翠玉 10

『ごめん、ごめん。ごめんね』
声が聞こえた。
ひどく悲しげな声が何度も語りかけてくる。
言葉と一緒に降る滴は温かくて、その人は泣いているのだと分かった。



大丈夫。私は大丈夫だから、泣かないで。
何度も大丈夫だと声を振り絞るけれど、舌が張り付いたまま動いてくれない。
止まない雨のように降る滴を拭いたくて、指を持ち上げようとしたけど、私の体は言うことを利いてくれない。
開かない瞼の上に影が落ちる。



『ごめん、ごめん、イルカ。ごめん』
気配が近づいては遠ざかる。
戸惑うように、躊躇うように、間近に近づいては結局は触れてくれない気配が悲しくて仕方なかった。
謝らなくていい。謝らなくていいから。
強く思う私の声は届かない。声はずっと私に謝り続ける。
私は謝られたいんじゃない。
後悔してもらいたいんじゃない。



『ごめん、イルカ。ごめんね。ーー忘れて。全部忘れて。俺のことは忘れて。イルカを傷つけることしかできない俺なんて忘れて』
その一言に、血の気が引いた。
嫌だとわめきたかった。
止めてと、叫びたかった。
辛いことなんて何もなかった。
痛みも全部、あなたが私にくれたもの全部、すべて大切だと思った。全部、全部、覚えていたいものだった。



でも、結局あなたにはーー



『忘れてーー』



私の声は届かない。



******



「あんの、クソガッキャー! うちの可愛い娘になんてもん仕掛けてんだぁぁッ!」



任務から帰ってきた父ちゃんと母ちゃんを出迎えた途端、母ちゃんは怒り狂った。
今日は母ちゃんが怒るようなことはしてないし、大人しく家で本を読んでいたのに。知らない間に、どんな悪さをしたのかと、血の気が下がった。
「と、父ちゃん!!」
もう逆さ吊りは嫌だと、父ちゃんの元に逃げ込めば、父ちゃんも複雑そうな表情を浮かべていた。
「うーん。まさか、ここまでするとはなぁ」
父ちゃんの大きな手が頭に乗る。父ちゃんは私の目線と同じ高さにしゃがみこむと、まいったなぁとぼやいた。
「あんのクソガキ、人の家の娘を何だと思ってんの?! 今日という今日は、あんのタラしをとっちめてやるッッ」
踵を返し、鬼の形相で玄関戸を開けた母ちゃんに恐怖を覚えた。
いつにも増して怒り狂っている母ちゃんにおろおろしていれば、父ちゃんは苦笑をこぼした。
「シャチさん、忘れたの? 今日が入隊の日だよ。ーーもう、あの子はいないんだ。それに、イルカの記憶ももう……」
あの子?
父ちゃんの言葉が不思議だった。父ちゃんは私を見て、少し悲しそうな顔をした。
「……妙なところで真面目っつぅか。さすがはあの白箒の息子だけあるわ」
母ちゃんの怒りが消えた。ため息混じりで、玄関の戸を閉めた母ちゃんの顔も寂しそうだった。



「イルカ、あんた厄介な男に惚れられたわねぇ…」
母ちゃんも腰を下ろして、私の顔を見つめて、しみじみと呟く。
父ちゃんと母ちゃんが見つめてくれることが嬉しくて、おかえりの挨拶がまだだったこともあって、二人の間に両手を広げて飛び込む。
「父ちゃん、母ちゃん、おかえりなさい」
出せる力いっぱいに抱きしめれば、父ちゃんと母ちゃんも私を抱きしめ返してくれた。
「うん。ただいま、イルカ」
「ただいまー、イルカ。可愛い、可愛い、私の娘~!」
父ちゃんが額にキスしてくれた後、母ちゃんが私の体を持ち上げてぶんぶんと振り回してくれた。



体が浮き上がるのが楽しくて笑っていると、母ちゃんは「そうだ」と呟いて、回転を止めた。
いつもより少ない回り具合に、もっとして欲しいと目で訴えたけど、母ちゃんは私の体を床に下ろすと、私の名を呼んだ。
「イルカー。今からちょっとした術かけるから、じっとしてねぇ」
「ちょ、ちょっとシャチさん!」
父ちゃんの慌てた声に反応する暇もなく、母ちゃんの指が複雑に動く。器用に動く指に目を奪われていれば、ちくりと鼻に痛みを感じた。
びっくりして鼻に手を持っていったけど、何もない。
一体、何をしたのか不思議で母ちゃんに聞こうと思ったけど、母ちゃんはどこか慌てている父ちゃんとのお話で忙しそうだった。
「記憶消したのは立派だって誉めてやるけど、変な術かけて保険してるところが気に食わないのよ。男らしくないったらありゃしない…」
「だからって、イルカに眩惑術掛けなくてもいいだろう…。一体どういうことしたの?」
「イルカの鼻傷を誉めた奴に、恋するよう仕向けた。あと、あんのエロガキが手出しできないようにイジって、解術方法も変えてやった」
「え?」
「解術するのが一番だけど、よりにもよってトラップしかけてんの。本人以外が解術しようとしたらイルカの頭がパーになるようにね……」
母ちゃんの言葉に、父ちゃんは顔を覆ってため息を吐いた。
「……そこまでして、イルカのことを?」
「不本意だけどね。でも、やり方が全く持って間違ってんのよ、あのクソガキ。このままじゃ、イルカが将来泣くことになるのは明白でしょ。そんな奴にイルカを任せられっかっ!!」
絶対阻止してやると母ちゃんは呟くなり、奥へと引っ込んでしまった。



「父ちゃん…。私、何かした?」
いつもだったら一緒にお風呂入ろうって言ってくれるのに、母ちゃんは何も言わずに行ってしまった。
いい子でいたと思ったけど、母ちゃんから見たら悪い子だったのかもしれない。
父ちゃんと母ちゃんがせっかく帰ってきてくれたのに、いい子だったねって言ってもらいたかったのにと顔を俯けていれば、父ちゃんは違うよと笑った。
「イルカは何も悪くないよ。ただ、ちょっとね……。イルカ、父ちゃんに顔を見せてくれるか?」
手招きされて近づけば、父ちゃんは私の頬を両手で包み込んだ。
父ちゃんの手は大きくて、温かくて、大好きだ。
じっとこちらを見つめる瞳は真っ黒で、「イルカはオルカさんの目とそっくり」と母ちゃんに笑顔で言われたことを思い出した。
顔を覆ってもまだ余裕のある手を掴んで、父ちゃんに話しかける。
「あのね、父ちゃん。私の目と父ちゃんの目、そっくりって、母ちゃんが言ったの」
「そうかな? 私はイルカの目は、シャチさんの目とよく似てると思ったんだけどな」
父ちゃんの言葉に胸がどきどきした。母ちゃんは父ちゃんの目にそっくりだって言って、父ちゃんは母ちゃんにそっくりだと言った。
二人に両方似てるっていうことは、とってもいいことだ。私は父ちゃんと母ちゃんの子供だっていうしょーこだもん。
自分の思い立ったことに上機嫌になっていたけど、ふと、言われたを思い出して、ふわふわした気持ちがあっという間に沈んだ。
言おうかどうしようか迷っていたら、父ちゃんが優しく微笑んでくれたから、思い切って言うことにした。
「あのね、父ちゃん。私、ずっと父ちゃんと母ちゃんの子供だよね?」
父ちゃんの目がちょっと大きくなる。
「当たり前じゃないか。どうしたんだい、いきなり」
はっきりと言ってくれた父ちゃんの言葉に、嬉しくなった。
「あのね、大きくなったら、子供じゃなくなるんだって。子供じゃなくなったら家を出なくちゃいけないって言われたの。きずもので、イルカはバカだから行くとこないって。だから、そのときは仕方ないから一緒に住んでやるって言われた…」
あのとき言われた言葉を思い出して、唇が尖る。
おいしいものをくれたり、珍しいものを見せてくれるのは好きだけど、意地悪なことを言うのは嫌いだと思う。



「……イルカ、覚えてるのかい?」
びっくりしている父ちゃんが不思議で首を傾げれば、父ちゃんは難しい顔をした。
「その子が言ったことで、他にも思い出せることはあるかい?」
言ってごらんと言われ、張り切って答える。
「うん。えっとね、かせぎがしらでしゅっせこーすまっしぐらだから、おかいどくなんだって。のがすと次はえいえんにないから、イルカは運がいいんだって。イルカよりかわいい女の子から好きだっていっぱい言われるけど、一度言ったことは守らないといけないから相手にしないって。そのあかしにイルカの石を、ずっと送ってやるって。家いっぱいになった時、迎えに行くから待ってろって言われたの」
「……シャチさんが言ったことを本気にしちゃったのか…。…イルカ、本当に厄介なのに惚れられちゃったなぁ」
父ちゃんは笑う寸前にくしゃみしたような変な顔をしていた。
「どうするかなぁ」と小さく呟いた父ちゃんは、少し困った顔をした。
「なぁ、イルカ。その子の名前、覚えてるか?」
もちろんと言おうとして、ふと気づく。
今日も会ったのに、何を言っていたかは覚えているのに、声が分からない。顔が分からない。それに、名前も分からなかった。



急に悲しくなった。寂しくなった。
突然怒ったり、すごく意地悪なこと言ったりされたけど、ずっと一緒にいてくれた。
父ちゃんや母ちゃんがいなくて寂しい時だって、大丈夫って言って父ちゃんみたいに抱きしめてくれた。お腹が空いて泣いちゃったときも、仕方ないって怒りながら何か作ってくれた。怪我をしたときだって、いっぱい怒られたけど痛くないように手当してくれた。他にもいっぱい、いっぱい怒りながら、優しくしてくれた。
大事なものに、ぽっかりと穴が空いたみたいだった。



「……イルカ、悲しいか? 寂しいかい?」
両手を広げた父ちゃんの胸の中に飛び込んで泣いた。
何か大事なものを奪われた気がして、悲しくて寂しくて、わんわん泣きながら頷いた。
どこを探しても見つからなくて、見つけられなくて、言いたいのに言えない。
火がついたように泣く私の背中を撫でながら、父ちゃんが耳元で、内緒話をするように囁いた。



「イルカ。お前が失くしたものをどうしても取り戻したいと願うなら、一度だけ機会をあげよう。でもね、覚えておいて。それには必ず反動が出る」
しがみつく私を父ちゃんは引き離し、顔を見合わせた。大きな指で私の涙を拭いながら、父ちゃんはよく聞いてと私に言い聞かせる。
「反動はどういう形で返ってくるか、私にも分からない。最悪、イルカの身が危なくなることだってあり得る。だから、恐いなら私の言葉を無理に思い出さなくてもいい。ずっと忘れててもいい」
こみ上げるしゃっくりを抑えながら、父ちゃんの話を聞いた。言っていることはよく分からなかったけど、このぐちゃぐちゃな気持ちをどうにかできる唯一のことだと思った。
「けど、どうしても思い出したいなら、名前を呼んでごらん。イルカが本当に、心から望む時に、この名前を呼んで」



歪む視界を瞬いて払う。
父ちゃんは小さく囁いた。そして、困ったように笑った。



「シャチさんは毛嫌いしてるけど、私は憎めないんだ。だって、彼はシャチさんととてもよく似ているからね」



******



「か、にちゃ」
懐かしい声を思い出すと同時に、声が滑り出た。
「イルカ!!」
息をのむ声と同時に、駆け寄ってきた声はマキのものだ。
白い空間と、鼻をつく消毒液の匂い、遠くで子供の声が聞こえてくることを認め、アカデミーの医務室なのだと見当づける。
「もう、びっくりさせんじゃないわよっ」
心配したと怒りながら覗き込むマキに大丈夫と笑って、一歩後退した気配を視線に捕らえる。
わずかに見える右目は見開かれ、心なしか、覗いている肌は青ざめていた。



ふらつく体を無理矢理起こす。マキがまだ寝ていろと素っ頓狂な声で言ってきたけど、首を振って押しとどめた。
「ごめん、マキ。少し黙っていて」
「でも…!!」
「ーーお願い」
こみ上げる吐き気と戦いながら懇願すれば、マキは黙って私の体を支えてくれた。
マキの気遣いに感謝しながら、まっすぐ彼を見る。
大きくなった。
背も、手も、足も、私が知っている彼とは見違えんばかりに成長している。
でも、私は今より少し若い彼も知っていた。
震えていた手や、体は、今よりも華奢で、あちこちに治りきっていない傷が刻まれていた。



消えていた記憶が蘇ることを実感しながら、私は詰る。
「かにちゃん、なんで? なんで二度も私の記憶を消したの?」
ひくりと揺れたかにちゃんに、はたけ上忍に、涙が出た。
ずっと聞きたかった。ずっと言いたかった。
「私が、信じられなかった? もう、私のこと、嫌いになった?」
「違う! そんなことあり得ない!」
「だったら、なんで?! どうしてかにちゃん、術を解いてくれなかったの? 暗部引退したら、真っ先に解術してくれたら良かったのに! ううん、暗部の女になった時点でも解くことができたでしょ?!」
「ごめん、イルカ…。でも、聞いて。俺は、解術した。あの懇親会で、解術したんだ。けど、解けなかった。それは、あのクソバ…イルカのお母さんが二重に術を掛けたからだ。無理に解術したら、イルカを傷つけそうだったから、手出しできなかった!!」
はたけ上忍の声を聞いて、吐き気がこみ上げる。視線を向けられるだけで嫌悪感がわく。
でも、違う。これは違う。私の意志じゃない。
「っ、傷つけてもいい! 傷つけられても良かった! 忘れる以上に、辛いことなんてないものっ。ーー私のことがまだ好きなら側にいてよ。昔、約束した通り、かにちゃんのお嫁さんにしてよっっ」
涙が出る。
気持ちが悪い。吐き気がする。頭が痛い。体が震える。
苦しいのは体か、それとも心か。
判断できない。でも、今しかない。



手を伸ばす。掴んで欲しいと懇願する。
近づく距離に冷や汗が吹き出る。こみ上げる吐き気を飲み込んで、必死に手を伸ばしたのに。



「……ごめん、イルカ」



かにちゃんは、私の旦那さんは、はたけ上忍は、白い煙をあげて消えた。



姿が消えた途端、吐き気が治まる。震えていた体は止まり、体を苛んでいた痛みが消えた。
あぁ、これが反動かと、とうちゃんのあのときの言葉の意味を正しく理解しながら、壊れたように流れる涙は止まらなかった。
「……イルカ…」
囁くように名を呼ばれ、引き寄せられた顔に柔らかい感触が押し当てられる。鼻をくすぐるのは甘い匂いだった。
記憶にある、私の大好きだった懐かしい、あの香りではないことが悲しくて、それでも今だけは何かに縋りたくて、力を抜いた。
「……マキぃ」
体の痛みは消えても、心の痛みは消えない。
優しく背中を撫でてくれるマキの胸で泣きながら、今更のように思う。



私の声は、届くことはないのだろうか。






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おお、突然話が進んだ。でも切りが悪いですね。…ぽかん状態になるがな……orz