よりにもよってと、そう思った。
オレの目の前には血塗れになった女が横たわっている。細身の体に似合わず下腹が出ているのは身重のそれだ。
致命傷を与えた後、下腹部に一差し、あとはでたらめに刺したそれを見下ろし、血が付着した刀から血糊を切った。
薄暗い瞳が虚空を映している。
黒く長い髪を床に散らし、真っ赤に塗れた女は妙な存在感を放っていた。
受付所を介さず、火影から直接任された単独任務はAランク。
別邸にお忍びで滞在していたターゲットが、運悪く押し入り強盗とかち合い、殺されるという筋書きに則って行ったそれは、Aランクというにはひどく易しいものだ。
ただ、そのターゲットが、大名の側室である身重女だったためにランクが跳ね上がっただけ。
依頼人は大名の腹心。理由は忘れた。大方、跡目争いを未然に防ぐための処置だったのだろう。
屋敷を荒し、目に付く金品を手荒にかき集め、屋敷を後にする。
奪った金品は、悪党面の男に変化し闇市で換金を行った。その金はそのまま臨時ボーナスにしてやると笑った火影の顔を思い出し、暗がりで物乞いをしている者たちに残さずくれてやった。
感謝の声を背中で受け流し、里への道を駆けた。
帰る道すがら、脳裏に浮かぶのは血に沈んだ黒髪の女だった。振り払おうとしても、何度も何度も蘇るそれに気が滅入る。
一つ多く命を宿していたせいか、予想よりも出血が多かった。
刃を通して感じた肉質が、手に残る。
どうして、オレに任されたのか。
どうして、身重の女だったのか。
どうして、黒髪の女だったのだろうか。
ぐるぐると回る問いに、狸爺の辛辣な笑い声を聞いた気がした。
「うーるさいねぇ」
舌打ちをして、地を蹴る足に力を入れる。
失敗しようがない任務とはいえ、Aランクと冠されたそれは、火影に直接報告する義務がある。
報告したオレに一体どんな言葉を掛けてくるのか、想像しただけで憂鬱になる。
そこまで考えて、それは違うのではないかという思いに駆られた。
嫌な気分になるのは火影に何かを言われるからではない。今から帰る先に待っているのが――。
「らしくなーいねぇ」
くっと強引に喉で笑いを起こす。
別に今日が初めてのことではない。気にかける方がバカだと笑い飛ばしたかったのに、気分は落ち込んだまま浮上してこなかった。
******
「調子狂わされる一方だーね」
寝台の上で眠るイルカ先生の顔をのぞき込み、ため息を吐く。
変化を持続させるよりは、軽い幻術で誤魔化した方が楽だという考えに至り、今日は変化ではなく幻術を掛けてイルカ先生と会ったが、蓋を開ければびっくり仰天な展開だった。
警戒していた火影からの苦言は一つもなく、そればかりかご苦労だったと労われた。
拍子抜けしたと同時に、ささくれだった感情をすり替えることもできずに解放されてしまった。
一旦自宅に戻り、落ち着かせようと試みたが、荒れた精神は鎮まる気配を見せなかった。無駄な努力だと悟ったのは日付も変わろうという頃だ。
結局、この状態で一緒にいることはためにならないと、オレを待っているであろうイルカ先生に、今晩は自宅に帰ると言ったのに。
「……無茶するよねぇ」
すよすよと無防備に眠るイルカ先生の鼻先をこらしめる意味合いも兼ねて弾けば、一瞬にして眉根を寄せ、鼻先を何回も触り始める。
うんうん唸りだしたイルカ先生にぷっと笑い、寄っている眉根を撫でれば、直に安らかな寝息に取って代わられた。
単純だねぇ。
小さく笑い、その単純な人に救われた己に息を吐く。
正直、あんな些細なことで気持ちが晴れるとは思ってもいなかった。
いつもなら、女の温かくて柔らかい体に自身を埋め、何も考えられなくなるまで腰を振り続けていた。任務が胸くそ悪くなればなるほど、一晩中ずっとその行為にのめり込むようにした。忘れた振りをし、その積み重ねで、いつの間にか消えているものだった。
それが普通だった。それがオレのなりの落とし所だったはずなのに。
「参ったねぇ」
寝台の上に突っ伏し、ぼやく。
女を抱くよりもすっきりしただなんて。胸くそ悪い気持ちも、判然とした曖昧な感覚も、手の感触も、全てが消えた。そして残ったのは、胸の温かさだった。
目を閉じ、息を深く吸った。
普段寝起きしている場所だけあって、ここは特にイルカ先生の匂いが濃い。
柔らかい、日向の香りに似ている。
幼い頃によく寝ころんでいた、森の一角を思い出した。
藪をかき分けた先にある、人一人分入れる程度の開けた場所。
地面には下草が生えて、頭上からは穏やかな光が差し込み、いつも温かかった。
九尾の一件であの辺りは焼かれ、その場所は永遠に失われたのだけど。
「ん」
寝返りした気配を感じ、目を開ける。
顔を少し起こせば、イルカ先生がこちらに顔を向けていた。吐息さえも分かりそうな距離間なのに、オレの気配を全く感じていないようだ。
イルカ先生の友人であるマキという女は、よほどの信頼を勝ち得ているようだ。それとも、イルカ先生は誰にでもこんな風に無防備な様を晒すのだろうか。
ちりっと内部を引っかかれた気がした。
腐抜けた忍びに対する憤りか、それとも、もっと別の何かか。
目の前に広がる黒い髪を摘み、親指で撫でた。
こしのある強い髪。オレの奔放で柔らかい髪とは真逆だ。
指を滑る感触が心地よくて、起き上がり、思い切って髪に手を差し入れてみた。引っかかることもなく滑る指通りは楽しい。
一撫で、二撫でして様子を窺うが、イルカ先生は目を閉じたままだ。それどころか、顔が緩み始めてきた。
「……間抜け面」
悪態がついて出るが、声の調子は笑っていた。
よだれでも出しそうな勢いで緩む唇から、白い歯がこぼれ見える。
幸せそうに緩む顔をもっと見たくて、顔を近づけた。熟睡している人を見る経験は初めてだが、案外癖になるかもしれない。
髪を撫でていた手を抜き、頬に触れた。
一瞬小さく身じろいだがそのままじっとしていれば、再び寝息をたて始める。
頬を包むように手を押し当て、少し浮かせて親指で唇に触れた。
柔らかい弾力を返す唇をいじっていると、意図せず内に入ってしまう。
今まで触れていた柔らかさとは違う硬質さを、親指の腹で確かめるように触れた。指を入れたことで上唇が浮き上がり、形が歪む。そのまま下唇を内から触れ、指を小さく動かす。
硬質さと柔らかさを一緒に楽しみながら、小さく弾くように指を抜けば、オレがいじっていたことなどなかったように、唇は元通りになる。
それが何だか悔しいとぼんやり思った時、ぎちりと間近で軋む音が聞こえ、我に帰る。
いつの間にかオレは寝台に乗り上げ、イルカ先生に覆い被さっていた。しかも、腕を縮めその唇を奪おうとしていた。
弾かれるように体を引いて、そそくさと自分の寝床へ戻る。誰も見ていないとは分かってはいいるものの、無性に恥ずかしくなって頭から布団を被った。
「……どうかしてる」
無意識にキスしようとするなんて馬鹿じゃないのかと、悪態をついた。
相手はイルカ先生。それも子を宿している妊婦。欲情するような相手では決してない。
そういえば最近ごたごた続きで、一度も抜いていない。だからあんなことをしてしまったんだろうと結論付けた。
明日あたり、誰か都合のいい女を捕まえ処理すればいいと思い立つ。
無理矢理目を閉じ、眠りにつこうとすれば、視界が闇に染まる一瞬、無防備に眠るイルカ先生の顔と指で触れた柔らかさを鮮明に思い出してしまい、オレは呻きながら布団を体に巻き付けた。
******
翌々日。
「面白いことをしとるようじゃのぅ、カカシ」
検診についてきてくれとイルカ先生に言われるがまま、のこのこと診察室に一緒に入れば、突如イルカ先生は研修生の先生に見てもらうと叫ぶなり、オレとオリを二人きりにして診察室を結界で閉じた。
何かを勘違いしているイルカ先生に、オリと二人で苦笑したのもつかの間、直後に現れたのは三代目だった。
イルカ先生の女友達に変化していたが、さすがに三代目の目は誤魔化せなかったようだ。
人好きする笑顔を浮かべ、先の言葉を言った三代目の目は笑っておらず、オレたちを断罪する気満々の孫贔屓じじいがそこにいた。
「全てカカシ先輩の提案です。おれは脅されてやったに過ぎません」
オレが何か言う前に、オリは肩口に手を挙げ、早々に事のあらましを全て白状し始めた。あー、オレって本当にいい後輩に恵まれてんな! これがテンゾウだったら一応オレを立てようと努力だけはしてくれるだろうにねっ。
三代目に事細かく説明しているオリを横から睨むが、蛙の面になんとらだった。
そうこうしている間に、オリから全てを聞き終え、三代目は笑った。思わぬ反応につい目を剥くオレとオリの二人を眺め、三代目はなおも口元に笑みを浮かべている。
「まぁ、ええじゃろ。危害を与えとる訳もなし、好きにすればええ」
イルカ先生を猫かわいがりしている三代目とは思えない、寛容な言葉だった。
何か企んでいるのではないかと訝しがるオレに、三代目は小さく鼻で笑った。
「相も変わらず、馬鹿な男よの。おぬしの行動が一体何を意味しておるか、分かっておらぬのであろう?」
編み傘の下から覗いた目がオレを貫いた。無防備な首に剥き身の刃を当てられたような危機感を覚える。
生唾を飲むオレから興味を無くしたように、三代目は視線をオリへ向け、イルカ先生の状態を聞き始める。
それに耳を傾けながら、三代目の動向を探った。表情の動き、呼気の回数、心拍数の早さ。どれだけ探っても、三代目からは何も読み取れなかった。
里の実力者から情報を得ようとする方が無謀か。相手は木の葉のプロフェッサーと称される火影さまだ。
思わずこぼした吐息を聞きつけたのか、三代目の目がこちらに向いた。先ほどの剣呑な眼差しとは違い、幾分険が取れている。
「おぬしは辛気くさいの。血色が好くなっても性格は暗いままか」
いつもならここでキセルでも取り出し一服するだろうに、三代目は腕を組み息を吐くばかりだ。
三代目の思わぬ指摘に戸惑っていれば、オリが口を挟んできた。
「先輩、鏡見ないんですか? 数日しか経っていませんけど、断然に顔色がよくなってますよ」
言われ、自分の顔を撫でてみるがよく分からないし、実感もない。
「豚に真珠じゃ。おぬしは自分に対して無頓着過ぎる。さて、今はおぬしの話よりも」
話を切り、三代目は片手に携えていた袋から数冊の本を出すなり、オレに手渡してきた。
「何ですか、これ」
受け取り、本の背表紙を見れば、どれもが妊娠出産に関する書籍だった。どれもがぶ厚く、読むのに骨が折れそうだ。
心情がありありと出ていたのか、三代目はオレの頭を容赦なく叩いてきた。
ただ振り下ろしただけだが、気配や殺気を無くし、あまつさえチャクラも若干込められたそれは結構な威力があった。くそ爺め!
絶対こぶができたと歯噛みするオレに、三代目は気むずかしい顔で告げてきた。
「イルカの元におるならば、それなりのことはしてもらう。まずは妊娠出産の知識を増やして、イルカをフォローせい。……だいたいわしの屋敷におれば、イルカに不安を抱かせることもなく、完璧に予定日までフォローしてやれたというに」
なんで一人で何でもしようとするんじゃろうのぅと悔しそうに悲しそうに愚痴をこぼす、孫馬鹿にオレははいはいとおなざりに返事をし、用は済んだと背を向ける。
「あ、先輩。これ渡しておきます」
退室しようとするオレを引き留め、オリが駆け寄り固形の物を押しつけてきた。
「……石鹸とうがい液?」
物を確認し、眉根を跳ね上げる。機嫌の悪いオレを察したのか、オリは余計なことは言わずに簡潔に説明した。
「妊婦は体が第一ですから、風邪予防にお使いください」
お前が渡せばいいじゃないと言い掛けて、三代目の目つきがやけに険しいことに気付き、口を閉じた。面倒だが爺の手前、おとなしくしておくか。
頭を掻き懐に収めれば、三代目の肩がわずかに下がった。……あんの狸爺、オレの言動によっては何か投げようとしていたな。
仮にも三代目の大好きな若い女の姿をしているというのに容赦がない。
女好きが聞いて呆れると悪態をつくオレに、三代目は指を指して命令してくる。
「イルカに診察はオリ先生にみてもらうよう伝えい。性格は難ありじゃが、腕は確かじゃ。言うことを聞かんようなら火影命令と言うておけ」
そういう手続きもとったしのと、続けた言葉にはいはいと軽く了承する。
「あと先輩、イルカさんの精神状態にも気を付けてあげてくださいね。初産は何かと精神不安に陥りやすいですから。特に、イルカさんの場合は状況が状況ですし」
ドアを開けた直後に言われた言葉に顔をしかめる。当てこすりかと振り向けば、三代目はからから笑いながらさっさと帰れと、野良犬を追い払うように手を振ってきた。
「それでは、失礼します」
後で覚えていろよとオリに視線を飛ばし、一礼して退室した。
ドアの前で深いため息を一つ落とし、頭を掻く。気疲れでどうにかなりそうだ。これならばAランク任務を連続でこなした方が精神的に楽かもしれない。
一度目を閉じ、気を取り直して足を踏み出す。行き先はイルカ先生宅だ。
心臓に悪いドッキリを仕掛けたイルカ先生に歯噛みするやら、身重の癖して一人で何処に行ったんだなどと悪態を口の中で回す。
歩く振動で跳ねる、懐の中の物が不快だった。いっそのことゴミ箱に入れてやろうかと思うのだけれど、思うだけで実行はしないことをオレは知っている。
「精神状態なら、オレだってボロボロだーよ」
小さく呟いたそれは、思いのほか大きく聞こえて内心焦った。口布をしていないと、声は結構な大きさになるのだと今更ながら知る。
病院の出入り口へ向かう中、窓に映る己を見て、つい足が止まった。
長い髪、細い肩、華奢な体つき。
見覚えのない、違和感しか覚えない顔がオレを見つめ、顔をしかめていた。
望んで選んだはずだ。これが最善だと己の中で答えをだした。それなのに。
オレを見つめる女は、ひどく辛気くさい顔をしていた。
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色々悶々しているカカシ先生。
「ひみつ」のカカシ先生視点の補完が、この先続きます。
公然の秘密 9