手を繋いで 26

「カカシ先生、お疲れさまです」
酒がなみなみ注がれているおちょこを付き合わせて、労をねぎらう。カカシは何故か顔を背けたまま、へーだかうーだか言っていた。
変なカカシはいつものことだと、くいっと一気に飲み干せば、火照った体に冷 酒が染み渡る。
くっはー、至福かな、至福かな。



風呂の中で倒れたカカシを叩き起こし、ワンランクというより最上級の風呂を掘らせることに成功した。
のんびりと足を伸ばしつつ、石を積み上げて作った浴槽に背中をつけて、これま たカカシが持参してきた酒を片手に一杯やっている。
突然来たカカシには驚いたが、こういう気の利かせ方は大歓迎だ。



適当な木を削って四角い盆にした上に置いた酒を取り、おちょこに注ぐ。
酒の善し悪しはよく分からないが、ロケーションがいいことも良い作用を生んで いるのか、今宵の酒は何とも美味しい。
星空の下、川のせせらぎを聞きつつ、天然温泉に浸かり一杯する幸せ。
大人で良かったと思う。
くっはーと酒精を鼻から吐き出していれば、カカシは顔を背けたまま、ぼそぼそ と言ってきた。
「…アンタ、なんでそんな格好してんのよ」
「はい?」
言っている意味が分からず問い返せば、カカシは突然口調を荒げた。
「だから! なーんでアンタ、男に変化して全裸で風呂入ってんのよッ!! どういう神経してんの?! ホント、信じらんない」
背中を向けて一人ヒートするカカシは不気味だった。
カカシの後頭部を見ながら、何に切れているだろうと不思議に思う。
「温泉は裸で入るのが普通じゃないですか。男の格好してるのは、サクラがそれ で入れって譲らなかったからです。それに、全裸じゃないですよ。カカシ先生が履けって言うから、海パン着用ですッ」
男同士だから気にするなと言ったのに、カカシは全く耳を貸さなかった。恥ずか しいんですかーもうと、予備の海パンを渡せば、カカシは私にも着用を求めてきた。しかも履かなければ、酒も風呂もなしとひどいことを言う。
目の前に置かれた一升瓶の酒と露天風呂を前にして、妥協することは人として致し方 ないであろう。
ともかく、大自然で全裸の解放感を味わうことを諦めて、カカシの言うことを聞 いてるのだから、いつまでグダグダ言うことはないと思う。



「……酒がまずくなるっつぅの」
「何か言いましたか?」
悪態をぼそりと呟けば、すぐさま反応が帰ってきた。
声の調子にぶっとい刺が混じっているあたり、ばっちり聞こえていただろう に、相変わらず陰険な男だ。
「……アンタ、まさか。女の身でも全裸で入ろうとしてたんじゃないでしょうね…」
ぎぎぎと錆ついた機械のように、ぎこちなくカカシの顔がこちらへ向く。
ようやく顔が見れたなと、にかっと笑えば、目を見開くなり再び顔を戻してしまった。……感じ悪い。
「ば、ばっかじゃない?! 男のアンタが笑ってどうと思う訳ないじゃないッ。 言っとくけど、オレを誘惑しようだなんて片腹痛いんだからねッ。さっきの鼻血だって、アンタのアレ見て吹いた訳じゃないんだからっ。ちょっとした疲労と湯気に逆上せただけで、決してアンタの濡れた肌とか、ピンクとか、そんなもん見てたって、何言わせんのよぉぉぉぉッッ」
突如雄たけびをあげつつ、顔を湯に付け込むカカシに、どう反応していいか分からない。
任務を無理に終わらせて、疲れているんだろうなと心底憐れむ。



「あ、カカシ先生。背中流しますよ、背中ッッ」
「ふぇ」
放っておけば一時間は潜ってそうな勢いだったので、横から脇に腕を突っ込んで 無理矢理顔をあげさせた。
酒の礼もある。疲れているだろうカカシを癒してやろうではないか。
「ちょ、い、いきなり近付か」
「はいはいはーい。お疲れのカカシ先生を癒してさしあげますよ〜。ささささ、 こちらへこちらへ」
「ちょっと、待ちなって、ちょッ!!」
ぎゃーぎゃー言う割には、抵抗はなかった。
きゃんきゃん吠えるカカシを風呂から上がらせ、無理矢理前に座らせる。まだ文句を言うカカシを気にせず、濡らしたタオルを背中に当てれば、徐々に大人しくなった。
首から肩へ、肩から腕へ。マッサージをするように広い背中を何度も往復させる。
思っていたよりカカシの背中は広くて、ちょっと緊張してしまった。
顔の造作が繊細だから、体つきももっとひ弱だと思っていたのに、しっかりと鍛えられた体にはしなやかな筋肉がつき、男であることを嫌でも感じさせた。
自分の体と見比べて、少し落ち込む。
変化で男性化したとはいえ、カカシの隅々まで鍛えられ完成した肉体と、まだまだ鍛え抜かれていない未完成な己の肉体の差は歴然としていた。
「……良い体してますね、カカシ先生」
「はぁ?!」
やっかみを込めて言えば、素っ頓狂な声を上げて、こちらに振り向いた。
素顔を晒した顔が真っ赤に色づいている。
「……顔も良くて、体も良くて、忍としても秀でている……。今更ですけど、カカシ先生がモテモテなのはよぉく分かりますよ…」
もし己が男なら、女性の気持ちを根こそぎ奪う存在であるモテ男のカカシを相当にやっかんだに違いない。
俺はいつも良い人止まりだと嘆いて、モテ男なカカシを見てはハンカチを噛んでいることは、想像に難くなかった。



「んの、モテ男めッッ」
悔しくて、背中に張り手をお見舞いする。「いたッ」と悲鳴を上げたが、無視。
「はい、終了の合図です。私が真心込めて背中を洗い清めたんですから、カカシ先生のお疲れも取れたに違いありません」
ぷいと背中を向けて、自分の体を擦るためにタオルを洗い清める。
「嘘でショ! 絶対、わざとでショ。絶対に今のわざとでショッ」
「聞こえません。聞こえませーん。お疲れのカカシ先生はお風呂に浸かって一杯やっ ていて下さい。それで、ほどよく酔ったら呼んでください。これでも私はカカシ先生とお風呂に入れるの嬉しかったんですからね。それなのに、ずぅーっと背中向けっぱなしで、つまらないにも程があります」
一緒に入っている甲斐がないと、ぶーたれていれば、背後のカカシの気配が揺れた。
ないがしろにされた私の気持ちが少しは分かったかと、溜飲を下げていれば、後ろから手が伸びてタオルを奪われた。
何すんですかと振り返った直後、ため息と一緒に言葉が落ちる。
「背中。俺も流すから、前向いて」
思わぬ申し出に目が見開く。カカシは少しばつの悪い顔をしつつも、前と再び促してきた。
私の気持ちを少しは分かってくれたのだろうか。
顔が緩みそうになるのを堪え、素直に前を向く。
最初こそおっかなびっくり擦っていたが、やがてカカシの手は迷いなく動くようになった。ゆっくりと肌を行き来するタオル生地が気持ちいい。
本当だったら、ナルトやサスケ、できればサクラも交えて、一列になって背中の流し合いをしたかったのだが、大人の語らいというのもいいかもしれない。
気持ちよくて徐々に体の力が抜けていく。
人に洗ってもらうというのはどうしてこうも気持ちいいのだろうか。
ふにゃーと顔を緩ませていれば、背中を擦っていた手が止まった。
そのまま動こうとはしない手に疑問を覚えた時、カカシが言葉を漏らした。



「…これが、ナルトを庇った傷?」
静かな問いかけに、薄く目を開く。
背後のカカシの気配を窺う。
感情の起伏は見られない。見たままを口にしているとみていい。
確認して小さく息を吐く。
どうせ一人だと気を抜いて、傷を消さなかったのは失敗だったかと、胸の内で呟いた。
「そうですよー。とんだヘマしたもんです。避けるなり何なりできたでしょうに、みっともないですよね」
茶化して笑った私に、カカシは何も答えなかった。背中の傷を注視されている気がして、肌がざわめく。
何か言えばいいものを、沈黙が逆に鬱陶しく思えた。
頃合いだと礼を告げて立ち上がろうとした直前、背中に何かが触れた。
柔らかい、感触。
傷が走っているだろうそこに触れた感触。



堪らず振り返った。
吐き気がする。
剥き出しの神経を無遠慮に触れられたみたいだった。
土足であがりこもうとする男の無神経さに怒りを覚える。
込み上げる罵倒を何とか飲み下し、男を睨みつける。
男は驚いたそぶりも見せずに、淡々と私を見詰めていた。



「……今日、誕生日だよね」



目を逸らさずに告げられた言葉に、笑いが込み上げそうになった。
だったら、何だと言うのだ。
感情が知らず表情に浮いていたのか、カカシは色違いの瞳を細め、憐れむような眼差しを送る。
人として、忍として秀でている男は、赤の他人にまで心を砕いてくれるらしい。
ずいぶんご立派なことだと、私は我慢できずに笑う。
カカシから視線を逸らさず、口端を上げて笑った。
「唐突ですね。…三代目からお聞きにでもなりましたか?」
余計なことをと胸の内で舌打ちする。
よりにもよって、カカシに伝える三代目の考えが分からない。
私の問いには答えず、ただ見詰めてくる視線は不快以外の何物でもない。



白けた空気は何処まで行っても変わらず、余計白々しさを増すばかりだ。
今日はこの辺で切り上げようと立ち上がる。
同時に動いた気配を避けようと、飛び下がる。けれど、カカシの動きはそれよりも早かった。
呆気なく腕を掴まれ、後ろに逃げようとした体を無理矢理引き留められた。それに抗い、なおも後ろに逃げれば、体勢が崩れた。
カカシを引きつれたまま背中からまともに倒れ、息が干上がる。
呻く間もなく、体に落ちた影を跳ね退けようとしたが、手首を押さえ込まれた。腰に乗られ、足の自由が利かなくなる。
それでも抗う私に、カカシは間近に顔を落とし、囁いた。
「暴れないで」
手負いの獣に接するように宥める声を忌々しく思う。暴れさせているのは誰だと睨んだ。
「痛いんですけど、退いてくれませんか」
苛立ちが押さえきれない。
唸るように威嚇すれば、カカシの眉根が寄った。手首を封じる指の力は緩んだものの、離す素振りは見せない。
「ダメ。このまま手離したら、アンタ逃げるでショ? オレはそういうつもりで言ったんじゃない。ただ……」
揺れる瞳が見下ろしてくる。
誰にでも情を垂れ流すその優しさは、誰か別の奴にでもやってくれ。憐れみなど私に必要ない。



「ただ、何だというんですか。冗談なら止めて下さい。不愉快です」
この手を離せと目に力を込める。
気押されたようにカカシは気弱な表情を浮かべたが、首を横に振った。
「――一体、何ですか?! ふざけるのも大概にしてください。今すぐ退いて下さい。男に組み敷かれて喜ぶような被虐趣味は持ち合わせてないんです」
腕に力を込めれば、男の指が食い込んだ。それでも構わず暴れた。
河原に擦りつけた肌が小さな痛みを訴える。
だが、いい。
この男に拘束されているよりはずっといい。体が傷つく方がずっとマシだ。
「離せッッ」
声を張り上げ、体ごと抗う。
ずるりと肌が滑った。微かに散った血臭を嗅いだのか、カカシの顔が痛ましく歪む。
「離せ、私に触るなッッ」
泣きそうな顔が癪に障って仕方ない。自分で傷つけただけだ。お前のせいで傷ついた訳じゃない。
「離せ、離しやがれッッ」



嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
触るな、入ってくるな。これ以上、立ち入るな。
嫌だ、反吐が出る。
触られたところから腐っていけばいい。
温もりなんて感じなければいい。
暗闇に閉じたまま、何も見えなければいい。
全てのものをこのまま消し去りたい。
感情なんていらない。心なんて必要ない。
私に必要なのは――。



「――分かったからっ、分かったから、止めてッ」
耳元で弾けた声で我に返った。
自分の荒い呼吸を聞きながら、全身を覆う温もりに眩暈が起きた。
頬に熱い感触が伝わる。
体に巻きついたカカシの体は震えていた。
「もういい。ごめん、オレが悪かったから。だから、傷つけないで。もうこれ以上、傷つかないで」
湿っぽい声を耳にして、カカシが泣いているのだとぼんやりと思った。視線を下ろせば、カカシの背中に爪を突き立てている自分の指が見える。
固まっている指をこわごわと外せば、抉った肌から血が流れ出た。
よほど強く爪を立てていたらしい。爪の間には、カカシの肌の一部がみっしりと詰まっていた。
「……すいま、せん。怪我を」
負わせてしまったと口に出そうとして、言葉が途切れる。
肺を押しつぶさんばかりに、深く抱きしめられた。
血の匂いが香る。
「――いいから。オレのことはいいから」



小さく囁かれた言葉。
見上げる先には、今にも降りだしそうな満点の星空が視界を埋め尽くす。
自分の荒い呼吸音と、震えるカカシの体を感じながら、爪の間に入った異物が気になって仕方なかった。



『自分を大事にして』


そう、カカシは私に言った。



爪に入った異物は、放っておくだけでは取れそうにない。
洗い流さなければ、それは取れないんだ。



洗い、流さなければ。










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……シリアスモード突入してしまいました。
この先、もう一つネタをしたら、シリアスどっぷりになっていきそうです。はい。
H230527