一番星が輝きはじめる夕暮れ時、すきっ腹を抱えて俺は家路へ急いでいた。
他所の家から香ってくる夕餉の匂いを嗅ぎながら、晩飯は何にしようか考える。今日は珍しくアカデミーでも受付でも残業がなく、とんとん拍子に事が進んだ。いつもより早い帰宅に心は浮かれるばかりだ。
――トラブルが多かったからなぁ。
ここ数日間の目まぐるしさを思い出し、ついため息がこぼれ出た。
何といっても一番神経を使ったのは、依頼人の小さな嘘からCランク任務が突如一ランクあがり、危うく死人が出そうになったことだ。
運良く近場で別任務をしていた上忍が応援に入り、事なきを得たが、こんな問題は二度と起きて欲しくない。
教師で培った声を張り上げ、依頼人にはうんと灸を据えてやったので、ああいうことはもう二度としないだろう。
後で同僚たちが話すところによると、顔を真っ青にして半泣きになっていたようだったが、同情の余地は全くない。
あのときの憤りを思い出しかけて、深呼吸をする。
こんなに怒ってばかりじゃ、血圧によろしくないばかりか、頭だって危ないことになってしまう。ただでさえ、「お前は絶対、前方からやられるな」と口の悪い同僚に言われているのだ。
平常心、平常心。
心の中で唱えながら、春先のまだ冷たい風を吸い込み、思い切り背伸びをした。
よし、今日はゆっくり風呂入って、至福の一杯を味わうか!
なんとなく取っていたあの酒でも開けちゃうかと気分を盛り上げて歩いていると、自分の進む道端にうずくまる影を見つけた。掠った視界の端にダンボールの箱が見えることからして、間違いない。
せっかく盛りあげた気分が急速に萎んでいくのが分かる。零れ出たため息を口の中で転がし、視線を足元に落とす。
ああいうのは目を合わすと駄目なのだと、己に言い聞かせて、歩くスピードを意識的に速めた。
ずんずん進んでいけば、ぽつりぽつりと真上に街灯がともり、暖色の灯りが足元を照らす。
本格的に暗くなっていく予兆に、胸が重苦しくなる。まだ小さいのかな。一人寂しく丸まって眠るんだろうか…。
暗くなる考えに、まずいと頭を振る。
必死に今日の晩飯に思いを馳せた。酢豚もいいし、ラーメンも、餃子も、焼き飯だっていい、焼きナスとか、あじの開きなんて酒のつまみに最高だし、あとはラーメンラーメンラーメンラーメンラ…
縋るような視線を横顔に感じ、居心地が悪くなった瞬間、それがいた場所から全速力で逃げた。
そのまま駆けて駆けて、ここまでならもう大丈夫だと安堵の息を漏らした瞬間、不意に擦れるような小さな鳴き声が耳に届いてしまった。
自ら開けた距離なのに。後ろを振り返ったって見える距離じゃないのに。一般人だったら、絶対聞こえないっていうのに。
こういう時に、忍びの五感の鋭さが恨めしい。
我慢したのに、駄目だ駄目だと何度も言い聞かせたのに、もう駄目だった。
足が止まる。二の足が踏み出せない。頭じゃ、止めろ、余計なことすんな、厄介ごと引き込むな、お前の家は動物禁止の共同アパートだぞ、大家さんに次はないって言われてんだぞと、理性的で常識的な声が鳴り響く。
だけど、だけれども……!!
「くぅぅん」
再度鳴く、鼻にかかる、何とも言えぬ気弱な声に、俺の心はとっくに折れていた。ぽっきりぱっきりのぽっきんぽっきんだ。
俺の住処が何ぼのもんじゃいッッ!! こんな寒空にいたいけな生き物を置いて、のうのうと眠れるもんかッッ。明日、生徒たちに笑顔で授業ができるとでも思ってんのか?! 野宿でも雨ざらしでも、任務に出た忍なら日常的なことじゃないかぁぁ!!
がばっと振り返り、拳を握り締める。
そう、俺は大の動物好きだ。猫もかわいけりゃ、鳥もかわいい、ネズミだってヤギだって羊だって馬だって猿だってオケラだって蛇だってカメレオンだって、ありとあらゆる動物がかわいくて仕方ない。
あのつぶらで無垢な、疚しい事なんて何一つ見当たらない瞳を見ていると、もう顔がにやけてしまう。
幼少から好きで好きで好きすぎて、近所にいた、よく遊び相手になってくれた犬と婚約するほど、自他共に認める動物好きだ。さすがに結婚は飼い主が許してくれなかったけど、俺の初恋はあの犬だと断言してもいいくらい、今でも好きだッッ。
「ごめん、俺が悪かったッッ!!」
見捨てようとしてごめんなさいとシャウトしながら、全速力で駆け戻る。
あの声からして大きめな犬だろう。さては子犬の頃の愛らしさにつられて飼われたが、大人になるにつれ、トウが立ってきて捨てられたか。……お前のせいじゃないのにな…ッ、大きくなった途端、もさくて不細工になったからってお前のせいじゃない…! そうさ、もてないのはお前のせいじゃねぇ!!
若干、私的な感情も入りつつ、俺は腕を広げて駆けつけた。
大丈夫、俺が何とかしてやる! いい飼い主を必ず見つけてやるからッ。幸せになるまで見届けてやるから、この俺が!!
「俺と一緒に行こう、俺がお前の幸せを見つけてやるからッ」
昂ぶった気持ちそのままに、ダンボールに向けて手を伸ばした。
春になったとはいえ、まだ肌寒い夜。顔を完全に起こし、震えながら座っているそれを抱きしめてやろうと、体を前屈みにして、固まった。
「………………………………え……」
目の前にいたのは、確かにダンボールに入っている生き物だった。
ただ、その生き物は、左目を隠し、口元を隠し、俺と同じ忍び服を身に着けた、最近知り合いになったはたけカカシという名の人間だった。
すでに俺の存在を知っていたであろうその人は、大部分を隠す顔を向け、唯一覗かせているとぼけた眼でこちらを見上げてきた。その瞳にいつもとは違う、キラキラした光があったことは、見なかったことにする。
だって痛いのだ。かなり痛いのだ。
大声をあげながら、ダンボールに入った成人男性へ手を差し出した自分もさることながら、目の前の存在がかなり痛々しかった。
里の一、二を争う実力者であり、数々の伝説を残す里の至宝、コピー忍者、千の技を持つ忍びと異名を持つ男、写輪眼のカカシこと、はたけカカシともあろう人が、道端の隅、段ボールにしか見えない箱の中、元から隠している顔に加え、頭から手ぬぐいを被って、犬のように股を広げ、その前に両手をつき、ちょこんと座っているのだ。
確かにここは、一つ向こうの通りに比べ、人通りは少ない場所だけれども、決して捨て犬、捨て猫よろしく、人間がうずくまっていい場所ではない。
おまけに不気味だ。不気味すぎる。
ただでさえ、顔を覆い隠す珍妙な格好をしているのに、頭の手ぬぐいで怪しさがプラスされ、ただならぬオーラがぷんぷんと漂っている。
子どもに見せたら泣くだろう。ていうか、子どもに害だ。
あぁ、今が夜で良かった。まだ日が早く落ちる季節でよかったと、ちょっと現実逃避をしてみる。ついでに何もなかったように、そろりと手を戻そうとして、生温かい空気の揺れを感じ、体が跳ねた。
「え、なに、なっっ!」
視線を下に落として、驚きのあまり腰がくだけるかと思った。
あの里の誉れが俺の掌を鼻先につけて嗅いでいるのだ。そして、匂いを十分に嗅いだ後、喉を押し付けぐりぐりと頭を左右に振っている。
上忍ともあろうものが、自ら急所を曝け出しているばかりか、人に触らせようとしている!
「は、はたけ上忍?! ど、どどどどどうなさったんですか?!」
あ、やべ、挨拶し忘れたと、どこか冷静な頭で考えながら、本気で心配する。
とかく上忍というものは警戒心が人一倍高い生き物だ。人によっては、自分以外の人がいるだけで眠らなかったり、食事すらしなくなったりする。人に触れさせることなど論外だ。
それはいわゆるSランクの任務を遂行する忍びに多く見られる傾向であり、今、目の前にいる、はたけカカシなんかはその筆頭にあげられるべき存在だ。
受付任務で否が応なく気難しい上忍たちの相手をしていることもあり、一般生活においても神経を磨り減らす真似はしたくなくて、俺は上忍とはあまりお近づきにならないよう努力していた。
中には何が楽しいのか、上忍に近づく中忍たちもいるが、その末路は大抵悲惨だ。
弄ばれて捨てられるのはいい方で、突然いなくなり、見つかった時には頭がおかしくなっていたなんてことがざらにある。
忍びの情報を扱う受付で、そんなものを間近に見てきた俺は、いつしか上忍嫌いが身に付いてしまった。
そんな俺にとって、恐怖と厄介の象徴、関わりあいたくない上忍さまが、今、俺の目の前で喉を曝け出し、顎の下に挟むなどの暴挙をやらかしている。
この状態で動くのは命取りだと、固まる頭で何とか考える。
少しでも動けば、どんな反応が返ってくるのか想像できない。ガブリと指を食いちぎられるならまだしも、動いた瞬間、首と胴体が切り離されたらどうしようと、最悪なことが思い浮かんだ。
口内にどんどんたまっていく唾さえ飲み込めず、石のように固まっていれば、手のひらに軽く痛みが走る。思わず動きそうになる体を忍耐という名のド根性で押し殺し、視線をゆっくりと下に落とした。
「ぃぅっ?!」
勘弁してくれと叫びたい。いつの間にか、はたけカカシは常備している口布を外し、俺の手をあむあむと甘噛みしていた。
何てことだ。里の機密、極秘情報として名高い、はたけカカシの素顔が目の前にある。結構男前。たらこ唇じゃなかったぞ、ナルト!
なんだー、残念だってばよー。と、脳裏で不貞腐れているナルトを思い浮かべていると、ごりごりという音が下から聞こえた。
痛い。そして、ヤバイ。
どうあっても現実逃避させまいとする眼下の上忍が恨めしい。
甘噛みから本噛み寸前に変わる力加減に、このままでは五指とも全て食い千切られると恐怖が沸き起こる。
ばばっと周囲の気配を探るが、猫の子一匹いやしねぇ。どうすんだ、俺。このままじゃ、朝には全て食い千切られているんじゃないか。それとも、俺の忍耐が途切れて瞬殺されるのかッ!
清々しい朝の陽光の下、血みどろな俺の姿を見た気がして、気が遠くなりそうになる。里内で、生命の危機に瀕する日が来るとは思いもしなかった。
おろおろと目を泳がせていれば、不意に強い視線を感じた。
あまり見たくはないが、見ろと言外に告げる強すぎる気配に、ちらりと視線を落とす。すると、じっとりと恨みがましい目が俺を出迎えた。
ひぃぃいぃぃぃ。
その眼光の鋭さに思わず頬が引きつる。それだというのに、はたけカカシは小さな唸り声をあげ、物騒な気をこちらに忍ばせてきた。肺を潰さんばかりの凶悪なそれに、進退は窮まる一方だ。
せめて何故不機嫌になっているのかを知りたくて、必死に見たくもない顔を見ていれば、はたけカカシは咥えていた手を離すと、しきりに顔に擦り寄せたり、頭をぶつけたりしてくる。これは、もしかして……
「…な、撫でろというんですか…?」
まさかと一笑に付してしまいたくて言った言葉は、満面の笑顔と共に返事をくれた。
ただし、人間の言葉ではない、それで。
「ワン!!」
分かってくれたことが嬉しくて仕方ないのか、はたけカカシはその場でぴょんぴょん飛び跳ね、早く撫でろとばかりに一回転して、もう一度「ワン」と吠えた。
ワンって言った。里の看板上忍が、回って俺に向かってワンって言った。
数々の衝撃的な映像を、この短時間で目撃したが、お犬様になった上忍はそれを軽く凌駕した。
犬になっている写輪眼。とんだスクープだ。
飛んでしまった俺に痺れを切らしたのか、再び極悪な気配を滲ませてくる。うぅぅと今にも食らいつかんと脅している声に、どうとでもなれと目を瞑る。
「な、撫でますよ! 本当に撫でますからねッッ」
これから一体何が起こるか正視していられず、腰を引き気味に人差し指をちょびっと動かした。
ふにゅっとした感触に頬に触れたことを知り、ぶるぶると体が震え始める。
それでは足らないとばかりに、指に噛みついてきたはたけカカシに、火影岩から飛び降りるつもりで両手を突きだし、えいやと頬を挟み込んだ。
「あぁぁぁぁ、すんません、本当にちょっとした出来心だったんですぅっ!!」
写輪眼のご尊顔に触れてすいませんと、わななく体で謝り、顔から手を退けるのも機嫌を損ねそうでそのまま固まらせた。
何がくる! 上か、下か、それとも真正面かッッ。
ぷるぷると来るべき何かに身構えていた俺に、強烈な吐き気も、生臭い匂いも、身悶える痛みも、ついぞやってこなかった。ん?
ぎゅっと固く閉じていた瞼をゆっくりと開ければ、そこにはご機嫌そうに、俺の手に包まれているはたけカカシの顔がある。
いつの間に取ったのか、額宛も外され、噂の写輪眼がある目が無防備にもさらけ出されていた。
――予想と違う。
ごくりと溜まりに溜まっていた唾を飲み込み、まじまじとはたけカカシを見た。
とろけきったような、幸せそうな顔。遠目で見ていた印象とはだいぶ違う。
ちょっと好奇心が出て、ふにふにと顎をくすぐるように指を動かしてみる。すると、いかにも気持ちいいですと鼻から深くて長い息を吐いてきた。
ほんじゃ、もうちょっとと頬からこめかみにかけてマッサージするように揉みほぐす。
そうしたら、どうだ! あの不審で何考えているか分からないけど、子供たちの面倒は見てくれて良い人そうなんだけど、やっぱり不気味なはたけカカシが、徐々に体から力を抜き始め、俺に凭れかかってきたではないか!!
うわ、何だコレ。何、この充足感ッッ! でかくて凶暴な生き物が俺にだけ心を開いてくれたような達成感ッッ。
腹の底からぐわっと上がってくる嬉しさに身を浸させていれば、くんくん鳴いてもっと撫でろと催促してくる。
青い目と赤い目が潤んで、お願いしてくれる様が痺れるほど可愛い。
あぁ、もうしゃーないなぁと、喉から首にかけて撫でてやる。一瞬、びくりと身を竦ませたものの、それ以上反応することはなく、気持ちよさそうに目を細めてくれている。
忍び服を着た立派な成人男性なのに、仕草はまるきり犬だ。銀色の髪がふさふさしているのが、毛並みに見えてくる。
……俺、でっかい犬を飼うのが夢だったんだよなぁ。賢くって大人しくって、抱きついたら存在感があって、触り心地よくて、人なつっこいでかい犬。一緒に散歩したり、遊んだり、風呂入れてやったり、抱きついて一緒に寝たりとか………。
うっとりと犬と戯れる自分を想像する。
だが、自分の帰りを待つのは、ボロくて汚くて壁の薄い隙間風駄々漏れの安アパートという現実を思い出し、その輝かしい夢は砕け散った。
…どうせ、内勤の中忍にゃぁ、叶わぬ夢さ。
ふっとニヒルな笑みを浮かべ、遠い目をしていれば、銀色獣の瞳がぱっちりと開き、こちらを見つめてきた。そればかりか、くぅん? と気遣うように鳴きながら、ちょこんと首を傾げてきたではないか。
っっっっっっ、こ、こいつッッ!!
青と赤のつぶらな瞳。毛並みのいい銀色の毛。そして、何より、小首を傾げて心配してくれるその姿に、心臓を打ち抜かれた。
わなわなと震える手を押さえ、怖がらせないように注意しながら、それでも辛抱たまらず、銀色の首にかぶりついた。
「あ、あ、あぁぁぁぁ、可愛い!! 可愛い可愛い可愛いすぎるぞッッ、お前ッ!! いい子だなぁ。俺の心配してくれんのか? ありがとうなッ」
ぎゅっと銀色の首に抱きつき、すりすりと毛並みに顔を寄せる。
ふがふがと耳元で息を吐いてくるのが、くすぐったい。
そのまま、されるがままにさせてくれる、銀色の大人な部分になおも惚れながら、俺ははぁと息を吐いて、顔を戻した。
「本当…、お前のこと連れて帰りたいなぁ。俺んちの子になるか? 今の安アパートじゃ飼えないから、引っ越すことになるかもしれないけど、どうかなぁ。俺には無理かな。俺、お前のこと幸せにしてやりたいなぁ……」
あやすように頬を撫でれば、くんくんと嬉しそうにすり寄ってくる。
あぁ、人懐っこい。おまけに見るからに賢そうだし、こんなきれいな銀色だから、貰い手は引く手数多だろうな。だからこそ、俺が責任持って、いい飼い主を見つけてやらなくちゃ。
離したくない未練がましい気持ちが胸中を占めるが、それでもこいつの幸せには代えられないと諦めの苦笑を浮かべれば、肩にずしりと重みが乗った。
「やっだ。イルカ先生、それってプロポーズ? カカシがかわいいって、目、腐ってるんじゃない? こいつ、私を噛もうとするわ、唸ってくるわ、まんま獣よ、獣」
「は?!」
突然、ふわりと香ったいい匂いと、肩に乗ったふにょりとした感触に、姿勢が伸びる。
頬をくすぐるものに、緊張しながら横目で窺えば、くのいちの一、二を争う美貌の上忍がドアップでこちらを見つめていた。
「ゆ、ゆゆゆゆゆ夕日上忍?!」
ぐわぁぁと顔に熱が集まる。
密かに憧れていた高嶺の花が、目の前にいる現実に頭が追いついていかない。
「あら、やだ。イルカ先生ってば、純。かっわい〜。女の子にこんなことされたことないの?」
小悪魔的な笑みを浮かべ、胸を押し付けるように、しなだれかかってきた夕日上忍に、脳の血管が切れそうになる。と、その前に鼻の血管が…ッ!!
うっと、鼻を両手で覆えば、きゃらきゃらと笑いながら、身を離してくれた。
「面倒くせぇことすんな。こいつを押さえる身にもなれってんだ」
間近から聞こえてきた声にぎょっとする。
鼻を押さえたまま顔を上げれば、銀色の首根っこを体で押さえつけ、地面に縫い付けている髭の上忍の姿があった。
「な、何するんですかッ、止めてください! 銀色が苦しんでるでしょうッッ」
今まで座っていたダンボールの家は、銀色の体に押しつぶされ、見るも無残な有様だ。
うーうー唸っている銀色が可哀想で抗議すれば、髭の上忍、猿飛上忍は口にくわえた煙草を苦々しく噛み締めるや、手を離した。
途端に、キャンキャン言いながら、こちらに逃げ込んでくる銀色を抱きしめながら、キッと猿飛上忍を睨み付ける。
可哀想に、銀色のふさふさの尻尾が縮こまっている。
もう大丈夫だぞと耳元に囁きながら、背中を撫でてやる。この銀色をいじめるヤツは例え上忍だろうと徹底抗戦の構えだ。
俺の気迫に押し負けたのか、猿飛上忍はふぅと息を吐き、視線を逸らした。っし、勝った!!
心の中でガッツポーズをしている間に、猿飛上忍は何ともやる気の無い様子で、懐から一枚の紙を掲げた。
「うみのイルカ、特別任務を命じる。詳しくはコレ見ろ」
「え、は、はい!」
火影さまの印の入ったそれを見、慌てて了解の印を組む。
それに合わせて、ひらりと落とされた紙を空中で掴み、内容に目を走らせた。
特別任務だなんて、アカデミーの教師になってから随分と久しぶりだ。
まぁ、そのときの任務は、三代目のお使い程度だったんだけど、結構実入りがいいんだよな…。
突然の任務に、臨時ボーナスが入るとちょっぴり気分が浮上する。
えーと、なになに、『はたけカカシが元の人格を取り戻す期間、その世話を命じる。なお、護衛役としての任は省かれるものとし、こちらの指定場所で生活するものとする。三代目、火影』って、はたけ上忍の世話係か。
任務で怪我でもしたのかな。でも、あんまり親しくない俺にどうしてお鉢がまわ………………ん?
何か強い違和感を覚え、俺の胸に凭れ掛かっている銀色の物体をよぉく見た。
……人だ。人。
銀色の毛並みを持った、可愛い犬じゃなくて、人だ。
というか、この方は、ナルトたちを見てくださっている上忍師の、写輪眼でビンゴブック常連、里の誉れのはたけカカシ、その人じゃないかッッ?!
うおおおおっと背を仰け反らせ、『今の今まで何を見ていたんだ、この目はぁぁ』と、己の曇った眼を突き刺したい衝動に駆られる。
くぅぅん? と可愛らしく小首を傾げてみせているが、いくら可愛く見えたって、上忍のはたけカカシに間違いはない!!
「え、いや、そのッ!! そんな、えッッ?!」
あわあわと忙しなく動き始めた俺に、猿飛上忍はふはーとうまそうに煙草を吐きながら、心なし同情の光が灯った眼差しでこちらを見下ろしてきた。
「一度受け取った任務だ。諦めろや」
死刑宣告にも近い、その言葉に一気に血の気が引く。
うっそだろ、今の今まで上忍という人種とは関わらないよう努力してきたのに、ここで大接近してどうするんだ、俺!
すりすりと胸に擦り寄ってくる上忍の存在が痛い。でも、憎めない。不気味だけど、可愛い。可愛くて頬ずりしたくなって……くるか? ――あぁ、何が何だかよく分からなくなってきた…!!
脳内回路がショートし始めている。頭を抱えてうんうん唸っていれば、猿飛上忍が気の毒そうに言葉を漏らしてきた。
「イルカ先生にゃぁ、災難だが、カカシの野郎としちゃツイテるな。ここぞという時の引きが強いんでな、こいつは」
どこか呆れ返った調子が含まれた言葉に、顔を上げる。
「………えっと、どういうことですか?」
意味が通じず、聞き返せば、猿飛上忍は人差し指で煙草の灰を落としながら、言いにくそうに言葉を繋げた。
「詳しくは話せんが、任務中ちと厄介な目にあってな。カカシの野郎は、妙ちきりんな生き物になっちまってんだが、そのせいで写輪眼が時々暴走するらしい。とはいっても、だ。軽い暗示にかかっちまうくらいのお笑い種程度の影響だ。――今のお前みたいにな」
指を差し向けられ、かぱりと口が開く。
………うそん。
衝撃的な言葉に後頭部をガンと殴られたような気分だ。
ナチュラルに暗示にかかるってどういうことだよ! どんだけ威力すさまじいんだよ、写輪眼!! それとも何か、それだけ俺が弱っちいってことなのか?! 確かに幻術系統は苦手だけどなッッ。
「あらー、それだけじゃないわよ。カカシってば、今、すんごいものになってんのよ。ね、イルカ先生、見たいでしょ? 見たいでしょ?」
中忍というものの無力さにちょっと凹んでいれば、夕日上忍がやたら嬉しそうにこちらへ身を乗り出した。
「え、はぁ、まぁ……」
ひとまず話を合わせるために、適当に頷けば、何故か猿飛上忍が慌て出した。
「止めろッ、オレの目の前でそんなもん晒すんじゃねぇ!!」
「っぷぅー、これだから笑っちゃうのよ。いいじゃない、どうせイルカ先生にも見てもらうことになるんだし、少し予定が早くなるだけよ」
「だから、オレの目の前でやるなつってんだろッッ」
吠える猿飛上忍を軽く無視し、夕日上忍が動いた。
影が走ったかと思った瞬間、後方に飛び退く夕日上忍の手には、手ぬぐいが握り締められている。
「あぁ、もう、やっぱこいつ獣だわ。容赦ないったら」
小さく舌打ちをする音に、よくよく見れば、夕日上忍の腕から赤い雫が腕に沿って流れ落ちていた。
え? 何が起きたんだ?
上忍の一瞬の攻防に目が追いつかず、突然の負傷におろおろしていると、夕日上忍は髪を後ろに払った。
「こんなのどうってことないわ。それよりもカカシの頭に生えてるの見て。アスマってば、これ見たくないって大騒動したのよ。もぅ、バカバカしい。おかげで髪の毛、噛み切られるわ、最悪だったんだから」
髪の一房を掴みながら、不機嫌な顔を見せる夕日上忍に、猿飛上忍がため息を吐く。
「そりゃよぉ、オレだってできるもんなら無視したかったぜ。でもな、これだけは勘弁ならねぇッ!! 三十路に近い、しかも野郎で、よりにもよってあのカカシが猫耳ってぇのはどういう了見だッッ」
ビシっと差した先には、銀色の髪から三角ににょっきりと出た獣の耳があった。
時折、ばしばしと耳を動かし、周囲の音を聞いている様子だ。
「猫耳? あんたってばそういう趣味してんの? 私には不気味に長い兎の耳が見えるわ。おまけにおしりにはファンシーな白い丸い尻尾も見える」
さきほどの楽しそうな顔とは打って変わり、嫌そうな顔をして、はたけ上忍を見つめる夕日上忍。
自分で取っておきながら、その言葉…。女心はいつまで経っても分からないなぁ。
気を取り直して、俺も二人に倣ってお尻に視線を向ける。すると、そこには、さきほど見た耳と同様のふさふさの大きな銀色の尻尾が見えた。どうやら、個人個人で見えるものが違ってくるようだ。
…写輪眼、すげーなぁ。どんだけ芸細かいんだろう…。
しかも、ふさふさ揺れる尻尾は、ふさふさして気持ちよさそうだ……。ふさふさふさふさ。
でも、俺が気になっているものといえば………。
「かぁぁぁ、良かった。オレはまだ猫で良かった! カカシの兎耳なんぞ見ちまったら、夢見が悪くて寒イボが出らぁ」
「そう? 私はどっちでもいいけどね。あ、ちなみにイルカ先生は? 猫? 兎? それとも奇抜なところを狙ってヤギとか?」
話しかける夕日上忍の言葉が遠く聞こえる。心なし震える手で耳にそっと触れてみれば、ぴくぴくと動いては、『触っちゃ嫌』と抗議してくる。
すげ、感触までばっちり伝わる。本物と何ら変わりないじゃん!!
銀色の毛に覆われて、三角形を綺麗に形作るその形といい、色といい、ふこふこで、ぴるぴるで、もうこれは………。
「……食べちゃいたいくらい、可愛い」
『はぁ?!』
驚愕の声を間近に聞いて、我に返る。
あ、やばい、声に出てた。まずい、これでは、俺が無類の動物耳フェチだということがバレテしまう!!
だって、だって、俺、小さいときから動物の耳に齧りつくのが大好きだったんだ!! あの将来を約束した近所の犬のきりりと立つ三角形をした耳がすごくカッコよくて、思わず口に含んじゃったら、なんだ、もぉ未知なる体感というか、衝撃的で、だからといって嘗め回すわけじゃなくて、含むだけっつぅか、なんだ、ただ単に好きなだけなんだ!!
「へぇー、そうなの。そういう趣味だったの、イルカ先生」
「…生徒にバレるような真似はするなよ……」
「っ!!」
慌てて口を覆うも時すでに遅かった。呆れるような眼差しが痛い。
立つ瀬がなくて縮こまっていると、ぷっとちいさく夕日上忍が笑った。
「やだ、もぉ、イルカ先生ってば面白い。今度、一緒に飲みにいきましょうよ。先生ってばいっつも急がしそうでお話できなかったけど、ヒナタたちの話も聞きたいし、先生のこともっと知りたいわ」
ぽんと出た言葉に、目を見開く。
ぐるっと下から何かが聞こえてきたが、あんな美人に言われた言葉の前に、打ち勝てるものなどあろうはずもない!
「まぁな、オレもシカマルたちのことをもっと聞きてぇからな。…カカシの野郎の区切りがついたら、どうだ? カカシのヤツを酒の肴に、いっちょ盛り上がろうぜ」
「え、ええ。あ、ありがとうございます」
呆然と返事を返せば、にっこりと笑みを含んだ夕日上忍が上機嫌に手を叩く。
「じゃ、決まりね。それじゃ、まぁ、カカシをよろしくね、イルカ先生。最初は道端に放置して、カカシが気に入った奴を任務に据えてやろうなんて、随分乱暴な策だと思ったけど、イルカ先生なら安心。案外、いいコンビだわ」
「だな。護衛はオレと紅、ガイ、あとは暗部の野郎が交代で来る。まぁ、今はこんなんだが、これでも里の誇る稼ぎ頭だ。よろしく頼むぜ」
「は、はい、承知しましたッ」
上忍自ら頭を下げられて、慌てて返事した。
顔を和ませ笑みまで作る二人に、今まであった上忍像が崩れるような気がした。
何て気さくでいい人たちなんだ…。格下相手に頭を下げるばかりか、お誘いまでしてくださるなんて……!!
今まで会ってきた上忍たちが悪すぎたのだと、己の早とちりと了見の狭さに恥じた。
自分にできる最大限のお世話をしようと決意した俺に、上忍二人は爆弾発言を残した。
「あ、言っとくけど、その男、今は猫被ってるだけだから」
「前の世話係になった奴、カカシの野郎の機嫌損ねて、今、入院してんだ。まぁ、逆鱗に触れなきゃ大丈夫だ。何、殺すような真似はしねー、せいぜい半殺し程度だ。適当に流しときゃ大丈夫だろ」
『それじゃ、頑張れよ(ってね)』
えっと思うよりも早く、瞬身で消えた二人に、俺は引き止めたくて上げた手を下ろせずにいた。
猫被るって犬なのにどうよとか、入院ってどういうこととか、逆鱗ってどういうところが逆鱗なのさとか、殺されたらたまったもんじゃないし、半殺しってそれも大概ひどくねぇか?! 里屈指の上忍の怒りの鉄拳を適当に流せたら、俺、火影になっているとか、これって実は態のいい厄介払いじゃねぇの? とか、悩みは尽きないが…。
ちょこんと座る、キモ可愛い生き物をじっと見つめる。
暗示がかかっているとはいえ、何故かやっぱり可愛いと思えてしまうのは、それだけ写輪眼の威力がすさまじいことなのか、それとももう絆されているということなのか。
「くぅ〜ん」
目の前にいる、はたけカカシ、今、現在、俺には犬もどきに見える妙ちきりんな生き物との共同生活は、決して悪くはないんじゃないかと、俺は確信もなくそう思ってしまった。
何たって、俺の夢が、一部分だけど叶っちゃうわけだし。
「………帰りましょうか」
背を撫で、立ち上がる。
「わん!」
俺の動作に合わせて、動く存在がこそばゆい。
帰ろうと、誰かに言える言葉を持ち、一緒に帰れる存在と、そして、共に住む家があるという懐かしい気持ち。
この任務の間は、一人ではないのだと思うと、堪らなく胸が温かい。
「わんわん!」
俺の手に擦り寄り、答えるように吠えてくれた存在に、目を見開き、ゆっくりと笑う。
「よろしく、はた……カカシさん!」
「わん!」
尻尾を千切れんばかりに振り、返事をしてくれたカカシさんの頬を撫で、新しい家へと一緒に帰途へつく。
はっはと、息を弾ませ、隣を歩く存在が嬉しかった。
コピー本「けもみみしっぽ」です。2010.9.12発行。