翠玉 3
夢を見た。
大きくて温かいものに包まれている夢で、何の不安も恐れもなく、私は健やかな微睡みの中にいた。
温かいものは時折、私の顔を撫で、優しい感触を瞼や頬に残していく。
その感触があまりに幸せすぎて、父ちゃんや母ちゃんの手や唇を思い出してしまった。
嬉しくて、懐かしくて、困ったことに胸が切なくなった。すると包んでくれているものは、私の切ない気持ちを察してくれたのか、きゅっと一度体を締めつけてくれる。そして、小さな囁き声が聞こえてきた。
「待たせてごめんね。でも、あと少しだから、もうちょっと待ってて」
その声はとても優しくて温かくて、私の切なさを癒してくれる。
ちょんと鼻の真ん中あたりに触れた感触がこそばゆくて、小さく笑えば、声はため息を漏らした。
「虫避けのはずが、とんだ逆効果になるとはーね」
まったくもって今も昔も厳しいねぇと、ぼやいた声があまりに情けなさすぎて、つい吹き出してしまった。
トントンとまな板を叩く懐かしい音に、意識がゆっくりと浮上する。
目をつぶったまま鼻を動かせば、優しい味噌の香りが鼻をくすぐった。その匂いに混じって、ご飯の炊けたいい匂いと、魚の焼ける匂いもする。
夢の続きかもしれないと寝返りを打ち、思う。
まだ両親がいた頃、朝になるとこうやって包丁の音と、味噌汁のいい匂いが漂ってきた。
そして、父ちゃんが言うんだ。
「イルカさん、朝だよ。一緒にご飯食べよう」
そうそう。それで、私と寝汚い母ちゃんがようやく起き出すのだ。
……ん、イルカさん?
思い出した声と、聞こえてきた声の微妙な差異に寝ぼけていた頭がはっきりと覚醒する。
布団をはね飛ばし起きあがれば、そこは見知らぬ部屋だった。
八畳間のフローリングの部屋に、一人用のベッドが鎮座する。ベッドの横にあるナイトテーブルには、小さな観葉植物と写真立て、読みかけの本が置いてある。
自分が寝ていた布団も手裏剣柄という、自分の趣味とはかけ離れたベッドカバーだ。
続く部屋には、テーブルとキッチンが見える。
「………ここ、何処?」
全く見覚えのない部屋にいる自分に、唖然とする。
ぽかーんと口を開いていれば、横から頬を押された。
「おーはよ、イルカさん。よく眠れたみたいで良かった。ご飯の支度できてるから、おいで」
全く気づかなかった気配に驚く暇もなく、言葉尻の最後と同時にちゅっと頬に柔らかい感触を残し、声の主はテーブルが見える部屋へと歩いていった。
明るい日差しの中、銀色の髪がきらきらと輝く。
私が知る中で、その髪を持つ人物は最近知り合ったあの人しかいない。
はたけカカシ上忍。
一体、何故こうなったと、昨夜の出来事を振り返り、さーっと血の気が引いた。
自分の服をみれば、思った通りというか予想通りというか、忍服ではない男物のシャツに身を包んだ自分がいる。ズボンは履いておらず、下着のままだ。
いぎゃぁぁと心の中で雄叫びをあげ、ベッドから下りる。シャツが大きいおかげで、膝下まで隠れるのが有り難い。その分、襟刳りが大きいのが難点だけどね!
「は、はたけ上忍?! あ、あのあのあのわ、私、昨日はそのあのそのその……!!」
テーブルに配膳しているはたけ上忍に駆け寄り、謝罪の言葉を言いかけて、止まる。
ダメだ…!! あの状況、この己の状態からしてモロかけに違いない……ッ。
酒は強い方なのに、昨日の量であんな失態をおかすはずはないのに…!! 昨日の腑抜けた己を殴りとばしたい。
だらだらとイヤな汗が全身を伝う。
初対面といっていい人に、粗相をしでかした己が憎かった。
しかも、相手は可愛い元生徒たちの上忍師。印象を良くしてなんぼなのに、このままでは子供たちの情報源断絶の危機?!
「あ、あの!! あの…その………」
必死に考える割には気の利いた言葉の一つもでてきやしない。こうなれば、もうあの手しか……!!
一歩下がり、二歩下がり、きびすを返して寝室まで走った。
「…イルカさん?」
隣からはたけ上忍の訝しげな声が聞こえるが、そこで黙ってみていてくださいと、やる気のある視線を向ける。
ついでにベッドへあがり、右手を高く上げた。
「……はたけ上忍、昨日の失態、謝っても謝りきれるものではありません……。が!! お詫びは後ほど必ず、今は私の精一杯の謝罪をお受け取りくださいッッ」
うみのイルカ参りますッ。
うおぉぉぉと雄叫び上げて、手をぴんと張り、マッハの速さな心持ちで走り、ぴょんと飛ぶ。
目指すは、はたけ上忍の足下、その一点!!
フィニッシュを決めるため、両手両足を揃え、額からフローリングの床に突っ込む。
「はたけ上忍ッッ、申し訳ありまー」
決めの台詞と共に盛大に打ちつけるはずだった。ーが、額に触れた、床とは違った硬さに言葉と動きが止まる。
その直後、屈めた腰に大きなものが回り、視界が塞がれる。おまけに顔まで何かに覆われた。
「ん、んごんごんご!!!」
顔に押しつけられる物体を除けようともがいていれば、頭の後ろから笑い声が聞こえた。
「もー、イルカさんってば、ちっとも変わってない…! あー、どうしよう、本当」
可愛いとぐりぐりと頭ごと何かに擦りつけられ、何がどうなっているのか、理解できない。
うみの家に伝わる、秘技、ジャンピング土下座の失敗。
これが意味することは何だ?! 怒りは冷めず、絶交宣言間近ということかっ?!
「は、はたけじょ、に!!」
もう一回させてくれと暴れていれば、腰に回る締め付けはそのままで、首根っこを押さえていた圧力がゆるむ。
ぶはっと顔を上げて呼吸を確保。
ぜいぜいと息を荒げ、見上げた先には、にっこりと笑った素顔のはたけ上忍がいる。
硬い感触は、はたけ上忍の胸板だったようだ。どうやら私は目標を誤り、はたけ上忍の胸板へと土下座したらしい。
とんだ耄碌具合に、年かなとニヒルに笑う。
静かに傷ついている私へ、はたけ上忍はとんでもないことを言った。
「昨日のことなら何も心配いらなーいよ。イルカさんのせいじゃないし、むしろ役得くらいに思ってるから」
ブツをまき散らすばかりか、かけたのにですか?!
そこで、そうなんですか、ラッキvと笑うことができれば、私の人生、もう少し生きやすかったと思うが、それができないから万年中忍やっているんだ…!
己の鋭い突っ込みに凹みつつ、己の生き方だけは曲げられないと、私は叫ぶ。
「そんなの信じられませんよッッ。一歩間違えばトラウマにさえなりかねないことを、私はしたんですよ?! はたけ上忍、ここは怒っていいところです、てか罰してくださいッ!!」
このままじゃ私の気が済まんと、胸倉をつかめば、うーんと視線を上に向け考え始めた。
さぁ、何が出る。
逆さ吊りか? 千本ノックか?! それとも、里内ほふく前進か?! それとも崖登りの行写輪眼ヴァージョンか?!
相手はただの上忍ではない。写輪眼のカカシだ。
裏も表も知った忍の中の忍が下す罰とは、一体どういうものだろう。
どんな罰が飛び出てくるのか、半ば期待して待っていれば、はたけ上忍はこれにしようと頷き、笑顔で言った。
「イルカさんから、ちゅーしてください」
もちろんここですよ。ここと、唇を少し突き出す上忍に震えが走った。
「……本気、ですか?」
目を見開く私に、はたけ上忍は「ええ」と朝にふさわしい爽やかな笑みを投げかけてくる。
そのときの衝撃といったら、私は生涯忘れないだろう。
昨日、吐いた、しかも未消化の臭い汚いものが出た唇を嫌がらず、くっつけても俺は大丈夫だと身を持って証明してくれるという魂胆か?!
な、なんて、できた男だ、はたけカカシ……!!!
昨日に引き続き、ぎゅぎゅーんと胸がうなりを上げてくる。
やばい。私、これってもしかするともしかする?
昨日、記憶がなくなる直前にも同じことを考えていたなと思いつつ、己の浅ましさにちょっと凹んだ。
私って、何てふしだらな女……。
ガイ先生一筋だったのに、ここにきて、ほかの男にも懸想するだなんて………!!!
父ちゃん母ちゃんが生きていたら、こんなこと絶対許さないだろうなッ。
「イルカさん? えっと、もしかして嫌、だった? 急ぎすぎたかな……」
一人たそがれていると、正面から困惑した声が聞こえた。おっと、いかん! こんな役得、滅多にないからなッ。チャンスあったら唾付けとけだ!!
何かを言い出そうとした唇に触れた。
ふにゅっとした柔らかい感触が、離した唇に残る。
や、柔らかい……。もっと硬いかと思ってたんだけど。わー、本当にもうけたって感じだ。
顔が見えるところまで顔を離せば、目を見開いたはたけ上忍の顔がある。
思いも寄らないという表情に、動揺が走った。
やはりできた男であろうと、粗相をした唇は気持ち悪かったかと、袖ではたけ上忍の唇を拭く。
「す、すいません! 私、冗談とかジョークとかいまいちわからない奴なんですッ。同僚たちにも『またお前はー』なんて、呆れられる奴で。ほ、本当にすいませんッ」
謝りながら、わーと顔に血が上る。噴火活動でもしているんではないかというくらい、顔が熱い。
調子に乗って恥ずかしいやら、完璧機嫌を損ねたと今後の暗い未来を予想していると、指が引っ張られた。
「冗談でもジョークでもないよ。いきなりだったから、勿体なかったなと思ってーね。――もう一回、いい? イルカさんをもっと感じたい」
手首を掴まれ、指先に唇が落ちてきた。擦りすぎて真っ赤になった唇に、妙な色気を感じてしまう。
ちゅっと小さく音を立て離れていく、唇に煽られたか、背筋に震えが走った。同時に、心臓が騒ぎ出す。
喉から心臓が出るほどの緊張の中、やたらと美形な顔がにっこりとほほ笑みかける。う、うわっ。
「イルカさん?」
べらぼうに綺麗な顔でお伺いを立てられ、熱に浮かされたようにこくこくと頷いた。はたけ上忍は「良かった」と小さく呟くなり、目を閉じる。
銀色の髪と一緒に、目を縁取る長いまつげが朝の光を浴びて、きらきらと輝く。
美形さんは、目を瞑っても綺麗だなと、ぽーと見惚れていれば、それは突如にやって来た。
「う゛ッ、どいでぇぇえ!!!!」
よもや二度目はヤバイと口を手で覆い、迫りくる顔を押し退け、脱兎のごとくキッチンへと駆けこんだ。
広い。でかい。オール電化の最新式だ!!
飛び込んだキッチンの様を横目で見つつ、流し場に顔を埋めレバーを動かす。勢いよく出る水を頭から被り、逆流するブツを吐きだそうとして、固まる。
唐突に襲ってきた吐き気は、いつの間にやら霞のように消えていた。
ひとまず水を止める。
ぽたぽたと髪から滴り落ちる水を眺めながら、首を捻った。何だ、どうしてだ。一体、私の身に何が起きているのだ?
ーーもしかして、つわり?!
考えて、ぱたぱたと体を叩く。いや、それはない。昨日と同様、すこぶる調子のいい状態だ。ならば、想像妊娠カッ!! やだ、イルカってば気が早すぎじゃないの?!
ある推測に、気炎を上げて顔を上げれば、
「だいじょーぶ? イルカさん」
横から温かいものに抱きすくめられた。途端、襲うのは、強烈な吐き気。
「う゛ゥッッ!!!!」
堪らず流し台に顔を突っ込んだ。涙ぐみながら嘔吐と闘っていると、舌打ちが聞こえてくる。
「………そういうこと、ね…。ったく、忌々しい女だーね」
続けて聞こえてきた、耳を疑う台詞に、横目で窺った。あれ、何だろう。はたけ上忍の顔が異様に恐い…。
ただならぬ様子に固まっていれば、はたけ上忍は私の視線を受け止めるなり、体を離した。それに合わせて、吐き気が嘘のように消えて無くなった。
………やっぱり、コレって。
「…それじゃ、正攻法でいきますか…」
ぽそりと呟いた言葉がなにを意味しているのか、理解できない。
固まる私に、はたけ上忍はふわふわの柔らかいタオルを手渡してくれる。
「イルカさん、これで髪拭いて。風邪引いちゃうよ」
けれど、自分の思い立った考えに捕らわれて、私は身動きとれなかった。
いつまで経っても動かない私に痺れを切らしたのか、はたけ上忍は小さく忍び笑いを漏らすと、私の手からタオルを取った。
「気持ち悪くなったら、ごめんね」
はたけ上忍の言葉に、ぐわっと熱が顔に集まる。わー、バレてるしッッ!!!
髪紐を取られ、タオルが頭に広げられた。タオル越しに優しく触れてきた指先がこそばゆくも、無性に嬉しい。
マッサージでもするように、頭を揉まれ、その気持ちよさに尖った気持ちが徐々に解れていく。
はたけ上忍の下手うまな鼻歌が耳に優しく響く。
夢見心地で目を閉じた。柔らかい旋律はどこかで聞いた気がして、懐かしい気持ちにさせた。
「はい、終わり」
ぽんぽんと頭を軽く叩かれ、タオルを取られる。穏やかな時間は終わりを告げた。
「あ、ありがとうございます」
急に自覚した己の気持ちがまだ受け止められず、目の前にいる人へ視線を向けられない。
下を俯いた私を咎めることなく、はたけ上忍はテーブルの席に私を誘うと、朝ご飯食べましょうと声をかけてくれた。
ご飯、ナスお味噌汁、塩鮭、厚焼き卵、和え物、サラダ、数種類の漬け物と、朝から贅沢な食卓を囲んでしまった。
味もほっぺが落ちそうなほどおいしかった。特に味噌汁なんて、父ちゃんの味にそっくりで、鼻水すすりながら飲む羽目になってしまったほどだ。
朝の白い光の中、ご飯のおかわりを尋ね、頬についた米粒を優しく摘み、甲斐甲斐しいその姿はまさに良妻賢母。
昨日粗相した衣服が、きれいに洗濯され、アイロン掛けまでされて、新品かと見間違える姿で出てきたときは、ひれ伏したい気持ちにさせられた。
そして、止めは、アカデミー出勤時間の一時間前。
もっと一緒にいたいけど、準備があるでしょうと時間配分に気を遣ってくれるばかりか、玄関でお見送りの間際。
朝食の余りものだけど、良かったらと、はにかみながら手渡してくれた愛妻弁当に、稲妻が走り抜けた。
はたけカカシ。
良妻賢母な、女よりも女を極めた、麗人。
私はとんだ方に懸想をしたものだと、己を殴りたくなった。
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今回の女イルカ先生は積極的だ!