手を繋いで 34

「落ち着いたか?」
ティッシュを差し出され、頷きながら受け取った。
みっともないところを見せた。
「…すいません」
小さく謝れば、ガイ先生は膝を叩き、床へ胡座をかく。
「なに、気にすることはない。大事な者が倒れたのだ。平静でいる方がおかしいだろう」
ガイ先生は笑って言う。
大事な者。
ガイ先生の言葉に、果たしてそうなのだろうかと考える。
眠るカカシの横顔を見つめ、己に問う。
お前にとって、カカシは大事なものか?
答えはすぐに出た。
私にとって大事な者はナルト、ただ一人。それは揺るぎようもない。



「……いいえ、ただの知り合いです。それ以上でもそれ以下でもありません」
小さく動くカカシの胸を見る。
ゆっくりと微かに膨らみ萎む、生きている様を、見つめる。
「照れているのか? イルカ、お前は己のことを知った方がいいぞ」
笑みを忍ばせた言葉に、眉根が寄る。自分以外、自分のことをよく知る者などいる訳がない。
私の不快な表情に気づいたのか、ガイ先生は小さくため息をつき立ち上がった。
「図星を指されると、誰も不愉快になるものだ。カカシの側で己を見直すといい。――さて、オレはお邪魔しよう。後は任せたぞ」
ウィンクして去ろうとしたガイ先生へ咄嗟に縋りついた。



「違います。違うんです……!!」
ベストを掴み引き止めた私を、ガイ先生は驚いた顔で見下ろしている。その目を見つめながら、私は叫ぶ。
「私が必要なのは、私が本当に必要としているのは、ガイ先生です! 私はあなたのことが好きなんです! 私は、あなたのことが――!!」
切羽詰まるような危機感を覚え、掴む手に力を込めた。
ガイ先生は始めこそ驚いた顔を見せていたが、やがて小さく微笑むと、ゆっくりしゃがみこみ、私の目に合わせてきた。そして、肩に手を置き、一、二度柔らかく叩いた。



「……こうしていると、あのときのことを思い出すな」
ガイ先生が小さくつぶやいた。その言葉が何を指すのか分からない。
「イルカに閨房術を教えた時のことだ。ガチガチに固まって、青い顔でオレのことを見ていたなぁ」
そう言って、私の頭にゆっくりと手を乗せて、がしがしと撫でまわす。
頭まで回転するような思い切った撫で方に、あのときのことを思い出した。
あのとき、ガイ先生は嫌悪感で吐き出しそうな私をこうやって撫でてくれた。そして。
「嫌ならば、足掻け。望まぬなら、抵抗しろ」
あのときの言葉と、耳に入ってきた言葉が重なった。
息を飲んで顔を上げれば、ガイ先生は不出来な生徒を見つめる眼差しで私を見下ろしている。
違うと否定しようとした声は、ガイ先生のまっすぐな瞳に気圧されて音を失くした。
見つめる先で、ガイ先生は口を開く。
続く言葉を、私は知っている。

「そして、新しい道を見つけてみせろ。オレは協力を惜しまんぞ」

満面の笑みを浮かべ、親指を突き出したガイ先生は、私に勇気をくれたあの日のまま、変わらず存在してくれた。



あの頃の私はナルトしか見えていなくて、ナルトの側にいることが生きる目的で、公私共にナルトの側にいられるよう、アカデミーの教師になりたかった。
それには、くのいちとしての道を歩まなければならなかった。
くのいちになるためには、閨房術の取得が必須とされていた。
本部が斡旋する上忍に師事するか、それとも自ら師事する上忍を選び、閨房術を実地訓練することが取得の条件だった。
相手は誰でも良かった。だが、私はその訓練を先延ばしにしていた。
閨房術とは、肉体関係を結ぶこと。すなわち、子供を作る行為であるという認識が、私を苦しめた。
私は自分の子供を望んでいなかった。
自分の腹に宿る子供の存在はおぞましいとすら思え、当然、その行為自体が忌避すべき対象だった。
ゼロに近い確率で避妊できるとはいえ、万が一のことを思えば、一生関わりたくない行為であった。
だが、くのいちにならなければ、ナルトのもっとも近い場所にはいられない。
それは私の中では死よりも恐ろしいことで、自分のナルトへの依存が異常なものだと頭では分かっていても、到底離れられることができなかった。
そして、考えに考えた結果、私はくのいちになる決心をした。



半ば自棄になって、たまたま私の前を歩いていた上忍に声をかけ、閨房術の師事の話を持ちかけた。
それが、ガイ先生。
ガイ先生は始めこそ断ったものの、私のしつこさに負けたのか、最後には了承してくれた。
早く終わりたいとばかりに、その日のうちに連れ込み宿へとガイ先生を引きこんだ。
薄汚れた布団の上で、私から頼んだ癖に、吐き気に襲われ、嫌悪の表情で固まった私に、ガイ先生は笑いながら先の言葉をくれた。



そんなことを言ってくれた人は初めてで、戸惑いながらも無理だと弱音を吐いた私に、ガイ先生は自らの話を聞かせてくれた。
忍術の才能が皆無だった自分がどうやって上忍にまでなったか。
周りから否定されようとも、努力と根性で這いあがってきた。
努力しろ。抗ってみせろ。そうすれば、違う景色が見えてくる。
忍びにはなれないと断言されたオレが、今、忍びとして立っているんだ。お前にだってできるはずさ。できないことはないと、笑って励ましてくれた。
そして、ガイ先生は、新しい閨房術を作ろうと声をかけてくれた。
従来とは違う、全く新しい閨房術を。
私のわがままめいた言い分を切り捨てず、見ず知らぬ私のために時間を割いてくれた。
術が完成した時、ガイ先生は自らのことのように喜び、泣いてくれた。



私にとってガイ先生は、閨房術に限らず、私に新しい生き方を見せてくれた、かけがえのない人だ。
ガイ先生を思えば、勇気が沸く。
負けるものかと、歯を食いしばることができる。
ガイ先生は私にとっての光だ。
眩しくて、熱くて、苛烈なまでに輝いている太陽そのものだ。
あのときから、私の思いは変わらずに、ガイ先生へ向かっていると信じていた。
ガイ先生を追いかけていけば、私は道を誤らずにすむと、そう確信していた。
なのに。



ひっと喉が鳴った。
ガイ先生は優しい目をして、私の頭を撫でる。何でも言えと、何でも受け止めてやると、あのときと同じように私に語りかけてくる。
息が弾む。変な抑揚になりながら、口を開いた。
「だって、無理なんです。私といたら、カカシは、羽ばたけない。あんなに、綺麗なのに。あんなに大きいのに、あんなに立派な翼があるのに、私といたら」
うんと、ガイ先生は話を促す。
息を吸い込む私の言葉の先を望むように、穏やかに微笑む。
私は一つ息を吐いて、引きつるように吸って、一息に吐き出した。


「――堕ちる」


涙が落ちた。
ガイ先生と、私は掠れる声で名を呼ぶ。
「飛べるのに、もっと高く、もっと遠く。私には見えない美しい景色が、望めば見えるのに見ようとしない。羽ばたこうとしない。先が見えない。これじゃ駄目なのに。堕としたくない。輝いていて欲しい。高く高く飛んで欲しい。――私には、カカシを飛ばせることができない」
震えながら泣いて、泣いて、ガイ先生は「そうか」と小さく呟いて、顔をうつむける私にゆっくりと語りかける。
「イルカは、カカシのことが好きなんだなぁ。好きだから、大事だから、不幸にしたくないんだな」
「そうか、そうか」と頷きながら、ガイ先生は頭を撫でた。
「カカシについて、オレから言えることはない。だが、これだけは言っておこう」
「顔を上げろ」と声をかけられ、私は涙を拭き、顔を上げる。
ガイ先生は私を見つめ、噛み締めるように言い切った。



「安易な道へとは進むな。その先は、後悔しかないぞ」



ガイ先生の言葉に、壊れたように涙があふれ出る。
「――すいませっ、すいません」
顔向けができなくて、顔を覆った。
最低なことをした。ガイ先生に対して、失礼なことをした。
私は逃げようとした。カカシと向き合うことが怖くて、取り返しの付かないことになりそうで、ただ己の不安を回避するためだけに、ガイ先生を利用しようとした。
床に額を擦りつけ謝る私に、ガイ先生は「馬鹿者め」と笑う。
「謝るな、イルカ。弟子の過ちを正すのは、師として当然のことだ。お前はオレの閨房術の唯一の弟子だからな」
きっと生涯ただ一人の弟子だろうと、ガイ先生は笑う。
床に突っ伏して泣きながら、ガイ先生の大きな手を頭に感じ、思う。



好きだった。
本当に好きだった。
ガイ先生のことが、ずっと好きだった。
でも、その意味合いは、変わってしまった。
撫でられる手の大きさや、強さは痛いほど頼もしいのに、自分が求めるものではないと思い知らされる。
震えながら伸ばされた手。
ぎこちなく、触れてきた温もり。
緊張して時折引っかくように撫でた、不器用な手の平を思い出して呻いた。
いつの間に変わってしまったのだろうと思う。いつの間に大きくなってしまったのだろうと息を吐く。



「イルカよ、頑張れ。オレはいつでもお前の味方だぞ」
屈託なく言ってくれた言葉は甘く、そして強い。
カカシに、ガイ先生の強さがほんの少しでもあったら。
強さが優しさになるガイ先生と、優しさが強さになるカカシの違いは、私には致命的で。
ないものねだりをする自分の愚かしさと、どうしても変えられない道を前に、立ち尽くすしかなかった。









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