泥だらけの服を着替え、変化をしてイルカの家へ帰る。
家の扉の前でしばし立ち止まった。
一枚の薄い鉄板板からでも伝わってくる、人の気配と夕餉の匂い。
里では馴染みの光景だろうが、オレ自身は一度たりとて経験していない。なのに、懐かしいと思うのはどうしてだろう。
そこまで考え、ガキの頃見た里の風景と重なって、胸が苦しくなった。
本当は、オレは――。
「ただーいま」
自分の呟きを聞けば、全て壊してしまいそうで、己の声を無視して扉を開ける。
玄関からすぐそこにある台所スペースで、イルカは鍋の火を消しているところだった。どうやら夕飯の準備は終わったらしい。
「おかえりなさい。あれ、どうしたの?」
オレを見て、笑顔で駆け寄ってくるイルカの姿に思わず見とれていた。
らしくない自分を誤魔化すために、後頭部の髪を掻きむしる。
言い訳をしようと咄嗟に出てきたのは、紛れもない本音の言葉だった。
「やっぱりこっちの方がいいなと思った―の。距離が近いというか、何と言うか……やっぱり違うって…」
果たしてそれは、今のオレとどのオレを指しているのか。泣き言のような、愚痴めいた言葉を上らせたことを悔やんでいれば、イルカは何でもない顔をして言う。
マキは一番親しい家族、と。
その言葉に止めを刺された気がした。
「イルカ」
夕飯を食べ風呂に入った後、オレは風呂から出てきたイルカをさらうように抱きしめていた。
変化は解いた。だが、イルカには幻術でオレの姿はマキに見える。
意味のないことをしていると思う。でも、それでもオレはオレ自身の体でイルカを抱きしめたかった。
ようやく包み込めるようになった腕の中にイルカがいる。
淡い、優しい石鹸の香る体を腕に閉じ込め、風呂上りの熱い体温を味わうように抱きしめた。
胸に迫るのは切なさだ。
ようやく分かった。
子供の父親を知るためと、イルカへ近づいた。
イルカの動向を探るため、イルカの部屋に転がり込んだ。後輩の力も利用して、里の仲間に写輪眼を使ってまで、この居場所を奪った。
妊婦だからと言ってイルカの行動に制限をかけた。子供の父親を頼ればいいと、本来の目的とは裏腹の事を口走っていた。
三代目の命だと言い張り、己の意志とは無関係だと装った。
でも、本当はただ単に自分がしたかっただけ。
イルカのために、オレができることをやりたかっただけ。
だって、オレは。
アンタのことが好きなんだ。
言葉にすれば何てあっけない。
ずっと見ない振りをしていた自身に気付き、悔やむ言葉しか出てこない。
恋愛なんて男女の駆け引き以上のものはなく、任務でささくれ立った心に一時の甘い夢を見せるだけの清涼剤でしかなかった。
でも、それ以上に、オレは恐かった。
ただでさえ忍びという業を背負う者。
そして、オレは忍びにしかなれない生き物だ。
そんなものが愛する人を作れるのか、ましてや守れるのか。
家族に近しい思いを注いだ者たちは、今や全て鬼籍となった。その中に、己が殺した者もいるならば、それはなおのことオレに恐怖を与えた。
いらない。オレには不相応過ぎる。
里が平穏に、仲間たちが笑って暮らせればいい。
都合のいい夢ならば見せてあげられる。共に刹那の夢にならば溺れてあげる。でも、その先はいらない。
群がる女たちは都合のいいことに夢だけ求めてくれた。
オレのはたけカカシという名前。写輪眼という二つ名。見目のいい顔と、忍びとしても男としても都合のいい体。あとは口先で張りぼての愛を歌えば女たちは満足してくれるようにも思えた。
だけれど、共に夢に溺れていた女たちはやがて現実を欲した。
オレとの子供。
写輪眼カカシの血を受け継ぐ子供たち。里を牽引する可能性の高い、優秀な子供たち。
瞳に欲を滾らせ、次の世代を作りたいと願う。
そこで、オレだけ夢から覚める。
現実を欲した女たちから逃げるように口先で誤魔化し、また夢を求める女へ口先の愛を囁いた。
それで十分だった。
女たちもそれで満足してくれた。どうせオレは真っ当に生きられない人間。そんな人間に普通を求めるなんてバカらしい。甘い、ひと時の夢を見るためだけの存在だと、割り切ってくれていた。
オレもそんなオレに安心した。真っ当に生きられるなんて思ってなかったから、特別なものはなく、里が守りたいのだと、そこに生きる仲間が大事なのだと誤魔化した。
そう、己の中でずっと決めていたのに。
「……ごめん、変な事言い出して」
こちらの体を抱きしめていてくれたイルカの肩に手を置き、少し身を離した。
不安げな表情を見せるイルカを心配させないように笑みを作ったが、歪んでいないか気になった。
「あのさ」
オレは口を開く。
「詳しいことは言えないけど、明日から三日間ぐらい違う人物になりきるけど驚かないでね」
火影から任された、S級ランクの単独任務。
単身で潜入し、首領の命を屠れと命令されたそれは、ランクが示すように困難性と危険性、秘匿が求められる。写輪眼を持っているオレでさえ無事に帰られるか分からないもの。
オレがいない間、テンゾウがマキに変化してイルカの側にいるよう頼んだ。テンゾウはオレの頼みを不可解そうにしていたが、最後は頷いて約束してくれた。
テンゾウを置くことをかなりぼやかして伝えるオレに、イルカは何かを察したらしい。
問いたい気配を醸し出しながらも、イルカは口を噤んで、頷いてくれた。
心底心配してくれるイルカの気持ちが嬉しいけれど切なくて、オレはイルカの頬に手を押し付ける。
温かい。それと同時に、胸の奥から手の平に感じる以上の温もりが湧き上がってきた。
愛しい。
胸について出た言葉はたった一言だ。
イルカに再び会うために、そしてその隣にいるためにも、オレは死に屈することはないだろうと確信にも似た思いが湧いて出る。
こんな気持ちになったのは初めてで戸惑う。それと同時に、手放せないものを得てしまったと認めた。
ねぇ、イルカ。
オレ、ちゃんと帰ってくるから、アンタとそのお腹の子を置いていったりしないから。だから、機会をくれない? どうしようもない、逃げてばっかりで、自分の気持ちに嘘ばっかりついていたオレだけど、アンタ達と一緒にいたいと思う気持ちは本物だから。
「おまじない、してもいい?」
唐突なオレの言葉に、イルカは無邪気に頷く。
あまりに呆気なく頷くから、不用心だとと釘を刺す。
そっと身を屈め、これから起こる未来を望む自分に気付きながら、その未来が幸せであることを願い、イルカの額へ口付けた。
オレのいない三日間、だけどイルカの側にいたくて赤い色を残す。
少し痛かったのか瞬きを繰り返すイルカの額に確かに残った跡を認め、身を翻せば、イルカは「待って」と声を掛けてきた。
振り返るのと同時に、イルカの手が腕を引っ張り、体が傾ぐ。
斜めに向いた視界の中、イルカの顔が迫り、そして掠めるように通り過ぎると、イルカの胸元が視界を占めた。
寝間着から覗く、日に焼けていない白い素肌と華奢な鎖骨の線に思わず喉を鳴らした直後、額へ柔らかい感触が落ちた。
背筋が蕩けてしまいそうな甘い疼きが体に広がる中、イルカは体を離して綺麗に笑う。
「オリ先生には内緒にしてね。無事に帰ってこれるようにおまじない」
思わぬイルカからの贈り物に声が出なかった。
もう一度抱きしめたくなったけれど、今抱きしめたらきっとその先を望んでしまう。自覚した今、本能を押さえることは今までよりも遥かに難しくなったと分かるから、オレは誤魔化すように声を荒げた。
「こういうことは私以外の人に絶対しちゃ駄目よ、絶対よ!! あ、言っておくけど、明日からの私にしたら承知しないからね!!」
肩を怒らせ力説すれば、イルカは笑って「なんでー?」と茶化すように聞いてくる。だけど、それを言う訳にはいかない。イルカもオレが言えないことを察して、わざと言ってくるから性質が悪い。
「『なんで?』じゃないの! これは決定事項なのっ。はい、身重なんだからつまらないこと言わないで寝る! 私も明日早いんだからねっ」
オレの主張に、イルカは茶化す気もなくなったのか、はーいと小さく笑いながら寝室へと歩き出した。
後から追いながら、オレは決める。
イルカと結婚する。
彼女はもうオレにとって恐怖を越えた存在だから、来る未来が不幸よりも幸せを願えるようになったから、最後まで共に暮らせるようオレは全力を尽くすと誓えるから。
イルカのお腹にいる子供がオレの子供である事実を後押しに、どれだけ周りから反対されても、実行しようとオレ自身に誓った。
なのに。
オレの固い決意を打ち砕くように聳え立つ壁は生半可なものではなかった。
そしてオレは、自分の軽率な行動のツケを今更ながらに思い知る。
三代目の言霊が成就した瞬間だった。
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ようやく、カカシ先生認めました。ちょっと強引な気がしないでもない……。
そして、まだまだ続くよ、カカシ先生の受難! いや、自業自得か!
公然の秘密 15