手を繋いで 36
「黙れ、離せっっ」
息が引きつり、悲鳴があがる。
サスケを見捨てた。
カカシがサスケを見捨てた。
カカシが惜しみない愛情を注いでいた存在を、切って捨てた。
その意味を考えそうになって、頭を振る。
渾身の力を込めて、カカシの体を引きはがそうと暴れた。
「離さない。絶対に嫌だ! あのとき言えなくて、どれだけ後悔したか、イルカには分からないでショ!? オレは本気だ。アンタを失う以上の恐怖は存在しない!!」
詭弁だ。耳触りのいい言葉なだけだ。
頭で必死に抵抗する。
駄目だ、絶対駄目だ。
振り向くな、顔を見るな、全身で拒絶しろ。
もがく私の肩を掴み、カカシが力を込める。
抗う。抗う。体を反転させようとする力に対抗する。腕を突っぱね、足を踏ん張り、少しずつ回る体を必死で止めた。
「イルカ!!」
声をあげたと同時に、体が完全に開く。
咄嗟に顔を腕で隠した。
カカシと顔を合わせないように、目を合わせないように。目を瞑って、視界を遮断する。
小さく、早い呼吸が聞こえる。
自分のものか、それともカカシのものか判断できない。
固まる私の肩に手を乗せたまま、カカシは小さく呟いた。
「バカだね。アンタってば、本当に救いようもないバカ」
実感のこもった言い方に、どっちがだと噛みつきたくなる。でも、口を開きたくなくて、唇を噛みしめて黙っていれば、背中を引き寄せられ、真正面から抱きしめられた。
「泣いているのを隠す時点で、アンタはオレに惚れてんの。いい加減、認めなさいよ」
諭すように言った台詞を否定しようとして、口を開ける。
違うと息を吐いた瞬間、力が緩んだ隙を逃さず、顔を覆っている腕を力づくで下げられた。
驚いて目を開けば、そこには困ったように笑うカカシがいて、大きな手のひらが頬を覆った。
「アンタの今の顔、鏡で見せてやりたいよ。そうすれば、アンタは否定できない」
絶対だと、覆った手の平でしとどに濡れた頬を拭うから、涙が止まらなくなる。
胸が痛い。
気持ちがあふれ出る。
後から後から、滾々と湧き立つ泉のように、絶え間なく溢れるこの気持ちは何と言えばいいのだろう。
カカシがいる。
カカシが、目の前にいる。
私を見て、喋って、そこに立っているだけなのに、そんな当たり前のことが無性に嬉しいと、私へ反応を返してくれることが奇跡のようだと、声高に叫ぶ自分がいる。
もう隠せない。
今までどうやって隠していたのか分からないほどの思いがあふれ出る。
困った。
どうしようかと、途方に暮れる。
本当に困っているのに、濡れる目を開ければ、カカシは嬉しそうに笑っているから、笑いごとじゃないと叫んだ。
「本当になんなの、あんたはッ」
「うん、ごめん」
軽く言う言葉が胸に堪えた。
例え二人が同じ思いを抱えようと、越えられないことはある。いいや、越えられないことだらけだ。
一瞬見えた景色が、消え去る様を見なければならない不幸に泣けて、喉が詰まった。
カカシには言っていないことがある。
言えないことがある。
だから、もう一度無理だと叫ぶ。
「私はあんたが思っているような人間じゃない。私の本性を知れば、逃げるに決まってる! 受け入れられるわけな――」
胸に手を当て押し返す直前、厚い胸に抱きしめられ、言葉が止まる。
骨が軋むほどに抱きしめられて、いたずらに息だけがこぼれ出た。
「知ってる」
一言、落ちた。
恐ろしく簡潔でありながら、おぞましい事実に体が固まる。
「……え?」
小さく声をあげれば、カカシは腕を緩めた。
息を飲む。
呆然と見上げる私に、カカシは囁いた。
「三代目から聞いた。全部、知ってる」
何と言っていいか分からなかった。
頭が真っ白になった後、じわりと迫り上げる情動を抑え込み、信じられない思いで問うた。
「いつ、から…?」
「アンタと出会った、すぐ後くらい」
ひっと息が零れ出た。
小刻みに揺れる肩に手を置き、カカシはゆっくりと体を離し、私の顔を覗き込む。
柔らかい、優しい瞳。
口を開いては閉じる私に、カカシは微笑んだ。
「知ってるよ。アンタが自分を嫌いなこと。ずっと一人で苦しんでること。それでも前を向こうと必死に足掻いていること。今を見ようと努力していること。全部、全部知ってる」
温かい眼差しに恐怖を覚え、肩に置かれた手を振りほどこうと身を捩る。
信じられない。
カカシの言葉が信じられない。
破滅を望む私は全てを殺してしまう。
私はいつか、全てを壊してしまう。
それを知っていて、なお手を伸ばす理由が見つからない。
悲惨な未来しか持たない私を、どうして求める。どうして側にいたいと望めるのだ。
愛だとでもいうのか?
滅びさえも、愛があれば受け入れられると、言い張るつもりなのか!?
「信じられないッ。信じられるわけ――」
ない、と突き放そうとする直前、カカシは口を開いた。
「だから、アンタはバカだって言うのーよ。今までアンタの一番近くにいたのはだーれ? いつもアンタの側にいたのは、だれ?」
その言葉に、ここ数か月の記憶が蘇った。
受付所、自宅、大通り、アカデミー、商店街。
カカシが隣にいた。
憎まれ口を叩きながら私を見つめた瞳、バカと言いながら赤く染まった頬、素っ頓狂な声をあげて怒った顔。
やさしい瞳で見守るように微笑んでいた、カカシの笑顔。
記憶の中にある風景には、カカシと、カカシにまつわるものが写り込んでいて。
それは、私の一番側にいたのは誰かを証明するもので。
思い返せば、どの記憶にも存在していた。
呻くように息を吐いて、顔を俯けた。
当たり前なこと言わせるんじゃないよと囁くから、大きな手で優しく頭を引き寄せ抱いてくれるから、言葉が出ずに体が震えた。
「ばーかだねぇ。全部知ったらオレが離れると思った? そんなことで離れられるくらいなら、最初っから近づいたりしなーいよ」
カカシのお人よしな言葉が痛い。
だからこそ、私は自身を許せない。
カカシが望む世界を与えられないばかりか、壊してしまう己の在り方が認められない。
「あんた、馬鹿だ。私と一緒にいたって不幸になるだけなのに。私はきっとあんたを裏切る。あんたの優しさを踏みにじって、私は私の望みを叶える。全てを裏切って、私は堕ちていく人間だっ。私はあんたを不幸にしかできない。あんたを輝かせることなんて、大空へ飛ばせることなんてできないっっ」
一気にあふれ出た思いは熱い雫となって頬を伝う。無理だと唸るように何度もつぶやく私に、カカシはため息を吐いた。
「バーカ」といつもの憎まれ口を叩くみたいに、心底、呆れているように。
泣きじゃくる私の顔を上向かせて、カカシは肩を竦める。
「だーれが、輝きたいって言った? 誰が幸せにしてほしいって言った? 誰が飛びたいって言ったのよ。オレ、そんなこと一言も言ってなーいよ」
本当にバカだと笑ったけど、私は首を振る。
それでも認められないと首を振り続けていれば、カカシは私の手を握った。
じゃあさと何か良いことを思いついたように声を弾ませて、カカシは微笑んだ。
「そのときは、一緒に堕ちよう」
一瞬理解が及ばなかった。
カカシは目元を染め、嬉しそうに微笑む。これが自身の幸せなのだと歌うように告げる。
「アンタが堕ちる時、オレも一緒に堕ちさせて。こうやって、手を繋いで」
指の間に指を滑り込ませ、しっかりと握る。
強く強く、痛みさえ感じるほど強く、カカシは私の手を握りしめ、もう一つの手で覆う。
「オレは絶対手を離さないから。アンタも少しでもオレを思うなら、手を握って。オレの手を繋いで離さないで」
涙が落ちる。
涙はカカシの手に落ち、伝って下へと流れ落ちる。
「ふ、うぅ」
声が抑えきれず、空いている手で口を押さえた。それと同時にカカシの手を握る。
強く、強く。
離れないように、強く。
馬鹿だと思う。
こいつみたいな馬鹿は、どこを探してもいないと強く思う。
でも、だからこそ、強く惹かれた。
カカシが、カカシだけが、私という残滓を掬いあげて、意味を与えてくれた。
「――一緒に堕ちようなんて、どんな口説き文句だっ」
溢れる涙を袖で擦り、憎まれ口を叩く。
本当は泣くほど嬉しいのに、素直になれずに悪態をついてしまう。
するとカカシは呆れたように息をついた。
「あーのね。だーれが、口説き文句って言ったの。これはね、プロポーズよ。プロポーズ。ほんとに察しが悪いんだから」
「っぅえ」
思わぬ言葉に驚いて目を見開けば、カカシは大仰に腰を屈め跪くと、握った手を軽く持ち上げ、私の甲に口づけた。
「うみのイルカは、オレ、はたけカカシと結婚します。拒否権は一切認めません」
跪いている癖に、自信たっぷりと言い切った言葉に、カカシの捻くれた性格を見て、一瞬おかしくなったけど、涙に負けてしまった。
「ば、ばかぁ。泣かすなっ」
袖で顔を覆って、途方もなく泣く。
「あーぁ、もーばっちぃ顔して。ムードもへったくれもなーいね。とにかくアンタは頷く、その後はオレの胸に飛び込んできなさい」
顔を覆った腕を退かれ、カカシの手が涙を拭う。
促されて何度も頷けば、飛び込む前に胸を押し付けられていた。
「あーぁ、やっと捕まえた」
感無量の声とも、安堵のため息とも言えない声が耳をくすぐる。
捕まえたのは私の方だと、背中に手をまわし、抱きしめた。
カカシが握ってくれてからずっと、手は離れないまま繋がれている。
それを強く、強く握りしめ、私はようやく小さく息を吐けた。
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