受付任務を終了し、昼休みになったところで、火影室へと向かった。
三代目ではなく、じっちゃんに、私は言わなければならない。
緊張しつつ、じっちゃんに時間をくださいと言えば、いつもの気安い調子で私の無理を聞いてくれた。
どうしたんじゃと、どこか嬉しそうに私の言葉を待つじっちゃんを見て、胸が痛む。黙っていては駄目だと自分に言い聞かせて、私は切り出した。
「妊娠、しました」
覚悟を決めたのに、じっちゃんに告げた言葉は情けなくも震えていた。
私の言葉に、じっちゃんの目がほんの少し見開いている。
じっちゃんの表情が変わっていく様を見たくなくて、視線を落とす。



「ごめんなさい。じっちゃんが、私の将来のこと心配してくれて、気遣ってくれていること、わかってたのに……。こんな形で裏切って、ごめんなさい」
ツンと鼻に痛みが走る。
本当だったら、じっちゃんには心配を掛けず、祝福だけしてもらいたかった。
じっちゃんが勧めてくれた人と幸せな家庭を作って、じっちゃんにこの人と出会わせてくれてありがとうって、とっても幸せですと笑って言いたかった。
もう二度と叶えられない夢を前に、胸がひどく痛んだ。けれど泣くわけにはいかない。
奥歯を噛みしめて、泣き言を言いそうになる己を叱責しながら、私は顔を上げる。
「相手の方の名前は言えません。私は、一人でこの子を育てたいと思っています」
拳を握りしめる。
じっちゃんには本当にお世話になった。
実の子のように、孫のように私を可愛がってくれたじっちゃんは、親類縁者がいない私にとって、掛け替えのない人だった。
「……今まで、過分なご厚情をありがとうございました。じっちゃんが私に優しくしてくれて、本当に嬉しかったです。独りぼっちだった私を、じっちゃんが心配してくれて、いっぱい構ってくれて、私……」
瞬間、じっちゃんと過ごした日々が脳裏を駆け巡って、言葉が出なくなった。
このままじっちゃんの側にいたかった。私に傾けてくれた愛情に報いたかった。じっちゃんが喜ぶことをたくさんしたかった。火影を無事に引退することができたら一緒に旅行しようって、両親にできなかった分、たくさん孝行しようと思っていた。
でも、私は最悪な形でじっちゃんを裏切った。
そのけじめはつけなくてはいけない。



「もう、会わせる顔がありません。親不孝な私を、どうか許さないでください」
真直角に腰を折る。
耐えきれなかった涙が床に落ちていく。
バカだバカだと自分を責める声と一緒に、無くしたものの痛みを強く感じるほどに、この子を大事にしようという気持ちが強くなった。
泣き顔を見せたくなくて、顔を俯けたまま、退出しようと踵を返す。
火影室のドアノブへと手を掛けた私の腕に、細く、皺だらけの大きな手が掛かった。



息を飲んで思わず見上げれば、苦笑しているじっちゃんが私を見つめていた。
自分で決めたことなのに、それを惜しんで泣いている無様な自分を見られて、身の置き所が無くなる。
優しいじっちゃんを苦しめたくなくて、手を離そうと身じろげば、じっちゃんは寂しそうに呟いた。
「イルカは、わしが嫌いか?」
思ってもみない言葉に、バカなと声をあげそうになる。そんなことは絶対あり得ないと、首を振る私に、じっちゃんは「そうか」と笑みを浮かべ、私の手を握った。
「イルカや。わしはな、おまえのことを本当の家族のように思うておる。変に頑固で融通が利かんで、貧乏くじばかり引いては、一人で何でも抱え込んで。それでも、前を向いて、一生懸命に立ち向かおうとするお前が愛おしゅうてならん」
私を見つめるじっちゃんの瞳には、失望の陰も、怒りもどこにもない。そこにあるのは、幼少時からずっと私を見てくれていた、大きな温もりで。



ひっと喉が変に鳴った。
許されていると知って、今までの比でないほど感情がぐちゃぐちゃになって、嗚咽がこぼれ出る。
「ご、めんなさ」
背を波打たせ、子供のようにしゃくりあげて泣き始めた私に、じっちゃんは「よいよい」と朗らかに笑って、昔やってくれたように節くれ立った手で私の頭を撫でてくれる。
「勝手にわしの気持ちを決めつけるでない。わしは何があろうとイルカの味方じゃ。イルカが望まぬことを、わしがするわけがあるまい」
じっちゃんの気負いのない台詞に、涙が止まらなくなる。我慢していたものが切れて、言い訳のように言葉が飛び出た。
「っだ、て、じっちゃんの、言いつけ、まもれなっ、て」



昔からじっちゃんは言っていた。
忍びだからこそ、愛する者の子を産め。そして二人で一緒にその子を愛し育てよ、と。
なのに、私がこれから産む子は片親しかいない。私がどれだけ愛情を注ごうとも、私の子は親一人分の愛情しか受けられない。
しかも、それは私が望んだことなのだ。
我が子に会いたいがために、私は自分の子を不幸にする。
両親を亡くした私は、両親の愛がこの世でどれほど希有なものかを知っている。
当たり前だと思える行為は、一つとっても当たり前ではなく、その日常は奇跡の連続だった。
生と死が身近にある忍びだからこそ、じっちゃんは私にそう言い聞かせたのだと思った。
日常が一瞬にして消える世界だから。
愛するものを亡くす痛みを、絶望の息づかいを、友として身に置かなければならぬ定めを背負っているから。
だからこそ、じっちゃんは私に言った。
忍びの最高峰である里長として、私の肉親の代わりになろうとしてくれた優しいじっちゃんとして、悔いを残すなと言い聞かせてくれたのに。



「ごめんな、い。ごめ、な、さいっ」
謝るのは、じっちゃんと、私の子供に対して。
何度も言ってくれたじっちゃんの思いを踏みにじったことと、私のわがままで片親にしてしまう自分の子供に謝った。
謝っても償えきれないものだと分かっているのに、謝らずにはいられなかった。
「本当にお主は頑固者じゃのぅ。わしに謝ることでもあるまいに。わざわざ自分から苦境に入り込んでどうする? 困ったことがあるなら、遠慮なくわしを頼ればええんじゃ」
今日からわしの家で暮らせばええと、気軽に言うじっちゃんの好意に、胸が詰まる。
じっちゃんの願いを守れなかった私は、そこまで甘えることはできなくて、泣きながら首を横に振った。
「ダ、メ。じっちゃんは私を、甘やかし過ぎる…っ。私、ダメになるから、絶対ダメ」
喉を詰まらせて言った言葉に、じっちゃんは頑固じゃのぅと困ったように漏らす。
いつものやりとりに似た会話に、安堵の息がこぼれでる。
この位置にまだいてもいいのだと分かっただけでも、限りなく幸せに思う。
これから大変じゃからわしのところへ来いとじっちゃんは何度も言ってくれたけど、私はそれに首を振る。
こうなったのも自分の責任だ。
一人で育てると決めたのだから、それを貫きたい。
それは甘えへの戒めであり、覚悟だ。



「イルカはほんに、いけずじゃのぅ。わしを頼ることは何一つないんか? わしはこう見えても火影じゃぞ?」
権力の私的有用を仄めかしてきた、じっちゃんのいつもの冗談に笑みが零れ出る。
そんなこと言っちゃいけませんと笑いながら返して、私は涙を拭う。すると、「わしには何もさせてくれんのか」とじっちゃんは拗ね始めた。
だからではないけれど、その時が来たらとずっと思っていたお願い事を口にした。
「じっちゃん。子供が生まれた時は、抱いてくれる? 私、じっちゃんに私の子供を抱いてもらいたい」
忙しいじっちゃんには無理なお願いごとだろうかと心配になっていれば、じっちゃんはぽかんと口を開けた。
次の瞬間、「当たり前じゃ」と顔を真っ赤に染めて怒られた。
「言っておくが、何があろうともイルカの赤子を最初に抱くのはわしじゃからな! そこは譲られんぞっ」と、鼻息荒く、私の子供の誕生を望んでくれているじっちゃんを見て、また涙が出そうだったから、笑ってそれに蓋をした。





******





「マキ、本当にいいよ? 身から出た錆みたいなものだし、マキにこれ以上迷惑掛けられないよ」
帰り道、先を行くマキの背に向かって私は声を掛ける。
けれどマキは自分の肩に掛かった荷物を担ぎ直しただけで、答えてはくれなかった。



じっちゃんに報告し終わった後、アカデミーへ行った私を待っていたのは、有給と産休に関する書類と、アカデミーの引き継ぎ書類、そして一様に笑みを浮かべているアカデミーの同僚たちだった。
どういうことだろうと目を白黒させている私に、マキが腕を組んで説明してくれた。
「アンタ、忍びの里舐めてんじゃないわよ? 昨日は往来で、今日は受付所でシングルマザー宣言したでしょ? 周知の事実ってやつよ」
したり顔のマキをぽかんと見ていると、アカデミーの事務方の人が書類を手渡してくれた。
「イルカ先生に任せていたら休まないだろうから、こっちが勝手に調整したわ。イルカ先生の場合、有給休暇を全く使っていなかったから、この機会に全部使わせていただくわね。お腹の子のためにも、アカデミーの生徒たちのためにも、きちんとアカデミーは休むのよ?」
「それと、担任の臨時交代をしていただきます。うみの先生には、安定期に入るまで主に事務方業務をお願いすることになりますね。生徒の誘いに乗って遊んじゃ駄目ですよ?」
「で、引き継ぎの書類がまだだから、書いてくれよな。こういう時の担任補佐だから、気にしないで頼ってくれ」
書類と一緒に矢継ぎ早に説明され、頷くことで精いっぱいの私に、最後にみんなが笑顔で尋ねてきた。
『で、何か心配事とかあります?』
至れり尽くせりとはこのことで。何て言っていいか分からなくて、じっちゃんの前でも散々泣いたのに、私の涙腺は崩壊してしまった。
迷惑掛けてごめんなさいと言おうとした私に、皆、お前の言いたいことは分かっていると、謝るのは禁止だと釘を刺された。
「誰も迷惑だなんて思っていませんよ。おめでたいことじゃないですか」
「その通りです。それより、うみの先生、他に適切な言葉があるでしょ?」
「そうそう。おれもそっちのほうがいいな」
見回せば、そこに非難の感情はなくて、私は謝る言葉を飲み込んで、頭を下げた。
「ありがとうございます。……みんな、大好き!!」
わぁぁと声をあげて泣いた私に、皆、おめでとうと言ってくれた。
その後も、アカデミーの生徒たちからもお祝いの言葉をもらい、出産に関する本やアドバイス、果ては気の早い贈り物ももらったりと、恐ろしくなるほどの過分な好意をいただいてしまった。
しかも、マキがこれから私の身の回りのサポートに入ると宣言してきた。
マキにはマキの生活があるし、十分、みんなからサポートをしてもらったから大丈夫だと言ったのだが、マキは受付に行き、私のサポートを任務扱いで申請してしまった。おまけに依頼主はマキで、自分に指名するという徹底ぶりだった。
本来ならば、依頼主が自分を指名するのは受付不備となり破棄されるものだ。けれど、受付の人たちが面白がって、依頼主を有志を募って採用し、正式な依頼として受理してしまった。
泡を食う私に、マキは任務だからと突っ張り、自分の身の回りの物を用意して、ただ今、私の部屋に向かっている最中である。



結局あれからマキと言葉を交わせず、部屋にたどり着いてしまった。
無言で部屋の隅に荷物を置いたマキに駆け寄って、私は再度言う。
「マキ。あの、本当にいいよ? あれは受付のみんなが悪乗りして任務扱いにしただけだし、無理しなくていいんだよ?」
マキにはマキの生活があるんだからと帰り道でも言った言葉を掛ければ、突然、マキが振り返った。
睨みつけるように見つめられ、びっくりしたけれど、それよりも驚いたのは、マキの瞳に涙が浮かんでいることだった。
「マキ?」
どうしたんだと声を掛けようとする寸前、マキは口を開いた。私を真っ直ぐに見つめ、ひどいと小さく唸り、声を荒げてきた。
「何なのよ、アンタ、一体何なのよ!!」
激昂するマキに、目が見開く。
何故マキが怒っているのか分からず、戸惑う私に、マキは声を張り上げた。
「私を頼りなさいよ!! 一体何のために私がいるの? イルカが困っている時、私は何もしちゃいけない訳? イルカは私にとってただの知人? 迷惑を掛けられない赤の他人な訳!?」
顔を真っ赤にして、でもとても辛そうな顔で、私を詰ってきたマキに言葉が出なくなる。
違うと、そんなつもりじゃないと、マキに分かってもらいたくて口を開けば、マキは激しく首を振った。
違うと呟き、マキはひどく痛みを感じている顔を見せる。
「違う、ごめん。違うの…!! 怒鳴って、ごめん。イルカの気持ち分かってるつもり。私のことを考えてくれているのも分かってるの。でも、寂しかったの…。私はイルカにいっぱい助けられてきたから。あんたは気づいてないけど、本当に私はあんたに助けられてきたの。いつか、私もあんたを助けたいって思ってたから、だから、あんたは人に頼らないで自分でどうにかするって真っ先に決めちゃったことが寂しくて。私の身勝手な思いだけど、拒絶されたみたいで悔しくなって……」
言葉尻が小さくなって、マキの瞳から涙が零れ出た。真珠のような涙をこぼしながら、マキが謝る。勝手なことを言ってごめんと謝ってくる。
畳の上に座り込んで泣くマキの肩に腕を回して、私も謝った。
胸の中にマキを入れて、抱きしめながら、私も謝る。
「ごめん、マキ。ごめんね。私、マキの気持ちに気付いてあげられなかった。自分のことで頭いっぱいで、マキの気持ち傷つけてた、ごめんね」
腕の中で、マキが首を振る。
それに私も首を振って、自分を省みた。
突然のことに驚いて、後は無我夢中で、とにかく前だけを見て突っ走ろうとした。
けれど、それは、今の現状を正しく認識するのが恐くて、自分の気持ちから目を逸らしていたことに他ならない。



実感もなく突然出来てしまって、しかも相手はカカシ先生で、私の旦那さんには到底なってくれない人で。
そんなカカシ先生には絶対頼れなくて、言えなくて。
私がこの子を守らなければいけないと思った。
でも、一人で育てられるのか不安で、けど、泣き言なんか言っちゃいけないと思って、周りに迷惑を掛けるのが嫌で、自分一人でどうにかしようとそればかり考えていた。
でも。



「マキ。少し、甘えてもいい?」
「え?」
呟いた私の言葉に、マキの顔が上がる。
私はちょっと困った顔をして、続けて言葉を言う。
「……ちょっとだけ、弱音吐いても、いい?」
私が言った言葉に、マキは濡れた顔をそのままにきゅっと唇を引き結ぶと、真剣な顔で私を見つめ、ひとつ頷いてくれた。



それを見た瞬間、私はマキに縋った。
マキの肩に顔を伏せて、抱きついた。
「マキ、恐いの。私、本当はすごく恐いの」
呆れるほど泣いたのに、涙が零れ落ちる。かたかたと震え始める指先で、マキの腕を掴んで、必死に縋りついた。
口でどれだけ言ったって、覚悟を何度決めたって、胸に巣くった恐怖は消えて無くならなかった。
私の体にはもう一つの命が宿っている。
それは、私が一番求めていた家族というもので、切望していた存在で。
その存在が大事であればあるほど、ふとした瞬間に思ってしまう。
「この子が死んじゃったらどうしよう。私の不注意で、この子が死んじゃうことになったら、どうしたらいいんだろう」
自分じゃない命を抱えている重さが、恐怖を呼ぶ。
たった一人でこの子を守りきれるのか、無事に出産することができるのか、不安で堪らない。
そして、
「マキ。私、お母さんになれるかな? この子のお母さんになることができるのかな? 私、この子にとって、いいお母さんになれるのかな?」
何もかも自信がない。
でも、この子はもうここにいる。
全てが後手後手で、私は今、必死に追いつこうとしている。
母という存在に。
覚悟も強い気持ちも、母として立つにはまだまだ遠く思えて、恐怖と不安だけが私を苛む。
「マキ、どうしよう。私、どうしたらいいんだろう」
自分で見つけなければいけない自信が見つからずに、泣いた。
恐いと泣いた。
先が見えなくて、不安で泣いた。
そんな私をマキは痛いくらいに抱きしめて、一緒に泣いてくれた。
「馬鹿」と叫びながら、「私も分からないけど、側にいるから。一緒に考えてあげるから」と、マキは泣いた。



二人で泣いて泣いて、顔も瞼もぱんぱんに腫れる頃、私とマキはようやく泣き止んで、自分たちのお互いの顔を笑いあった。
マキが言う。
「イルカ。私、あんたの力になれないかもしれない。頼りにもなれないかもしれない。でも、あんたを見守らせて? 私、あんたとあんたの子供の力になりたいの」
腫れぼったい顔で真摯に言ってくれたマキに、私は再び出そうになる涙を耐えながら、一度頷いた。
「はい。迷惑かけるけど、よろしくお願します」
三つ指ついて、マキに頭を下げれば、マキは吹き出すように笑って、
「うん、任された!」
胸を叩いて了承してくれた。



折しも、カーテンで締め切った窓からは日の光が零れていて。
結局、二人一睡もしていないねって、今日という始まりが辛いねと二人で笑い合う。
でも、不思議と心は軽くて、あれだけ不安と恐怖に縮こまっていた気持ちがのびやかに広がっている気がした。



今日から、私とマキの共同生活が始まる。












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新米ママさんの不安。
イルカ先生が周りの人に至れり尽くせりされるのは、イルカ先生の今までの行いだ設定です。


ちなみに、子供に対してや出産に対してなど、全て想像なので、深く考えないでください。
そして、イルカ先生はこう思うのではないかという、管理人の妄想ですので、この考えが正しいと主張するものではないと、思っていただければ幸いです。




ひみつ 7