カシブタ 1

「テンゾウのバカ野郎! もうお前なんて友達じゃねぇや!! 二度と面見せんなっっ」
イルカが叫んだ言葉に、黒髪の少年は顔を歪ませた。良い気味だと思ったのは一瞬で、あとは苦い思いが突いてくるばかりだった。
少年の顔を見ることができなくなって、イルカは体を翻すなり駆け出す。
「イルカ!」
少年の、テンゾウの呼ぶ声が後ろから追いかけてくる。
イルカは唇を噛みしめ、全力で振り切った。
知らない、あんな奴もう知らないと自分に言い聞かせて、我武者羅に足を動かす。駆けて駆けて、つま先に何かが当たったと思った時には地面へぶつかっていた。
「……って」
頭から突っ込むように倒れ込み、膝小僧を思い切り打ってしまった。
ひりひりと痛む膝小僧の具合を確かめようと、起き上がる。地面に手をつけば、手にも痛みが走って顔が歪む。
両足を軽く曲げ、尻をつけて痛む箇所を見れば、右の膝小僧の皮は大きく擦り剥け、赤い血が溢れ出ていた。
血を見た途端、涙が零れ出た。
イルカは小さい頃から外を駆けまわることが大好きで、擦り傷や切り傷などの怪我は日常茶飯事だった。現にイルカの顔には鼻の真ん中を横切る大きな古傷がある。そのときの夥しい血に比べれば、こんな傷はどうということはない。
でも。
「うああああああん」
膝を抱えて大声で泣いた。
痛むのはもっと違うところなのに、イルカはこの痛みが泣かせる原因なのだと言い聞かせて泣いた。
ここが、人気のない演習場で良かったと頭の片隅で思いながら、イルカは大きく声を張り上げた。
ここならば自分が泣いたことを知られることも、下忍の癖にと言われることもない、はずだった。



「…ちょっと。こんな小さな傷で、そこまで大泣きするのってあり得ないんじゃない?」
気配もなく間近で聞こえてきた声に、びくりと体が震える。
誰かがいたのかと泣くことも忘れて周囲を見まわしていると、「違う、ここ」と下から声が聞こえてきた。
言われるまま視線を向け、目が見開く。
イルカが抱えている膝小僧の上。
真っ赤な血が溢れ出ているその隣に、小さな人がいた。
小さな人はイルカの手のひらの半分くらいの大きさで、日に映える銀色の髪を持ち、顔を鼻先までマスクで隠している。服装は紺を基調としたゆったりサイズの半そで半ズボンで、忍びが愛用しているポーチをいくつも腰へ装着していた。
「……お前、何?」
こちらを見上げているその人に思わず聞けば、その人は後頭部を掻くと心底呆れた様子でため息を吐いた。
「何それ。アンタがオレを呼び出したのに、その言い草はないだろ」
色素の薄い瞳に睨まれて、イルカは思わずびくつく。
尖るような、触れたら切れるような気配に怯えていれば、その人は顔を歪ませると視線を逸らし、イルカの膝小僧に座った。
「……ったく。なーんで、こんな弱っちい泣き虫なガキに呼ばれちまったんだか」
ぶつぶつと悪態をつく小さい人の物言いにカチンときた。
「……くない」
「は?」
聞き返されて、イルカは奥歯を噛みしめ、目の前の小さい人を睨みつけた。
「俺は、弱くないし、泣き虫なんかじゃないっっ」
確かにさっきは大泣きしたけれど、人前じゃ泣かない分別も意地もある。強くなる修行だって毎日している。苦手なことはまだいっぱいあるけど、それもこのままし続けていれば、いつかは得意なものになっていくはずだ。一生懸命頑張れば、イルカだって、イルカだってそのうち。
「俺は弱くなんてないっっ! だから、あんな奴いなくたって俺は……!!」
そこまで言って声が途切れた。
泣きたくないのに涙が零れ、鼻水まで出て気道を塞ぐ。
また揶揄されるのが嫌で、腕で涙を拭き、あとからあとから溢れる涙を止めようと息を止めた。それでも溢れ出、終いにはしゃっくりまで出てきて、イルカは唸りながら顔を俯ける。



嗚咽を噛み殺し、小さな人には顔を見られないように深く伏せて涙を擦っていると、頭に何かが乗った。
「あーもぅ…」
小さい呟きが聞こえたと同時に、それは動いた。ぎこちない動きで触れるものの正体が分からずそっと視線だけ上げれば、小さな人が顔を逸らして小さな手で何度も頭を撫でている。
小さな人の突然の行動がよく分からず見ていれば、小さな人はぶっきらぼうに言ってきた。
「泣くんじゃないよ。アンタが今一番やらなくちゃなんないのは、この傷の手当てだろ」
どうしてオレがこんなことをとぶつくさ言いながら、それでも手を動かす小さな人に、イルカは瞬きを繰り返す。
「……慰めてくれてるの?」
「はぁ!?」
イルカの言葉に、小さな人は大きく仰け反り、体を固まらせる。
じっと見つめていれば、顔が赤くなっていることが分かった。
「ば、バカじゃない!? なんでオレがアンタなんかのご機嫌取りしなくちゃいけないんだよっ。ただアンタが泣いたら涙が傷に触れて、衛生上汚くなって化膿するから仕方なく!! 自惚れるのも大概にしてよね」
キーキーと甲高い声を上げて反論をしてきた小さい人に、呆気に取られた。言っていることはむかついたが、イルカの傷の心配をしていることは分かる。
さっきの小さな人は恐いと思ったけど、今こうして文句を言う小さい人は恐いどころか親近感を覚えた。
「ちょっと、アンタ聞いてる!? オレがこんなぺーぺーのアンタみたいな奴に声掛けるなんて滅多にないことなんだからな! 分かったら、早く綺麗な水で傷を洗え!!」
声を張り上げ指図してくる小さい人がおかしくて、笑みが零れ出た。
膝小僧に怪我をしたら、口布をした小さな人が出てきて、傷の手当てをしろと口うるさく言ってくる。
よく考えれば、あり得ない現場にいることに気付いて、イルカは涙も忘れて笑い転げた。
「……な!! ちょっと、何がおかしいんだ! 馬鹿っ、膝つけるな、暴れるな!! 傷に土がつくだろっ、て、こら!!」
必死に叫んでくる小さな人の声を聞きながら、イルカはケタケタと笑い続けた。



******



「ただいまー」
誰もいない玄関先に向かって声を張る。
返ってくる声はないとは分かっているが、イルカの習慣みたいなものだ。
外はすでに真っ暗だ。靴を脱いだ後、闇に没した廊下を抜け、風呂場に直行する。
「ちゃんと洗いなさいよ。オレが来たからには化膿だなんて不名誉な状態にはさせないからね」
膝小僧へ仁王立ちに立ち、小さい人は腕を組んで宣言してくる。
皮が剥けたとはいえ、単なる擦り傷なのに、小さい人は常に真剣だ。
その迫力に気後れしつつ、イルカは言われるまま桶に水を汲んで、傷口を洗う。
小さい人は、会った時からずっとイルカの膝小僧に乗っていた。歩いても走っても、小さい人はイルカの膝小僧にひっついたままだった。
正直イルカとしては、家に帰る途中で落とすなり、いなくなりするだろうと思っていた。
ちょろちょろと水を傷口に流しながら、イルカは改めて小さい人を見つめる。
年頃は自分と同じくらい。会った時は髪に隠れていて分からなかったが、左目の上に大きく縦に傷が走っていた。ずっと閉じられている左目はもしかしたら見えないのかもしれない。
「ほら、そこ。だから、そこ洗えてない! ちゃんと洗えって言ってるだろうが!!」
まったく不器用すぎる、観察不足と悪態をつきながら指示する小さい人に面白くないものを感じながら、イルカは手を動かす。それはそうとして。



「……あのさ。結局、お前って何なの?」
イルカの知識不足かもしれないが、目の前にいるような生き物は初めて見る。
小さい人は今更何を聞くんだと眉を跳ねあげた。
「はぁ? 何って、見て分かんないの?」
見ても分からないから聞いているのに、嫌な奴だ。
小馬鹿にした態度がムカついたが、感情のまま口に出せば、やたらと口達者な小さい人に言い負かされるのは目に見えていた。
息を吐くことでムカつく気持ちを発散して、イルカは口を開く。
「分からないから聞いてるんだろ? 俺、お前みたいなの、初めて見たし」
小さい人は傷口から目を離すと、イルカの顔を見上げ、仕方ないというように息を吐いた。
「オレは、カ――」
途中まで言いかけて、小さい人は口を閉じてしまう。
そのまま固まる小さい人にイルカは首を傾げた。
手を止めて、小さい人の続きの言葉を待っていたが、小さい人は口を開く様子がない。
数分経っても黙りこんでいる小さい人に痺れを切らし、イルカは尋ねた。
「『か』、何なの? それとも、『か』が名前な訳? ねぇ、答えてよ。ねぇねぇ」
つんつんと小さい人の肩を突き、答えを強請れば、小さい人はイルカの指を叩き落とすなり、癇癪を起した。
「あー!! うるさい、うるさい、うるさい!! アンタ、もうちょっと待つってことを覚えなよ! 忍びなら待つことの重要性は知ってるでショ!!」
至極最もな言い分に言葉が詰まる。アカデミー時代、口酸っぱく担任から言い聞かされたこともあって、何も言い返せなかった。
不承不承ながらも黙ったイルカにひとまず満足したのか、小さい人は後頭部を掻き、首を捻りながらようやく名乗った。
「カ…、カシブタ?」
「……なんで疑問形なの?」
イルカの言葉が気に障ったのか、顔を一瞬で赤らめるカシブタにイルカは慌てて言い繕う。
「いや、分かった、分かった!! カシブタね。うん、カシブタ! オレはうみのイルカ。木の葉の下忍だ」
よろしくと何か言われる前に手を出せば、カシブタは顔を歪めたが小さい手でイルカの指先を握った。
「まぁ、短い間だと思うけど、アンタのここはオレが守ってやるから安心してもいいよ」
上から目線の言葉が、非常にいけ好かない。
引きつった笑みで「そう」とだけ返して、イルカの頭に何かが閃く。
「あ、そうか! カシブタって、もしかしてかさぶたの親戚とか何か?」
「は?」
違ったのだろうか。カシブタはこちらを胡散臭いものでも見るような目で見つめてきた。
「いや、だって、膝小僧の傷が出来た時にカシブタが現れたし、俺、カシブタを口寄せとかしてないし、そもそも口寄せなんて高等忍術できないし……」
もごもごと自分なりの考えを述べれば、カシブタはしばし顎先に手を置き考え込んでいたが、なるほどと呟いた。
「は? カシブタって自分のこと分かってなかったの?」
「あ?」
思ったことを口に出せば、また思い切り睨まれてしまった。
何だか本当に嫌な奴というか、怒りっぽいというか、カルシウム不足ではないのだろうか。
面白くなくて急に立ち上がれば、カシブタが下から文句を言ってくる。



「ちょっと!! 急に立ち上がらないでよっ。落ちたら大変じゃない!! オレはアンタのここを守ってやってんのよ! ちょっと聞いてる?」
足を踏みならし、夕飯を作るべく台所へ向かう。
「知らないよ。別に頼んだ訳でもないし、カシブタが落ちたって俺は痛くもかゆくもねーもん」
台所の電気をつけ、冷蔵庫を開ける。食材は山ほどあるが、今日は簡単に炒めもので済ませよう。
手を洗って、いつも着用しているエプロンを身につける。
ご飯は朝仕掛けてきたからいいとして、味噌汁を作るために、水を張った鍋に腸を取った煮干しを数匹入れ、まな板を取り出す。
その間にもカシブタはキーキー声を放ってきた。
「うわ、アンタ可愛い顔して、全く可愛げがないね。オレがわざわざ面倒見てやるって言ってるのに」
「はぁ? だから、頼んでもないし、可愛くあってたまるかっ」
「なーによ。傷こさえて、ぎゃんぎゃん涙流して泣いてた癖に。お前みたいなお子様は可愛いだけが取り柄なんだからせいぜい笑って、可愛さ振りまいていればいいんだよ。その方がよっぽど士気があがるってもんだーね」
「馬鹿にすんな、俺だって立派な下忍だ! 泣いてたのだって、別のっ」
キャベツを刻んでいた手を止め、唇を噛みしめる。
カシブタは急に黙り込んだイルカを見て、攻め時と判断したのか、勢いをつけてぺらぺらと喋り出した。
「だいたい忍びの癖に平坦な地面ですっ転ぶってどういうこと? ましてや下忍の癖にあり得ないし、こんなのアカデミーの生徒でもしないことでショ。あぁ、もしかしてアンタ、下忍とか言ってるけど、アカデミーが休校になったせいで仕方なく卒業させられた一人じゃない? そいつら使い物にならないってよく上忍仲間から聞かされてるよ。使いどころがあるにしても囮か、捨て駒にしかならないって専らのひょうば」
「うるさい!!」
力任せにまな板に包丁を打ちつけた。
大きな音と共に母親が使いこんでいたまな板に刃が食い込み、包丁は手を離しても落ちることはなかった。
奥歯を噛みしめ、唇を噛みしめ、イルカは震える体をどうにかしようと深呼吸を繰り返す。
胸が痛くて仕方なかった。



脳裏に浮かぶのは、さっきまでのことだ。
今日は二人で共同生活を始める第一日目で、お互いの任務が終わったら、少し豪勢な夕食を作ってお祝いしようと約束していた。
食材は前の休日の日にイルカが買い込んできたから、後はテンゾウと一緒に帰ればいいだけだった。
先に任務が終わったイルカが、アカデミーの校門の出入り口で待っていれば、報告を終えたテンゾウがやって来た。
少し元気が無くて不思議に思ったが、イルカには分からない、高ランクの任務で疲れているのだろうと思った。
テンゾウはイルカの幼馴染で、家族ぐるみで付き合っていた友達だった。
何度もお互いの家に泊まったりして、友達と言うよりは仲のいい兄弟みたいな関係だった。
いつも無鉄砲でヤンチャなイルカに対し、テンゾウはおっとりしていてイルカの後をついてはよくフォローをしてくれた。
テンゾウはいいお兄さんねと母に言われ、同い年なのに目上として格付けされるテンゾウをやっかんだことは一度や二度ではないが、それでも静かに笑うテンゾウの大人びた雰囲気に、イルカは敵わないと思っていた。
テンゾウはとにかく出来た奴で、性格もさることながら、忍びとしての実力も秀でていた。
いまだ下忍のイルカに対し、テンゾウは六歳でアカデミーを卒業すると同時に中忍に昇格していた。
本来なら上官と部下の階級制があるが、テンゾウ本人が固く嫌ったため、二人でいる時は昔と同様に接している。
任務で疲れているならゆっくり休ませてあげたいと、イルカが夕飯を作るからお前は休んでおけと、目一杯うまいもの作るから楽しみにしとけと笑って言ったイルカに対して、テンゾウから返って来た言葉は思いもしないものだった。
「イルカとは、一緒に住めなくなった」
固い顔でそれだけ言われた。
どうしてと訳を聞いたけれど、テンゾウは言えないと言うばかりで、それなのにこちらに言ってきたのは、イルカとテンゾウで買ったはずの、イルカの生家に対する権利書類や手続きの事後報告と、テンゾウから借りたお金をもう返さなくていいという話ばかりで、肝心なことを何も言ってくれなかった。
大事な話だからちゃんと聞いてと言い聞かせるテンゾウに、イルカは首を振った。住めなくなっただけじゃ分からない、それはずっとなのか、それともある一定の期間なのか。テンゾウは一緒に住みたくないのか、もうどうでもよくなったのかと、責めるように聞いた。
でも、テンゾウの口から訳が話されることも、納得がいく言葉が出ることもなかった。
ただ、「ごめん。言えない」と、そればかりが繰り返された。



裏切られた気分になった。
ずっとずっと心待ちにしていて、それに向かって努力もして、ようやく目処がついて、二人でやったなって笑いたかっただけなのに。
それにも増して、イルカの心をくじけさせたのは、テンゾウに置いて行かれたと思ってしまったことだった。
ずっとずっと恐れていたことが、急に目の前に現れて真っ暗になった。
忍びとして実力差がある以上、こういう日が来るとは思っていた。だから、イルカは鍛錬した。テンゾウに少しでも追いつけるように、何かあっても今の位置を保てることができるように、毎日修業は欠かさなかった。
例え、恩赦でアカデミーを卒業して、下忍としての力が満たなくても、それでも努力し続けて頑張った。
それなのに、よりにもよって、今日。
テンゾウとずっと友達でいられるように、今まで以上に頑張ると決意を込めて迎えた今日に、その日はやって来てしまった。
自分の不甲斐なさと力の無さが悔しくて、八つ当たりするように一気にテンゾウへ怒りが向かってしまった。
自分の弱さが嫌で嫌で堪らず、テンゾウを傷付けてしまった。



「分かってんだ、本当は!! テンゾウが悪いんじゃないっ。俺が悪いんだって。いつまでもいつまでもずっと弱い俺が悪いんだって!! 滅多に笑わないのに、今日のことを話す度に嬉しそうに笑ってたあいつがどうでもよくなった訳ないだろっ。一年も前から細かい家事分担決めて、バカみたいに楽しみだねって言ってたのに!! バカなのは俺の方だ!!」
くそっとまな板を殴って、顔を俯けた。
言うだけ言ったら、涙が止まらなくなっている。
台所の床に座り込んで、ここにはいないテンゾウを思う。自分の弱さをテンゾウに押し付けたバカな自分を罵倒した。



「……風呂、入るよ」
泣いて泣いて、涙ももう枯れ果てた時、声が聞こえた。
ぱんぱんに腫れた瞼が重いと思いながら、下に視線を向ければ、カシブタはどこかばつの悪そうな顔でそっぽを向いていた。
「……なんで?」
鼻水のせいで鼻にかかった声が出る。
けれど、カシブタはとにかく風呂入りなさいよと、言い続けるばかりだった。
夕飯という気分でもなくなって、気分転換も兼ねてイルカはカシブタの言うことを聞く。
浴槽を手早く洗って、湯を溜める。
ぼーっと浴槽を見ていれば、カシブタが膝の横を叩いてきた。なんだと下を向けば、「湯、溜まった」とぶっきらぼうに告げられた。
いつの間に溜まったのだろう。よっぽどぼんやりしているんだなと己の状態を認識しながら、鼻の下を擦って重たい体から衣服を脱ぎ払う。
脱衣所に衣服を放って、掛け湯をして、湯に浸かった。
そこまでしてあぁとカシブタの存在が気になった。見れば、カシブタは膝小僧を立てた上に座っている。イルカが膝を立てているため、湯に没することはないが、掛け湯の時に思い切り被ったのか、全身びしょ濡れだった。
「ごめん。濡れちゃったな」
今からでは遅いが、これ以上濡れないようにカシブタを湯桶の中でも入れようと手を伸ばせば、小さい手のひらを思い切り向けられた。
その手は何だと見ていれば、カシブタは不機嫌な様子で言ってきた。
「……オレはアンタの傷を見守るためにいるの。守るべきものから遠ざけてどうすんの」
カシブタの言い分になるほどとぼんやり思う。かさぶたを剥がしちゃ駄目なのと同じことだろう。
「そう……」
口辺りまでお湯に浸して、黙る。
胸中にあるのは、よく分からない空白感だ。頭もぼんやりとして、これ以上何かを考えることが面倒臭く思う。
カシブタとの会話も途切れて、何をするでもなく湯にずっと浸かっていれば、ぴしゃりと小さな水しぶきが顔にかかった。
今のは何だろうと顔を上げれば、カシブタは口布を取って顔を洗っていた。
口布を取ったカシブタは男のイルカから見ても整った顔立ちをしていた。アカデミーにこいつがいたら、女子がキャーキャー言うんだろうなとぼんやりとカシブタが顔を洗うところを見ていれば、再び頬あたりに水しぶきがかかった。
目を瞬かせれば、カシブタが微かに震えながら、イルカを睨んでいた。
「……なに?」
生気の抜けた声で尋ねれば、カシブタは眉を跳ねあげた。そして、こちらに指差し、怒鳴って来た。



「ア、アンタね!! こっちが気を遣ってやってるのに、何にも気付かないのはどういうこと!? ちょっと鈍感過ぎるにも程があるんじゃないっ」
瞬きを一つして、カシブタを見る。
カシブタの言っている意味が分からずに、ぼんやりと眺めていればカシブタは「あーむかつく」と髪の毛を引っ掻きまわし叫んだ。
「顔、洗いなさいよ、顔!! そんで、風呂入ったら、少しは気分も浮上するってもんでショ!! 風呂は命の洗濯だ、なんて言うくらいなんだから、もう少しはシャンとしなよ、シャンと!!」
本当に手間のかかると、カシブタは小さい手で湯を掬ってはイルカの顔目掛けて掛け続ける。
「ちょ、ちょっと。分かったから、止めろって」
どこをどうしたらそんなに素早い動きができるのか不明だが、シャワーよりも大きい水滴が顔に連続して当たることが不快で腕でガードをすれば、ようやく水しぶき攻撃は止んだ。
「……顔、洗いなよ」
鼻息を一つ吐いて、カシブタは腕を組んでイルカを見上げる。
言われるままに湯を掬って、顔を洗う。温かいお湯が肌に打ちつけ、何となくだが少しホッとした。
何度も掬って顔を洗う。
湯を手の平に溜めて顔に押し付ける。何度も何度も、お湯を掬って顔に当てた。
「ちょ、ちょっと! アンタ、やり過ぎっ。そんなに洗わなくていいって、ちょっと!!」
無言で顔を洗うイルカに、カシブタが焦った声を上げる。
イルカは手の平を顔に押し付けたまま、小さく漏らした。



「……俺、どうしたらいいんだろう?」
「は?」
小さく問い返すカシブタの声を無視して、イルカは繰り返した。
「どうしたら良かったんだろう?」
湯船のお湯が微かに揺れる音と、蛇口から水滴が落ちる音が響く。
しばらくお互いに黙り込んで、じっとしていた。
蒸気が天井に集まり、ぽつりと水滴が落ちる音を耳に捕えた時、カシブタの息を吸う音が聞こえた。
「そんなの、知らないよ」
突き放す言葉に体が小さく震える。
言うんじゃなかったという思いと、カシブタに甘えようとしていた自分に気付き、恥ずかしくなった。
悪いと、関係ないことだよなと小さく笑おうとした寸前、カシブタが強く言った。
「過去は知らない。でも、これからのことなら、謝ればいいじゃない」
期待していなかった言葉に目が見開く。
湯気に当たったのか、カシブタは赤い顔をしながら後頭部を掻いている。
「詳しい経緯は分からないけど、要は喧嘩したんでショ。なら、謝っちゃえばいいよ。そうしたらさ、傷が治るみたいに元通りになるよ」
カシブタはイルカの傷を撫でるように手をかざし、簡単なことでショと見上げてきた。
どこが簡単なんだと顔が歪む。
イルカが言った言葉はテンゾウを傷付けてしまった。テンゾウの思いも何もかも否定して、決めつけて、一方的に拒絶した。友達じゃないと、イルカは言ってしまったのだ。
「……簡単じゃ、ないよ…。テンゾウはもう、俺のこと呆れて、嫌いになってる」
唇を噛みしめる。湯を見つめていれば、雫が落ちて、表面は波紋を描き揺れた。



「イルカ」
名前を呼ばれて顔を上げた。
カシブタは難しい顔をして、手招きを繰り返している。
訳が分からないままにカシブタに顔を寄せれば、カシブタは小さな手を頬に押し当てると、真っすぐイルカの瞳を見つめた。
「イルカは諦められるの?」
カシブタの言葉はイルカの胸を貫いた。
声もなく見つめるイルカを、カシブタは厳しい顔で見返す。
「諦めきれる訳ないよね? イルカの体中の傷。古いのも新しいのも、ほとんど修業中についた傷でショ? イルカは強くなるために頑張ったんだって分かるよ。その一つの理由が、テンゾウって奴と友達でいたいためなんだよね?」
瞳を覗きこまれて、息が詰まった。
涙は枯れたと思ったのに、後から後から溢れ出てくる。
ぼろぼろと出てくる涙がカシブタを濡らしてしまう。止めようと頑張ってはみたものの、涙はちっとも止まらなくて、カシブタを濡らし続けた。
「ほら、答えは出てるじゃない」
カシブタが表情を緩めて優しく諭してくるから、胸がいっぱいになって言葉が出てこなかった。









戻る/ 2


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捏造だらけだ!!
かさぶたぶたぶかさぶた〜♪