アカデミーに帰る道すがら、まるでふわふわと雲の上を歩いているような心持ちだった。
お母さん、か。
下腹を撫でてみる。
実感は全くないが、私のお腹の中に確かに息づく命がある。自分の血を分けた命がいる。
そう思うだけで、くすぐったい気持ちになった。
「どうすんの? いっとくけど前途多難よ」
突然、言われた言葉に間の抜けた声が出た。
「へ?」
マキは眉根を寄せて、ため息を吐く。
「あんたねー。相手の男にちゃんと責任取ってもらわなきゃならないのよ。もし相手が嫌だってごねたら、どうすんの」
マキの言葉に、顔が歪む。一体、マキが何を言っているのか理解できない。
「まぁ、イルカの場合、普段から素行がいいからね。相手が自分の子供じゃないって言い張ろうが、認めざるを得ないわよ。あ〜ぁ、とうとうイルカが誰かの物になっちゃう時がきたかー」
はぁと大きくため息をついたマキの言葉に仰天した。どうして相手に責任を取ってもらわなければならなくなるのだ?
「マキ、なんでそこに相手が出てくるの? 無理に相手に言わなくてもいいんじゃない?」
私の言葉に、マキの顔がとんでもなく歪んだ。
「……あんたこそ何言ってるのよ。子供っていうのは、あんた一人で出来るもんじゃないでしょ。当然、相手の責任も意思も出てくるでしょうが」
思いも寄らない言葉に血の気が下がる。
つまり、どういうことだ?
このお腹の子は、十中八九、カカシ先生の子だ。
私の意識のない間にそういう行為が行われていれば別だが、あのカカシ先生との一件時のような体のダメージは、全くもって身に覚えがない。
ということは、もうそれは確実と言ってもいいことで。
そうしたら、何か?
カカシ先生に子供が出来ましたと告げて、責任を取ってもらわないといけないのか?
そこまで考えて、普段のカカシ先生を思い出す。
子供たちの任務の日でも、花街には足繁く通う遊び人。自分の家はあるようだが、花街に行く方が多いから、カカシ先生用の部屋を向こうが用意してくれていると聞く。
そして、たまに思い出したように、綺麗どころのくのいちの家に行っては、世話になっているようだ。
そんな人に子供が出来たと言って、責任を取ってくれるものなのだろうか。
そして、何より……。
「ねぇ、マキ。もし、もしもよ、相手の人が子供を産むなって言った場合はどうなるの?」
息を潜めて答えを待っていれば、マキはうーんと唸る。
「……まぁ、場合によっては、堕ろすことになるかも、ね」
その言葉に、雷に貫かれたような衝撃が襲った。
聞きたくない言葉だっただけに、悲しみでぼろぼろと涙が出た。
「ちょ、ちょっと、イルカ! 何も泣かなくても!! わ、私が言ったのは、あくまで可能性であって、もちろん、あんたが産みたいなら、そうなるように協力でも何でもするわよ!!」
慌てたようにマキが慰めてくれるが、私の頭はすでに最悪な方向へとひた走っている。
だって、相手はカカシ先生だ。
花から花へと移りゆく蝶のように、根っからの女好きで、面倒くさい関係は御免だと常々豪語しているような、生涯の伴侶には絶対向かない、ダメ男なのだ。
そんな人に、子供が出来たから責任とれとか、これはあなたの子供ですなんて言ったりしたら……。
カカシ先生のハーレムの障害として、間違いなく私は消される。というか、私は消されなくても、この子の命が危ない……!!
カカシ先生の実力、権力、人脈の前に、私たち親子が勝てるはずもないのだから。
「……そんなの、」
認められる訳がない。
ぐっと唇を噛みしめる。
すぅーっと、頭が冷える感覚を覚えた。不安だった気持ちは不意に消え、胸にかっかと燃える灯火が育つ。
「イルカ、大丈夫だって。絶対悪いようにはしないわ。何なら、ほか」
マキの言葉を遮るように、手をひったくる。
両手でマキの手をぐっと握りしめれば、マキは驚いたように目を見開いた。
ぐいっと頬に流れる涙を拭い、私はマキの顔を見つめ、腹の底から叫んだ。
「私、シングルマザーになる!!」
一瞬、マキの表情が間の抜けたものになった。直後、
「はぁぁぁぁぁぁぁぁっぁぁあっぁあ?!!!」
素っ頓狂な声が、大通りに響きわたった。
******
受付所の前。
これから言うことを思い、弱気になる気持ちを叱責し、気合い入れとばかりに両頬を叩いた。
派手な音が立った後、じーんとした痛みが頬に伝わる。
っし、気持ちは定まった。私はぶれない。いいや、ぶれる訳にはいかないのだ。
たのもうっと、道場破りをせんばかりに戸を開け放つ。任務受付をしている忍びがいないことを確かめ、私はきっと前を向いた。
「お、イルカ。おはよう」
「また昨日も倒れたんだって? 最近、どうした。たるんでるんじゃないか?」
徹夜明けだというのに、笑みまで浮かべて言葉を掛けてくれる同僚に、一瞬怯む。だが、ここで負ける訳にはいかないのだ。すべては、私と私の子供のために!!
引き継ぎをしようとする二人の同僚に向かって、私は手を向ける。
ついでに後ろから、私と一緒の時間に入る同僚にも顔を向け、「話がある」と受付の机に座る二人の元へと移動してもらった。
三人は不可解な顔で私を見つめる。その三人の前で、息を吸って吐き、拳を握った。そして、
「私、シングルマザーになることに決めました」
腹の底から声を出し、ずばりと言い放つ。
三人の口がぽかんと開く。
何か言おうとする三人を、再度手で押し止め、肝心要の重要事項を宣言する。
「だからといって、私は受付任務を辞めるつもりはありません。お腹が大きくなっても、任務は続けます。よって、皆さんに貸した借りをここぞとばかりに取り立てますからっっ」
一息に言い切り、どうだと三人を見る。
三人といえば、三人とも同じ表情を浮かべて、同時に言った。
『……は?』
全く分かっていない三人に、私は憤る。これだけひどいことを言っているのに、どうしてそんな態度を取っていられるのだろうかっ。
「だ、だから! 今まで、みんなの代わりに夜勤勤めたり、ヘルプに入ったり、急病やら彼女の誕生日とか、子供の送り迎えとか、色んな理由で代わりをしたでしょっ。それを、今度は私の代わりをみんなにしてもらう…!! 検診とか、急に体調が悪くなったりとか、これからいっぱい穴空けるから、それを代わりに勤めてもらうって言ってんの!!」
分かった?!と、挑むように視線を向ければ、三人は三人とも「はぁ」と間の抜けた返事をして頷いた。
その態度に、かーっと頭に血が上る。
「何で、そんなに平然としていられるの?! 私は今、ひっどいことを言ってるんだから! 自分の都合で今からみんなに迷惑かけるって宣言してるのっ。自分可愛さのために、みんなに泥かぶれって言ってるんだからー!」
ひどい奴でしょと同僚を睨みつける。だが、返ってきた言葉は。
「…いや。シングルマザー云々はびっくりしたが、イルカにはマジで世話になってるしな」
頭を掻きながら、ホタテが言う。
「まぁなー。何だかんだ言って、イルカに甘えてたし。今度は、おれたちの番なんじゃね?」
「そうねぇ。イルカさんには子供たちのことでも本当にお世話になってるし。困ったときは助け合いの精神よね」
と、アサリに続いて、ミツさんも笑って、頷いている。
どこまでお人好しなんだと、鼻に痛みが走る。
「こ、これから、ものすごい迷惑かけるよ?! 仕事だって今まで通りにできないけど、産む直前まで働くし、みんなの足を引っ張るんだから!」
「シングルマザーになるって決めてんだろ。そりゃ、稼がなきゃな」
逆に休むって言う方がオレは心配だと、ホタテが言う。
「で、でも、私、これから自分のことで手一杯でお礼なんてできないし…」
「礼なんていらないって。当たり前の権利だって、どーんと構えろって。借り返すだけだし」
からから笑いながら、事もなくアサリが言う。それでも反論しようと口を開けば、ミツさんが私の肩を叩いた。
「イルカさん。こういう時は、笑ってありがとうって言えばいいの。誰だって、知らず知らずに他人様へ迷惑はかけているものなんだから、深く思い悩むことないわよ」
「……ミツさん」
思ってもないみんなの温かい反応に、張っていた心が緩む。
涙がたまるのを感じて、慌てて顔を覆った。
「あらあら、泣かないの。大丈夫、大丈夫だからね」
ミツさんが背中を叩きながら、抱きしめてくれた。
「ごめ、なさい、ごめんなさい」
わがまま言ってごめんなさいと言えば、馬鹿だなと頭を小突かれる。
「謝る必要なんてないだろうが。どうせ、お前のことだから、人に迷惑かけるんだから、とことん嫌われようとか変な風に考えてたんだろう?」
ホタテに図星を指されてしまった。
なんで分かったんだろうと、鼻をすすって顔を上げれば、やっぱりなとしたり顔のホタテがいる。
「イルカ〜、お前、どんだけ生真面目なんだよ」
呆れ顔のアサリに、だってと言葉が突いて出る。
「み、んなに、迷惑かけるの分かってて、今まで通り付き、合えないって、思ったん、だもの」
「だからって、嫌われようとするとか、何だかなー。おれならとことん人の好意に甘えるね!」
ふんと鼻息荒く胸を張るアサリの言葉に驚く。すると、ミツさんは豊満な体を揺らして笑った。
「あらあら。私はアサリさんが泣きついてきたら、尻蹴り飛ばして、発破かけてあげましょうかね」
「いいですね。オレもミツさんの案に乗ります」
「ひどっ」と声を上げたアサリに、二人は笑う。二人の笑い声につられて、アサリも照れたように笑い出して、私も笑ってしまった。
いい仲間に囲まれて、私は幸せ者だと思う。
今は無理だけど、この先、絶対にこの恩を返そう。
同僚たちの笑い声を聞きながら、心に誓った。
「…あの、受付いいですか?」
後ろからおずおずと聞いてきた、年若い忍びに、思わず体がびくついた。みんなも同じで一瞬飛び跳ね、一斉に行動を開始する。
「す、すいません! 大丈夫です。どうぞ、こちらに」
端に避けた三人と目配せし、私は受付所の定位置へと向かう。
渡された報告書を受け取り、記入事項を確認して二、三、質問し判子を押した。
「はい、確かにお預かりしました。任務、お疲れさまでした」
いつものように労をねぎらえば、青年は一瞬黙り込み、意を決したように話しかけてきた。
「あ、あの! シングルマザーになるって話、本当ですか?」
青年の言葉に、聞かれていたのかと驚いた。でも、遅かれ早かればれるのは、時間の問題だ。
「――はい。そう、決めました」
変なことを聞かれちゃったなぁと照れ笑いを浮かべていれば、青年はかしこまった表情で私を見た。
「あ、あの。うみのイルカさん。お、おれ、やまのツバキって言います。よ、よろしければ、あの、おれが、おれーー」
机に置いていた手を両手で握られ、真っ直ぐな視線を私に注ぐ。一体、何を言うのだろうと、ツバキ青年の言葉を待っていれば、受付所の戸が開いた。
「やっだ、ツバキじゃなーいっ」
「昨日の夜はどうしたの? 私たち二人を置いて突然帰るなんてひどいじゃない」
元気のいい声が受付所に響き、現れた二人のくのいちがツバキ青年に近づいた。
「は? へ? え?」
「っもう、寂しかったんだぞっ」
「本当、あれだけ盛り上がったのに、やることやったらすぐ帰るなんて、あれはないんじゃない?」
うろたえるツバキ青年の両腕にぶら下がり、くのいちは詰る。
「いや、あ、あなたたち、誰ですか? おれ、あなたたちのことなんてしらなーー」
「本当に嫌な男ねー! こうなったら、思い知らせてやるんだから」
「あ、抜け駆けはだめよっ。私たち、そういう約束だったじゃない」
ぎゅっとツバキ青年の腕をつねったくのいちは、綺麗な笑みを浮かべて、流し目を送る。
それを受けて、ツバキ青年の顔色が変わった。ぱくぱくと口を開閉し、うっすらと瞳に涙を浮かべている。
「…、どうやら思い至ったようだから、場所を移動しましょうか」
「そうねぇ。ここじゃ、なんだし、ね」
くのいちの二人は視線を絡ませ、ツバキ青年の横をがっちりと固めると、にっこり笑って私に向き直った。
「受付任務、邪魔してごめんなさい」
「ツバキは私たちが引き取りますから。お仕事頑張ってくださいねっ」
二人に手を取られ握手される。
「は、はい」
勢いに押されて、こくこくうなずけば、二人はとても綺麗にな笑みを浮かべた後、ツバキ青年を引きずるようにして受付所を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、ツバキ青年もお酒で失敗したのかなと考える。
それにしてもと、ツバキ青年を引っ張っていったくのいちの顔を思い浮かべ、首を傾げる。
受付の仕事柄、大抵の忍びの顔は知っているのだが、あの二人のくのいちは見たこともなかった。
一通りのことは分かっているつもりだったが、まだまだだなぁと己を省みていると、受付所に入ってくる忍びが増え始める。
「さて、今日もよろしくお願いしますね、イルカさん」
引き継ぎを終えたミツさんが隣に腰掛ける。
「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」
にっこりと笑ってそれに応え、受付任務を開始した。
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うっし、イルカ先生贔屓発動だぁぁ!!!
……この小説、カカシ先生が出ない予感が多々あります…。いえ、出てるんですけど、出ないというか…。うん。セオリー通り?
ひみつ 6