「っていうことがあったの。よく分からないでしょ?」
洗濯物を畳みながら忍猫たちに不機嫌な訳を話せば、パックンは困ったように顔を顰め、他の忍猫たちは苦み走った笑いをこぼしてきた。
無理矢理聞きだしてきたのにその態度は何だろう。
今朝、マキが任務から帰ってきたのも束の間、私とマキは大喧嘩をしてしまい、不貞腐れるマキを置いて私はお客さんの家へやって来ていた。
「パックンもマキと同意見なの?」
私は尻軽でも人誑しでもないのにとむくれて言い募れば、パックンは我に帰ったように否定してきた。
「それはマキとやらの言い分がおかしい。イルカが悩む必要はない」
「そうそう。焦り過ぎっていうか、だっせ―よな」
「聞いてらんねぇよ、まったく」
「ぅ、にゃーにゃー」
忍猫たちは我が事のようにため息を吐きながら嘆いていた。
軽い愚痴をこぼしただけなのに、そこまで親身になってくれるなんてと感動していれば、パックンの顔が玄関先へ向く。
それと同じくして、忍猫たちのそれぞれの耳が玄関先へ向かったのを見て、お客さんが帰ってきたのだと知る。
立ち上がって出迎えに行けば、それより早く居間の扉が開いた。
「おかえりなさい」
任務から先に帰っていたパックンたちから、お客さんに怪我はないことは教えてもらっていたけど、実際目で見た方がより安心できた。
相変わらず黒い外套を頭から被っていて口元しか見えないけれど、血の匂いもしないし、動きも何らおかしなところはない。
「無事のご帰還お待ちしておりました」
頭を下げて出迎えれば、お客さんはちょっとたじろいだ様子を見せた後、小さな声で「ただいま」と言ってくれた。
嬉しくなって「はい」と笑えば、お客さんは微妙によそよそしい態度を取ってくる。任務直後でナーバスになっているのだろう。
あまり話しかけるのも悪いと思って、洗濯物を畳む作業へと戻ろうとすると、お客さんも一緒についてきた。
「どうかしましたか?」
タオルを畳みながら隣に座るお客さんに尋ねれば、お客さんは後頭部を掻きながらぼそぼそ言う。
「……だから、アンタはそんなことしなくていいのに。休養取りなさいって言ってるでショ」
視線を明後日の方向に向けて、いつもの家政婦に対して有り得ない言葉を言ってきた。
私が何かを言う前に、お客さんはパックンへやたらと険のある視線を向けた。
「仕方なかろう。イルカは何かをせんとそれ以上にストレスが溜まると言うからな。ストレスというものは人間にとって大敵なんじゃろ?」
後ろ耳を足で蹴るように掻きながらパックンは平然と言ってのける。パックン、ナイス!
お客さんの空気が若干苛立ったものに変わったが、それはため息と同時に霧散する。
「……アンタ、本当に厄介な女だーね」
唸るように言うお客さんに、私は苦笑で返した。
「私に言わせれば、お客様の方が厄介ですよ。労働に見合った報酬を受けるのは当たり前のことです。それなのに、顔を合わせば休め休めって言ってきて」
このままじゃここにはいられなくなりますと、半分本気も混ぜて言えば、突然お客さんに腕を掴まれた。
反射的に腕を取り返そうと動けば、腕を引かれ、もう片方の腕も掴まれる。
体が傾いで、膝に置いていたタオルが崩れ、床に落ちる。
気付けば、視界には天井とお客さんの顔が映っていた。
「あ、あの」
両腕を床に押し付けられ、四つん這いになったお客さんに圧し掛かられている現状に戸惑う。
パックンたちも思わぬ成り行きに動揺したようで、お客さんに向かって鳴き立てた。
「おい、止めんか! 何を考えて――」
「うるさい!」
パックンの言葉を遮ると同時に、パックンたちの気配が失せる。強制的に帰したのだと知って、ますます戸惑った。
様子のおかしいお客さんを刺激しないように見守っていると、お客さんの手がきつく締まる。微かな痛みを感じて小さく身じろげば、お客さんが叫んだ。
「逃げるな!」
間近で破裂した音に驚いて体が固まる。
動きが止まった私を見て、お客さんはようやく安心したのか、一度大きく息を吐くと、ゆっくり覆いかぶさってきた。
顔を耳元に伏せ、体へしがみ付くように抱きしめてくるお客さんに混乱する。身重の私を気遣ってくれているのか、体重をかけないようにするばかりか、抱きしめる力も加減してくれている。
「お客、様?」
こちらに危害をくわえようという意図は見えてこない。何か葛藤しているのか、耳元に落ちるお客さんの息は苦しげだった。
驚かさないように、自由になった両手をゆっくりとお客さんの背中に置く。
一瞬、お客さんの体がビクついたけれど、何も言われなかったからそのまま背中を優しく撫でた。
落ち着いてくれることを願って、背中を撫で続けていたけれど、お客さんは急に体を起こすなり私の手を跳ね付けた。癇に障ってしまったのだろうか。
どうしたら落ち着いてくれるのか必死に考えている私の前で、お客さんは苦しげに呟いた。
「アンタ、性質悪いよ。――嫌になる。何もかも全部……!!」
言葉の意味を考えようとして、頭が回らなくなった。
お客さんの手が襟元を掴んだかと思うと左右に開いた。アカデミーに行くこともなく実質任務から下りていたから、支給服ではない少しゆったりめの普段着を着ていたことが仇となった。
あっという間にボタンが弾け飛び、強過ぎる力のせいで生地が裂けた。
歪な音を耳に捕えて、始めて恐怖が沸いてきた。
「嫌!!」
離れようと腕を突っぱねた。顔を掴んで遠ざけようとしたけれど、簡単にいなされてしまう。
「大人しくしてっ、怪我させたくない!!」
男がイルカと私の名を呼ぶ。でも、応えられない。応えられる訳がない。
「嫌だ、離して!!」
めちゃくちゃに暴れる私の腕を掴んで、男が叫ぶ。
「好きだ」と、「オレと結婚しよう」と、荒い息の中叫ぶ。「お腹の子も面倒見るから、オレと一緒になろう」と何度も言い募ってきた。
男の手が這う。キスされそうになって咄嗟に顔を背ければ、そのまま頬に口付けされた。涙が出た。
「イヤ、イヤ!!!」
声が引きつる。無遠慮に撫でられる手が嫌で仕方ない。
混乱しながら噛みついて、殴って、蹴りつけても、男の動きは止まらなかった。
男の荒い息と、服が引き裂く音が悪夢のように鼓膜を揺らす。溢れ出る涙で視界が揺れる。圧し掛かる重みと体温に吐き気がした。
大きな手が素肌に触れて総毛立つ。
胸からお腹に手を移動されて、ひっと息を飲んだ。
確かめるように撫でる手は普通なら優しいと感じるものでも、私には痛かった。
触るなと渾身の力で跳ね付けようとした、そのとき。
「ぅあっ!」
今までビクともしなかった男の体が後ろへ揺らいだ。
その隙をついて鳩尾にひざ蹴りをくわえ、横に逃げると同時に起き上がり、玄関へと駆けた。
戸を開けて、もつれる足を叱責して走る。
だらしなく垂れ下がる服を前でかき集めて抱え込み、一目散に自分の部屋へ向かう。息が干上がることも忘れて駆けて駆けて、鍵を開けて自分の部屋に入り込んだ瞬間、腰が抜けた。
玄関先に座り込んで、早鐘のように鳴る自分の鼓動と荒い息をただ聞いていた。
遅れてがたがたと体震えてきて、訳もなく叫びたい気分に駆られた。恐くて恐くて、唇を噛みしめて、肩を抱くように腕を回して、恐怖の波が去るのを待っていると、不意におなかに違和感を覚えた。
ぐるぐるとおなかが鳴るような、わずかな動き。
自分の体の動きではない何かに気付いた時、おなかが温かくなった。
「……あ」
目を落として知った。
パチパチと微かに鳴る音。そして、薄らと青白い光を放っている場所は……。
「――元気、付けてくれるの?」
掠れる声で問いかければ、光は一瞬だけど強く瞬いた。
震えるほどの恐怖は微塵も感じなくなって、代わりに胸が熱くなった。
「ごめんね、情けないお母さんで。心配かけてごめんね」
薄らと光るお腹を撫でれば、光はやがて小さくなって消えていった。
消える間際、大丈夫と励まされた気がして、強張っていた体からようやく力が抜ける。
「うん、……うん!」
お腹を撫でながら、何度も頷いた。
一人でないことがこんなにも心強いなんて思いもしなかった。
ここに生きていると実感しただけで、こんなにも勇気が出るなんて知らなかった。
恐怖で零れ出た涙は、今は嬉し涙に変わっている。
まだまだ弱くて至らないことばかりだけれど、あなたの母親だと胸を張って言えるように頑張ろうと心に誓う。
そして、あなたに会える日を楽しみにしてると、お腹に腕を回して、まだまだ小さい我が子を腕の中に抱いた。
******
「イルカ!!」
夕方、夕飯の準備をしていると、マキが飛び込んできた。
随分早い帰宅に何かあったのかと不安に駆られる。
「おかえり、マキ。何かあったの?」
大根を刻む手を止め、玄関へと急行すれば、マキは真っ青な顔で私の肩口を掴んできた。
「何かあったのは、イルカでしょ!? あぁ、もう目の下真っ赤じゃない。イルカ、辛かったでしょ? 不安だったでしょ? 恐かったでしょ?」
目に涙を溜めて、マキは私の頬を撫でては辛そうに顔を歪ませた。
一体何のことだろうと考えて、今朝のことを思い出す。そういえば、ずたぼろな格好で商店街を走り抜けたような気がする。
「わ、恥ずかしい…! もしかして皆筒抜け?」
いくら混乱と恐怖に陥っているからといって、忍びらしく忍んで帰っていない自分に気付き、顔が熱くなった。
「恥ずかしい云々の話じゃないわよ! 話聞いて倒れるかと思ったんだからっ。ごめんね、イルカ。もっと私がしっかりしていれば、こんなことにはならなかったのに、本当にごめん」
深く頭を下げるマキを慌てて起こして、鼻傷を掻く。マキが思い悩むことじゃないのに。
「ううん。結局、私の自業自得。今朝、マキが言ったじゃない。人誑し、尻軽って。自分じゃ自覚していないだけで、他の人から見たらそうだったのかもしれない。……あのお客さんだって根は良い人なのに、私が知らないうちに変な媚びを売って、その気にさせて、こんなことになったと思うの。……駄目だね、わた――」
顔を上げて驚いた。マキが大粒の涙を流して、声もなく泣いていた。
「え、マキ!?」
途中で言いかけた言葉も忘れて、泣いているマキに慌てていれば、マキは涙を流したまま呆けた顔で呟いた。
「……私、そんなことイルカに言ったんだ…。私……」
ごめんなさーいと床に突っ伏し、土下座するマキにビビってしまう。
マキが言っていることは間違っていなかったから謝らなくていいんだよと言葉を重ねれば、マキはさらに号泣した。
「ごめんなさい! そんなこと一切思ったことないのに、何て事をイルカに言ったの!? 本当にごめんなさい!!」
「いや、マキ? マキ?!」
米つきバッタのように謝罪を繰り返すマキを止めようとしても、マキはものすごい力で土下座を繰り返し、跳ね返されてしまう。
一体どうすればいいのか分からずに、マキの側でおろおろとしていれば、ドアをノックされた。
天の助けだとばかりに、マキに声を掛ける。
「マキ、お客さんだから! ひとまず、ひとまず土下座は止めてね、ね!?」
まだ涙は流れていたけど、ようやくマキは土下座を止めてくれ、ひとまずほっとする。
「はい、どちらさまでしょうか?」
待っているだろう訪問者に声を掛けつつドアを開ければ、そこには誰もいなかった。
おかしいなと思った直後、下から聞き覚えのある声が聞こえた。
「ここじゃ、イルカ」
目を向けて、驚いた。
そこにはお客さんの忍猫であるパックンが綺麗に足を揃えて座っていた。
「パックン」
どうしたのと声を掛ける寸前、後ろから肩を引かれ、有無を言わさず背中の後ろに追いやられてしまう。
「……一体、何の用?」
やたら刺々しい口調と態度でパックンに食ってかかるマキに、私は慌てる。
「ちょ、ちょっと、マキ!」
パックンに失礼だと声を掛けようとすれば、鋭い声が響いた。
「イルカは黙ってて。……あんたよくもおめおめとイルカの前に顔を出せたもんだわ。あんたの主がイルカにしたことをよもや忘れてないでしょうね」
いつになく怒っているマキに、内心冷や冷やものだ。
パックンの飼い主はどう見ても上忍以上の忍びだ。だとすると、マキの言動は場合によっては不敬罪に捉えられても仕方なくなる。
マキ、もっと穏やかにと、注意しようとすれば、目の前のパックンは折り目正しく綺麗なお辞儀をしてみせた。
「すまぬ。拙者の主がしたことは、拙者ら忍……契約を結んだものとしても心苦しく思うておる。許せとはいわん。じゃが、誤解せんで欲しい」
はぁ?と明らかに小馬鹿にする態度を見せるマキを窘め、マキの背中からパックンを見れば、パックンは真っすぐ私を見上げて言い切った。
「拙者ら主に使える身としても、この度のことは許せぬ。よって、拙者ら八匹、主が無体な真似をせんようにイルカを守ることに決めた」
「……へ?」
パックンの言葉に腑抜けた声をあげる私をさておき、マキは「お」と小さく声をあげると、打って変わって態度を和らげた。
今まで見下ろしていたパックンと目線を近付けるように腰を落とし、マキはどこか嬉しそうな気配を醸し出す。
「それじゃ、あなたたちもこっちに付くってこと?」
こっち?
不可解な言葉にマキを見たが、マキはパックンと話す気満々で私を見向きもしてくれない。
「現段階的にはそうじゃが、所詮、拙者らは契約で縛られる身じゃ。信用はせん方がいいと思え」
「本音で言ってくれた方が助かるわ。八け」
「うおほんほんほん!!!」
突然パックンが咽込み、マキは驚いて言葉を止める。
一体何なのよと眉根を寄せるマキの顔に、パックンは顔を近付けるなり、耳元へとごにょごにょと何かを話し始めた。
始めこそ落ち着いた様子で話を聞いていたマキだったけど、パックンの話はマキ的に許せなかったのか、だんだんと怒気が現れ始め、終いには笑みを保ったまま般若の顔を見せるというそら恐ろしいことになってしまった。
「……不敬罪だって分かるけど、『もげろ』って伝えてくれる?」
何かを毟り取る仕草と共に出た言葉にビビる。
「……お主、中忍じゃろ? その言葉は拙者の胸の内で預からせてもらう。それでは、ここで拙者は去るとしよう。イルカ、本当にすまんかった」
最後に一礼して、去るパックンの後姿を見送る。
今朝見たパックンとは違って、今のパックンは埃まみれで汚れていた。もしかして、謝るために探し回ってくれたのだろうかと、パックンにすまない気持ちを覚えていれば、後ろにいたマキが大きくため息を吐いた。
「あー、してやられた感がひどいわ……。一体誰が裏切ったのか、色々と調べる必要がありそうね」
目をらんらんと輝かせるマキは恐かった。
一体マキの中で何が起きているのだろうかと心配で見ていれば、マキは髪の毛を掻き上げた後、にっと私に向かって笑みを見せる。
「心配しないで、大丈夫。私はイルカの味方だから」
任せてと胸を叩くマキを見て、私は笑う。
「マキで二人目だ〜」
ころころと笑う私を見て、マキは不思議そうな顔をしていたから、話して進ぜようとちょっと勿体ぶって、とっておきの話を披露することにした。
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うおお。私はカカシ先生をどうしたいんだろうか……。
予定よりずれてきました。どうなるんだ、次回!!(口T)!
ひみつ 15