「イルカ、ご苦労であった。さぞかし骨が折れたであろうのぅ」
三代目の労いの言葉に、声が出なかった。
いつもならば、親のように慕う三代目からの言葉は飛びあがるほど嬉しいものなのに、今回ばかりは何も感情を見出せなかった。
「はたけカカシともあろう者が、小手先の術にかかるとは思いもせぬでの。あいつの面倒を見てくれたお前じゃから言うが、どうやらあいつが奥深くに持っとった、自分でも気づかぬコンプレックスを刺激されたようじゃ。所詮、小手先の技じゃて、時間が立てば戻るものー―」
三代目が何を言っているのか、分からない。
相槌をうち、頬を叱責して無理やり笑みを作った。
自分で何を言っているのか、分からない。
大変でしたとか、そうですねとか、やっと荷がおります。自分には重すぎました。え、もう二度とごめんですよとか、俺は何を言っているんだ。俺は何を言っているんだ俺は何を言っているんだ。
気づけば、夕暮れ時だった。
赤い日に照らされ、鈍く反射している茶色い格子戸の前へ俺は立っている。
ここは、二人で暮らしていたあの家だ。
手にぶら下げているビニル袋は何だろう。そういえば、今日は焼き魚にしましょうねって、今朝出かけ間際に言ったんだ。
カラカラと横に引けば、戸が開く。
いつもなら戸が開いた瞬間に、突進してくるはずの人がいない。俺の帰りを今か今かと待ちわびてくれていた存在が、何処にもいない。
「……違う。ただ俺は、荷物の整理を………」
買ってきた食材を床に放り出す。くしゃりと何かが割れる音がしたが、それを無視して、小さな廊下を通って居間に入る。
洗濯物が残っている。
二人分の忍び服とか、俺じゃ絶対着ない口元を覆うアンダーとか、こんなもんいらねーよ、俺着やしねーよと口の中で呟き、自分の物だけを引っ張り出す。
雑貨とか、歯ブラシだとか、そんなもん捨てちまえ。いらねぇよ、そんなもの。
布団は向こうが用意してくれたから、置いとくだろう。冷蔵庫だって、ガスコンロだって据え置きだ。あ、でも冷蔵庫の中は困ったな。こんなことなら、めいっぱい買うんじゃなかった。痩せているくせによく食うんだもんな、欠食児童かってほどめいっぱい食うんだもんな。本当、よく食べてくれたよなぁ。俺のまずい手料理なんか、よくあんな……。
冷蔵庫を締め、シンク下を開ければ、昨日飲んだ酒が出てきた。それを手に取り、うっすらと笑う。昨日の出来事が嘘みたいだ。
結局、『焔』飲まなかったな。一緒に飲もうかなぁと思っていたんだけど、まぁいいか、俺一人で全部飲んじまおう、へへ、ラッキー、こんなうまいもん独り占めかぁ。
腕の中に酒を抱え、再び居間に戻る。
視線をぐるりと回し、タオルとタオルケットが小山になった場所に目を向け、手を伸ばす。
タオルとか持って帰っちまおうかな、どうせ使わないならいいよな。あぁあ、こんなよれよれのタオルケットどうしようかな、捨てちまおうか――。
俺がいない時に、布団代わりに使っていたらしいタオルケットはどの物より痛んでいた。捨てようと持ち上げた拍子に、タオルケットに包まれるように埋まっていた物が畳へと落ちる。
落ちたものを見て、もう何が何だかわからなくなった。
くしゃくしゃになっている、青と白のストライプが入った、トランクスパンツ。
三枚一組の五十両トランクスパンツにしちゃ、柄が普通で気に入っていた物だ。
よく穿いていたから、生地がこなれていい感じになっていたんだ。だから、無くしたと思ったときはちょっとショックで、諦めきれなくて一度聞いたんだ。
隠しているんじゃねぇかって、そうしたら知らないって顔して、それなのに今見つかって――
手に持ったトランクスに、ぼたりと突然黒い染みが出来て、笑いが出た。その間にも、ぼたぼたと生地が黒く変色していく。
「あのバカ犬。駄犬、変態犬。やっぱりテメーが隠し持ってたんじゃねぇか。っくそ、何だよ、この噛み跡、もう穿けねーじゃねぇか。やっぱお前は…へんた………っ」
食いしばった歯から嗚咽が零れ出る。
何で気づかなかったんだろう。
求められているようで、一番求めていたのは俺の方だったのに。
俺がカカシさんをいつも求めていて、カカシさんは俺の気持ちを先回りして応えてくれただけだったのに。
「なんだよ、やっぱりバカ犬じゃねぇかッッ!! こんなこと、いなくなってから気付かせるんじゃねぇよッッ!! お前がいる時にちゃんと教えてくれなきゃ意味ないだろうがッッ」
畳みに拳を突き、吠える。
くそ、泣くのなんて止めだ止め!! あのバカ犬に事のあらましを全部ぶちまけてやるッ。んで、謝罪なり、土下座なりさせてやろうッ。それで、首に縄つけて連れて帰ってやる。あぁ、そうだ、なんで俺があんな奴のために泣かなくちゃなんねーんだよッッ。
持っていた酒とトランクスを投げ捨て、廊下を走って戸を開け放った。
歯を食いしばって、走り出す。くそ、バカ犬!!
夕方から夜に変わる時間帯、これならぎりぎり任務受付所にいるか? いや、まだ外にいるはずだ。
あの朝の弱さには呆れるものがある。あれじゃ、朝の任務は昼から始まっていてもおかしくない。今日は下忍たち全員、草取り任務だから七班もきっとそうだ。じゃ、あの屋敷の庭に…!
十字路になった道を右に曲がれば、不意に飛び込んできた影に気づき、慌てて避ける。
気が動転していたせいか、飛び込んできた影を変に避けて、相手を転がせてしまったらしい。
「いってぇぇ」
「すいません、大丈夫ですか? …って、ナルト!」
尻餅をついて呻く人影に手を差し伸べて、自分が可愛がっていた元生徒だと気づく。
「ん、あぁ! イルカ先生ッ、どうしたの、どうしたの? もしかして一楽おごってくれるとか?!」
期待に輝かせた目を向けられ、一瞬言葉に詰まる。
ナルトがいるということは、カカシさんが―
振り仰いで、その姿を見つけた。
子供たちの後方、電柱の影に隠れるようにして立つ二つの人影。一つはカカシさん、そして、もう一つは……。
「イルカ先生ってば!!」
相変わらず我慢できない性分なのか。辛抱できずに腰へダイブしてきたナルトを反射的に受け止めようと身構えて、飛び込んできた声に息が止まった。
「こーら、お前は無闇やたらと人に飛びつかないの」
「何だってばよ、離せっての! オレは猫や犬っころじゃねぇんだぞッッ」
首後ろの服を掴まれ、目前にナルトが吊り下げられる。
あの距離を一瞬にして詰めてきた、その速さに上忍の実力を感じる。けど。
「カカシのバカッ。もう付き合ってあげないからね!」
カカシさんの傍らに立っていたくのいちが高い声音で捨て台詞を吐く。長い黒髪を持った、美しい女性だった。
「チッ」
「任務中に誘う方がどうかしてるわ…。けど、カカシ先生もカカシ先生ですよ! 元彼女か知らないですけど、時と場所を選んでくださいッて、聞いているんですか?!」
「爛れた大人の事情を子供に見せないでくださいッ」と憤慨するサクラに、サスケも憤りを隠さず、カカシさんを睨みつける。
サクラの言葉が、胸に焼きついた。
訳も分からず泣きだしそうになるのは何故なんだ。
「あーも、お前たちもうるさいねぇ。だから、ちゃんと断っていたデショ。だいたい向こうの勘違い。何度言ったら分かるんだか……。で、ナルトもうるさい」
「うぎゃッ」
噛みつく二人をあしらい、手足を振り回して暴れていたナルトから手を離す。地面と再び尻を激突させたナルトは短く叫んだ。
「もー、イルカ先生、聞いてくださいよー!! カカシ先生ったら、最低なんですよッッ」
俺に気付いたサクラが、尻を抱えるナルトをすり抜け、駆けよってくる。その後ろからサスケもやって来て、俺に向かって小さく会釈した。
「ちょっと、イルカ先生に根も葉もないこと言うんじゃないのッ。大人は大人同士の会話があるんだから、お子様はお子様同士固まって話してらっしゃい」
近寄って来たサクラとサスケの襟首をつかみ、起き上がって再び突進するナルトを片足で遮ると、子供たちを塀の側に追いやり、カカシさんは俺の正面に立った。
カカシさんの体に隠れて、女性の後姿が見えなくなる。
背を向けてから、女性は一度も振り返らなかった。
足取りも軽く、歩く姿はどこか自信ありげで、必ず後から自分を追いかけてくると、信じているようだった。
電柱の影にいた二人を思い出す。
女性はカカシさんの胸にしなだれかかり、甘えるように顔を寄せていた。親密な空気を纏い、寄り添う二人はとてもお似合いだった。
その瞬間、激情が身の内から溢れ出た。
突いて出た感情に、思わず口を押さえ呻く。
嘘だ、ろ?
「こんばんは、イルカ先生。…あれ、どうかしましたか?」
到底認められない感情に面食らい、反応が遅れた。
声の近さに、勝手に体が震えた。
覗きこむ顔が近い。柔らかい銀色の髪が頬に触れそうで、咄嗟に地面を蹴った。
「……先生?」
訝しげな声が耳朶を打つ。
気付けば、カカシさんとの距離は軽く一メートル開いていた。
カカシさんは眉根を潜め、大げさなまでに距離を取った俺を怪しんでいる。
「あ、こ、これは」
胸を打つ鼓動が早鐘のように鳴り響く。どうしよう、こんなはずじゃ………!!
じっとりと汗をかく手の平を握り、何か言い訳をと口を開いたところで、カカシさんの脇をすり抜け、黒い影が飛んだ。
「イッルカ先生てばー!!」
体を投げ出すように眼前に迫ったナルトに、深く考えもせず両手を広げる。確かな重みを受け止めようと腰を屈めれば、大きな背が視界を埋めた。
「だから、飛びつくなって言ってるでショ!!」
「ぎゃん!」
固い音と同時に叫び声が聞こえた。
続いて、地面に何かが落ちる音が聞こえ、ナルトが地面に激突したことを知る。
「ひ、ひでーってば、カカシ先生ッ! どうして、邪魔すんだよッッ」
殴られた頭を抱え、座ったまま癇癪を爆発させるナルトに、カカシさんは深いため息をつく。
「あのねー。お前がちっとも言うこと聞かないからでショ。下忍になったんだから、少しは落ち着きなさい。抱きつくの禁止ッ。ね、先生」
同意を求めるように、後ろを振り返ったカカシさんに言葉を失くす。
覆面をつけた顔。
唯一出ている青い瞳が悪戯っぽく細くなる。初めて見た大人びた笑い方は、カカシさんを知らない人に見せた。
頭から冷水を叩きつけられた気分だ。高揚していた気持ちが、急速に冷える。
「イルカ先生?」
柔らかく響く音に、体が震える。俺はこの声をよく知らない。
思えば、カカシさんの声を聞いたのは、久しぶりだ。
俺と暮らしていたカカシさんはあまり口を開かなかったから。その代わり、表情と体でうるさいほどに感情を訴えてきていたっけ。
「い、いえ。すいません。ちょっとぼうとしてしまって…。そうだなー、ナルト。下忍になったんだから、ちょっとは落ち着いた方がいいぞ? その方がかっこいいからな」
カカシさんの視線に耐えられず、逃げた。
カカシさんの横をすり抜け、腰を落とし、地面に座り込んでいるナルトを覗きこむ。
「本当?」と、サクラに視線を向けるナルトの髪を掻き交ぜた。カカシさんとは違って腰のある癖っ毛髪。
「私はサスケくんしか、かっこいいと思わないしー」とサスケに熱視線を送るサクラに、ナルトは頬を膨らませる。サスケは視線を明後日に向け、我関せずを決め込んでいた。
アカデミーの時とはまた違う、良好な関係を作り上げている三人に、笑いが込みあげてきた。
いいチームだと思う。それを作ったカカシさんが誇らしく、それ以上に遠い存在に思えた。
「…イルカ先生?」
戸惑うようにカカシさんが俺を呼ぶ。
それに気付かない振りをして、俺は子供たち一人一人の頭を撫でた。
「任務終わったんだろ? 早く報告しに行って来い」
後ろにいる気配を強く意識してしまい、手が震えそうだ。震える前に子供たちの頭から手を除け促せば、ナルトが叫んだ。
「だーかーらーッ、先生、一楽行こうよッ。すぐ報告しに行くからさ、ぱっと行って、ぱっと戻ってくっからさー」
お伺いを立ててくるナルトへ、すまねぇと謝る。
「悪いが、行くところがあってな」
嘘ではない。ただ、見失っただけだ。
目に見えてがっかりするナルトに悪いと思う気持ちが沸き起こる。
「そうなんですか? どちらまで行かれるんです?」
子供たちの間に割り込むよう体をねじ込んだカカシさんに、押し出された子供たちから非難の声があがる。
俺に視線を向けるカカシさんはどこか必死に見えた。けど、そう見えるのは、自分の浅ましさ故だと分かっている。
「いえ、ちょっとした野暮用ですよ。お聞かせするほどのものじゃ…」
曖昧に笑ってぼやかす俺に、カカシさんが食らい付く。
「なら、行きませんか、一楽。オレも腹減らしているんですよ。せっかく生徒たちに会えたんだし、何なら、今日はオレがおごっちゃいますよ? イルカ先生と話したかったんですよ、いろいろ」
「おごり?! やったぁ!!」とはしゃぐナルトに、タダ飯の言葉にぴくりと反応するサスケ、サクラに至ってはサスケと少しでも長く居られるのが単純に嬉しいらしい。
「ほら、ね? イルカ先生、行きましょうよ」
子供たちを盾に取られて、断りの言葉を失う。
けど、駄目だ。無理だ。今は放っておいて欲しい。だって、もう抑えきれない。
「イルカ先生?」
不意に覗き込んできた顔が、いつも朝の恒例となっていた出勤風景と重なる。
戸を開けた俺に対して、カカシさんはいつも「置いていくの?」と不安げな顔を見せた。
「―結局、置いていかれたのは俺の方じゃないか…!!」
思わず零れた、八つ当たり気味の言葉に、カカシさんの表情が動いた。
まずいと、もう無理だと悟った時点で、印を切る。
「イルカ先生?!」と消える間際に響いた、驚く子供たちの声が痛い。あぁ、最低だ、俺。尻尾巻いて逃亡の上、無視かよ。本当、最低………。
煙が晴れた直後、見上げた天井は前まで使っていた安アパートのものだ。二週間留守にしただけだってのに、やたらと埃っぽい。
靴を脱ぎ散らかし、足音高く狭い廊下を進む。
居間を通り、寝室の襖を開け、敷いたままの布団に倒れ込んだ。
二週間放置していたせんべい布団は、湿り気を帯びカビ臭い。深く息を吸いこもうとして、その匂いを嫌って仰向けに転がった。
「バカだ、俺……」
唇を噛みしめ、視界を遮断するように腕を交差して顔を覆う。つぅと眦から溢れた滴がこめかみの横を通り過ぎる。
庇護する者として見ていた者を、いつの間にか好きになっていた。
知らない内に、カカシさんを欲望の対象として見るようになっていた。
カカシさんと見知らぬくのいちが寄り添う姿を見て、頭が、体が拒絶した。
――俺のカカシさんに、触れるなッ!!
カカシさんがこちらに来なければ、そう叫んでいたに違いない。
「バカだよ、お前…」
自分を詰る言葉が突いて出る。
一緒に住んでいたカカシさんを思うならまだしも、上忍はたけカカシをも欲しいと望んでしまうなんて。
家族になって欲しかった。共に帰る場所になれればいいと思っていた。
その裏には独占欲と執着と、断ち切れない情念が潜んでいたのに。
それは意識のないカカシさんは勿論のこと、今、あるカカシさんにも向かって食らいついている。二つの存在を切り離すことができないくらい、固執している。
「は、ははははは、バカだよ、本当」
笑いが零れた。
可愛がっていたのは、己の欲望の為せる業。
必要以上に面倒を見たのは、無意識に己を刷り込ませようとしたんじゃないのか? 懐くように、好かれるように。親を愛するように、無条件で俺を愛するように。
「ふ、あははは、はははははは!!」
堪え切れず、腹を抱えて笑う。
ところがどうだ。お前の浅はかな考えなんて通じるはずもない。
お前が一緒に過ごしたカカシさんは見る影もない。お前の目の前にいるのは、上忍はたけカカシその人だ。
挨拶程度、口を利いていた存在。部下の元教師という認識。
近付こうとも思えないほど遠すぎる距離。そして、どう足掻いても、俺は男で、あっちも男だ。
恋愛対象にもならない。いや、始めから恋愛対象にしていい相手じゃなかった。
「……ごめん、カカシさん」
無邪気に懐いてくれたカカシさんに謝った。
閉じていた目を開けば、視界に映る天井はぼやけていた。
わんわんと後をついてきたカカシさんはもういない。嬉しそうに俺を見て、笑いかけてくれたカカシさんはもういない。俺に甘えて、わがままを言ってくれたカカシさんはもういないんだ。
幸せになるまで見届けるって、幸せにしたいって言ったのに。カカシさんが望むなら、ずっと側にいて生きたいって言ったのに、俺は道を踏み誤った。
ただ抱きしめたかった存在は、その先を望む存在になっていた。
こんな感情を抱く俺が、カカシさんを幸せにできると、よく思えたものだ。
「じゃ、良かったじゃないか…。カカシさんを傷つけずにすむんだから…」
無垢なものを汚す喜びを、庇護する者を切り裂く愉悦を味わうことはない。カカシさんの純粋な好意を、邪な好意で苛む必要もなくなる。
「…このまま距離を開ければいいんだ。昔みたいに、顔見知りの上忍として見れば、それで………」
出来るのかと、心の声に詰られた。
カカシさんの気配を覚えている癖に、今もなおカカシさんのことを繰り返し思い返しているのに。
天井が歪む。視界を腕で覆い隠し、唇を噛みしめる。
「……元に戻らなければ良かったのに」
そうすれば、今も一緒にいられた。ずっと側にいられたんだ。
ちきしょうと声にならない音で罵倒した。
意気地無しの俺は、最低な発言を口にし、最低なことを思う。
変わってしまった己の感情を憎むべきか、それとも出会ったあの日を呪うべきか。
「……カカシさん」
未練がましく男の名を口ずさめば、泣けて仕方なかった。