カカシというイメージを保つために?
「里の誉れが、里の中で許嫁のあんたと全裸で公開羞恥プレイしたら大問題でショ?」
しれっと言って笑ったカカシさんの笑みは、悔しいほどに美しかった。
「――ッッ! だ、ダメです! 絶対しちゃダメです!! というか、結婚前の男女が一つ屋根の下で暮らすなんていけませんッ。私、火影さまの家で暮らしますっ。アパートを見つけるまで、火影さまの家に厄介になります!!」
しっかりと襟を掴み、カカシさんの横を通り抜けようと駆け出せば、あっけなく腕を掴まれ、体を反転させられた。
うっ、逃げせない!!
「ダーメ。言ったでショ? あんたは俺の許嫁だって。それにね、親父の遺言も本当なんだーよ」
俺は何一つ嘘なんか言っちゃいないと、両腕をつかまれたカカシさんに見下ろされる。
てっきり嘘だと思っていただけに驚いていれば、カカシさんは淡く頬を染めて、嬉しそうに笑った。
「『幸せになりなさい』ってーね。あんたと共にいることが、俺の幸せだから」
屈託なく笑ったカカシさんの笑みに、再び顔が沸騰する。
あまりに嬉しそうに笑うもんだから、逃げる気を失った。
そんな風に、カカシさんの家で再び一緒に暮らすことについて、自分に言い訳をしてしまった。
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次で終わりですが、めたくた短いです…。(H24.5.17)
カカシの許嫁4