「こら、イルカ! それは私がやるって言ってるでしょーが! アンタは安静にしときなっ」
オレがトイレに行っている隙に、台所で洗い物をしていたイルカを見つけた。泡だらけのスポンジを奪い取り、居間へと追い払えば、イルカは納得いかない顔を見せる。
「え、でも、マキは任務でお疲れだし、私、本当に何もしてないし、これくらい」
口答えをしてきたイルカへ、オレは口端を引きつらせる。
「……アンタ、今にも子供が出てきそうな腹でよくも言えるーね。約束不履行として今すぐ病院へ連れっててもいいんだーよ? ん?」
イルカの腹は、ここにきて傍から見ても妊婦だと分かるくらいに目立ち始めてきた。
早いもので、二ヶ月半後には生まれるという、いわば臨月といってもいい状態だ。
本来ならば、しっかりとした専門知識を持つプロの者たちに囲まれた中で生活しなけらばならないというのに、当のイルカときたら、「そんな大げさな」と入院を拒否してきた。
オレが口を酸っぱく言っても、ジジイである火影が掻き口説いても、イルカは決して頷こうとはしなかった。
何度も何度も話し合いの場を設けたが、イルカの意志は固く、そればかりか「あまり強要されるとストレスかかっちゃう」と、妊婦がストレス厳禁だという教えを逆手にとり、オレとジジイを脅迫してきた。
泣く泣く、オレとジジイは、アパートでの生活を認め、その際、決して無理をしてはいけない(オレとジジイの判断基準で)と約束させた。
「約束、したでショ?」
笑った顔で確認を取れば、イルカの口が真一文字に閉じた。
これ以上、何か異論を唱えるようなら、イルカの意志を無視して事に及ぶことも吝かではない。
オレの本気を感じ取ったのか、イルカはささっとオレから視線を離して、居間にいる忍犬へ声を掛ける。
「ウーヘイ〜、ブラッシングしてもいい?」
安静にしておけと言った矢先の行動に血管が蠢くが、居間にいるウーヘイから無言の抗議を受け、ぐっと文句を飲み込んだ。
あぁ、分かってるさ。イルカは器用貧乏で、何もしないことができない性格だっていうことは、一緒に暮らし始めて嫌になるくらい思い知らされた。だが。
「ウーヘイの毛並み綺麗だねー。それにいい匂い〜」
柔らかい手つきでウーヘイの短めの毛を梳きつつ、首筋に顔を埋め、イルカはウーヘイに擦り寄っている。
ウーヘイは擽ったそうに体を捩りつつも、尻尾を盛んに振っていた。顔を近付けているイルカの頬へ鼻をくっつけたり離したり、他愛ない接触を繰り返している。
それに対し、イルカは嬉しそうに笑い声をあげながら、ウーヘイの顔に自分から顔を寄せた。
まるでバカップルのようにいちゃいちゃしまくっている、恒例ともいえる光景にオレは歯軋りを禁じえない。
なんだよ、なんだよ、お前ら揃いも揃って何、イルカと堂々といちゃついてんだコラァァァァァァァァ!!!!
オレだって、オレだって、いちゃつきたいに――
「決まってんだろぉぉぉぉぉぉ!!!!」
うらやましい光景から背を向け、汚れ物を怒涛の如く洗い始めたオレの雄叫びに、イルカとウーヘイがびくつく気配がした。
オレとイルカに加えて、護衛として乗り込んできた忍犬たちとの生活は概ねうまくいっている。
まぁ、正直、さきほどのようにオレを無視していちゃついたり、静まり返った夜とか、イルカがぐっすり寝入った時とか、寝がえりを打った拍子に首筋がさらけ出された時とか、乱れた黒髪から覗く白い項が見えた時とか、桜色の唇が無防備に半開きになった時は、心底犬忍が邪魔に思えて仕方ないが、まぁ、……まぁ、うまくいっている。
それを周りも分かり始めたのか、オレは至って平穏な毎日を送っていた。
働きに出なくてもいいように用意した生活費を無理矢理にでも使わせているおかげもあり、アカデミーや受付所に足を運ぶこともなくなったイルカの様子を時折質問するくらいの大人しいものだ。
その際、皆、どことなく気落ちした顔を見せるのが不思議と言えば不思議だった。
とうとうかぁやら、結局そうなるのかーとかぐちぐちと独り言を零して去る奴らの考えていることは、オレには想像もつかない。
そして、7班の子供たちには、紳士的に世話をしているのかと面と向かって毎日聞かれている。
それに対し、毎回事細かに正直に答えるオレへ、子供たちは最初こそ胡散臭そうな顔をしていたが、やがてどことなく満足げな表情を浮かべるようになった。
「でも、カカシ先生いつから、マキさんに成り代わっていたんですか?」
私たち、マキさんと一緒にカカシ先生妨害作戦立ててたのにと、今だから言える事としてサクラはオレにぶちまけてきた。
ま、そうだろうとは思ってたし、お前らの立てた杜撰な作戦なんぞ障害にならないから。
賢明なるオレは思ったことは口に出さず、「お前ら、上司を何だと思ってんの」と苦言を呈してみたが、オレと考えが似通っているサスケは忌々しそうに舌打ちをしてきた。勘のいい奴め。
ということで、オレが姿を借りている、いとのマキ中忍は、この里内において只今絶賛ぼっちで、己が置かれている状況を知らないまま、はたのオリに囲われている生活を送っている。
まぁ、あそこはあそこで、何やら進展がありそうな気配があるので、里の人口が増えることを鑑みてもいいことであろう。
唯一つ、文句があるとすれば。
「先輩、今度こそ古巣に戻ってくるんですか?」
イルカさんのことどうするつもりなんですと、暗部待機所で血塗れの服を脱ぎ捨てている後輩が聞いてきた。
後輩が言うのも頷ける。
最近のオレは7班の任務に加え、正規の任務、そして暗部の任務にも駆り出されているのだ。
まだ7班と正規の任務はいい。独り身だった時と変わらぬ任務体系だし、イルカとの生活にもおおむね支障しない。だが、暗部の任務は別だ。あれは時間を選ばず、しかも緊急性のあるやけに捻くれた任務満載で、時間はもちろん体力気力ともに大幅に殺いでくれる。
そんな厄介な任務をオレに投げることが出来るのは唯一人。
イルカの自称保護者の、孫可愛さのあまり私情に走った、とんだ惚け爺こと、火影さまに他ならない。
オレの周辺は皆、イルカとオレとの仲を渋々ながら認めるような気配が漂い始めたというのに、唯一人だけ、断固としてオレを排除せんばかりに嫌がらせをしてくる。
わしがそうそう許すと思うなよと、暗部の任務を言い渡してきた禿ジジイが脳裏に浮かび、舌打ちが出る。
「バカ言ってんじゃないよ。可愛い妻と、これから生まれてくる可愛い我が子のためにも、労働条件最悪のとこに戻る訳ないでしょーが」
返り血がかかった服を脱ぎ捨て、専用の廃棄箱へと投げ入れる。
オレの言葉に、苦笑にも似た笑い声が待機所を満たした。今までは失笑が沸き起こっていたもんだが、今は許容の念が含まれている。
「……そうなんですか。もし、先輩が戻るようでしたら、僕が代わって差し上げるんですけど」
何と代わるつもりだ、お前。
オレとやるつもりかと臨戦態勢でねめつければ、横にいた後輩がテンゾウの肩に手を掛け、オレから遠ざける。
「ま、まぁまぁ、カカシ先輩、押さえて押さえて。テンゾウ、お前、空気読めよ!」
テンゾウは相も変わらず首を傾げ、オレの神経を逆撫でてきたが、物わかりのよい後輩たちがこちらで再教育しますと言ってくれたので、引いてやることにした。命拾いしたな、テンゾウ。
本日の暗部の任務も最短の時間でこなしたが、イルカが気がかりだった。何せ、イルカはオレの目がないと無理ばっかりをするのだ。
暗部待機所のシャワー室で手早く血を洗い流し、早々に家へ帰ろうとロッカーに置いてある新しい支給服を手に取ったところで、待機所入口に飛び込んできた気配を感じ取った。
嫌な予感を覚え、着替えを手早く済ませ、口布を引き上げたところで、入口に駆けこんだ奴がオレをまっすぐに見つめ言った。
「他里の忍びに侵入されました。狙いは、うみのイルカとその子供です」
******
里に侵入した他里の忍びの情報を聞いた後、俺は影分身にイルカの確保を、忍犬を口寄せしイルカの生活範囲周辺に散開させた。
追跡型や感知型の使役獣がいる奴らもその忍びを探し出すために、自主的に行動した。
正直面白くないことばっかりだけど、こういう緊急時のときは里のみんなのイルカという立場は非常に心強い。
その筆頭である火影さまも必死こいた成果か、ほどなくして他里の忍びは見つかった。
忍犬と連携してその忍びを森の外れへと誘導させる。無論、他の奴らには知られないように迅速に、秘密裏に。
「どうもー。ご指名ありがとうございます」
四方を木々に囲まれた広場にきたところで、男は誘導されたことに気付いたようだ。
手負いの獣のような気配を出して周囲に視線を向ける男の前に姿を現せば、男は血走った目をオレに向けてきた。
「はたけ、カカシ」
見飽きた感のある憎悪の眼差しに晒されて、オレは口布の下、小さく笑ってしまう。
念願の仇に会えたと喜びの気配さえ滲ませる男へ一歩近づく。
「さぁて、オレはアンタの顔知らない訳だけど。一応、訳聞こうかな。どうして、オレではなく、イルカやその子供を狙ったの?」
オレの言葉に男はいやらしく唇を釣り上げた。
「知れたことよ。貴様が絶望する姿を見たかった。貴様も俺と同じ目に遭わせてやる。それだけを糧に今まで生きてきたッ」
オレに会えたことによる興奮か、それともすでに頭がおかしいのか。
男は口端から泡を吹きながら、荒い呼気を繰り返す。
木の葉の里に侵入できた時点で、男はある一定以上の腕を持つことは確かだろう。並みの上忍との一対一の勝負ならば、この男が勝てたかもしれない。だが。
腹からこみ上げる笑いが我慢できずに噴き出す。
笑い出したオレへ過敏に反応し、わめき始めた男に憐れみさえ感じそうだ。
背後に控えていた忍犬がオレの変化を察知し、後退する気配が伝わる。さすがオレの忍犬と内心で褒めながら、ぐだぐだとわめき散らす男の言葉の断片を聞き取る。
まとめれば、任務中の交戦で伴侶である忍びをオレが殺したということだ。
無念を、恨みを、憎しみを吐き出す男の言葉に相槌を打ちながら、オレは無造作に男へ近づいた。
なんて醜悪。なんて哀れな男だろう。
武器さえ携えず、無防備に近づくオレを前に、男は罵るしか術を持たない。
何故なら、もう男は首下以外の筋肉は使い物になっていないからだ。
姿を現すと同時に、男に自覚させる暇もなく手足の腱を切ったオレは、男の傍らについた後、見下ろした。
地面を足掻くこともできず、首を起こしてオレだけを見つめる男へ目を細める。
「貴様貴様があぁぁぁぁ!!!!」
意味不明な言葉も交じり始めたことだし、口汚い言葉も聞き飽きたので、容赦なく口元へ足を叩きつけ、そのまま踏みつけ塞いでやる。
濁った音を吐き出して、眼差しだけでオレに明確な殺意を伝える男へ優しいオレは教えてやった。
「仇討ち? 怨恨? 逆恨み? 結構。実に結構だーねぇ。忍びという因果な商売してんだ。きれいごとでやってらんないよーね。でもさぁ、思わなかった?」
血塗れになった口元を抉るように踏みにじり、オレは腰を折って顔を近付ける。
「自分がしようとしたことを、そのまま相手にされたって文句は言えないよーね?」
オレの言葉は男の何かを引っ掻いたらしい。
狂っていた頭に理性が戻ったことが男にとって不運だろう。だが、オレにとってはひどく喜ばしい。
恨みの言葉ではなく慈悲を求める言葉を吐き出した男へ、オレは心底愉快で笑ってやった。
忍びの癖してなんて甘い考えを持っている男か。自分が何に手を出そうとしたのか、まったく分っていないことが業腹だ。
「せめてオレだけを狙えば、感動の再会が出来たかもしれないのーにねぇ。本当に可哀相」
背後から鼻がいい後輩たちの気配を捉える。邪魔が入らぬうちにさっさと仕上げてしまおう。
恐怖に染まる瞳を見つめ、左目にかかる額当てを押し上げる。
男の目が見開く。
「アンタにふさわしい悪夢をあげる。永遠に覚めない、極上の悪夢をーね」
声なき悲鳴を聞きながら、写輪眼を発動させた。
「……先輩。何、してくれちゃってるんですか。これじゃ、情報が抜き取れませんよ」
靴の裏底についた血が不快で、地面にこすりつけていれば、一番乗りしたテンゾウが呆れた声をあげた。
「ん〜? あ、それもそうだーね」
警邏隊を呼ぶ笛を吹いた後、目をひっくり返し、びくびくと四肢をびくつかせている男を見下ろしながら、テンゾウはため息を吐いた。
「先輩を直接叩いた方がよほど楽に死ねたでしょうに。……ちなみに何見せてるんです? 人の肌の色じゃなくなってますよ」
青紫にうっ血し苦悶した表情を見て、オレは笑う。そのうち血の涙でも流しそうだ。
「オレに殺されそうになった相手を助けるために、死に物狂いでオレを殺した瞬間、オレがその相手になっているっていうのをバリエーション変えて永遠に繰り返していく夢。ちなみに今わの際に、恨み言が一言プラスされるの。そんで自分も、相手も記憶を蓄積していくおまけつき」
猫面を被っているため顔は見えないが、テンゾウの気配が少し引く。
「……先輩、もしかしてぶち切れてます?」
テンゾウの言葉を笑って誤魔化した。
「それよりも、だ。案外、早かったーね。オレとイルカの関係がもう里外に漏れてるとはねぇ」
嫌になっちゃうと軽く言うが、テンゾウは黙したままだ。
オレのしたことが少しは牽制になればいいのだが、馬鹿はどこにでもいる。火影さまを巻き込んで、手段を講じた方がいいかーもねぇ。
あれこれと思いを馳せているうちに、警邏隊がやって来た。
「よし、それじゃ、オレ帰るわ。後はテンゾウ任せた」
「は!? ちょ、先輩、あなたがしたこ」
テンゾウに全てを丸投げしてオレは瞬身する。
着いたのはイルカのアパート前だ。
強固な結界に囲まれたそれを見て、ほんの少し安堵の息を吐き出す。これならば滅多な相手ではない限り、イルカを守ることができる。
それでも気が急いて、アパートの階段を上り、イルカの部屋へ続く外廊下へ差し掛かった時、いとのマキへ変化していた影分身がオレに気付いた。その足元には口と両手足を拘束されて転がっているパックンがいる。
「どうやらそっちは終わったようだーね。じゃ、戻るよ」
オレの様子にどこかほっとした顔を見せ、影分身が消える。途端に影分身が見聞きした記憶が一気になだれ込んだ。
いとのマキに変化した影分身が、買い物に出ようとしたイルカに有無を言わせず部屋の中へと押し込める映像。突然のことに動揺するイルカを守るように出たパックンに説明するのも惜しくて拘束して外に放った。イルカは戸惑う顔でオレを見て、それを振り切るようにしてオレは結界を張った。
うーうーと不鮮明な声をあげながらもがくパックンの元へ歩み寄り、オレは無言で拘束を解く。
「っ、ひどい目に遭ったわ。カカシ、お前は一体何を……」
パックンの声が止む。
オレは馬鹿みたいに零れる涙を、片手で覆って隠す。そのまま、部屋の戸に体を預け、額をつけた。
「……良かった。何もなくて、よかった……」
こぼれ出る言葉は情けなくも震えている。それと同時に体も震え、自分がいかに恐怖を覚えていたかをこの時になってようやく自覚した。
覚悟していたはずだったのに、実際起こると信じられないほど自制が聞かなかった。
恐い。恐ろしい。
自分という存在がこれほど呪わしいと思ったことはなかった。
だが、それでもなお、ともに在りたいと願う心は消えてなくならない。命の危険を晒すことが分かっていながら、イルカを手放そうとは思えない。
もっと強く。
もっと強く在りたい。
里への忠心を捧げていた頃にがむしゃらに思っていた時とはまた違う、切実で、狂おしいほどの熱を胸に感じながら、ただイルカを思った。
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そして、三日間の監禁につながるという。
公然の秘密 19