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「いつもありがとうね」
私の隣をのっそりと歩くブルに感謝の気持ちを伝えれば、ブルは分かっていると言わんばかりに一度頷いた。
虎と一緒に買い物をする女として、一時期周囲の視線を浴びまくっていた私だが、1ヶ月も過ぎれば皆見慣れたようで、どこか一歩引いていた商店街の皆さんもブルに気軽に話しかけるようになった。そして今では、荷物運びを進んでやってくれるブルに感心して、色々な物を差し入れてくれる。
「今日はお肉屋さんから細切れ肉と、八百屋さんから葉っぱものもらったから煮込むね。ブル好きでしょ?」
私の歩調に合わせて、ゆっくりと歩いてくれるブルに尋ねれば、ブルは長い尾を嬉しそうに振って答えてくれた。
パックンのように人の言葉は喋らないけれど、ブルは尻尾や首の振りで私と会話をしてくれる。
細かいニュアンスはどうしても分からないけれど、おおらかな返事を返してくれるブルとのお買い物はとても心が落ち着く。
横にある頭をくしゃりとかき混ぜれば、ブルは少しだけ私の方へ頭を傾けて受け入れてくれた。
寡黙でいぶし銀という言葉が似合うブルだけれど、こうしてちょっと甘えてくれるところは可愛くて仕方ない。
「いたー! アンタはまた、勝手に部屋抜け出して!! 臨月だから養生していろって何回言ったら分かるのっ」
ふにゃとだらしない笑みを浮かべていれば、前方から怒鳴り声とともに土煙をあげんばかりの勢いでこちらに走り込む人影が現れた。
あー、見つかっちゃった。
早いもので、あと2ヶ月で出産予定日と相成る。
心配性のマキとじっちゃんは入院しろと口を揃えて言っていたが、いくら何でも早すぎるし、何といっても入院した分だけ費用が高くなるため、私は頑として入院しなかった。
オリ先生も、辛くないようなら出来るだけ体を動かしていた方がいいという助言もあり、今まで通りの生活を続けている。
「ちょっと、ブルもブルだよ! 何、一緒にくっついて出掛けてる訳!? イルカが外出するようなら私に伝えろって言ってるでしょーが!!」
八つ当たりのようにブルへ食ってかかるマキに、ブルは重々しいため息と一緒にやっていられないと頭を振った。ブルの言いたいことが分かって、私は僭越ながらブルの代弁を買って出る。
「あのねぇ、マキ。最初はブルだってマキに伝えていたでしょ。でも、そうしたらマキ、外、出してくれなかったじゃない」
「当たり前でショ! アンタ、自分が出産間近の妊婦だって分かってんの!?」
血相変えるマキに、私とブルのため息が重なる。
「もー、マキ心配し過ぎ。買い物くらいの軽い運動はしなさいって先生もおっしゃってたでしょ。それに、あの三日間は軟禁よりひどい監禁に当たるからね」
犯罪行為と眉根を潜めれば、マキはうっと言葉に詰まる。
あのときは大変だった。
お腹が大きくなり、端から見ても妊婦だと見えるようになった時から、妙にマキがそわそわしだした。おかしいなとと思いつつ、いつものように買い物へ行こうとすれば、突然、結界で部屋ごと閉じこめられてしまった。
泣こうが喚こうが、マキはあんたのためなのと言うばかりで聞く耳持たず、パックンたち忍猫がいなければ私は出産まで閉じこめられていたに違いない。
むぅと唇を尖らせてマキを睨みつけると、マキはあからさまに視線を逸らして、ごにょごにょと言い訳にもならないようなことを言っている。
「あれは、その、仕方ないというか、色々な問題があって、必要なことだったの! とにかくその荷物貸す!!」
言葉に窮したのか、マキは私から荷物を奪い取るなり、隣へ並んだ。その瞬間、微かに血の臭いと水の香りを鼻に嗅いで、胸が痛んだ。
最近、ふとした時にマキから血の臭いを嗅ぐ時がある。時間も場所もまちまちで、家へ帰ってきた時以外でも、例えば帰り道や、散歩に出た時など場所も選ばずに嗅ぐ時があった。そしてそれは以前に比べて遙かに多い。
秘密な任務に関係しているから、私にとやかく言える権利はないけど、それでも言わずにはいられなかった。
「ねぇ、マキ。私のことは本当に大丈夫。お客さんの心付けで、出産直前まで働かなくて良くなったし、申し訳ないほど私、楽させてもらってる」
生まれてくる子供の服も、私自身の服、それに家賃やら食料代やら諸々の生活費までも、お客さんの資金で賄っている。それに、何といってもお客さんの忍猫たちの存在も大きかった。
お客さんの忍猫たちは主人のためだと言いつつ、日替わりで私の部屋に泊まりにきてくれている。
アカデミーを勤務しているに加え、時折、短期任務でいなくなるマキの代わりに、私の側につかず離れずいてくれる忍猫の存在は非常に心強いものだった。
忍猫が、日替わりで私の部屋に寝泊まりをすると宣言した時、マキは声も出ないほど驚いていた。始めこそなにやら反対と言っていたけど、忍猫たちとの長い話し合いの末、折れたようだ。
誰かが必ず側にいてくれるという安心感と、お金の問題に惑わされずにすみ、お腹の子供はすくすく育ち、私自身の体調も万全だ。
ぽっこりと張り出しているお腹を撫でれば、マキの視線もお腹に向けられたのを感じた。
その視線を捕まえて、私は言う。
「だから、マキこそちゃんと静養してね。休めるときに、ちゃんと休んで。お願いだから」
服の肘あたりを握り言い聞かせれば、マキの表情が凪いだ。無感動にこちらを見つめる瞳に戸惑っていると、小さく歪んだ笑みを見せた。
「……何、言ってんのよ。私だって、大丈夫よ」
暗い影を瞳に宿したマキへ、どこが大丈夫なんだと内心思ったが、拒絶の意志を見せるマキを追いつめても逆効果だと私は口を閉じる。
そのまま黙り込んでしまったマキはそれから一言も喋ることはなく、私たちは帰途へ着いた。
「おっかえりー、イルカ! 今日の飯、何、何なの?」
アパートのドアを開けるなり、待ちかまえていたとばかりにビスケが走り込んできた。
「うわ、ビスケ。落ち着いて。今日は牛肉と葉っぱ物の煮たやつだよ」
足下へじゃれつくように出迎えるビスケに笑みがこぼれ出る。
「ほら、ビスケ。イルカが入れないでショ。大人しく居間で待っときな」
空気を一新するような明るさにつられたのか、今まで閉じていた口を開き、マキはビスケを奥へと追い立てる。
「ちぇ、いいじゃねぇかよ〜。留守番してて暇だったんだぞ」
「はいはい、ご苦労様ご苦労様。イルカ、先に手洗いとうがいして。無精せず、きっちり三分間手洗うこと。いいね!」
ぴっとこちらに人差し指を向け、細かいことを言うマキはいつものマキだった。
「はーい」
洗面所に引っ込むなり、マキはブルから荷物を受け取り、率先して冷蔵庫へ物を入れていく。
またこんなに買ってと、ぶつくさ文句を言っている言葉を聞きながら、私はほんの少しもの悲しい気分を味わっていた。
いつからかは分からないが、私に対してマキは拒絶の感情を示すようになっていた。
理由は分からない。でも、ふとした時に現れるそれを感じる度に、マキを解放しなくてはと思う自分がいる。
本来なら一人でやらなくてはいけないことなのに、マキの「側にいる」という言葉に甘えて、ここまできてしまった。
マキにもマキの生活がある。なのに、私と暮らし始めてからのマキは、ほぼ全ての時間を私のために使い、マキ自身の生活は二の次になっていた。
たまには遊んできなよと言っても、マキは心配だからと言って私の側にいてくれる。嬉しかったけれど心苦しくもあった。
オリ先生の元へ検診に行っても、マキは用が終わると私とともにすぐに出ていき、オリ先生と話そうとしない。そして、オリ先生もオリ先生で態度が変わったかのようにマキに構うことがなくなった。
マキのことを口説いていると言っていたオリ先生がマキに素っ気なくし始めたのは、よく考えると私がマキと暮らし始めてからだ。二人の関係がうまくいかなくなったのは、私に原因があるのではないかと、最近になって気付いた。
「……バカだなぁ、私…」
好き合っている二人の仲を引き裂いていた自分。
私には到底無理だから、せめてマキには幸せになってもらいたかったのに。
私を見て笑ってくれるマキが、その裏で傷ついていたことに全く気付いていなかった。
一刻も早くマキを私から解放してあげなくてはと思うのに、マキと過ごした時間が楽しすぎて、私は思うだけでまだ言い出せずにいる。
一人が入るだけで精一杯の、小さな洗面台の横の壁に貼られた、マキお手製の手洗い図を目に収める。
手を洗う順番を絵で描いているそれは、とても上手だ。マキに絵の才能があったことを、密かに驚いてしまったっけ。
「……寂しいけど、でも」
手を動かしながら、お腹へ視線を落とす。時々、ここにいるよと主張してくれる我が子は、今日は随分と大人しい。
「もうそろそろ一人で大丈夫だと思うんだ。お母さんの考え、どう思う?」
小声で尋ねた言葉に、何も反応はなかった。
それも当たり前かと、弱気になっている自分を自嘲気味に笑えば、後ろから声が掛けられた。
「イルカ、洗い終わった?」
突然のことに驚いて、体が跳ねる。相変わらずマキの気配は捕らえにくい。
今の言葉を聞かれなかったかとドギマギしながら、慌てて泡を洗い流す。
「う、うん! もう終わるから、少し待ってて」
綺麗に泡を洗い流し、タオルで手を拭く。その間、マキは黙ったまま私の様子をじっと見つめていた。
「? どうしたの、マキ」
洗面所から出ようとしたが、マキが立ちふさがっているため出られない。
声を掛けてもマキは無言のままだ。
どうしたんだろうとまじまじとマキを見て、その視線が私のお腹へ向いていることを知る。
「どうしたの? お腹がどうかした?」
もしかして、太りすぎとか言われるのかなと、ついつい食べ過ぎる日頃の自分に冷や汗を流していれば、マキは我に返ったように数度瞬きし、「いや、ごめん」と小さく呟き、体を避けてくれた。
首を捻りながら狭い廊下へと出て、今日の夕飯は何にしようかと頭の中で考える。
今日は美味しそうなかぼちゃが手に入ったから、かぼちゃをメインにしたものにしようかなと、色々なかぼちゃ料理を思い描く。
さっきまでのもの悲しい感情が一瞬にして飛び、おいしいかぼちゃ料理で頭がいっぱいになるから、我ながら単純だとも思う。
居間からビスケが顔を出し、「オレも腹減ったー!」と声を掛けられ、自分がどれだけ顔に出していたかを知る。
「ブルも腹減ったって言ってるぞー」
言われて振り返れば、狭い玄関土間を占領したブルが、直立不動と言っていいお座りを見せて、私へ期待の目を向けていた。
「ごめんごめん。すぐに作るからね。マキ、今日はかぼちゃ料理でいい?」
私の言葉にふりふりと尻尾を振り始めたブルを笑いながら、マキへと声を掛ける。けれど、返事が返ってこない。
「マキ?」
不思議に思って、背後から洗面所を覗けば、激しく流れ落ちる水の音が聞こえた。そして、遅れて目に入ったのは、頭から水を被ったのか、頭と上半身をべったりと濡らしたマキの姿だった。
びっくりして、マキの名を呼ぼうとして声が止まる。
濡れネズミになったマキは、恐いくらい厳しい表情で、鏡に映る自身を見ていた。
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「うぃー、今日も食った、食ったぁ。イルカ料理上手だなー。おれ、太っちまいそうだぁ」
お風呂から上がると、居間で腹を出してひっくり返るビスケに遭遇した。
満足ですと、普段から半目の目をもっと細めさせるビスケに近寄り、膝をついてその頭を撫でる。
「そう言ってくれると、作り甲斐あるよ」
どうせなら腹撫でろ、腹と言われたので、言うとおりに撫でれば嬉しそうに身をくねらせたので思わず笑みがこぼれ出る。
「……お前ね、忍びの使役獣としての誇りはないの?」
居間で出産関連の本を読んでいたマキが、半目でビスケを睨みつける。
ビスケはそれを無視して、もっともっとと言うから、私は両手を使って撫で回す。するとケラケラと嬉しそうに笑い始めた。ビスケの明るい声に、私も声を上げて笑う。
マキが突然頭から水を被った後、風呂場に強制連行させて湯を浴びてもらった。
風呂から上がった後は、マキはいつも通りになり、夕飯も普通に食べてくれたけど、様子がおかしくなっているマキに、私は覚悟を決めるときがきたかと思う。
「ん? イルカー、アンタ、髪の毛まだ乾いてないじゃないの。自分のことになると怠けるんだから、質悪いよーね」
ぶつくさと文句を言いながら、マキは洗面所からドライヤーを持ってきて、私の背後に座ると熱を当ててきた。
「あ、いいよ、マキ。自分でやるから」
慌てて固辞したが、マキは聞く耳を持たない。
「いいから。アンタはそこの腑抜けた獣を撫でてなさい」
腑抜けと言われたことが癪に障ったのか、ビスケは笑っていた声を止め、非難がましい目を向ける。
「何よ」
ビスケの物言わぬ主張に気づいたマキが聞き返せば、ビスケはへっと含みのある笑いをマキに返した。
「ほんっとお前というか、お前たちムカつく!」
「どこの誰かさんのおかげで、おれたち気が気でないもんでねぇ。なぁ、イルカ。あいつの頭も撫でてくれねぇ? おれたちが仲良いから、絶対嫉妬してんだぜ、あいつ」
ビスケの思わぬ言葉に瞬く。
そうなのかと、ちょうどドライヤーを掛け終わったマキに視線を向ければ、マキは口を開けたまま固まった。
「な、何言っちゃってるわけ!? お前バカじゃないの!?」
叫んだ途端顔を真っ赤にさせたマキに、私はなるほどと頷く。ちらりとビスケに視線を向ければ、同意を求めるビスケの瞳とかち合った。だったら、これはもう。
「もう、マキってば可愛いんだから!!」
「っっ!!」
何か文句を言っているマキの前で、両手を広げて抱きついた。臨月間近ということもあり、以前よりも大きくなった胸に顔を抱き込み、わっしゃわっしゃとマキの小さい頭を撫でまくる。
「ちょ、ちょっとぉぉぉ!!!」
もがくように体を揺するが、私の体を気遣ってか、激しい抵抗はない。
わずかに覗く耳が真っ赤になっているのをおかしく思いながら、マキとの久しぶりのスキンシップを続けたが。
「う゛!!」
マキは小さくうめくなり、顔を俯け、慌てた気配で私の肩を何度も軽く叩き始めた。
尋常ではない様子に体を離せば、マキの両鼻から鮮血が迸っていた。
「マ、マキ!?」
横に置いてある箱ティッシュから数枚取り、マキの鼻を覆えば、マキは涙目になっている。
「だっせぇー!! すんげーだっせぇー!!」
ゲラゲラとひっくり返って笑い始めるビスケを、マキは非常に恨みがましい目で見つめていた。
おろおろと替えのティッシュと血に染まったティッシュを片づけること数分、ようやく血も止まり、ほっと一息つく。
「顔、洗ってくる」
すんと鼻を慣らしながら、ばつの悪い顔で洗面所へ行くマキ。
私はちょっと惚けていたが、何となく私が悪いことをしたような気分になってしまい、気分転換にお茶をいれることにした。
寝る前だからと、ほうじ茶を選んで湯を入れる。
ビスケには水を用意して、二つの湯呑みと急須を居間のちゃぶ台に置いた。
一、二回、急須を回して湯呑みに注いでいると、マキが戻ってきた。また頭から水を被ったのか、マキの上半身は濡れていた。
「マキ、風邪引いちゃうから着替えなきゃ」
新しい寝間着を寝室から持ってきて手渡す。
ありがとと小さく言いながら、もそもそと着替え始めたマキの背後に座り、ドライヤーを持って準備は万端。
「……自分でするから。絶対、自分でするからね」
着替え終わり、さぁというところでマキは私に向けて言い切った。
残念、私もやりたかったのに。
絶対やらせないと鬼気迫るマキに負けて、大人しくドライヤーを渡す。
ぶおぉぉんとけたたましい音をあげるドライヤーと、その熱風に煽られるマキの髪を見ながら、私は仕方なくお茶を飲むことにした。
さて、どう切り出せばいいものだろうか。
マキが傷つくことのないようにするには、どう言えばいいのだろう。
考えを頭の中で回しながら、揺れ動くマキの栗色の髪を眺めた。
細く柔らかいマキの明るい髪は、黒一色で固い髪質の私にとって憧れのものだ。
女の子らしい、綺麗で繊細な髪。
マキもその髪がよく似合う、色白の美人さんだ。本人は目が鋭いのが嫌で仕方ないと言っているけど、切れ長の綺麗な瞳だと私は思っている。
パチンとドライヤーの電源を切ったマキが、少々顔を赤らめて不機嫌気味に咳を払った。
「……アンタね。いつまで見るつもりよ…」
マキの言葉に、我に返る。言葉を探しているつもりが、いつの間にかマキに魅入ってしまっていたらしい。
「あ、ごめん。マキ、美人だから見とれてた」
正直に話せば、マキは赤くしていた顔を硬直させ、不意に視線を下に落とした。
あぁ、また、だ。
マキの拒絶のサインに、私は胸が痛む。
今が良い機会なのかもしれない。マキが悲しむ言葉は吐きたくない。でも、いくら考えてもそんな虫のいい言葉はでてきそうになかった。なら、ありのままに言うしかないんじゃないか。
自分に言い聞かせて、口を開こうとした。そのとき。
私が言葉を発するより早く、マキが声を出した。
「……アンタは、どうして父親のいない子供を産もうと思ったの?」
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たぶん、あと一話でイルカ視点版「ひみつ」終わります。
ひみつ 18