「カカシさん、起きて下さい。今日もいい天気ですよ」


 柔らかい声と同時に朝の光に照らされ、カカシは目を覚ます。
 おはようございますとイルカは微笑み、出来たての朝食を一緒にとろうと誘ってくれる。
 イルカに拾われてから、カカシが任務で里にいない時以外は毎日続けられる日常。
 拾われた当初は、どうせイルカも他の者と同様に数カ月もすれば捨てるに違いないと予想していたが、カカシの考えは大きく裏切られた。
 今日でイルカに拾われてから三年になる。まさかここまで持つとは正直カカシは思っていなかった。


「いただきます。今日はちょっと奮発して鰆の西京焼きですよ」
 朝の陽ざしよりも明るい笑顔でイルカはカカシに話しかける。カカシは無言で一度頷いて、か細い声でいただきますと復唱し、箸を伸ばす。それだけでイルカは満足げな表情を浮かべた。
 そんなイルカを見る度に、カカシは首を傾げてしまう。今までカカシを拾った者たちは、里にいる時はいるのかいないのか分からないように息を潜めて生活しているカカシを知った途端、逆上してきた。そんな人だとは思わなかったと怒りを露わにし、カカシへ不満をぶつけ、それでも変わらないと悟るやあっけなくカカシを捨てた。
 何度も何度も捨てられては拾われてを繰り返し、これが己の運命なのだと静かに諦めていた時に、イルカと出会った。


 血の繋がりのない赤の他人のナルトを、肉親のような眼差しで見つめる男。
過度な接触を諌めたことも邪魔したこともある。衆人の前で言い合いもしたけれど、イルカはカカシのことをどこかで認めているような節を見せていた。何となくだがそれがカカシには嬉しかった。
けれど、子供たちがカカシの元から去った数日後、偶然居合わせた居酒屋でイルカの本心を聞いてしまった。
イルカはナルトのためにカカシを立てていたに過ぎなかった。イルカにとってカカシは、ナルトを教え導く上忍師以外の何者でもなかった。
 そのとき、零れ落ちる涙と一緒に、カカシは己の気持ちを知った。
赤の他人のナルトを肉親のように思えるイルカならば、素のカカシを見てくれるのではないかと無意識に期待していた。
 だがそれはあっけなく裏切られ、カカシは居た堪れなくなった。忍びとしては価値があるのかもしれない。けれど、人として全く価値を見出せなくなってしまった。
 逃げるように店を出た帰り道、捨て犬が入っていたであろう段ボールを見つけ、気付けばカカシは入っていた。
 任務を遂行する以外のカカシは不必要だと思った。今、ここにいる己はいらないものだと己を捨てた。だというのに、ここにきてイルカはカカシを拾ってくれた。


「今日、明日、オレは任務でいません。明後日帰還予定ですけど、カカシさんはここに帰ってきてくださいね。今晩と明日の分の食事は冷蔵庫に入っていますから」
 一人でもきちんと食べて寝るんですよと、軽装備に身を包んだイルカが、玄関先で突っ立っているカカシに声を掛けてきた。
 玄関の出入り口に立つイルカは手を伸ばして、寝癖がついているカカシの髪の毛を何度か撫でつけて髪を整えてくれた。
 イルカの言葉に小さく頷き返したカカシへよしと歯を見せて笑うと、イルカは「出来るだけ早く帰ります」と言い、名残惜しそうな眼差しを一度投げかけ背を向けた。
 その後姿を、ドアが閉まる間際まで見ていた。
 結局、イルカはカカシを拾ってから今日まで、カカシに言葉を求めた事はない。今まで拾ってくれた者たちが欲しがったようなことをカカシに迫ることは一度もなかった。
 始めは、それこそカカシが求めていたものだと思っていた。今まで拾って欲しいと待ち構えていたのは、イルカのようにただただ細やかな愛情と優しさを注いでくれる存在、カカシだけを見つめる眼差しが欲しかったのだとずっと思っていた。
 けれど最近になって、カカシの胸に冷たい風が吹き始めた。
十分すぎるほど与えられているのに何かが足りないとしきりに訴えてくる。これ以上何が足らないのか、満たされているはずの胸に、小さな隙間風が吹く。
 それは満たされていなかった時には大きすぎて感じなかったが故に、満たされた今となってはひどく冷たく感じられた。
「……イルカ先生」
 今日と明日は会えない人の名前を呼ぶ。温かい存在を思い出し、胸が熱くなるのと同時に冷たい風がカカシの心を冷やした。



「カカシ先生、今日もお見舞い?」
 慣れた気配に振り返る。医療忍者として名高い綱手に弟子入りをした元部下は、からかいを交えた瞳を向けてきた。
「うん、たぶん」
 言葉少なに頷けば、サクラはカカシの返答が気に入らなかったのか、眉根を寄せた。
「素直じゃないんだから。私も病院に用があるの。一緒に行ってもいい?」
 断る理由もなく頷けば、サクラは嬉しそうな笑みを浮かべてカカシの隣に並んだ。


 イルカは今入院している。二日で終わると言った任務に不備があり、ただの書簡運びが他里の忍びが絡む戦闘に発展し、イルカは重傷を負ってしまった。
 帰らないイルカを部屋で待っていたカカシに知らされたのは、イルカが入院してから一週間後のことだった。
 その日からカカシは未だ目覚めないイルカの顔を見に、任務がない日は毎日足を運んでいる。


 隣で近況を話すサクラの言葉に相槌を打ちながらカカシは通い慣れた道を行く。川べりの土手を歩いていると、白い花が群生している一角を見つけた。
 何となく気になって足を止めれば、カカシが見ているものに気付いたのか、サクラは近寄りしゃがみ込んだ。
「カカシ先生も花を愛でる気持ちがあるんだ。でもこれ花ニラよ。見る分にはいいけど摘むとニラ臭いの」
 こんなに可愛い花なのにねと、こちらを見上げるサクラにカカシは一つ瞬きを返す。
「ニラ? 食べられるの?」
 尋ねたカカシにサクラは小さく吹き出した。
「食べられるニラとは種類が違うの。匂いは同じだけど食べると下痢しちゃうわよ」
 仲が良いと思考も似通っちゃうのかしらと小さな笑い声をあげるサクラに首を傾げつつ、カカシはサクラの隣に腰を下ろす。
 ニラの臭いがする星型の白くて可愛い花。
 サクラから教えられた情報を胸の内で呟いていれば、ふとイルカの声を思い出した。


『オレはカカシさんが隣にいてくれるだけで、安眠快食快便ですよ』
 寝ぼけた顔でカカシを引き寄せ、同じ布団に引きこまれたのは、確かイルカに拾われて日も浅い頃だった。
 どうしても眠れなくて、隣で熟睡しているイルカが羨ましくて揺り起した時に、そう言われた。
 こんなに落ち着くのにと、カカシを抱き込んだまま再び眠りについたイルカの無責任な言葉に一瞬イラついたものの、イルカの体温と健やかな寝息に引きずられるように気付けばカカシも眠っていた。それからカカシはイルカが嫌がらない事もありイルカの隣で眠るようになった。
 そこまで思い出して、そのときの感情も蘇ってきた。
 イルカの言葉にイラついたのは確かだけれど、その裏に、満たされた思いがあったことを。


「あ」
 小さく声を上げたカカシに、サクラは不思議そうな目を向ける。カカシはサクラの視線に答えず、白い花を一本手折った。途端に香る強い臭気に、口元が小さく上がる。
「……ごめん、サクラ。オレ、急ぐから先に行かせてもらうよ」
「カカシ先生?」
 ぽかんと口を開けるサクラに、今度お茶でも奢るからと声を掛け、瞬身の印を組む。
 一瞬のうちに景色が変わり、煙が晴れた先にいるのはベッドの上で眠っているイルカだ。
 あらかたの傷はほぼ癒えた今、あとはイルカの意識が戻るのを待つだけだ。
 だいぶ顔色が良くなったイルカの顔を見下ろし、枕元に手を置いてイルカの額際の髪を後ろに撫でつける。
 ぴくぴくと瞼を震わせ反応を返すイルカに、自分が抱いた思いは間違いないのだとカカシは微笑んだ。
 口布を下げて、眠るイルカの唇にそっと口付けた。それだけで絶えずカカシの胸を吹き荒んでいた風が止む。代わりに生まれたのは、じんわりとした熱いものだ。
「イルカ先生、好きです」
 眠るイルカに囁いた。花を潰さないように持ちながら、イルカの頬に手を添え、何度も口付けを送る。
「好きです、イルカ先生」
 口付けの合間に言葉を挟み、飽きることなく繰り返していた。そのとき。


「…ん」
 小さな呻き声を上げてイルカの眉根が寄った。
 カカシが気付いて実行していたこの時を狙ったかのように、目を覚ましてくれたイルカへ何かの意味を見出したい。
「おはよう、イルカ先生」
 至近距離で見つめるカカシにようやく気付いたのか、一瞬驚いた顔を見せた後に、イルカは盛大に顔を顰めた。
「くっさ! ちょ、カカシさん、何ですかこの臭い!!」
 目が染みると早くも涙を浮かべ、顔を背けようとするイルカの目の前へカカシは摘んだ花を突き出す。
 異臭の源はこれかと目を剥くイルカへ、カカシは花を挟み、小さく笑った。
「イルカ先生、ニラ好きでしょ? それに可愛い花も。これなら先生の好きな物全部合わせ持ってる」
 盛大に歪んだ顔が呆けた顔に変わった。カカシはしきりに瞬きするイルカの額へ自分の額をくっつけ、囁いた。


「好きですよ、イルカ先生」
 視線を合わせる。
 黒い瞳には膜が張り、目尻に涙が盛り上がっている。その瞳に映るのは、屈託なく笑うカカシの顔と、怯えながらこちらを窺っている小さなイルカだ。
 大丈夫とカカシは微笑む。
 ずっと側にいるとカカシは誓う。
「イルカ先生と共に在りたいんです。オレはあなたを愛したい、そして、あなたに愛されたい」
 小さく息を吐き、イルカは顔を歪めた。涙をぼろぼろと零し始めたイルカの頭を撫でれば、イルカはしゃくり始める。
「カ、カっ」
 カカシの名を呼ぼうとしてうまく呼べない事が悔しいのか、イルカは顔を真っ赤にしてカカシに抱きついてきた。
 首に腕を回し、何度も何度もカカシの名を呼ぼうとするイルカに、カカシは何度も頷く。
 分かってる。言いたいことは分かっているから。
 カカシが今までもらったものは全て、イルカがしてもらいたかったこと。愛してもらいたいのはイルカの方なのだと気付いた。


 何て不器用で捻くれていて、そして強い人なのだろう。
 カカシが諦めたのに対してイルカは一歩踏み出した。得られないのなら与えたらいいのだと、カカシとは違うものを見せつけた。絶望に浸っても足掻き、諦めないイルカの姿はカカシの胸を強く打つ。こんな生き方もあっていいのだと、目の前が開けた気分だった。
 一分の隙間も開かないように、必死に抱きついてくるイルカの力強さと熱に、風が止んだことを知る。
 待つだけでは得られない。注がれるだけでも得られない。そして、注ぐだけでもやはり得られない。だから二人で共に得る。
 カカシの乾いていた泉は今、イルカという呼び水のおかげで溢れんばかりに沸き出している。
 今度はカカシがイルカへ注ぐ。
 カカシと同様に、いやそれよりも深く欲している人に溢れんばかりに注ぎこもう。
 そう思うだけで心は沸き立ち、胸がはち切れんばかりに震えた。
 どうやらカカシは注がれるよりも注ぐ方が性に合っているみたいだ。


 泣いて縋りつくイルカへ、逃げないでねと囁けば、とっくに骨抜きだと返された。
 泣いているイルカがカカシの耳元で必死に伝えようとする。その不明瞭な声から意味を拾い上げ、小さく笑った。
 あぁ、何て愛しい人。
 あなたに会うために生まれてきたと思いたい、なんて。
 カカシの運命の人は、こんなところにいた!!



おわり




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2014.5.4のスパコミに配ったペーパー第2弾-2です。
最後はやっぱりラブラブっすよ!! よ!!




健やかな人