翠玉 4
雲一つない空を見上げ、やるせない思いに胸を焦がす。
太陽はまぶしく、風は春の匂いを運んでくれるというのに、口から零れ出るのはため息ばかり。
「はぁ」
朝から何度、この胸に巣食う切なさを吐いたことだろう。
「……はあ」
それでも、この胸の甘酸っぱくほろ苦い痛みを解消してくれるものではない。
なんで恋というものは、こうも罪作りなのだろうか。
「はぁぁぁぁぁぁぁ」
「うっさい、うっさい! あー、うざ。うざったいったらないわ、この女ッッ」
胸を締め付ける切なさに耐えかね、くてんと机に横顔を押し付ければ、隣の席に座るマキが雄叫びをあげてきた。
採点付けしていた手を止め、額に青筋を立てて私を睨みつけてくる。
朝からマキはずっとこの調子でピリピリしている。早くも更年期だろうかと考えていれば、首を絞められた。
「今、とんでもなく失礼なことを考えたでしょ!? 考えていたんでしょ、あんた!!」
「ぎぶぎぶぎぶッッ」
手をタップして降伏を示せば、マキは鼻から大きく息を吐くと、「で?」と視線をこちらに向けてきた。
「……………え?」
何が言いたいのか分からず聞き返せば、ひくりと大きく青筋が波打った。
再び絞められては堪らないと、両手で首をガードしていれば、前髪をがしがし掻くなりもう一度息を吐いた。
「昨日のことよ。イルカってば、うまーく私たちを出し抜いて、カカシ様と一緒に消えたじゃない」
恨みがましい視線が突き刺さる。
しかも、横のマキだけではなく、四方八方から。
「まっさか、大穴のアンタにしてやられるとは思わなかったわよッ。周りを牽制している間に、アンタとカカシ様の姿がないなんて、どういうことっ。始まって15分も経たずに、二人で抜けるってどういうことッッッ」
勝負せずに負けたと女性教員の泣き声があちこちから沸き起こる。それに混じって、せめて一言生声が聞きたかったと男泣きする野太い声も聞こえてきた。
「こつこつ勤しんだダイエットにボディケアが、貫徹アルコール付けでリバウンドかつお肌の曲がり角越えて死滅寸前よッッ」
鏡を取り出してにらめっこし始めたマキに、はぁと曖昧な相槌を打つ。
「あぁ、もうなによ、このシミ! だから、ほんとうに腹立ってる訳よッ。あ、皺…。昨日はどうなったのよ。ガイ先生一筋って言ってた癖にッ、二人っきりで夜の町に繰り出すなんてッ。昨日はさぞかし熱く情熱的な夜を楽しんだんでしょうーねッ」
顔を赤黒く染め、怒り心頭のマキが暴れるのも時間の問題かと思えたそのとき、お茶を啜っていたアカデミー主任がぽつりと呟いた。
「楽しんだというより、はたけ上忍に介抱されていたんでしょ、イルカ先生。昨日は泥酔して、はたけ上忍に吐いていましたし」
「顔が土気色だったんで心配したんですよ」と気遣っていただいたが、このときばかりはそれすらも耳が痛かった。
よもや主任に失態を目撃されるとは……!
無礼講とはいえ、目上にした粗相に肩身が狭くなるばかりだ。
「すいません」と深く頭を下げようとした寸前、
『はぁーーーーーーーーーーー?!』
それまで各々机で作業していた教員全員が席を立ち、声を張り上げた。
そればかりか、マキを筆頭にこちらへ殺到してきたものだからたまったものではない。
「ちょっとイルカ、何やってんの?!」
「イルカ先生、どうして生きてられるんですか?!」
「イルカー、お前って奴はぁぁぁッッ」
「信じらんねぇッ! アカデミー教員の株下げまくりやがってぇっっ」
鬼気迫る形相で詰られ、私は椅子に正座をさせられ、昨夜の事のあらましを話すこととなった。
「……と、いうことなわけです」
ほぅと、今朝のはたけ上忍のエプロン姿を思い出し、うっとりと浸っていれば、何故か周りは静まり返った。
そればかりか誰もが眉間に険しい皺を寄せ、穏やかな主任でさえも聞くのではなかったと後悔を顔に滲ませている。
一体どうしたんだろうと首を傾げていれば、皆と同様に眉間に皺を刻んだマキが口火を切った。
「……二、三聞いてもいいかしら?」
マキの言葉に、周りがどよめく。
皆の反応が不思議で仕方ない。
「どうぞ?」
頷いて促せば、マキは頬を引きつらせ口を開いた。
「朝起きたら男物のシャツ着てたのよね。……ヤッたの?」
その一言にボルテージがあがった。
「いとのさん、ここは学び舎ですぞ?!」「うわ、直球っ」「そこんとこはっきりして欲しいわ」「どうなんだ、どうなんだ!」などと声が上がる中、マキはギャラリーの声に反応すらせず、じっと私を見詰めていた。
マキの態度に周りも気付いたのか、騒がしかった教員室は水を打ったように静まり返った。その代わりに痛いほどの視線が集中する。
「――いえ、身に覚えはありません」
ごくりと唾を飲み込み言えば、ふーっちあちこちで息を吐く声が聞こえた。
当のマキといえば、頭を抱え何故かぷるぷると身を震わせている。その直後、地を這うような声を振り絞らせ、叫んだ。
「それじゃ…。どーして、アンタは身綺麗な訳っ?!」
『あ…』
「…え」
マキに指摘され、そういえばと気付く。
悪酔いするまで飲んだのに、酒臭くはないし、髪からも居酒屋特有の匂いは漂ってはいない。
これらが意味することは?
「……はたけ上忍がお風呂に入れてくれたの、かな?」
首を傾げれば、女性教員の羨ましいという悲鳴に混じり、マキが絶叫した。
「いやぁぁぁ、恐れていたことが発覚したわ! 今日、更衣室でアンタを見たときから嫌な予感はしていたのよっ。アンタ、そのランジェリーどこで買ったの?!」
マキの言葉に、悲鳴をあげていた女性教員の声がぴたりと止む。
私はといえば、胸倉を掴む勢いで迫ってきたマキにビビっていた。
今日はマキと体術の合同授業で、土ぼこりを被った私たちは教員専用のシャワー室を使った。そのとき、やけにじろじろ見ていると思ったら、下着を見ていたのか。
「そんなのマキが一番よく知ってるじゃない。安売りのいつものやー」
「アンタ、ばっかー?! 安売り品の素材がシルクな訳ないでしょー!! しかも、それ完全オーダーメイドで有名な伊武三じゃないッッ」
「い、伊武三?! あの超高級品のっ」「桁が一つ二つ違うんだろ?!」「セレブ御用達品じゃないッ」「しかも、オーダーメイド?! いつ発注したんだッ」と、ざわめく周囲。
マキはどうなんだと私を見詰めてくる。
どうなんだって言われても、そりゃ……。
「…女の、鑑よね」
ぽっと頬を赤らめ、恥らった。
『はぁあぁあっぁ?!』
驚きの声があがることが理解不能だ。
なんで分からないのだと、皆に向かって私は叫ぶ。
「だって、だって! はたけ上忍ってば、私を清潔にしてくれるばかりか、下着まで用意してくれたのよっ。この心遣い、細やかな気遣い、そして不測の事態を考え、それに備える、水を漏らさぬ構えっ。まさに、家を守る良妻賢母っ、女の中の女に相応しいじゃないッッ」
拳を握りしめ、力説した。
とくとくと早鐘のように打ち付ける鼓動に身悶える。
ここまで尽くしてくれたというのに、他人の言で気付くなんて、私はどこまで鈍いのだろうか!
会ったときにお礼をしなくちゃと、誘える口実ができたことを喜んでいれば、マキは非常に難しい顔を私に見せ、信じられないと声を張り上げた。
「違うでしょ! そこはそういう反応するところじゃないでしょーがっ。なんで、一週間そこら前に会った女の下着をオーダーメイドで作る必要性があるのよッ。というか、あんたのスリーサイズをなんで知ってるのっ」
うんうんと周りが頷く。それは……。
「きっとここにいる皆の下着も用意してるんだって。スリーサイズなんて、写輪眼でイチコロよっ!」
胸を張る私に、野次が飛ぶ。
「それはそれで恐いだろうがッ」
「止めて、私のカカシさまのイメージを崩さないでぇぇ」
「いやぁぁぁ、聞きたくない、聞きたくないぃぃ!」
ぎゃーぎゃー言うギャラリー陣に眉根を寄せていれば、マキはイラつくと叫び、私に指を突きつけた。
「あー、まどろっこしい! こうなりゃ、ぶちまけてやるッ。いい? 耳かっぽじってよく聞きなさいよ?! アンタが着ていた下着はどうしたの? その支給服は洗濯されたって言ってたけど、一緒に返ってきたの?!」
「いやぁぁぁぁ」と女性教員の悲鳴が響き渡る。男性教員も何故か、そわそわと落ち着かない。
一体、私の知らぬところで何が起きたと動揺しつつ、それでもマキの問いに答えた。
「そ、そりゃ、返してもらってないし何も言われなかったけど、普通は捨てるでしょ。必要ないじゃない」
私の一言に周りは沈黙し、マキは遠い目をして窓の外を見詰めた。
外はもう夕暮れ時だ。
カラスが山のねぐらに帰るために、カーカーと鳴く声が微かに聞こえてくる。
「さようなら、カカシ様…」
夕焼けに染まる校庭を眺め、そっと呟いたマキの言葉は一体何を示しているのだろう。
女性たちは静かにすすり泣き、男たちに至っては暑くもないのに何故かだらだらと大汗を流している。
通夜のような状況を打破したのは、一人の女性教員の声だった。
「……不潔」
すると、男たちは蜂の巣をつついたかのように一斉に騒ぎ始めた。
「な、ば、バカなことを言うんじゃないよ、君たち!!」
「ソウダヨッ?! 引いては、はたけ上忍の名誉毀損にあたることだよっ」
必死の声をあげる男性教員の声に、女性教員も負けてはいない。
「あー、嫌になるッ! どうして男ってバカなわけッ?! 女に一時の夢を見せるくらいの甲斐性見せなさいよッ」
「そうよッ! 騙すなら最後まで騙しなさいよ。バカ正直の真実より、優しい嘘の方がどれだけ有難いか! そんなんだから彼女の1人もできずに、商売女に貢ぎあげて借金なんて情けないことになるのよッ」
「なっ、言っちゃいけないことを言ったな?! ばらしちゃいけないことを言いやがったなぁぁッ?!」
「ばーか。アカデミーの子供ならいざ知らず、そんなこと誰もが知ってるっつぅのー。忍びの本職何だと思ってる訳?」
「ッッ! お前らだって夢みたいな男ばっか追いかけて、未だに結婚できねぇ三十路のおばはんじゃねぇかッッ。自分のスペックくらいいい加減認めろよ。それでも情報分析得意とするクノイチかっ」
「なーんですってぇ?!」と女性教員がまなじりを釣り上げた直後、湯呑みが飛んだ。
その後は、もうむちゃくちゃだ。
本が飛ぶ、ペンが飛ぶ、椅子が飛ぶ、そして机まで飛んだ。
身を屈め、どうしてこんな事になったのか、うろたえる。この争いが起きた原因が己のせいだとは思いたくない。
早くこの争いが終わりますようにと祈っていれば、隣で同様に机の中に避難しているマキがくいっと親指を外に向けた。
「外に出るわよ」
「で、でも、この騒ぎ、放っておいていいの?!」
よいこらしょと、体勢を低くし窓から脱出を計るマキの背に向けて言えば、マキははっと小さく笑った。
「私たちがアカデミーに通っていた時の、主任のあだ名は?」
蘇る幼少時代の思い出に、咄嗟に両手で額を押さえた。
今のアカデミー主任は、私たちが子どもだった時の担任の先生だった。
『ヘッドバスター』
彼の頭突きを食らった直後、あまりの痛さに今日一日の記憶がほぼぶっ飛んだ。かくいう私も、記憶を飛ばされた一人だ。
「……行こう」
あの悶絶の痛みを二度と経験したくないと、窓へと手を掛ければ、外に出ていたマキがにやりと笑った。
「ちなみにこのまま酒屋直行だから。やけ酒にとことん付き合ってもらうわよ、イルカ」
しこたま飲んでやると肩を掴まれ、後門の狼だったかと呻いた。
戻る/
5へ
------------------------------------------
……恋に盲目したイルカ先生以外が見た、カカシ先生の知られざる姿(推測)編でした!!
実際したかどうかはご想像にお任せいたします…。(苦しい言い逃れ)