最近のイルカは、一人でなんでもするようになった。
臨月間近でも少しの運動はしなくちゃと言いながら、本来ならばオレが任されていた役割も先回りしてこなす。
その度、オレはしっかり体を休めと叱りつけるのだが、イルカはそんなオレをすまなそうに見つめ、オレこそちゃんと休んでくれと言う。
壁を感じた。
イルカの側に近づきたいのに、イルカは目を離すとオレから離れていく。
オレはイルカの手を掴み、何度も引き留めるが、イルカは困ったように笑って言うのだ。
「マキ、お願いだから無理はしないで」と。
無理なんかしていない。
そうオレは言うが、イルカはもっと困った表情を浮かべ、そして続ける。
「マキもたまには私のこと忘れて、遊んできなよ。思いっきり羽伸ばしてきて。ね?」
自分は大丈夫だからとオレに微笑むイルカが憎らしくて仕方なかった。
イルカが今接しているのは、オレではなく友人のマキだと思っているのは分かっている。
けれど、本当は全部知っていて、オレを遠ざけようとしているのかと勘ぐってしまいそうになる。
そんなオレは時折、不穏な気配を滲み出しているらしく、忍犬たちは気遣わしげな視線を投げかけてくる。
その度にあのとき傷つけてしまったイルカを思い出しては、自分の思いこみを打ち消すのだけれど、それでもこの胸に降り積もっていく負の感情は消えるどころかだんだんと深く、重く、オレの胸にへばりついている。

鬱屈した思いを晴らすべく、忍犬たちに話しもした。
お前の勘違いだ、思いこみだと、忍犬たちは口をそろえて言ってくれたが、それでもオレは安心できなかった。
だって、イルカは気付けばオレから視線を外し、自分の腹を見ているのだ。
愛おしそうに、幸せそうに。
そこだけ春の日差しを浴びているかのような、温かい気配を生み出して、イルカは自分の腹の中にいる我が子と語り合っている。
その姿を見る度、わめき散らしたくなった。
なぜなら、そこにオレという存在はいないから。
友人であるマキでさえも。
マキになったオレでさえも。
当然、オレというはたけカカシも。
イルカは我が子と二人で完結した世界を作り上げている。

止めてよ、待ってよ。一人で勝手に終わらせないでよ。
オレもいるんだ。
イルカはオレが抱いたんだ。望んで、アンタを抱いたんだ。
お腹の子の父親でもあるオレがここにいるんだ。
全部受け止める覚悟も、アンタと共にいるために我慢が必要だってことも、アンタを守るための強さも、色んなものが必要だってことも知ったんだ。
だから、待って。
オレがアンタの側に行くまで待ってよ。
オレがいない間に、離れていかないでよ、イルカ!!

「? マキ、どうしたの?」
うっとりした顔で腹を撫でていたイルカが、いつの間にかオレを見ていた。
視線がオレに向いたことを喜ぶと同時に、偽りの名を纏うオレを気遣うイルカに失望を覚えた。
身勝手なことは分かってる。だけど、押さえきれない。
「……何でもない」
なけなしの理性で言葉を吐く。笑みを浮かべようとして失敗して、イルカの前から逃げた。
逃げ込む先は、今の己を嫌でも自覚させる洗面所だ。
暖色の光に照らされた鏡に映るのは、青白い顔をした華奢な女の顔。
女は歪に顔を撓ませ、苦しそうな表情を浮かべる。
なんて滑稽な。
そんな思いが突いて出る。
痛烈に思い出すのは決まって三代目の呪詛の言葉だ。
あの頭の切れる爺の言葉通り、オレは苦しみのただ中にいる。
八方塞がりだ。
イルカを大事にしたい、守りたい癖に、イルカに対して怒りを覚える。疑いを向けてしまう。憎しみすら抱いてしまいそうになる。
ゆだった頭を冷やすために頭から水を被った。
水の勢いが強すぎたのか、上半身まで濡れてしまう。
水の冷たさは幾分冷静さを引き寄せたが、ずぶ濡れになった女の顔は未だ険しい表情を崩してはいなかった。


今となっては、言い訳に過ぎないが、そのときのオレはすでに限界に達していたのだ。


他愛もなくじゃれあって、総じて態度の悪い忍犬と言い合って、いつも通りの夜を過ごせたはずだった。
けれど、オレはその一線を越えてしまった。

「……アンタは、どうして父親のいない子供を産もうと思ったの?」

何か言いたそうな、オレにとってはろくでもないことを口にしそうなイルカの気配を感じ、気付けばそう口走っていた。

イルカには一番触れられたくない話だったようで、微笑んでいた顔が瞬時に強ばる。
下手な言葉で去ろうとするイルカの腕を捕まえて、触れたイルカの体温に箍が外れた。
これ以上、自分の思いこみを信じたくなくて、イルカの本心が知りたくて、共に在るための可能性を信じたくて、何よりイルカを逃がしたくなかった。
「やめろ! また間違うつもりかよっ」
ビスケが情けない主人の行動を止めるべくこちらに向かってくる。
ごめんね、ビスケ。でも、これ以上押し殺すと、きっとオレはイルカをもっと傷つけてしまう。
ビスケを返還する印を切ったところで、イルカは何かに気付いた顔をした。
あぁ、そうだった。そうだね。アンタの友人であるいとのマキが、アンタの護衛を務める忍猫を返還できる訳はないんだったね。
今のオレがイルカの側にいるためのたった一つの約束事を破ってしまった。
普通なら青くなるところなのに、何故かそれもいいと思っている自分がいる。いや、それどころか嬉しく思う自分がいる。
もう隠す必要がないならば、一つずつイルカに真実を見せよう。
オレを見つめるイルカの前で、いとのマキに見せていた幻術を、もう一人のオレに変える。
フードを目深に被った、イルカを雇っていた客のそれ。
姿を変えたオレを見つめるイルカの瞳は大きく見開かれ、次の瞬間には嫌悪にとって変えられた。

「っ、離してください!!」
振り払うように腕が振るわれたが、すでにイルカの体は拘束したも同然だ。ちゃぶ台に下半身を入れた不安定な状態で、腕を押さえれば、イルカはほぼ身動きすら取れない。
そのことに気付いたのか、イルカは腹を庇うように体を縮こませる。その反応はある意味正しいのかもしれない。
イルカが頑なになる原因はその腹に起因しているのだ。どうやらオレは忍犬の言うとおり勘違いしていたらしい。
オレが怒りを、疑いを、憎しみを覚えていたのは、たぶんこっちだ。
イルカの腹に住む者だ。

解けていく己の思いに久方ぶりに気が晴れた思いがした。
オレが己の中のものと折り合いをつけている間に、イルカはようやく気付いたらしい。
いつから「いとのマキ」に成り代わり、「オレ」が側にいたのか。
イルカを今まで支え、見守ってきたのは誰なのかを。

顔を歪ませ、悲痛な声で泣き始めたイルカにはすまなく思った。騙していたのはオレが悪い。覚悟が持てず、自分の本心すら見極められず、遠回りな道ばかりを選んでしまった過去のオレは一番の元凶であり、諸悪の根源だろう。でも、でもね。
「本当のオレだったら、アンタは絶対側にいさせてくれなかったでショ?」
頑なに子供の父親のことを言わなかった。
それが何よりの証拠。
アンタはオレを避けていた。

一番認めたくなかったことを口にした。
それと同時に、顔を隠していたフードを頭の後ろに落とす。
見開かれる目。
ようやくイルカがオレを見た。オレ自身を、はたけカカシを。

たったそれだけのことが嬉しくて、笑おうとして凍り付く。
イルカはオレを見て、小さく悲鳴をあげた。何か恐ろしいモノに出会ったと言わんばかりに顔を青ざめさせて、オレを拒んだ。

ざくりと何かが切り裂かれた。
そこから吹き出したのは血よりも濃い何かで、それは真っ黒い色をしている。
口が勝手に問いを投げかける。
イルカの腕を解放して、代わりに頬へ手を伸ばす。
真っ黒い何かはオレの周りを囲みこんで、生き物のように蠢いている。
イルカの体温に触れたのは一瞬。
直後に返されたのは、激しい拒絶だった。

「嫌! 近づかないで、見ないで、見ないで!!」
叩かれた手が熱かった。それと同時に急速に視界の色が薄まった。
オレから逃げるように壁際に張り付くイルカを見て、言葉を失う。そんなオレをあざ笑うかのように、真っ黒い何かはオレを飲み込んだ。
感情がもう、制御できない。

怯えるイルカに、怯えさせることしかできないオレに笑えた。
滑稽すぎて頭の中がおかしくなりそうだった。
一つ息を吐いて、イルカへ問う。
そんなにオレが嫌い? そんなにはたけカカシという男が嫌なの? 強姦未遂されそうになった男でさえ許そうとするのに、オレだけは別なの? オレはアンタにとって存在するのさえ疎む人間だった?

オレの問いに答えず、震えながら目を閉じたイルカの前に立った。
顎を掴みオレを見ろと強要する。
真っ黒い瞳がオレを捉えた。それだけのことなのに歓喜に沸き、まだイルカに期待をしている自分を自覚する。
願い、乞い、祈り、揺るがない事実を口にした。
それでも返ってきたのは、否定だった。

「嘘」
頑ななイルカに叫んだ。
憎い、疎ましい。そして、何よりもイルカと二人きりの世界を作る腹の子が羨ましくて、妬ましい。
それでも自分と繋ぐ唯一のそれを頼りに叫んだ。
自分と繋ぐそれを認めてと願ったのに。
イルカは否定する。首を振る。
あなたではないとオレを見つめて、そう言い切った。

「……どうして……。どうして、アンタは……」
イルカの答えが認められなくて信じられなくて、気が抜けたように膝から崩れ落ちた。
分からない。
イルカの考えが分からない。
イルカ以外の者は、オレが腹の子の父親だって知っている。それなのに、どうして当の本人がそれを否定する。違うと嘘をつくのだ。
自分の頭では考えが及ばなくて、答えが見つからなくて、気が狂いそうになる。
何故、何故と何度呟いたか知れない。
そのうち遠い記憶にある女の言葉が脳裏に過ぎった。

『あんたの子供だけ欲しいのよ。その優秀な遺伝子を引き継ぐ子供が、ね』

うねるように長い髪に覆われた、輪郭が浮かび上がる。それは赤い口紅をつけた口を開いて、囁くように続けた。

『あんたの抜群の容姿と忍びの才。それがどれだけ女にとって価値のあるものか分かる? 所詮女は子宮で考える生き物なのよ。優秀な子種を常に求めているの。まぁ、植え付けるしか脳のない男には分からない感覚でしょうけど』

口端を引き上げ笑う女が誰だったかはとうに忘れた。それが証拠に女の唇と髪しか覚えていないのだから。
けれど、それが真実だと悟った。
男だから分からない。女のように育み生む生き物ではないから、それがどれだけ重要なことなのか、男のオレには理解できない。
悟ると同時に、絶望した。
まさかと思った。
信じたくなかったことが真実だった。
他の女ならば別に構いはしなかったのに、どうしてよりにもよってイルカもそれだったのだろう。

欲しかったのは子種だけ。
オレという優秀な忍びと極上の容姿を持つ男の遺伝子が欲しかっただけ。

ねぇ、イルカ。
オレはね、本気だったんだよ。
初めて望んだの。
失ってばかりのオレが初めて、アンタと共に在りたいと願ったんだ。
これからは失うことを恐れるのじゃなくて、失わないように努力することを自分に誓ったんだ。
だから、だからね。

ーーそんなもの、いらない。
消して、そこから二人だけでやり直せばいい。
遺伝子を望む余計なものは消して、最初から始めようよ。




ほら、これでお互い様。



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あれ? 病みカカシ??







公然の秘密 20