「……何なの、これは」
手に持った見開きの本を前にして、オレは小さく呻いた。
興味がないというよりは、そのこと自体一生関わることはないと思っていたために、認識することすらなかった本。
その本には、妊婦の過ごし方や注意すべき点、食事の取り方などが妊娠月別順に詳しく書かれてあった。
「そんな、こんなことって……」
その本の中にある注意事項を再び読み返し、生唾を飲みこんだ。
妊娠安定期までの過ごし方と見出しがついたページには、こう書いてあった。
『妊婦は疲れやすく免疫力が落ちているため、感染しやすくこじらせやすいです。人ごみの中には極力行かないこと、手洗いやうがいを』うんぬん。
目で追った一文を読み終え、再び体に衝撃が走り抜ける。
人ごみの中には極力行かないこと、だと?
弾かれたように、ベッドで眠るイルカ先生へ目をやった。
イルカ先生は時折ぷーぷーという変な寝息を立てつつ、熟睡しているようだった。


三代目に押しつけられた本を読む必要性に駆られたオレは、日中に、はたけカカシとしてが読む真似はできず、イルカ先生の家で夜な夜な本を読む羽目に陥っている。だが、こんな衝撃事実が書かれてあるなら、何故もっと早くに渡してくれなかったのかと詰りたい気持ちでいっぱいだった。
イルカ先生の今の過ごし方は、安定期前の妊婦としてとんでもなくかけ離れた生活を送っていた。
この本にはとにかく妊婦にあらゆる負担を掛けるな、ストレスをかけるな、暴飲暴食を避け、規則正しく生活を送り、心大らかにしてゆったりとした気持ちで出産に向けて鋭気を養えと記されている。
だというのに、肝心のイルカ先生はシングルマザーの不安とストレスを抱え、今まで通り仕事を続けるばかりか、同僚たちが時折やってきては相談事をして一緒に悩んで解決するために力を惜しまずに奔走するわ、やたらと重たい荷物を持ち帰り、額に汗を掻くほど料理を作りまくるわ、下校中の泥まみれのアカデミーのガキどもに囲まれてべたべたと触られるわ、近所の老人会に顔を出して細かい面倒や嫁姑の話の相談に乗ったり、受付所内で不特定多数の輩たちと接触するわ、あちらこちらで差し入れと称した物をもらい合間に食べているわで、ちっともこの本にある通りの生活が送れていないのだ。
「爺め、怠慢すぎるだろ」
口では御大層な事をオレに抜かしやがったが、実際はどうだ。身重のイルカ先生に対する気遣いがまるでなっていないではないか。
この調子だと、爺が見繕った書籍だけでは心もとない気がしてきた。
明日の朝、本屋が開いたら、いの一番に購入しよう。
そう心に決めた翌日。


「カカシ先生、迎えに来ました」
イルカ先生の同僚に変化した後、イルカ先生宅を出て、適当な物影で変化を解き、本屋へ行こうとしていたオレを引き止める声が現れた。
振り返れば、満面の笑みを浮かべるサクラと眠たそうな顔で目をこするナルト、こちらを威嚇せんばかりに睨みつけるサスケの三名がいる。
「お前たち、今日はえらく早いな。集合時間まで後2時間はあるぞ?」
しかも、今日の集合場所は住宅街の通りではなく、大門に近い川の橋のたもとだったはずだ。
指摘するオレに、サクラは笑顔を保ったまま近付くとオレの腕にしがみついてきた。
「カカシ先生の遅刻防止のためですよ。これから毎日、カカシ先生をお迎えしますんで、家の住所を教えて下さいよ? ね?」
拘束するように腕を取るサクラを訝しげに見ていれば、反対の腕にはナルトがしがみついてきた。
「そうだってばよ。そうすれば、イルカせ」
イルカ先生の名前が出た瞬間、ナルトの後ろにいたサスケの張り手がさく裂した。
すぱーんと良い音を出すそれを痛そうだなと眺め、これから始まるお決まりの喧嘩にため息がこぼれそうになる。
だが、オレの予想を裏切り、ナルトはサスケに食ってかかろうとしたが、その直前で決まり悪げに視線をさ迷わせ口を閉じた。
ナルトの常ならぬ様子に、おやと思う。騒ぐだけの子供だったのに、いっちょ前に自制心を身に付けるとは驚いた。
まじまじとナルトを見ていれば、サクラが慌てたように声を張り上げた。


「とにかく、カカシ先生の家を教えて下さいっ。私たち、これから毎日迎えに行きますので!!」
絶対だという気迫を漲らせるサクラに、内心で小さく吐息をついた。
ふむと考える素振りを見せれば、子供たちは熱い視線をオレに向けてくる。
こいつらの狙いは、ナルトの一言で分かったも同然だ。どうせ、イルカ先生のストレスの大元であるだろうオレと会わせないように監視なり邪魔するなりしたいのだろう。
イルカ先生の子供の父親はオレではないかという話が、子供たちの耳にまで入っているとは予想外だったが、さてどうするか。嘘を教えてもいいが、こいつらとは長い付き合いになるだろうし、ここで信頼関係を損ねても後々まずい。だったら取る手は一つだ。
「仕方なーいね。そこまで言うなら、特別に教えてあげる。でも、他言無用だーよ。いいね?」
少し勿体ぶった言い方でオレはとある住所を告げる。
勿論、オレの住んでいる家ではない。オレは今イルカ先生宅にいるのだから、教えろと言う方が土台無理な話なのだ。
代わりに教えるのは、とあるお面を被った後輩の住所だ。
これから毎日、子供たちがあいつの家に押し掛ける様を脳裏に描いて、つい吹き出しそうになってしまう。
きっと子供たちは、毎朝ドアを叩きながらオレの名を叫ぶのだろう。それを聞いて、聡い後輩はオレに変化してそれとなく合わせるのだ。
非情に愉快だから、このことはテンゾウには黙っていよう。あの鉄面皮にサプライズをプレゼントだ。あいつには世話になっているからお礼だーね。


くすくすと腹の中で笑い、ついでにテンゾウへ頼み事をするために式を作る。
小鳥型の式を作れば、サクラは「可愛い」と声を上げ、ナルトとサスケは瞬きして凝視していた。
アカデミーでは、鳥型の式は教えないのだろうか。初歩中の初歩である簡素な人型の式か、それとも折り鶴を教えているのか?
本物そっくりに羽ばたく式を飛ばせば、子供たちは三人そろって顎を上げて、式を見送った。
「いいなぁ。カカシ先生、いつか私にもあの式の作り方教えて下さい」
「あ、おれも、おれも!」
「……ふん」
懇願する二名と捻くれ者が一名。
そうね、いつかねと、子供たちの頭を軽く叩いて、今日の任務地へと足を向ける。これくらいの時間から始めれば、昼前には終わるだろう。上忍としての任務は入ってないため、とある準備の時間が確保できたのは嬉しい誤算だ。
「ところで、カカシ先生。あの式は誰に送ったんですか?」
無邪気な顔で聞いてくるが、目が探りを入れている。惜しいねぇ。もう少し場数を踏めば完璧なのにーね。
「あれはね、ある本を買うように後輩へ頼んだのーよ。今からお前たちと任務だから、代わりにね」
サクラは何故かオレを冷たい目で見つめてきた。何でそんな目で見られなきゃいけないのだろうか。
「――あぁ、えっちぃ本か!」
分かったと納得の手を打つナルトに、サクラはオレに向けた以上の眼光を放ってナルトを黙らせる。子供たちにとって、オレの評価はとことん低いようだ。
何だかなぁと苦笑を零せば、少し離れたところを歩いていたサスケが尖った気配をオレに向けてくる。
「随分、ご機嫌だな」
喧嘩腰の態度にため息が出そうになった。
この三人の中では一番優秀で忍びとしての実力も抜きんでてはいるが、まだまだ子供だ。自分の感情を押さえ切れず、表にさらけ出していた。
こいつは敵だ、と。
噂だけではここまで敵意を示すはずもなく、子供たちの後ろには何者かが、情報提供と協力を要請していることだろうことが透けて見えた。
お節介者はどこにでもいるもんだと愚痴りつつ、あくまで自然体でサスケに応えてやる。
「まぁね。人間、美味しいもん食って寝たら、それだけでご機嫌な生き物でショ」
思ってもいない事を堂々と口に出せば、サスケは舌打ちを返してくる。可愛くない子だーね、この子はまったく。
今日は早く任務に取り掛かれるから楽でいいねぇと嘯けば、子供たちの文句が沸いた。


******


「先輩、一体これは何ですか? 本屋の主人が不思議な行動を起こしましたよ」
不可解な顔でオリの個室へやってきたテンゾウに片手を上げて労う。元同僚で、顔も割れているために、今日のテンゾウはいつも付けている猫面を外している。
昼間という時間帯と、現役暗部という身の上を考慮して、オリの個室を落ち合う場所として決めた。オレだけが訪れた時は苦々しい顔をしていたが、テンゾウが来ると言えばオリは機嫌を直し、お茶まで入れてくれる歓待ぶりを発揮した。本当、こいつもちっとも可愛くない後輩だーよね。
「……何やらかしたんですか?」
オレの前と、テンゾウの前に淹れたて茶を置きながら、オリが責める視線をこちらに向けてきた。失礼な奴だねぇ。いつでもオレが原因って決めてかかるんだから。
「別に何にもしてなーいよ。ただ、いつか来る予行練習をさせてあげただけ。そうだよね、テンゾウ?」
小首を傾げれば、テンゾウの眉根が微かに動いた。そのまま考え込む素振りを見せたので、テンゾウが手に持っていた袋を自主的にもらい受ける。
考えに没頭するテンゾウにありがとうねと声を掛け袋から出せば、オリが横からのぞき込んできた。


「『初産に潜む危険50』『本当は怖い初産』『初産で失敗した私の体験集』……って何ですか、この偏りまくっている悪本は」
深いため息と共にオリが顔を上げた。こちらに向ける視線は呆れが多分に含まれている。
「爺が選んだ本だけじゃ心許ないから、テンゾウに買ってきてもらったーのよ。何か文句でもある訳?」
お前らがフォローしろって言ったんだろうがと睨めば、オリは大げさな仕草で額に手を当て呻いた。
「それ本気で言ってるんですか? 面倒くさいにも程があるんですけど」
迷惑かけるのはテンゾウだけにしてくださいよと、未だオレの言葉の真意を量りかねて、思考の迷路にはまりこんだテンゾウを指さす。
オリの言っている意味がちっとも理解できない。
何言ってんだかと肩を竦め、早速本に目を通していれば、オリは伊達めがねを外し眉根を押し揉み始めた。
「一体何がネックなのか、オレには理解できませんよ。認めれば楽になるでしょうに……」
不明瞭なことをぐちぐち言い出すオリがうざい。この件に関しては、三代目と似たような反応をしてきて、こちらとしても辟易してしまう。


「もう、一体何なのよ。お前らの言うとおりにしてやってんのに、訳の分からないことばかり言っちゃってさ。ストレスたまるのはこっちだっつぅの」
イルカ先生はなかなか相手のこと言い出さないし本当に迷惑と口に出せば、オリは大きくため息を吐いた。
オレに当てつけられたそれを咎めるように睨めば、オリは諦めたように口を開く。
「ではお聞きしますが、イルカさんの面倒を見るに当たって、先輩の意志は一片たりとも入っていないのですか? おれや三代目が言うから仕方なく、今まで手にも取ったことのない本をわざわざ買い求めて徹夜で読み込んでいるんですか?」
聞くまでもないことをわざわざ言い出したオリを鼻で笑う。
火影に言われたことを反故する忍びが、この里にいると思っているのだろうか。
所詮里の犬だからねーと、茶化して言えば、オリは三度目のため息を吐いた。
「そこからして間違っているんですよ。あのとき、あの場にいた三代目はイルカさんの家族としていたんです。あそこで発言した言葉はどれも拘束力を持っていないことは、先輩が一番よく分かっているはずです」
ひやりと首筋に冷たいものが走った気がした。
バカバカしいと笑おうとして、オリの言葉に制された。
「今まで好き勝手やってきた先輩が、女をはらませた恐れがあるからといって、女遊びも酒も一切止めて、その女の側にいたがるなんてこと、過去の先輩からは想像できないし、有り得ないことだとおれは思っています」
真正面から見つめてきたオリの目を一度は受け止めた。逸らされないそれに対抗するようにこちらも睨み付けていたはずだったのに、気付けばオレの方から視線を逸らしていた。


「先輩?」
テンゾウが訝しげに呼びかけてきた。
自分なりの答えを見つけ、この場に戻ってきたらしい。タイミングが悪いというか、空気が読めないというか。
オリよりも付き合いの長いテンゾウが不思議そうにオレを見ていることが、オリの正しさを証明しているようで忌々しい。
別に何でもないよと口走り、用は済んだからと席を立つ。
「え、もう行かれるんですか? 先輩、最近付き合い悪いですけど何かあったんですか? らしくないですよ」
テンゾウのまるっきり空気を読まない発言に、額の血管が蠢く。
オリはテンゾウの一言に吹き出した後、オレに背を向けて腹を抱えていた。
「もう行くよ。することあるかーら」
これ以上オリの相手をしても無駄だと出入り口へと歩を進めれば、じゃぁ僕もとテンゾウが後ろから着いてきた。
「先輩、久しぶりに飲みに行きませんか? 姐さん方が先輩に会いたいってうるさいんですよ」
随分ご無沙汰でしょと、昼間から花街へ誘うテンゾウを睨む。
「あのね。オレ、することがあるって言ったでショ。一人で行きなさいよ、一人で」
暗についてくるなとほのめかせば、テンゾウの眉が中央に寄った。
「体の調子が悪いようではないのに、どうしたんです? あの噂が出てから先輩変わりましたよ。困っているなら僕に任せてください。女の一人や二人、黙らせるなんてたや」
テンゾウの胸ぐらを掴むと同時に、ドアへ叩きつけた。黒い眼が驚きの感情を宿し、こちらを見つめる。


「勝手な行動は起こすな。アレは、オレの問題だ」
至近距離で睨み付け、言うことを聞かないならば容赦はしないと警告した。
オレの本気を悟り、テンゾウは不審がりながらも一度頷き返す。それを見て、ようやく手を離した。
体を離し、ドアを塞ぐ格好でいるテンゾウに退けと視線で告げる。
喉をさすりながら横に避けたテンゾウの脇を通り、ドアを開けた。
「……これでも分かりませんか?」
背に掛けられた声は、無視した。





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悶々、もんもん中。




公然の秘密 10