突然の言葉に声を無くす。
まっすぐ飛び込んできた問いは、私の痛いところを強く抉った。


一瞬浮かび上がりそうになる苦痛を押し殺し、私は手に持った湯呑みを置く。
「……そんなことより、時間も遅いし早く」
寝ようと、半ば強引に話を切ろうとしたが、マキは近寄るなり腕を掴み、立ち上がりかけた私の体を制した。
「いっ」
腕を掴む力に思わず顔が歪む。身じろぐことさえ許さない強さに戸惑った。
視線を上げれば、マキは恐い顔で私を見下ろしていた。


「やめろ! また間違うつもりかよっ」
緊迫した空気を察したビスケが跳ね起き、マキと私の間へ体をねじ込もうとした直後、マキが片手印を組んだ。
マキの行動にビスケの目が大きく見開いた。
「っ、イル」
私へ顔を向け、言葉途中でその姿は煙となって消える。
「……え?」
目の前で起きたことが理解できずに混乱した。
あれは、口寄せ忍獣を返還させる印だった。
だけど、あの印を発動させることができるのは、口寄せ忍獣と契約した者以外あり得なくて。
「え?」
凪いでいた心音が遅れて、騒ぎ始める。
背中に嫌な汗がじっとりと浮かび上がるのを感じながら、私はマキを見た。


栗色の長い髪の、気の置けない友人。
強がって憎まれ口を叩くところが難点だけど、深く付き合えばそれはとても可愛らしいものだと気付く。
世話好きの姉御肌で、時々ポカをする私を怒りながらフォローしてくれて、流行に疎い私にも分かるようにさりげなく教えてくれる。
口喧嘩もいっぱいしたけどそれ以上に気が合って、一緒にいることが多かった。
私が妊娠してから、ずっと陰日向になり支えてくれた、私の親友。
ーーの、はずだった。


マキの姿が目の前で揺らぐ。
現れたのは、目深にフードを被った男の人。
見間違えようもない、私に仕事をくれたお客さん。
あの一件でお客さんとは疎遠になったけど、お客さんが用意してくれた資金で私は今、心安らかに生活できている。
感謝はすれど、不快に思ったことは一度もなかったのに。
今の、この状況に面して、私はお客さんを嫌悪した。


「っ、離してください!!」
男の手を振り切ろうと身を捩る。だけど、腕は微動だにしなかった。
体を開くように腕を斜め後ろに取られ、ちゃぶ台に足を突っ込んでいたせいで身動きが取れない。
男の意図が分からずに、私はせめてもとお腹を庇うように取られていない腕を巻き付けた。
睨みつける私の眼差しを受け止めたまま、男は何も語らない。
男に押し倒されたときの記憶が蘇る。
震えそうになる体を奥歯を噛むことで耐え、男の動向を窺った。
男と睨み合いを続けながら、渦巻く疑問で頭がはちきれそうだった。
どうしてと、いつからと、そんな言葉がぐるぐる回る。
マキは、いつからマキじゃなかったんだろう。それに、どうしてこの男は私の側にいようと思ったのだろう。
分からない、男の望むことが分からず、睨みつけている目が潤み始めるのを感じる。
泣くなと己を叱咤しても、今までマキと一緒に過ごした日々が幸せで満ちていた分だけ、どうしようもなく悲しくて辛かった。
いつから変わったのか分からないけれど、それでもあの日々の中に男はいたのだ。
私がマキだと思っていただけで、男は私の側で私を支えてくれていた。


そのとき、ふと脳裏に閃くものがあった。
マキが「その名で呼ぶな」と泣きそうになりながら抱きついた夜を思い出した。
「……うそ」
思わず声が出る。もうすでに、あのときのマキはマキではなかったということなのか。
マキと暮らし始めてから、まだ一ヶ月も経っていない頃から、マキと男は入れ替わっていたのか?


はっと息を飲み、その拍子に涙がこぼれ出る。
騙されたことよりも、正体を隠して私に近づき、見守り続けた男の考え方が痛くて、悲しくて、気付けば叫んでいた。
「一体、どういうつもりなんですか!? あなたは、私に何を望んでいるんですか! なんで、こんなことを……。他人に成り代わって私に接して、本当のあなたはどうするんです? あなた自身が行動を起こさなきゃ、何も、伝わらないのに……!!」
男の顔が見れずに、顔を俯けた。
やり方は間違っているが、男が私に心を砕いてくれたことは事実だ。雛を守る親鳥のように私へ接してくれた。温かくて優しかった分だけ、全てが分かった今、男の好意がひどく胸に苦かった。
声もなく泣いていれば、張りつめていた男の気配が揺らいだ。そして、ようやく男は口を開く。
「……ごめん。騙していたのは、謝る。ーーでも、本当のオレだったら、アンタは絶対側にいさせてくれなかったでショ?」
震える声は何を意味をしているのか。
男の意図が掴めずに瞬きを繰り返していると、男が動いた。
遅れてぱさりと軽い布の音が聞こえて、フードを取ったことを知る。
掴まれた腕が軽く引っ張られ、促されるように顔を上げた。
その先にあるものを目に捉え、息を飲む。


銀色の髪。
青色と赤い瞳のオッドアイ。
赤い瞳の瞼を通る縦に入った大きな傷。
白磁の肌に、整った鼻梁、薄い唇の素顔。
もう二度と見ることはないと思った、強く美しい、決して手の届かない男がいた。


ひっと、喉から声にならない悲鳴が飛び出た。
自分の顔から血の気が引いたことが分かる。
男は、私の反応にひどく傷ついた顔をして、詰るように私を見つめた。


「本当のオレは、はたけカカシ。……ねぇ、オレだったら、側にいさせてくれた?」
震える声で問いかけられた。
掴まれた腕が解放され、代わりに頬へ手を押し当てられた。
冷たい指先。でも、その手は大きく優しいことを、私は知っている。
頭が真っ白になったのは一瞬。
でも、その直後に、恐れていたことが起こったと理解した。


「嫌! 近づかないで、見ないで、見ないで!!!」
カカシ先生の手をはね飛ばし、ちゃぶ台をひっくり返して壁際へと逃げた。
がたがたと周辺に物音が立つ。意識の外で鳴る雑音を尻目に、視線から隠すようにお腹を抱いて、見ないでとわめいた。
はっとカカシ先生が侮蔑するような息を吐いた。それだけで体はびくつき、がたがたと震え始める。
「ねぇ、何で? 何でアンタ、オレにだけそういう態度取るの? 忍猫遣いの金持ちの男に強姦されそうになっても拒絶しなかった癖に、なんでオレだとそうなるの?」
ねぇと、カカシ先生は声を掛けながら近づいてきた。迫る気配に怯えて、思わず目を閉じる。
「答えろッ。ーー目を背けるな、オレを見ろ!!」
閉じた瞼が陰ったと思った瞬間、顎をとらえられ、強引に顔を上げられた。
反射的に見開いた目にカカシ先生の顔が映る。
カカシ先生は、泣きそうな顔で私を見つめていた。
「ねぇ、アンタは、どうしてオレだけを見ない? 他の奴らは見る癖に、どうしてオレだけを排除するの? お腹の子供、オレの子だよね? その子の父親は、オレでショ?」
問う格好で断定された。
カカシ先生ほどの人ならば、一介の教師の交友関係など瞬く間に把握し、簡単に事実を掴むことができるだろう。でも、それでも、私はーー。


「違い、ます。この子の父親は、あなたじゃ、ない」
ひきつる喉を動かし、否定した。
「嘘」と、カカシ先生は声を荒げる。私は本当ですと主張した。
「嘘を吐くのも、いい加減にしろ! ……アンタ、オレと寝たじゃない。オレ以外の奴とは全く寝てなかった! その子はオレの子だ、いい加減に認めろ!!」
「違います! あなたじゃないっ、この子の父親はあなたなんかじゃーー」
否定の言葉を吐こうとして、肩を壁に押しつけられた。その痛みで声が途切れる。
閉じそうになる瞳を開ければ、感情を削ぎ落とした表情で、それでも瞳だけはぎらつかせたカカシ先生がいた。
「否定なんてさせない。アンタ、処女だった。オレが初めての男だったじゃない。アンタの体に一晩中精液そそぎ込んだの、オレでショ。痛がって泣いてるアンタを離せずに、ずっとこの胸に抱き込んだのはオレだった、オレしかいない、その子供の父親はオレだ!!」
激しい口調で吼えられた。でも、首を振った。違うと、この子は違うと私はこぼれ落ちる涙を無視して、首を振り続ける。
カカシ先生はそんな私を見て、ひっと小さく息を飲むと天を仰ぎ、振りあげた拳を振りおろした。


殴られると目を閉じた直後に轟いたのは、真横の壁が陥没する音だった。
「……どうして……。どうして、アンタは……」
カカシ先生は嗚咽を漏らすようにか細い息を吐きながら、壁にめり込んだ拳を引き抜き、床へ膝をついた。
私の荒い息と、カカシ先生の低く唸る声がしばらく部屋に響く。
カカシ先生の唸る声は、いつしか笑い声に変わっていた。
くくくっと小刻みな笑いから、カカシ先生は腹を抱え、狂ったような笑い声を発し始める。
様子のおかしいカカシ先生に戸惑った。
前かがみになった肩へ、無意識に手を伸ばしていたのに気づき、私は手を引っ込め、左手で右手を固く押さえ込む。
揺れる自分の弱い心が嫌だった。


唇を噛みしめ、衝動を押し殺していれば、カカシ先生は伏せていた顔を上げた。
「アンタも、か」
唐突に投げかけられた言葉に反応ができなかった。
言葉の意味が分からない。
答えられない私に、カカシ先生は口端をつり上げる。
顔は青白く、悲壮な気配を漂わせている。その瞳に浮かんでいるのは悲しみの色だった。


揺れる。
どうしても、心が揺れ動く。
自分は満足していると周囲に向けて笑顔を見せるのに、その瞳の奥はいつも悲しい色で染まっていたから。
私の全てを掛けて、全部捨ててでも笑わせてあげたいと願ってしまいそうになるから、だから、頑なに避けたのに。


悲しい笑顔をこれ以上見たくなくて、声を掛けようとして、甲高い声に拒絶された。
「アンタもだ。アンタもでショ。アンタだけはと思ってた、アンタならと思った!! でも、結局、アンタもそこら辺の奴らと同じだったっ!!」
カカシ先生と名を呼ぼうとして首を振られた。激しい感情で制御できないのか、カカシ先生のチャクラが体から立ち上る。
室内に吹くはずのない風が起こり、カーテンがたなびいた。煽られるように衣服もはためき、下ろしていた髪がカカシ先生に吸い寄せられる。
「カカシ先生!!」
声を張った。カカシ先生ほどの忍びがチャクラを暴走させれば、ここら一帯を吹き飛ばしてしまう恐れがある。
周囲の心配ができたのはそこまでだった。
カカシ先生の一言で、なけなしの余裕は消え失せた。


「オレにはいらないモノだ。……消してあげるよ、そんなくだらないモノ」


信じられない言葉に、一瞬反応するのが遅れた。
気付いた時には、首を掴まれ、壁に固定されていた。
「っ、い、や!!」
腕一本で壁際に立たされた。辛うじてつま先がつくくらい。首を掴む手が首に食い込んで苦しい。
でも、問題は苦しいことじゃない。
カカシ先生の手がゆっくりと近づく。青白い光をまとわせ、私の希望を、縋りつきたい縁を断ち切ろうと迫っている。
「いや、やめて! お願いだから、やめて!! あなたの子を殺さないでっっ」
半狂乱になって叫んだ。
つま先で畳を蹴りつけ、迫りくる手を阻止しようと手を伸ばす。
「何を今更。危なくなったら、即、方針替え? イルカ先生も立派なくノ一なんだーね。……あぁ、それも今更か。優秀な子種が欲しい、優秀な忍びの血筋を残したい、名のある忍びの母になりたいって、アンタ、ずっと思って虎視眈々と狙っていたんだものねぇ」
あざ笑うように私の手を弾き、カカシ先生は酷薄な光を宿した瞳を細めた。
「残念だったーね。あと少しだったのに、最後の最後で化けの皮が剥がれて、アンタが喉から欲しかった存在は永遠に手に入らない」
涙が止めどなく落ちた。
カカシ先生の言っていることが何一つ分からなかった。
チリチリと音が鳴っている。
涙で曇る視界に、カカシ先生の右手が青く強く光る様が映った。
本気でお腹の子を殺そうとするカカシ先生に私は成す術がない。


そんなにもいけないことだったのだろうかと、絶望感に苛まれながら涙を流す。
私はただ……。
そう胸の内で呟いた瞬間、カカシ先生の手が止まった。
凶悪な光をまとう手がお腹に触れるか触れないかのところで、手は止まっている。
無抵抗な身の上に高をくくっているのか、それとも無力感を思い知らせたいのか、カカシ先生は歌うように言葉を紡ぐ。
「何? 我が子との最期の別れがしたい? いいよ、それくらいの時間は与えてあげーる」
声を出している自覚はなかったが、私は無意識に呟いていたらしい。
子供との最期のお別れ?
だったら、胸に秘めていた思いを。墓場まで持っていこうと思っていたひみつを、今、打ち明けよう。


息を吸う。
それに沿って、カカシ先生の手が若干緩む。でも、拘束をふりほどくまでの余裕はない。
ぱたぱたと涙が落ちた。


私の子供。
カカシ先生との間に出来た、愛しい我が子。
ごめんね、産んであげられなくて。
あなたに会うことを何よりも楽しみにしてきたのに、あなたを守りきることができなかった。
不甲斐無い母親でごめんね。
でも、でもね。


「幸せだった。短いけれど、あなたと一緒にいれて、私は誰よりも幸せだった」


息を吸う。
こんな形でひみつを打ち明けるバカな親を許してねと、泣きながら別れの言葉を囁いた。


「好きな人の間に出来たあなたは私の宝物だった。ずっと愛してる、カイ」





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続いてしまいました…。次こそ最終話!






ひみつ 19