別れ話 イルカ編

鼻歌を歌いながら、オレは夜の街を歩く。
さきほど別れた女と貪った一時の快楽で身も心もすっきりと晴れやかだ。やたらと血生臭い任務の後は、柔らかい女の身に欲望を突き立てるに限る。
写輪眼やらコピー忍者とやたら奉られているオレはとにかく女受けが良かった。親譲りの銀色の髪と整った顔もそれに色を添え、ちょっとオレが声を掛ければ、大抵の女は一夜の遊びに付き合ってくれる。
柔らかい肌と全てを受け入れる柔軟さは、オレに心地のいい快楽を与えはしたが、オレが本当に求めているものをくれるのは唯一人。


イルカ先生。
その人の姿と声を脳裏に思い出し、オレは人知れず笑う。


彼とは、オレが受け持つことになった子供たちの紹介で知り合った。
オレと同じ忍びとは思えない、穏やかな空気と温かい笑顔に触れ、気付けばオレは彼に夢中になっていた。
同性とどうこうなるということ自体、考えもつかなかった彼の人を強引に口説き落とし、恋人として付き合うようになった。
彼こそがオレの居場所。
彼がいれば、それだけでいい。
彼は里よりも大事な、オレにとって唯一無二の稀有な人。
本気でそう思い、そこに嘘や誤魔化しなど何一つ入らないが、生憎男の性はそうはいかなかった。
イルカ先生との行為は快楽に加え、ひどくオレを満たしてくれる。けれど、やはり男とするのと、女とするのは全く違う。
少年時代から女の体を貪ってきた身としては、もう女との行為は挨拶みたいなもので日常と化していた。


付き合い始めはオレも気を付けてはいたが、先生との付き合いが長くになるつれオレは自身の日常スタイルを取り戻し始めた。
初めて先生に女と寝ていることがバレた時、先生は怒り狂った。別れるとまで話が出たが、オレは誠心誠意謝った。もう二度としないと許してもらったが、習慣はそうそう変えられない。
オレが女と寝る度に先生は別れを切り出したけど、オレはそれを許さなかった。だって、先生が好きだ。先生がオレの唯一だ。女とは寝るけれど、それは先生が思っているほどの意味はない。オレが心底思う人はイルカ先生以外いないのだ。
オレと先生は、別れる別れないと何回も衝突した。
でも、ある時を境に、イルカ先生は何も言わなくなった。ようやくオレの気持ちが伝わったのかと喜んだ。


今宵だって、女が泊まるように言ったけど、オレはそれを断った。当たり前だ。オレが求める人はイルカ先生だけなのだから。


通い慣れた、今ではオレの自宅と言えるアパートの階段を上る。年季の入った鉄骨のそれを音も立てずに踏み、愛しいあの人がいる部屋の前まで辿り着く。
部屋の中は暗く、愛しいあの人の気配はするが一か所に止まり動こうとしない。
深夜に近い時間帯もあり、オレの大好きな人はすでに眠っているらしい。
起こさないようにと錆ついたドアを慎重に開けて、部屋へと入る。
あの人の安らかに眠る顔を見ようと狭い廊下を進み、寝室へと続く居間に足を踏み入れ、オレは息を飲んだ。


イルカ先生は窓の下の壁にもたれかかり、虚ろな顔で宙を見つめていた。しかも、イルカ先生には珍しく髪を解き、着流しの格好をしている。
「どうしたの、イルカ先生」
部屋にいる時はいつも正規服のアンダ―とズボンを着ている人が珍しい事だ。
起きているのに電気もつけずにぼうっとしているなんてと、オレは電気のひもを引っ張り明かりを灯す。
アパート自体古いため、電燈も一、二度瞬き、数秒した後でようやく明かりが灯る。
白い人工灯の下、イルカ先生は眩しいためか何度か瞬きをした後、視線だけを動かしてオレを認め、小さく鼻で笑った。
太陽のように明るい先生にしては珍しいほどの、煤けた雰囲気にオレは首を傾げる。
「どうしたんです? 何かありました?」
いつもとは違う雰囲気をまとう先生が心配で、オレは先生の足元へ座る。そのとき、ふとイルカ先生から甘い香りがした。
嗅ぎ慣れたそれに、嫌な予感が身を襲う。


「……せんせ?」
先生のことだから具合が悪かった女性に肩を貸したとか、顔見知りのくノ一に遊び半分で抱きつかれたとか、そういうことだろうとオレは必死に考える。
言い訳をしてくれることを望んで呼んだのに、先生は小さく喉で笑い始めた。
「分かってる癖に……。こんなになるまで匂いがつくのは、それしかないでしょう?」
後頭部を壁につけ、イルカ先生はオレを嘲笑うかのように視線を細めた。
瞬間、視界が真っ赤に染まり、気付けばオレは先生の頬を張っていた。
「なんで!? どうして、アンタ、そんなことっっ」
オレがいるのにどうしてと、イルカ先生の胸倉を掴んだ。
ぎりぎりと体中が絞られるような焦燥感に捕らわれた。激情が突いて出て訳が分からなくなる。
どうしてどうしてどうしてと、狂ったように言葉を吐くオレに、先生は張られて横を向いた顔を前に戻すと、真っすぐにオレを見詰めた。
張った時に歯で切ったのか、先生の口端に血が流れている。
可哀想だと思う気持ちと、許せない気持ちが入り混じる。
せめて先生の口から弁解する言葉を聞きたいという思いだけで、暴れそうな感情を必死で押さえこんでいれば、先生は凪いだ表情のまま口を開いた。


「限界だったんですよ。俺にとっては賭けみたいなもんでした。あんたが女の体を忘れられないというから、そういうものなのかと思って試してみたんです」
先生の言い分に、はっと息が零れ出た。
何を馬鹿なことを言っているのだと詰る前に、イルカ先生は続けた。
「あんたと付き合ってから抱かれる立場でしたけど、驚くほど簡単に抱けましたよ。気持ちは良かったですよ、でもただそれだけ。それ以上でも以下でもない。……あんたはこれが欲しかったんだって分かりました」
分かったという言葉に複雑な思いが浮かぶ。オレの気持ちを理解したくて、女を抱いたというのか? そんな、そんなもの。
胸倉を掴んだ手を引き寄せた。先生は抵抗一つせずにオレの為すがままになる。
「……アンタ、何言ってんの? そんなことのために、それだけのために、アンタはオレを裏切ったのっ!? オレにはアンタしかいないのに、アンタだけがオレの唯一なのに、それなのに……!!」
顔がぶつかりそうなほどの至近距離で詰る。胸が痛くて仕方ない。イルカ先生がまさかそんなことをするとは思わなかった。あれほど好きだと、アンタしかいないとずっと言い続けていたのに!!
「ひどいよ、イルカ先生」
裏切られた痛みで涙が滲む。痛くて痛くて、その痛みに耐えかねて、掻き毟るように胸元の服を握りしめた。
歪む視界に映るイルカ先生は、相変わらず無表情だった。オレが悲しむ様を見ても何も思っていないその態度がひどく堪えて、オレは胸倉を掴んでいた手で突き飛ばした。


一拍の後、ガシャンと大げさなほどに音が鳴る。
驚いて顔を戻せば、イルカ先生はオレが突き飛ばした勢いのまま窓ガラスに頭をぶつけ、 その場に座り込んでいた。
受身すら取らなかった先生が信じられなかった。それほど強く突き飛ばしてはいない。怒りはしても先生を傷付けようなんて思っていなかった。
打ちどころが悪かったのか、下ろした髪の先からぽつりと血が落ちた。頭を切ったのかと、慌てて駆け寄ろうとすれば、イルカ先生はオレに手の平を見せた。
来るなという制止の、拒絶の動作。
何が何だか分からなくて、名を呼ぼうとすれば、そこで初めてイルカ先生の表情が動いた。
「……ひどいのは、どっちだ」
くしゃりと顔が歪み、先生の真っ黒い瞳から涙が零れ落ちる。
ぱたぱたと大粒の涙を流し、先生はオレを見上げた。


「あんたのことが分かりません。いえ、分かりたくもない。もう、無理だ……!!」
何度も聞いた別れの言葉。でも、今日は違うと本能が告げた。
「イルカ先生!」
その言葉を撤回させようと肩を掴んだ。嫌がるように頭が振られる。離せとイルカ先生が身を捩るたびに、ガラスの破片が下へと落ちる。
電燈の明かりを受け、軽薄に輝くその破片がオレ自身のようで堪らない。
名を呼ぶ度に嫌だと先生は叫んだ。
先生は言う。声を引きつらせて、血を吐くように呻いた。
あんたは俺を愛していると、大事だと何度も言ったけど、その大事な俺を傷付けても得たいものが、あんなクソみたいな快楽なのか、と。
先生の言葉に、声が途切れた。
先生はオレを見る。絶望しきった瞳でオレを真っすぐ見つめる。
「あんたのことが憎いよ。さっさと俺と別れて女の元へと行けばいいのに、それもしない。俺がいいと、俺が一番だっていいながら、女の体も欲しがる。だけどな、それよりも」
涙をこぼす先生が笑う。目を張り、口元を引きつらせ、悲愴な顔で先生は笑った。
「そんなあんたを今でも愛してる俺が、一番憎い」
先生の慟哭は続く。オレはただ聞くしか術がない。
背中をわななかせ、涙を零し、先生はオレに愛を告げる。


あんたの側から離れられない。憎いのに愛してる。苦しくて堪らない。いっそのこと死んでしまえたらいいのに。


先生、先生。
オレは言葉を聞きながら、狂おしいほどの愛しさが沸きあがる。先生がそれほどまでオレを思ってくれていたなんて思っていなかった。先生が死にたくなるほどオレは愛されていたなんて、今の今まで気付けなかった。
苦しいと、辛いと泣くイルカ先生にオレはもう二度と女の体に触れないと、そう口に出そうとした、けど。
先生は突然表情を消した。
オレに縋りつきそうな手の平を手前で握りつぶし、先生は虚ろな顔で言った。


「でも、死ねなかった。こんな俺に気を掛けてくれる優しい人がいる。俺の事が大好きだって、元気でいて欲しいと願ってくれる子がいる。もう俺は俺一人の者じゃない。その人たちを裏切って死ぬなんてことはできない。だから――」
先生は涙を止め、オレではないオレを見ながら、言い切った。


「俺は、俺の中からあんたを抹消する」


息を吸うと同時に意味のない声が出た。
イルカ先生は焦点の定まらない瞳で、滔々と語り出す。
上層部に相談したら喜んで協力してくれた。あんたは里の貴重な財産だ。その資質を受け継ぐ子供は喉から手が出るほど欲しかった。でも、あんたの側にいる俺が邪魔だった。俺がいる限り、あんたは子供を作らないだろうから、その申し出はありがたい、よくぞ言ってくれたって喜んでくれました。
「カカシさん」
先生が呼ぶ。表情が戻り、いつもの、オレの大好きな穏やかで優しい笑みを浮かべた先生がオレの名を呼んだ。
「俺がアンタの名を呼ぶのは、これで最後だ」
そう息を吐いて、先生は告げた。


さようなら、カカシさん。


直後、先生の体が落ち込む。
糸が切れた人形のようにぷつりと意識を飛ばした先生が床に倒れる寸前に、抱き止めた。
体が震える。
訳も分からぬ恐怖で叫びそうになった。
なんだ、これはなんだ。一体なんなんだ。
腕の中の先生は眠っている。穏やかな眠りと言っていいほどの安らいだ表情。
でも、オレは不安で仕方なかった。これから何かが起こる予感を覚え、一晩中眠れずにただただイルカ先生を抱きしめていた。


翌朝、いつもの時間に目を覚ましたイルカ先生に、オレは少し安堵した。
あのまま眠り続けて一生起きないのではないかと危惧したのだ。
「イルカ先生、おはよ」
目を瞬きながら身を起こす先生を邪魔しないよう、オレは腕を解いた。先生はその場で大きく伸びをしようとして、ぎょっとした顔で振り返る。
「うわ、何だよ、これ。って、俺がやったのか?」
うあぁと呻きながら頭に手をやり、その髪の中にガラスの破片があったことに気付いたのか、先生は手を止め苦い顔をした。
普段通りの姿を見せてくれる先生に、オレは嬉しくて仕方なくなる。
「先生、昨日はごめんね。元はと言えばオレがやったみたいなもんだから、ここ片付けておくからシャワーでも浴びて、ね?」
オレの言葉に、先生は唸りながら風呂場へ行った。
先生が傷つかないよう、ガラスの破片一つ残らず綺麗に取り去ろう。
先生は風呂から上がった後、ガラスの破片が無くなったことに大層驚いていた。先生ってば、こんなことくらいで大げさなんだからとオレは忍び笑いを漏らす。
首を捻りながら朝食の準備をし始めた先生を大人しく待った。でも、先生は自分一人分しか用意していない。まぁ、昨日あれだけ怒っていたのだから、簡単に許してはくれないだろう。
ちょっと残念に思いつつ、イルカ先生が朝食を食べる姿を向かい側で見つめた。
ちょっと焦げた卵焼きを口の中いっぱいに詰め込み、テレビで流れる朝のニュースを眺めている。
ニュースは先生の関心事である、子供たちの教育問題について放送していたため、食べる手を止め熱心に聞き入っていた。ゆっくり見せてあげたいけど、このままだとアカデミーに遅刻してしまうかもしれない。
「先生、時間大丈夫? 今日は職員会議だって言ってたよね?」
声を掛けても先生は一つも反応しない。オレの言葉が聞こえないくらい集中しているらしい。
「もう、イルカ先生ったら」
一度集中し始めたら、てこでも動かなくなる先生のために、オレは最後の手段に出る。
リモコンを手に取るなり、電源ボタンを押す。
ぶつんと電気の途切れる音が響き、これでようやく先生は気付くだろうと顔を向ければ、先生は何故かひどく驚いた顔を見せた。そして、何が起きたのかを確かめるように左右に首を振っている。
「……イルカ先生?」
何故強張った顔をするのか分からず、大丈夫かと肩に手を置いた瞬間、イルカ先生は姿勢を低くするなり、後ろへ飛んだ。視線が泳いでいる。まるで何かに怯えるような反応を示す先生に面食らった。
唖然としているオレを尻目に、先生は朝食の後も片付けず、用意していたかばんと額当てをひったくるなり、アパートの外へと飛び出した。
歯を磨かず、毎日怠らなかった身だしなみのチェックもしないで出ていく先生の後姿を見送った後、我に帰り、その後を追いかける。


「イルカ先生、ちょっと待って!!」
ひたすらに駆ける先生の後を追い、オレは声を張った。
周囲の人がオレの声に反応して視線をこちらに向ける。でも、肝心の先生は振り返らない。何度も名を呼び、待ってと叫ぶのに、イルカ先生は真っすぐに駆けていく。
「先生、無視しないでよ!!」
明らかにオレを無視しようとする先生に腹が立った。昨日、先生の話を聞いてオレは反省した。もう二度と女の体には手を触れないと、絶対先生を悲しませないとイルカ先生が起きたらすぐに伝えようと思った。オレの気持ちを知らないから、こんな態度に出るのだと、オレの気持ちを告げればイルカ先生はきっとオレとやり直してくれると、そう信じていた。
「先生、オレの話を聞いて!!」
前を行く先生の手を掴み、強引に振り返らせた。その瞬間、勝手に体が動いていた。
後ろに仰け反るオレの目の前をクナイが過ぎる。容赦ないその軌道は完全にオレの頸動脈を狙っていた。
避けると同時に手が離れ、イルカ先生は鋭い眼差しで辺りを睥睨した後、間髪入れずに駆けだす。
先生の後姿が消える頃、ようやくオレは自分が地面に座っていることに気付いた。
「……あ、」
意味のない声が出た。
昨晩の恐れが、不安が的中したと思った。
がたがたと体が震える。言うことを利かない体を叱責してようやく立ち上がる。
周囲の忍びたちがオレの様子がおかしいことに気付き、心配そうな視線を向けてくる。顔見知りのくノ一がオレに駆け寄って来たが、気に掛ける余裕はなかった。
何が起きたのか、それを知る人物はきっと。
脳裏に浮かんだ、この里の長の顔。
伸ばされる手を跳ねのけ、オレは飛んだ。


「五代目、何者かがこの里へ侵入しています。今朝、人通りの多い通りで襲われました」
執務室のドアの前に辿り着いた瞬間、声を捕えた。
何を思う間もなくドアを開け放った。
驚きの表情を曝け出す先生と、咎めるようにこちらへ視線を向ける五代目の顔が見える。
「イルカせんせい」
名を呼ぶ。
乞うように、縋るように名を呼んだ。でもイルカ先生は険しい顔をしたまま、五代目を守るようにクナイを胸の前で構え、臨戦体勢を取っている。
どこだと、小さくイルカ先生が呟くのが聞こえた。
そこで、あぁと思い知る。
昨夜のイルカ先生の言葉を、抹消すると言った真意を。


イルカ先生の中からオレはいなくなった。
過去も現在も未来も、イルカ先生の認識からオレは外れてしまった。


「なんで、なんでなの、イルカ先生!! イルカ先生、イルカ先生、イルカ先生!!」
身構えているイルカ先生に手を伸ばした。
涙が勝手に零れ出た。
イルカ先生の間合いに入った途端、鋭い声が響いて両脇を固められた。床に倒され体を押さえつけられる。
「イルカ先生っっ!!」
足掻いて、足掻いて名を呼ぶ。イルカ先生は倒れたオレには目を向けず、オレを押さえつけている暗部の姿に戸惑いを示し、後ろへ振り返る。
「イルカ、オレを見て! イルカ!!」
全身で叫んでも、先生の目はこちらに向かない。真っ黒い瞳の中にオレを映してはくれない。
「イルカっっ」
切り裂くように叫んだ声は、退出するイルカへ届かず、執務室の扉に跳ね返った。
重々しい音を立て、扉が閉まる。
一度も振り返らなかったイルカが信じられなくて何度も首を振った。
嘘だ嫌だと何度も繰り返していると、五代目が口を開いた。
「諦めろ。お前の、自業自得だ」
憐れむように、蔑むように響いたその声に、オレは奥歯を噛みしめる。認められない。いやだ、認めたくない…!!
押さえつけられていた力を強引に吹き飛ばし、カカシと叱責する声を無視して、執務室から出た。


頭の中はイルカの名だけが反響する。口に出していたのかもしれない。ぎょっとした顔でオレを振り返る忍びたちを尻目に、イルカの元へ急いだ。今日は受付所にいる。職員会議の後は受付だとイルカは言っていた。
受付所に辿り着き、列を作る忍びを掻き分け前に進む。
周囲がうるさい。横から絡みついてきた手もそのままに、最前列へ進み出た。
「……イルカ」
受付所の席へ座るイルカの姿に安堵する。
日常的にやりとりをしていたこの場所なら、イルカはオレに気付いてくれると思った。いつものように、列を乱すオレを叱ってくれると信じた。
期待を込めて見つめる先、イルカは少し首を傾げ、オレを真っすぐ見詰めた。
イルカがオレを見たことにほらと思う。今までのはきっとオレを担ぎあげただけだ。皆、ぐるになってオレに嫌がらせをしただけに違いないんだ。
オレを叱ってと名を呼ぶより早く、イルカが首を傾げた。


「トモノ上忍、どうかしましたか? 何か御用ですか?」
予想は裏切られ、言葉を失う。
オレの名がその口から出ると思っていた。カカシさんと、顔を顰めて、でもどこか甘さが込められた調子で名を呼んでくれると信じていたのに。
イルカの口から出てきたのは、オレの腕にぶら下がるくノ一の名だった。イルカと付き合っている時に何度も、そして昨日も寝た女。
女はオレの腕に豊満な胸を押し付け、イルカに見せつけるように笑う。
「いえ、ね。用ってことはないの。ただ、見せつけたかっただけよ」
昨日の夜は楽しかったわところころと笑い、女はイルカからオレへと視線を向ける。
周囲が息を飲む音を耳に捕え、同情の眼差しがイルカへ集まるのを感じた。でも。
「……そう、なんです、か? えっと、トモノ上忍はいつもお美しいですよ。えー、ですが、今は受付任務中なのでご遠慮いただけませんか?」
すいませんと顔を赤らめ、鼻傷を掻く。イルカが照れた時に見せる癖。
含みも何もないその言葉に、女は面食らう。いつもならイルカは目を伏せ、嵐が過ぎるのを待っていた。何かに堪えるように深く顔を伏せ、固い声で任務中だと告げていた。
「ちょっと、カカシ。これ何なの?」
イルカの態度の変わりようが理解できずに、女が尋ねてくる。
周囲もイルカの異変に気付いたのか、ざわめき始めた。
その中で当のイルカだけが、真っすぐオレを通り越した先を見つめていた。
カカシと女がオレの腕を引く。止まっていた列が動き出す。
おはようございますとイルカの声が聞こえる。受付に任務をもらいにきた忍びへ笑顔を向け、穏やかな眼差しを注ぐ。


ああ、ひどいとオレはぐらつく視界の中呟く。
イルカの世界からオレは消え失せた。
これから何度顔を合わせても、何度振り返っても、あの瞳はオレを見ない。オレの名を呼びはしない。
イルカ、イルカ。
名が口を突いて出る。
イルカイルカイルカイルカイルカ。
手を伸ばし、消えたオレは求め続ける。
イルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカ。
その黒い瞳に映ることを願って、周囲を薙ぎ払う。
イルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカイルカ。
オレたちの間に割って入る存在が鬱陶しい。全て、全て失くせば、オレ以外の全てを失くせば、きっとイルカはオレを見てくれる。本当は寂しがり屋の人だから、全部全部、全てを失くせば、オレを、オレを見つけてくれる。
あぁ、鬱陶しい。ああ、邪魔だ。
手が、顔が、体が阻む。
黒い波がオレとイルカを引き離す。
カカシと名を呼ばれたが、オレが待ち望むのはイルカが呼ぶ声だけだ。
離せ離せ、オレはイルカしかいらない。イルカだけでいい。イルカさえいれば、全てを失くしても良かったのに。
イルカ、イルカ。
泣き叫ぶ。こっちを見てと、あなたしかいらないと、もう二度と過ちは犯さないと誓うのに、イルカの瞳はオレを通り過ぎた。


途端に、映る世界は色合いを失くす。


オレは今、世界の輪から弾き飛ばされた。





******





「ちょっとアンタ! 今オレに触れようとしたね!? 何しちゃってくれてんのさー!!」
ヒステリックな甲高い声が響き渡り、俺はまたかと笑みを作っていた頬が引き攣った。
何事かと後ろを振り返る報告者に、俺は続けてくる衝撃にいささか身構えた直後、それは来た。
「違います、違います! あれはオレの意志じゃないんです。あいつが、あいつが勝手に触れてきただけで、オレはそんな気、毛頭ないんです。本当なんです、信じてくださぁぁい」
俺の背中に音もなく現れた男は、うわぁぁぁんと大泣きしながら俺の首にしがみ付き、忘れないで消さないでと言い募ってきた。
こうなったらどうにもならない。
受付の同僚はもう慣れたもので、小さく諦めの笑みを浮かべ、さっさと行けと俺に退出を促す。
そうなることを見越したように、俺の次に受付担当だった者が俺の代わりに席へついた。
あぁ、また深夜勤務か、俺。
ちょっと黄昏つつも、俺は後ろに張り付く上忍様の太ももの下に手を回し、体重を支えた。
「うあぁぁぁぁ、先生、オレの事忘れないで下さいぃぃ。忘れないでぇぇぇ」
ビービー火のついたように泣くカカシさんに、大丈夫ですよと声を掛けながら、俺は早めの帰途に着くのだった。


カカシさんが恐慌をきたすようになった切っ掛けを作った、そもそもの発端はカカシさんのデリカシーの欠片もない問いだった。
なんやかんやといった経緯を経て、里一番の忍びと名高いカカシさんと付き合うことになった俺こと、しがない中忍のアカデミー教師兼受付員のうみのイルカに、俺という恋人がいるにも関わらずモテてモテて仕方ないカカシさんはある時こう言ったのだ。
「ねぇ、もしオレが浮気しちゃったらどうする?」と。
里の誉れで、忍びとしての実力も、男としての包容力も、そして美貌と優秀な頭脳も兼ね備えた男は、軽々しくも、子供と老人、そして何故か野郎にモテている俺に向かって、そうのたまったのだ。
あぁん? 付き合ってからまだ数カ月の恋人にそういうことをよく言えるな、てか、なんだそりゃ、オメェ浮気する気満々で、俺のことを掻き口説いて恋人になったのかと、俺の怒りのバロメーターは天辺越えを即座に記録した。
どうやらそのときのカカシさんは、可愛く拗ねる俺が見たくて話を振ったようなのだが、生憎俺はそんな可愛らしい性格をしていない。
「やだっ、カカシさん。俺がいるのにそんなこと言わないでっ」「はは、馬鹿だな、イルカ。オレがアンタ以外に目移りする訳ないでーショ」と熱いベロチューをかまし、めくるめく愛の交歓へと移行するつもりだったのだと、後に俺はカカシさんから聞くことになる。


まぁ、そんなことを露とも想像していなかった俺は、目に物を見せてやると戦闘体勢に入った。そんなこと二度と口に出せないようにしてやると、心の底から本気で燃え上がった。
一旦その答えを保留に回し、根性と気力と、心強い助っ人の力を借りて幻術を作り上げた。
その名も、『テメェ、オレがいるのに浮気なんぞしやがったら、これを実行してやるから肝に銘じろ、体験』。
俺の幻術の成績がいまいちであり、カカシさんも写輪眼と言う幻術の耐性がある特S級の秘宝も見に付けていることもあり、幻術のエキスパートとして名高い方の全面協力も得て作り上げたそれは、術を掛けるのが俺だということもあり、カカシさんにはかなり強力仕様だった模様だ。
想像以上の成果をあげたそれに対し助っ人さまの言うことには、「カカシは下地があるからね」という話だった。……下地…、まぁ、俺と付き合う前の話だろうから、そのことについてはとやかく言わないでいてやろう。


とにもかくにも、幻術を掛けて数分後、幻術から覚めると同時にカカシさんは発狂したように泣き叫んだ。
俺の名を呼びながら、ごめんなさいごめんなさいと繰り返し、そしてオレを消さないでと一晩中泣き明かした。
それからというもの、カカシさんは過剰なまでに俺と一緒にいることを望むようになってしまった。
任務以外の時間は、俺が見えるところ、又は触れる範囲に身を置き、その類稀な才能を子供や同僚たちに見せつける毎日となった。
そうなれば当然特別上忍以上の忍びは、カカシさんの不可思議な行動に気付き首を傾げることになる。
俺の後を追い、同僚や子供たちには見えないように動き回るカカシさんを訝しみ、それはとうとう五代目の耳に入るようになってしまった。
その日に五代目に呼び出され、単刀直入に聞かれ、どうやっても隠し通せないと思った俺は素直に白状した。
里の誉れを骨抜きにしやがってと説教はおろか、懲罰対象になるかと思えたが、五代目はあろうことかカカシさんを煽ってしまった。


曰く、「お前、それだけでいいのか? お前がどう思おうが、他の奴らが接触してきた時点で イルカ的にはアウトだと思うぞ」と。


そのときのカカシさんの衝撃ぶりは忘れられない。
じわりと唯一覗く右目に涙を浮かべるや、カカシさんは身も蓋もなく泣き始めたのだ。
「嫌です、オレはイルカ先生だけでいいんです。他はいらないんですぅ」と、べそべそ泣くカカシさんを見て、五代目は大層ご機嫌だった。
里のくノ一を食い散らかした男がざまぁないねぇとけたけたと笑いながらも五代目の目が全然笑っていないのを見て、くノ一ネットワークの底知れぬ闇を垣間見た気がした。
そして、カカシさんは前よりも症状がひどくなり、暇があれば俺の背中に張り付くばかりか、自分に近付こうとする者へ誰かれ構わず威嚇するようになった。果ては偶然にちょっと体が触れそうになっただけでも、半狂乱に陥るようになってしまった。


「カカシさん、大丈夫ですって。あの幻術はあくまでカカシさんが浮気をした時に、ああなるかもよっていう縛めの意味合いが強いものなんですからね。実際はああはならないかもしれませんよ?」
ぐすぐすと鼻を啜り、俺の肩口に顔を埋めるカカシさんに声を掛ければ、カカシさんはひどく傷心した声で言い募る。
「実際も仮定も一緒です! イルカ先生が勘違いして、あんなことになったら、オレもう生きていけない。あんな恐い目、二度と味わいたくない」
月読という精神が崩壊するような幻術を食らっても、泣き事一つ言わなかった人が言う台詞ではないと思う。
おしおきどころか、トラウマを植え付けてしまった現状に、ある一部の上忍からは、対写輪眼兵器だと実しやかに語られるようになってしまった。
そんなことは全くない。俺の幻術はあくまで対カカシさん限定用で、イタチなんかとやりあったら即死する自信がある。
変な噂を立てないで欲しいと切実に思う傍ら、あれ以降のカカシさんのダメダメ感に胸がときめいてしまう俺がいた。


普段はかっこいいのに、思わぬことにへたれるんだもんなぁ。この人、なんでこんなに魅力的だろうと俺は真剣に悩む。
それと同時に、ちょっぴし拗ねも入る。だから、俺はほんの少しの恨み節を混ぜて言った。
「カカシさん。傷心が癒えて、自信が回復したら、もう一度考えてみて下さいね。何たって、あの幻術は俺の本音が丸ごと入ってるんですから」
俺の言葉に、カカシさんの泣きが本格的になる。あぁ、失敗した。まだ傷は癒えていないようだ。
「イルカ先生、オレ、絶対浮気しません。オレにはイルカ先生だけですっ」
俺の背中で泣くカカシさんを見て、商店街の奥様やお譲さま方は複雑な表情の中に、眉を潜ませるような嫌悪感を忍ばせている。
ひぐひぐと大人の男が恥ずかしげもなく泣き喚く様は、世の中の女性にはとことん受けないようだ。
だけど、俺にとっては渡りに船というやつだ。
これを機に、カカシさんが非モテ野郎になんねぇかなぁと願うのだけれど、そこはやっぱりカカシさんなんで、立ち直ったらまーた女性にモテちまうんだろうなと儚い夢だよなぁとため息を吐く。
そのため息を違う意味に捉えたのか、「捨てないでぇ」とべそべそまた泣き始めた、期間限定の泣き虫カカシさんを慰めるべく、俺はたっぷり甘やかすために今日もカカシさんの好物のナスの味噌汁を作ろうと思うのだった。





おわり



戻る/ カカシ編


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カカシ先生泣いてばっかりの話になってしまった…。ごめんよ、かかってんてー。そういうマイブームらしい。
イルカ編があるということは、もちろんカカシ編もあります。はい。